Archive for category 録音

Date: 3月 30th, 2020
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(「コンサートは死んだ」のか・その2)

(その1)へのコメントがfacebookにあった。
録り直しを気が済むまでできる演奏と、
やり直しがきかない演奏とでは、
そこにマイクロフォンがたてられていても違うのではないか……、
という趣旨のことだった。

録音は確かに何度でも録れる。
グレン・グールドは、“non-take-two-ness”(テイク2がない)と言っている。
それにテープ編集での新たな創造についても、具体例を語っている。

録音の歴史をふりかえってみれば、
録音も、そう簡単に何度もやり直せるわけではなかった。

エジソンの時代、
いわゆるダイレクトカッティングで録音れさていた。
ちょっとでもミスがあったら、最初からやり直すしかない。

蝋管の時代から円盤の時代に移行しても、変らない。
ドイツがテープ録音を発明し、
アメリカで第二次大戦以降に実用化されて、録り直しが当り前のとこになってきたし、
テープ編集も生れてきた。

それでも1970年代には、音を追求してのダイレクトカッティングが、
いくつかのレコード会社で行われてきた。

最近では、2014年に、ドイツ・グラモフォンが、
サイモン・ラトル/ベルリン・フィルハーモニーによるブラームス交響曲全集を、
ダイレクトカッティングで録音している。

いまはテープ録音からハードディスクへの記録に変っている。
編集は、テープよりもより簡単に、正確に行える時代になってきているのは確かだ。

だからといって、演奏家はいいかげんな気持で録音に臨んでいるわけではないはずだ。

Date: 3月 22nd, 2020
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(「コンサートは死んだ」のか・その1)

コンサート・ドロップアウトを宣言し、
「コンサートは死んだ」と語ったグレン・グールド。

グールドの死後、コンサートは廃れるどころか、その真逆である。
グールドの予言は外れた、ともいえる。

コンサート(ライヴ会場)には行くけれど、
レコード(録音メディア)はあまり購入しない、という人が増えている、ときく。

人気のある歌手の、近年のコンサートの様子は、大型テーマパークのようでもある。
このままますます肥大化していくようにも思えた。

そこに新型コロナである。
音楽コンサートだけでなく、大型イベントが中止もしくは延期になっている。

私が好きな自転車レースも、そうとうに影響を受けている。
不謹慎といわれるだろうが、グールドの予言が現実のものになりつつある。

とはいえグールドの予言そのままというわけではない。
電子メディアの発達によってコンサートが廃れていっているわけではない。

新型コロナが今後どうなっていくのか、私にはわからない。
早くに収束していくのかもしれないし、ずっと長引くのかもしれない。

そのため、ある試みがなされている。
無観客で演奏会、
その様子をストリーミング中継する。

これこそ電子メディアの発達による音楽鑑賞のひとつである。
そうなると、クラシックの演奏会では、基本的に無縁の存在であるマイクロフォンが、
ステージの上に立つことになる。

Date: 1月 19th, 2020
Cate: 録音

80年の隔たり(その8)

その1)は、2008年9月に書いている。
10年以上前に書いているわけで、
1929年録音のティボーとコルトーによるフランクのヴァイオリン・ソナタは、
あと9年も経てば、録音から100年を迎えることになる。

あと9年くらいは、私もまだ生きているだろうから、
100年前の録音(演奏)を、その時、聴くことになる──、
そのことに数日前に気づいた。

私がオーディオに興味をもったころ、
100年前の録音といえば、エジソンが「メリーさんの羊」を録音・再生したものぐらいだった。

ティボーとコルトーのフランクよりも古い録音はあるが、
くり返し聴く録音として、私にとって最も古いのはティボーとコルトーの演奏である。

2029年までに、
どれだけのフランクのヴァイオリン・ソナタの録音がなされていくのかは予想がつかない。

これから先、2029年までに録音されるフランクのヴァイオリン・ソナタは、
ティボーとコルトーの演奏から90年から100年の隔たりをあることになる。

100年の隔たりを、その時、どう感じるのであろうか。

Date: 4月 27th, 2018
Cate: 菅野沖彦, 録音

「菅野録音の神髄」(余談)

