オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その13)
五味先生はオーディオにおいて何者であったか、といえば、オーディオ研究家ではない。
いい音をつねに求められてはいたから求道者ではあっても、
オーディオ機器を学問として研究対象として捉えられていたわけではない。
評論家でもない、研究家でもない。
私は、オーディオ思想家だと思っている。
五味先生の、そのオーディオの「思想」が、瀬川先生が生み出したオーディオ「評論」へと受け継がれている。
五味先生はオーディオにおいて何者であったか、といえば、オーディオ研究家ではない。
いい音をつねに求められてはいたから求道者ではあっても、
オーディオ機器を学問として研究対象として捉えられていたわけではない。
評論家でもない、研究家でもない。
私は、オーディオ思想家だと思っている。
五味先生の、そのオーディオの「思想」が、瀬川先生が生み出したオーディオ「評論」へと受け継がれている。
「五味氏の『西方の音』は『さいほうのおと』と読むんですか」といったことを、
先日、ある人が訊ねてきた。
なんでも、あるサイトで、「西方の音」の西方は西方浄土(さいほうじょうど)からとられているため、
「せいほう」ではなく「さいほう」と読むのが正しい、と書いてあったそうだ。
訊ねてきたその人も、別の人からの又聞きなので、どこのサイトなのかはわからない。
私も一瞬、信じかけるくらい、もっともらしい説であるが、読みは「せいほう」で正しい。
「西方の音」の奥付にはルビはないが、
「天の聲─西方の音─」の奥付には、「せいほう」とふってある。
新潮社のサイトでも、「セイホウノオト」とある。
オーディオには、こういう、もっともらしいことが、昔からいくつもあり、
本当のこととして信じられ流布しているものもある。
それらのなかには、害のないものもあれば、そうでないものもあるから、やっかいでもある。
余計なお世話だと言われようが、
五味先生が、作品111を「初めてこころで聴いて以来」と書かれていることを、
くれぐれも読み落とさないでほしい。
「日本のベートーヴェン」に、ナットの弾く作品111のことが書いてある。
*
私はある事情で妻と別れようと悩んだことがある。繰り返し繰り返し、心に沁みるおもいで作品一一一の第二楽章を聴いた。どうしてか分らない。或る時とつぜんピアノの向うに谷崎潤一郎と佐藤春夫氏の顔があらわれ、谷崎さんは「別れろ」と言う、佐藤先生は「別れるな」と言う。ベートーヴェンは両氏にかかわりなく弾きつづける。結局、私は弱い人間だから到底離別はできないだろうという予感の《自分の》声が、しらべを貫いてきこえてきた。私にはしょせんいい小説は書けまい、とその時ハッキリおもった。イーヴ・ナットの弾く一一一だった。このソナタを初めてこころで聴いて以来、モノーラルのバックハウス、日比谷公会堂のバックハウス、カーネギー・リサイタルのバックハウス、ステレオのバックハウス、四トラ・テープのバックハウス、それにE・フィッシャー、ラタイナー、ミケランジェリ、バーレンボイム、ハイデシェック、ケンプ……入手できる限りのレコードは求めて聴いた。その時どきで妻への懐いは変り、ひとりの女性の面影は次第に去っていったが、ベートーヴェンだけはいつも私のそばにいてくれたとおもう。私的感懐にすぎないのは分りきっているが、どうせ各自手前勝手にしか音楽は鑑賞はすまい。
*
そう思われたのは、1956年のことだ。五味先生、35歳。
この年の2月から週刊新潮に連載された「柳生武芸帳」が、柴田錬三郎の「眠狂四郎」ともに、
剣豪ブームとなったときのことだ。
ナットが、作品111を録音したのは1954年。
日本で発売になったのがいつなのか正確にはわからないが、
いまとちがい、録音されてすぐに発売されていたわけではない。