菅野先生の録音とはまったく関係ない話だが、
昔ステレオサウンドで読んだ、あるエピソードは、興味深いものがある。

55号の音楽欄に掲載されている。
「今日の歌、今日のサウンド ポピュラー・レコード会で活躍中の三人のプロデューサーにきく」
RVCの小杉宇造氏、CBSソニーの高久光雄氏、ポリドールの三坂洋氏が登場されている。
聞き手は坂清也氏。

9ページの記事。
引用するのは、三坂洋氏の発言のごく一部である。
機会があれば、この時代の日本の歌の録音を聴く人は、読んでほしい、と思う。
     *
 たとえば森田童子の最初のLPを制作したときのことですが、彼女は弾き語りでうたったときのニュアンスが最高にいいんです。彼女のメッセージの背後にあるデリケートな体臭とか人間性が、弾き語りのときには蜃気楼みたいにただようんです。それをレコーディングのときに、まずオーケストラをとり、リズム・セクションをとり、そのテープのうえに彼女のうたをかぶせる、といった形で行なうと、その蜃気楼みたいなものが、どこかへ消えてしまうんじゃないか、と確信しました。
 そこで、まずいちばん先きに彼女のギターとうただけをとり、そこにベースをかぶせドラムスをかぶせ、さらに弦をかぶせて、そのあとでベースとドラムスをぬいてしまったんです。したがって出来上りは、弦のうえに彼女の弾き語りがのっかる、という形になったわけです。ベースとドラムスは弦のためみたいなもので、ことにドラムスのリズムの拍数が分らないと、弦は演奏できませんから(笑い)。
     *
森田童子の最初のLP、
「GOOD BYEグッド・バイ」でとられたこういう手法は、
何もこのディスク(録音)だけにかぎったことではなく、
ずいぶんと多いと思います、と三坂洋氏はつけ加えられている。

Date: 11月 1st, 2017
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(菅野沖彦・保柳健 対談より・その2)

「体験的に話そう──録音の再生のあいだ」での菅野先生の発言は、
レコード演奏という行為は、再生側だけの行為でなく、
録音側においても同じであることがうかがえる。
     *
菅野 録音するというのも、まず、自分の気に入った楽器で、気に入った演奏家でないと、全くのらないわけです。まあ、録音というのは、ある程度メカニックな仕事ですから、のらなくても、それは仕事が全然できないという意味ではないのですが、わがつまかもしれていが、我慢できないのです。
保柳 あなたの場合、録音するということがプレイするというような……。
菅野 それなんですよ。甚だ失礼ないい方をしますとね、演奏家を録音するというのと違うんですね。誤解されやすいいい方になってしまうのですが、録音機と再生機を使って自分で演じちゃうようなところがあるのです。
保柳 やはりね。どうもそんな感じがしていたのです。菅野さんは、おそらく、そういう録音をして作ったレコードにたいへんな愛着を持っているのではないですか。
菅野 それはね、実際にそこで演奏しているのは演奏家なのですけれど、自分の作ったレコードは、あたかも自分で演奏しているような、つまり演奏家以上に、私の作ったレコードに愛着を持っているんではないかと思われるくらいなんです。
     *
ステレオサウンド 47号に掲載されているから、いまから39年前のことであり、
菅野先生もまだレコード演奏家論を発表されていなかった。

「体験的に話そう──録音の再生のあいだ」という対談は、
当時読んだときよりも、いま読み返した方が、何倍もおもしろく興味深い。

保柳健氏については、47号掲載の略歴を引用しておく。
     *
 文化放送ディレクターとして出発。各種番組に手をそめ、後に独立。わが国で初めての放送音楽プロダクション:を創設。音楽中心に、ルポからドラマまで幅広い番組制作を行う。現在はフリーのプロデューサーであり、ライターである。氏と同年代で、常になんらかの係り合いを持ってきた人たちに、菅野沖彦氏、レコード・プロデューサー高和元彦氏、オーディオ評論の若林駿介氏などがいる。保柳師の言葉をかりれば、「われわれはどういうわけか、現場から離れられない」。と、いう昭和ひとけた生まれである。
     *
「体験的に話そう──録音の再生のあいだ」がおもしろいのは、
保柳氏だから、ということが大きい。

録音という仕事を長年されながらも、
菅野先生と保柳氏は、立ち位置の違いがはっきりとあることが、
「体験的に話そう──録音の再生のあいだ」を読んでいくとわかるし、
その違い(コントラスト)があるからこそ、
菅野先生の録音へのアプローチが、はっきりと浮び上ってくる。

Date: 10月 23rd, 2017
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(圓生百席・その2)

「レコード落語百席」の数ページあとに、
特別インタビュー「ピーター・ヴィルモース レコーディングを語る」がある。
     *
レコードというものは、コンサートホールでの演奏をできるかぎり忠実に再現することが、第一の目的であるのか、それともレコードならではの演奏というか、演奏再現を主体的に考えてレコーディングすべきなのか、ヴィルモースさんのご意見をうかがわせてください。
ヴィルモース 私は、生演奏とレコードの演奏とはまったく違うものだと考えています。そして生演奏をそのままレコードに忠実に写しかえるということは、ルポルタージュとしての意味しかないでしょう。たしかに優れた演奏のライヴ・レコードは、きわめてエキサイティングなものですが、それはその瞬間を捉えたからであって、いいかえるとその瞬間がきわめてエキサイティングなものだったわけで、レコードそのものかエキサイティングであるというわけではありません。たとえばフリッツ・ブッシュがベートーヴェンの第九番を指揮しているライヴ・レコードは、たいへんすばらしいものですが、それはその夜のブッシュの指揮のすばらしさということ、つまりはその夜の優れたルポルタージュということなんですね。そしてそれは、いま私たちが〈レコード〉と呼んでいることと、少し違っているわけです。
 レコードは、先ほどもいいましたが、生演奏の裡に生きているものを殺してはならない、ということがまず第一に必要ですが、だからといってルポルタージュにとどまってもならないのです。優れたレコードはが追求しているものは、たとえばカラヤンやベームの、ある作品に対する解釈がどんなものであるのか、ということだと思います。そして聴きては、同じ曲の違った演奏を聴き比べて、それぞれの演奏家の解釈の違いを知ってゆくことに興味をおぼえてゆくはずです。
 それからコンサートでは、ごく少数の例外をのぞいて、そのコンサートのはじめから終りまで通して、精神を集中したままで演奏を行なうというのは不可能でしょう。どこかで息抜きして、とくに難しい場面にそなえるということは、よく見受けられます。これは技術的にということではなく、心理的にそうした緊張感の連続に耐えられないからですね。
 しかしレコードでは、そうした緊張感をずっと持続させることが可能です。そうした精神の集中させた演奏の持続ということは、レコードならではのものではないかと思います。そういった精神の集中とか緊張の感覚というものは、コンサートホールでよりも、レコードでのほうがより大きく強く出ると思いますね。
     *
「レコード落語百席」と「ピーター・ヴィルモース レコーディングを語る」が、
ステレオサウンド 37号に載っているのは偶然なのだろうが、
それにしても、単なる偶然では片付けられない一致が、読みとれる。

Date: 10月 23rd, 2017
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(圓生百席・その1)

圓生百席」という録音物(レコード)がある。
1970年代前半から録音がスタートして、十年までいかないが、けっこうな年月をかけて完成された。
CBSソニー(現ソニーミュージック)からLPで発売され、
いまもCD(116枚+特典CD2枚)として発売されている。

ステレオサウンド 37号の音楽欄に、「レコード落語百席」という記事が載っている。
CBSソニーの京須偕充氏による「圓生百席」の録音に関する話だ。

いまもむかしも、落語に強い関心は持っていないため、
ステレオサウンドにいるときも、37号の他の記事は読んでいても、
この「レコード落語百席」は読まずじまいだった。

さきほど調べもののため37号を開いていた。
いまごろ「レコード落語百席」を読み終えた。

ひところステレオサウンドは、バックナンバーを編集したムックを出していた。
オーディオ機器中心、オーディオ評論家中心の内容だから、
「レコード落語百席」のような記事は、そういったムックに収録されることは、まずない。