五味先生がナットの作品111を聴かれたときは、発売されて、そう経っていなかったのではないかと思う。
シャルランの手によるナットのベートーヴェンの作品111が、このとき登場したのは、
単なる偶然なんだろう。
それでもこの偶然によって、離別はなくなっている。
朝日新聞社から出た「世界のステレオ No.3」に、
「どうせ各自手前勝手にしか音楽は鑑賞はすまい。」のつづきといえることを書かれている。
*
所詮、音楽は手前勝手に聴くものだろう。銘々が、各自の家庭の事情の中で、聴き惚れ、痛哭し、時に自省し、明日への励みにするものだろう。レコードだからそれは可能なんだろう。
*
レコードだから、別離はなかったのだろう、きっと。
ベートーヴェンのピアノソナタ第32番・作品111は、
ベートーヴェンの、孤独との決着をつけた曲なのではなかろうか。
孤独は誰にしもある。
孤独と向き合い、見据え、受け入れてこそ、決着がつけられる。
目を背けたり、拒否してしまえば、それで終わりだ。
もっともらしいことは書いたり奏でたり、つくったりはできるだろうが、
決着をつけなかった者は、しょせん、もっとも「らしい」で終ってしまうような気がする。
もっともなことを書いたり奏でたり、作ったりするには、決着をつけなければ、
とうていたどりつけない極致のことなのかもしれない。
なぜ五味先生が、ポリーニのベートーヴェンを聴かれ、あれほど怒りをあらわにされた文章を書かれたのか、
いま思うのは、こういうことではなかったのか、ということだ。
やはり930stを愛用されていた五味先生は、どちらだったのか。
930stの内蔵アンプなのか、それともマッキントッシュのC22のフォノイコライザーアンプなのか。
「オーディオ愛好家の五条件」で真空管を愛すること、とあげられている。
「倍音の美しさや余韻というものががSG520──というよりトランジスター・アンプそのものに、ない。」とある。
しかし、別項で引用したように、930stの、すべて込みの音を高く評価されている。
ステレオサウンドにいたときに確認したところ、やはり内蔵の155stを通した音を日ごろ聴かれていたそうだ。
五味先生の930stは、オルトフォン製のトーンアーム、RMA229が搭載されている。
ちなみにモノーラル時代の930のそれはRF229である。
930が登場したのが、1956年。モノーラル時代であり、内蔵イコライザーアンプは、管球式の139である。
シリアルナンバーでいえば3589番からステレオ仕様の930stになる。
これにはステレオ仕様の管球式の139stが搭載されている。
そしてシリアルナンバー10750番から、トランジスター式の155stとなり、
14725番電源回路が変更になり、17822番からトーンアームがEMT製929に変更となる。
ただ155stが登場したのが、いつなのかは正確には、まだ知らない。
ただ929が登場したのが1969年で、
155stの兄弟機153stとほぼ同じ回路構成のフォノイコライザーアンプを搭載した928(ベルトドライブ)は、
1968年に登場していることから、おそらく60年代なかばには930stに搭載されていただろう。
155stは、片チャンネルあたりトランジスター8石を使ったディスクリート構成で、入出力にトランスを備えている。
153stは、LM1303M、μA741C、μA748Cと3種のオペアンプを使い、
出力のみトランジスター4石からなるバッファーをもつ。
もちろん入出力にトランスをもつが、155stと同じかというとそうでもない。
出力トランスは1次側に巻き線を2つもち、そのうちの1つがNFB用に使われている。
電源も155stは+側のみだが、153stは正負2電源という違いもある。
回路図を見る限り、155stと153stの開発年代の隔たりは、2、3年とは思えない。
となると155stは、60年代前半のアンプなのかもしれない。