もったいない、とおもう。
全文を掲載したいところだが、そうもいかないので、最後のところだけを引用しておく。
     *
 こういう苦心はひとくちではいえないから、つい黙っていると、「いくらよく出来ていても、テープ編集したものは死んだ芸だ」とか、「客の笑いをともなわい落語は落語にあらず」というような批判をあびせられる。ほめてくれるひとでも、じつをいうと、客の反応がきこえないのが寂しい、とつけくわえる。祝宴のつもりがお通夜になったといいたげなのだ。
 無理もないことかもしれない。落語は実演の枠を出たことがほとんどないのだ。落語が今日ほどに普及したのは、戦後のラジオ放送のお陰だが、それはほとんど例外なしに公開録音、寄席中継だった。落語家をお座敷によんで、結構な酒食とともに、サシ同然で一席楽しむ──そんなぜいたくのできるひとは、世の中にひとにぎりもいない。だからラジオのお陰で、茶の間で落語をきく習慣ができたということは、会場のお客と一緒にきくという錯覚を楽しむ習慣ができたことなのだんた。インスタント・ホーム寄席。そして、たいがいの落語ファンは、レコードも実演の代用品としてきこうとしている。レコードもまた、インスタント・ホーム寄席なのだろう。
 私も当初は迷い、おおかたのお客の好みに合わせようかと思った。しかし圓生師は、かたくなにスタジオ制作を主張した。実演は実演、レコードはレコード、中途半端はいやだというわけだ。
「実演をそのままレコードにするのはいやですねえ。実演とレコードとでは、あたくしの考えでは、演出を変えなくてはいけないと思うんです。実演だってお客様が千人のとき、百人(いっそく)のとき、それぞれやり方を変えています。実演のウソてェこともあるんですよ。たとえば内緒話の描写ですが、リアルにやったら、うしろのお客様にはきこえません。だから内緒話らしくやるんです。実演はそれでいいんです。ですがレコードならリアルなひそひそ声でやるべきでしょう。実演をそのままレコードにすると、そういうところが大味になるはずなんです。ですから実演とレコードは一長一短、そもそもは別ものなんで比較は出来ませんよ。レコードはレコードらしく、いいものにしようじゃありませんか。とにかくこわいものですよ、あたくしが死んでもレコードはのこる。」
 徹底的にスタジオでいこう、と私は思った。あるひとが、レコードをきいていってくれた。圓生師匠が自分ひとりのために、サシでやってくれているようなきぶんになり、心おきなくききこめる。登場人物や情景のイメージものびのびとひろがって、これまで気がつかなかった芸のうまみや奥行きがわかってきた、と。
 こういうひとがひとりでもいてくれれば、「レコード落語」も浮かばれるというものだ。
     *
音楽と落語は同一視できない面もある。
それは音楽の録音、落語の録音についてもいえようが、
それでも「レコード落語百席」は、完成度ということについても考えるきっかけを与えてくれる。

Date: 5月 5th, 2017
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(トスカニーニの場合)

トスカニーニがNBC交響楽団と録音したものは、ほぼすべてがモノーラルである。
しかもそれらスタジオでのモノーラル録音のすべて(といっていいだろう)が、
残響を徹底的に排除した、ともいえる録り方である。

結局、それはモノーラルだったからではないのか。
ステレオ録音がもう数年ほど早く実用化されていたら、
トスカニーニがあと数年、現役を続けていて録音を残していれば、
あそこまでドライな録音ではなかったはすである。

トスカニーニは、確かに録音において残響を嫌っていた。
それは演奏の明晰さを、モノーラル録音・再生において損なわないためだとして、
再生側で、トスカニーニの意図通りに再生するには、
デッドなリスニングルームで、間接音をできるだけ排除して、
直接音主体であるべきなのか、というと、どうもそうではないようである。

何で読んだのかは忘れてしまったが、
トスカニーニは部屋の四隅に大型のコーナー型スピーカーを配置してレコードを聴いていた、という。
トスカニーニは1957年に亡くなっているから、
トスカニーニの、この大がかりなシステムは、モノーラルと考えられる。

モノーラルで、四隅に設置されたコーナー型スピーカーを同時に鳴らす。
残響を嫌った録音とは異るアプローチの再生である。

Date: 3月 24th, 2017
Cate: 録音

PCM-D100の登場(その7)

世の中に自作マニアと呼ばれる人たちがいる。
オーディオの世界にいる。

本職を別に持ちながら、趣味としての自作マニアは昔いる。
その腕前は、なぜ本職にしないのだろうか、と思ってしまうほどの人もいる。

2013年9月、ソニーからPCM-D100が登場したのを機に、
この項を書き始めた。

書き始めて気づいたのは、録音もオーディオの世界における自作であるということだ。

自作にはアンプの自作、スピーカーの自作、
中にはアナログプレイヤー、トーンアーム、さらにカートリッジの自作などがある。
どれもハードウェアである。

無線と実験でDCアンプシリーズの記事を発表し続けられている金田明彦氏は、
マイクロフォンアンプもDCアンプ化し、ある時期から録音も手がけられるようになった。

そのころの無線と実験は熱心に読んでいた。
けれど、金田氏の行動を、プログラムソースの自作という視点で捉えることはできなかった。

なぜ、そう捉えられなかったのか、いま思うと不思議なのだが、そうだった。
それから30年ほど経ち、PCM-D100が登場して、やっとそう捉えられるようになった。

Date: 12月 9th, 2016
Cate: 憶音, 録音

録音は未来/recoding = studio product(続々・吉野朔実の死)

駅の改札を出ると、その奥に書店がある。
ふだんは帰り道にある別の書店に寄ることが多い。

この書店には数えるほどしか寄っていない。
今日はふと寄ってみた。
さほど広い書店ではない。
一周するのにも時間はかからない。
そのまま出ようと思っていたが、
レジの近くに平積みになっているコーナーを見てから帰ろう、と思い直した。

目に留った装丁の本があった。
なんだろう、と手にとった本は、吉野朔実の、今日発売になったばかりのものだった。
いつか緑の花束に」だった。

帯には「吉野朔実から、あなたへ。」とある。
おそらく、これが吉野朔実の最後の本なのだろう。

これだけだったら、ここで書くつもりはなかった。
「いつか緑の花束に」には、未公開ネームが収録されている。

ネームとは、マンガになる前のいわばスケッチ的なもので、
コマやセリフの割振りが割に描かれている。

本は印刷されたものだから、それは肉筆ではない。
でも収録されているネームを読んでいると、どこか肉筆に近いといいたくなるものを感じる。

この肉筆とは、録音・再生の系では何になるのか。
そんなことを考えていた。

Date: 10月 26th, 2016
Cate: 録音

マイクロフォンとデジタルの関係(その2)

デジタルマイクロフォンという言葉をきいたのは、
菅野先生のリスニングルームであった。

「このCD、聴いたことあるか」といって、
ケント・ナガノ、児玉麻里のベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番を聴かせてくれた。
別項で書いているように、聴く前はあなどっていた。
音はいいだろうけど、ケント・ナガノ(?)、児玉麻里(?)と思っていた。

もちろんふたりの名前は知っていた。
ケント・ナガノの演奏は、何かの録音で聴いていた。
児玉麻里は聴いたことはなかった。

負のバイアスが思いっきりかかった状態で聴いていた。
もう最初の音から、負のバイアスは霧散した。
そのくらい、いままで聴いたことのないレベルの音が鳴ってきた。

音だけではなく、演奏も見事だった。
一楽章を最後まで聴いた。
「続けて聴くか」と菅野先生がいわれた。
最後まで聴いていた。

このCDは、ノイマンがデジタルマイクロフォンのデモストレーション用に制作した、ということだった。
その時は市販されていなかったが、しばらくしてカナダのレーベルから出ていた。

デジタルマイクロフォンとは、
マイクロフォンにA/Dコンバーターを内蔵し、デジタル出力で信号が取り出せるようになっている。

録音の現場ではマイクロフォンからケーブルが、場合によっては非常に長くなることがある。
ケーブルが長くなれば、それだけロスも増えるし、ノイズの影響も受けやすくなる。
音の変化もある。

デジタル伝送にすれば、すべて解決とまではいかないものの、かなりの改善が期待できる。
録音に必要な器材がデジタル化されて、マイクロフォンもそうなった。

このノイマンのマイクロフォンは、
ハードウェアとしてのデジタルが、マイクロフォンに搭載されたわけで、
デジタルにはハードウェアだけでなく、ソフトウェアとしてのデジタルもある。