LNP2よりも、10年か、それ以上前のアンプということになる。
五味先生がはじめて自分のモノとされたタンノイは、「わがタンノイの歴史(西方の音・所収)」にある。
*
S氏邸のタンノイを聴かせてもらう度に、タンノイがほしいなあと次第に欲がわいた。当時わたくしたちは家賃千七百円の都営住宅に住んでいたが、週刊の連載がはじまって間もなく、帰国する米人がタンノイを持っており、クリプッシ・ホーンのキャビネットに納めたまま七万円で譲るという話をきいた。天にも昇る心地がした。わたくしたちは夫婦で、くだんの外人宅を訪ね、オート三輪にタンノイを積み込んで、妻は助手席に、わたくしは荷台に突っ立ってキャビネットを揺れぬよう抑えて、目黒から大泉の家まで、寒風の身を刺す冬の東京の夕景の街を帰ったときの、感動とゾクゾクする歓喜を、忘れ得ようか。
今にして知る、わたくしの泥沼はここにはじまったのである。
*
このタンノイで最初にかけられたのが、イーヴ・ナットの弾くベートーヴェンの作品111である。
シャルランの録音だ。
結局、このタンノイのクリプッシュ・ホーンは、
当時売られていた「和製の『タンノイ指定の箱』とずさんさにおいて異ならない」ことがわかる。
あといちどナットによる作品111は出てくる。「日本のベートーヴェン」においてである。
イーヴ・ナットの、EMIから出ているベートーヴェンのピアノ・ソナタを録音したのは、
アンドレ・シャルランのはずだ。
ワンポイント録音で知られるシャルラン・レコードの、シャルラン氏だ。
彼はシャルラン・レコードをつくる前に、
EMIで、あとリリー・クラウスの、モノーラル録音のピアノ・ソナタも行なっていたはず。
ナットのベートーヴェンもおそらくワンポイントかそれに近い録音だろう。
「天の聲」所収の「ステレオ感」に五味先生は、シャルランについて書かれている。
※
録音を、音をとるとは奇しくも言ったものだと思うが、確かにステレオ感を出すために多元マイク・セッティングで、あらゆる楽器音を如実に収録する方法は、どれほどそれがステレオ効果をもたらすにせよ、本質的に、”神の声”を聴く方向からは逸脱すること、レコード音楽の本当の鑑賞の仕方ではないことを、たとえばシャルラン・レコードが教えていはしないだろうか。周知の通り、シャルラン氏はワンポイント・マイクセッティングで録音するが、マイクを多く使えば音が活々ととれるぐらいは、今なら子供だって知っている。だがシャルラン氏は頑固にワンポイントを固守する。何かそこに、真に音楽への敬虔な叡知がひそんでいはしないか。
※
「神の声を聴く方向から逸脱」しない、
「真に音楽への敬虔な叡知がひそんでいる」であろうシャルラン氏のワンポイント録音によって、
ナットのベートーヴェンの作品111は録られている。
五味先生が、ナットの作品111をどう聴かれていたのか。
「西方の音」のページをくる。
ケンプの演奏によるベートーヴェンのピアノソナタ第32番が、
五味先生が病室にて最期に聴かれたレコードなのは、すでに書いているが、
タンノイ・オートグラフで愛聴されていたのは、バックハウスの演奏である。
それもスタジオ録音のモノーラル盤、ステレオ盤ではなく、
1954年、アメリカへの入国禁止が解かれ、3月30日、カーネギーホールでのライヴ盤を愛聴されていた。
バックハウスは、このあと来日している。
五味先生は聴きに行かれている。日比谷公会堂での演奏だ。
前年、「喪神」で芥川賞を受賞されていたものの、新潮社の社外校正の仕事を続けられていたときで、
2階席しかとれず、「難聴でない人にこの無念の涙はわからないだろう」と、
「ウィルヘルム・バックハウス 最後の演奏会」の解説に書かれている。
日本でも、バックハウスは、作品111を演奏している。
カーネギーホールでの演奏と、五味先生が聴かれたコンサートがいつなのかはわからないが、
そのあいだは約1ヵ月ほどだろう。