このソフトウェアとしてのデジタルが、マイクロフォンをどう変えていくのか。

Date: 10月 26th, 2016
Cate: 録音

マイクロフォンとデジタルの関係(その1)

Lytro(ライトロ)の製品は2011年に登場しているが、
Lytroの技術(撮影後にピント合せが可能)が話題になったのは、製品化の数年前だった。

そのころは理屈がどうなっているのかさっぱりだっただけに、
すごい技術が誕生したものだと思うとともに、
録音の世界では、同じこと、同じようなことが可能にならないのたろうか、と思っていた。

カメラのレンズにあたるのはマイクロフォンである。
マイクロフォンには指向特性がある。
たとえば音の焦点は変化できなくとも、指向特性を録音後に変えることはできないのだろうか。
そんなことを考えていたけれど、すっかり忘れていた。

LEWITTというメーカーがある。
LCT640TSというマイクロフォンがある。
今年発売になっている。

このマイクロフォンは、録音後にマイクロフォンの指向特性をシームレスに変更できる、という。
もちろんこのマイクロフォンだけで可能にしているわけではなく、
専用のプラグインを用いることでDAW(Digital Audio Workstation)上で可能になる。

CDが登場してしばらくしたころから思っていたのは、
マルチトラック録音を2チャンネルにトラックダウンせずに、
マルチトラックのまま聴き手に届く時代が来るかもしれない、ということだった。

再生にはコントロールのためのなにがしかの機械が必要となる。
コンピューターが、聴き手にとってミキシングコンソールになる。

もちろんレコーディングエンジニアによる2チャンネル再生も、
その音源からできる上に、聴き手が聴きたい個所をクローズアップできるように、
マルチトラックのそれぞれのチャンネルをいじれるようになってほしい、と思っていた。

けれどそういうことよりも、マイクロフォンの指向特性が録音後に変更できることは、
別の可能性を聴き手にもたらしてくれる。
そういうふうになるのかどうかははっきりしないが、
少なくとも技術的には可能になってきている。

マイクロフォンがデジタル信号処理と結びつくことで、
アナログ時代では無理だったことが可能になりつつある。
マイクロフォンアレイも、そのひとつである。

Date: 10月 11th, 2016
Cate: アンチテーゼ, 録音

アンチテーゼとしての「音」(ベルリン・フィルハーモニーのダイレクトカッティング盤)

ダイレクトカッティングで名を馳せたシェフィールドは、
オーケストラ録音にも挑んでいた。

これがどんなに大変なことは容易に想像できる。
けれどシェフィールドのオーケストラ物のダイレクトカッティング盤が魅力的だったかといえば、
少なくとも私にとっては、そうではなかった。

クラシック以外のダイレクトカッティング盤はいくつか買いたいと思うのがあったが、
クラシックに関してはそうではなかった。

今回、キングインターナショナルから発売になるダイレクトカッティング盤には、
心が動いている。

サイモン・ラトル/ベルリン・フィルハーモニーによるブラームス交響曲全集(六枚組)。
レーベルはBERLINER PHILHARMONIKER RECORDINGS。

録音は2014年。
発売に二年かかっている理由はわからない。
けれど、なぜベルリン・フィルハーモニーがダイレクトカッティング録音に挑んだのだろうか。

ダイレクトカッティングを行うにはカッティングレーサーを、
録音現場(演奏会場)まで運ばなければならない。

スタジオ録音でも、日本ではカッティングレーサーはプレス工場に置かれていることも多かった。
東芝EMIが以前ダイレクトカッティング盤の制作に、
工場から赤坂のスタジオに移動したときには、調整の時間も含めて一週間を費やした、ということだ。
この手間だけでもたいへんなもので、また元の場所に戻して調整の手間がかかるわけだ。

それでもあえてダイレクトカッティング録音を行っている。
すごい、と素直に思う。

ダイレクトカッティングなので、生産枚数には限りがある。
全世界で1833セット(ブラームスの生年と同じ数)で、
日本用には特典付きの500セットが割り当てられている。