1954年のカーネギーホールのライヴ盤を愛聴されていたのは、単なる偶然なのか。
このレコードについて、「ステレオのすべて No.3」(朝日新聞社)に書かれている。
※
作品111のピアノ・ソナタ第32番ハ短調もそんな後期の傑作の1つである。バックハウスのカーネギー・ホールにおける演奏盤(米ロンドLL-1108/9)を今に私は秘蔵し愛聴している。作品111はベートーヴェンの全ピアノ曲中の白眉と私は信じ、入手し得るかぎりのレコードを聴いてきた。印象に残る盤だけを挙げても、ラタイナー、イヴ・ナット、ケンプ、ミケランジェリー、グレン・グールド、シュナーベル、モノーラル及びステレオ盤でのバックハウスと数多くあるが、愛聴するのはカーネギー・ホールに於ける演奏である。
(中略)
ベートーヴェンの〝あえた〟としか表現しようのない諦観、まさに幽玄ともいうべきその心境に綴られる極美の曲趣は、ミケランジェリーの第2楽章が辛うじて私の好む優婉さを聴かせてくれるくらいで、他は、同じバックハウスでも(とりわけモノーラルの演奏は)カーネギーでさり気なく弾いた味わいに及ばない。
※
私はCDで愛聴している。
五味先生が書かれていることは、私なりにではあるが、わかる(気がする)。
とはいえ、いま私が聴くのは、作品111よりも、作品110のほうだ。
第30番、31番とつづけて聴くことが多い。作品111の前でとめる。
だからケンプだったり、グールド、内田光子の演奏を聴くことのほうが多くなる。
五味先生がお使いだったヤマハ製のラックは、BLC103シリーズで、
イタリアのデザイナー、マリオ・ベリーニによるもの。
BLC103は、縦型タイプ(下段がレコード収納用、その上にアンプ、チューナー類を収められるように3段)、
スクエア型タイプ(下段はレコード収納用で、その上に小物入れの引出しが2段)、
このふたつを連結する天板をデスクタイプと分類し、かなり自由に組み合わせることが可能だった。
ヤマハでは、単なるラックとは呼ばず、コンポーネントファニチャーと名付けていた。
モダンなラックだと、中学生の頃、思っていたし、
そのころは五味先生が使われていたことは知らなかったけど、BLC103が欲しかった、使いたかった。
でも基本セットで、8万円ほどしていたラックは、学生には高すぎた。
そんなこともあって、ステレオサウンド 55号の五味先生の追悼記事中の写真に、
このラックを見つけたときは、なんとなく嬉しかった。
練馬区役所で、五味先生のマッキントッシュやEMTが収められているラックは、
盗難防止のため扉と鍵が必要なのは理解できるけど、なんと武骨なだけなんだろうか。
余談だが、1970年代のヤマハは、
このラックとカセットデッキのTC800GL、ヘッドフォンのHPシリーズは、マリオ・ベリーニに、
アンプやチューナーなどは、日本のGKデザインに依頼していた。
瀬川先生は、GKデザインのヤマハの製品についてひと言、
「B&Oコンプレックス」と言われていたのを思い出す。
TC800GLは1975年、コントロールアンプのC2は翌76年に、
イタリア・ミラノHiFiショーで、トップフォルム賞を受賞している。
五味先生のオーディオと長島先生のオーディオには、いくつかの共通点がある。
まずお使いのスピーカーユニットは、タンノイもジェンセンのG610B、どちらも同軸型の15インチで、
エンクロージュアもバックロードホーンという点が共通している。
長島先生のスピーカーはコーナー型ではないが(正確に言えば、セミコーナー型といえる形状)、
部屋を横方向に使われ、左右のスピーカーの間隔をできるだけ広げられる意味もあってだろうか、
そして低音に関しての意味合いも含まれているようにも思えるが、ほぼコーナーに設置されている。
オートグラフは、いうまでもなくコーナー型である。
どちらもスピーカーも、指向性は意外に狭く、最良の聴取位置はピンポイントだ。