価格は89,000円(税抜き)。
安いとはいえない値段だが、
シェフィールドのダイレクトカッティングも、クラシックに関しては6,500円していた。
40年ほど昔でもだ。

アナログディスク・ブームだからということで、
売れるからアナログディスクのカタチをしていればいい、という商売っ気だけで、
アナログディスクのマスターにCD-Rを使ってカッティング・プレスするのとは、
まったく違うアナログディスクである。

どこかダイレクトカッティングに挑戦してほしい、とは思っていたけれど、
まさかベルリン・フィルハーモニーだったとは、今年イチバンの嬉しいニュースである。

Date: 7月 11th, 2016
Cate: 憶音, 録音

録音は未来/recoding = studio product(続・吉野朔実の死)

2002年10月から2003年12月いっぱいまで、渋谷区富ケ谷に住んでいた。
最寄りの駅は小田急線の代々木八幡だった。

まだ高架になっていない。
踏み切りがある。駅も古いつくりのままである。
私鉄沿線のローカル駅の風情が残っている、ともいえる。

電車が通りすぎるのを待つ。
踏み切りが開く。視界の向うには階段がある。
山手通りへと続いている階段だ。

この風景、どこかが見ている。
どこで見たんだろう……、と記憶をたどったり、
手元にある本を片っ端から開いていったことがある。

ここで見ていたのだ、とわかったのは数ヵ月後だったか。
吉野朔実の「いたいけな瞳」の、この踏み切りがそのまま登場しているシーンがある。
一ページを一コマとしていた。(はずだ)。
印象に残っているシーン(コマ)だった。

「いたいけな瞳」は最初に読んだ吉野朔実の作品であり、
最初に買った吉野朔実の単行本だった。

あの風景は現実にあるのか。
記憶と毎日見ている踏み切りと階段の風景が一致したときに、そう思った。

今日ひさしぶりに小田急線に乗っていた。
代々木八幡駅を通りすぎるとき、この風景は目に入ってきた。

そうだった、吉野朔実はもう亡くなったんだ……、と思い出していた。

オーディオとは直接関係のないことのように思えても、
記録、記憶、録音、それから別項のテーマにしている憶音などが、
この風景と吉野朔実とに関係していくような気がした。

Date: 6月 19th, 2016
Cate: 境界線, 録音

録音評(その4)

銀座に行くこと(そこで買物をすること)と輸入盤を買うことは、
当時の私にはしっかり結びついていることだった。

銀座は東京にしかないし、
当時、私が住んでいた田舎では輸入盤のLPはほとんどなかった、といえるからだ。

LP(アナログディスク)を買うならば輸入盤。
これは東京に出てくる前から、そう決めていた。
クラシックならば、絶対に輸入盤。
輸入盤が廃盤になっていて、それがどうしても聴きたいディスクであるときは、
しかたなく日本盤を買っていたけれど、
そうやって買ったものでも、輸入盤をみかけたら買いなおしていた。

これは刷り込みのようなものだった。
五味先生の文章、瀬川先生の文章によって、
クラシック(他の音楽もそうだけれど)は、特に輸入盤と決めていた。

それは音がいいから、だった。
もっといえば、音の品位が輸入盤にはあって、日本盤にはなかったり、低かったりするからだ。

輸入盤と日本盤の音の違いは、もっとある。
それに場合によっては、輸入盤よりもいい日本盤があることも知っているけれど、
総じていえば、輸入盤の方がいい。

その輸入盤の音の良さは、いわゆる録音がいい、というのとはすこし違う。
録音そのものは輸入盤も日本盤も、基本は同じだ。
もちろん日本に来るカッティングマスターは、
マスターテープのコピーであり、そのコピーがぞんざいであったり、
丁寧にコピーされていたとしても、まったく劣化がないわけではない。

それに送られてきたテープの再生環境、カッティング環境がまったく同じというわけでもない。
海外にカッティングしメタルマザーを輸入してプレスのみ日本で行ったとしても、
レコードの材質のわずかな違いやプレスのノウハウなどによっても、音は違ってくる。

そうであっても大元の録音は、輸入盤も日本盤も同一であり、
そこから先のプロセスに違いがあっての、音の違いである。