あとは、おふたりともアンプは真空管アンプである。
五味先生はマッキントッシュのC22とMC275、長島先生はマランツの#7と#2の組合せ。
だから、おふたりの音には共通しているものがある、とは言わないし、これだけでは言えないことだ。
これらのことは、たまたまの偶然だろう。
それよりも、大事なことは、どちらもたったひとりのための部屋であり、音である、ということだ。
五味先生の部屋は、ステレオサウンドに掲載された写真でしか知り得ないが、
五味先生ひとりのための部屋という印象が、まずある。
長島先生の部屋に訪れたときも、雑然としているところも含めて、やはりひとりのための部屋という印象を受けた。
1964年7月25日、五味先生のもとに、イギリスからタンノイ・オートグラフが届く。
その時の音を「なんといい音だろう。なんとのびやかな低音だろう。高城氏設計のコンクリートホーンからワーフェデールの砂箱、タンノイの和製キャビネット、テレフンケン、サバと、五指にあまる装置で私は聴いてきた。こんなにみずみずしく、高貴で、冷たすぎるほど高貴に透きとおった高音を私は聴いたことがない。しかもなんという低音部のひろがりと、そのバランスの良さ」と書かれている。
3月8日の音は、のびやかな低音でも、ひろがりのある低音でもなく、
高音部も、みずみずしくとはいえなかった。
そういう音が鳴ってくれるとは、ほとんど期待してはいなかった。
部屋の構造上か、オートグラフは後ろの壁からも左右の壁からも数十cm以上離されていたし、
主を喪ったオーディオ機器は、どれも万全のコンディションとはいえないことも重なっていて、
あれこれいっても仕方のないことだろう。
それでもフルトヴェングラー/ウィーンフィルによるベートーヴェンの交響曲第3番の第2楽章、
バックハウスの最後の演奏会を収録したレコードから、ベートーヴェンのワルトシュタイン、
ヨッフム指揮の「マタイ受難曲」、これら3曲を聴いたわけだ。背筋をのばして聴いていた。
そういう音が鳴っていたからだ。
なぜだか、ふと長島先生の音の印象と重なってきた。
似ている、というよりも、共通しているところのある音。
音楽に真剣に向き合うことを要求する厳しい音、
だらしなく音楽をきく者を拒否するような厳しい音だった。
長島先生の音も、まさしくそうだった。
マッキントッシュのMC275には、RCAジャックが5つついている。
フロント右から、MONO INPUT、TWIN INPUT(L、R)、STEREO INPUT(L、R)となっている。
ステレオサウンド 55号「ザ・スーパーマニア 故・五味康祐氏を偲ぶ」に載っていた写真は、
目に焼き付くまで、じっと何度も見ていた。
だから、3月8日の練馬区役所の会議室に設置されていた五味先生のMC275を見て、
なにか違う……、と感じていた。
そのMC275のTWIN INPUTのところには、三角形に切られた赤と黒のビニールテープで、
左右チャンネルが色分けされていた。
区役所の方の説明では、運び込まれたときから貼られていたもので、
おそらく五味先生が貼られたものであろう、とのことだった。
だが、なぜ五味先生が、こんなところに、初歩的な色分けのシールを貼られるだろうか。
レコードのヒゲを、あれだけ嫌悪されていた五味先生である。
愛器にビニールテープなど、貼られるはずがない。
帰宅して、ステレオサウンドを開いた。
MC275の写真は、それほど大きくはない。どこにもビニールテープは貼られていない。当然だ。
さらに五味先生は、TWIN INPUTではなく、STEREO INPUTを使われている。
ビニールテープは、おそらく五味先生のお嬢様の由玞子さんが貼られたのだろう。
今回の試聴会は、TWIN INPUTが使われた。
五味先生のオーディオ機器の復活には、エソテリック/ティアックだけでなく、
ステレオサウンドの原田勲氏はじめ、編集部の方々も協力があったおかげだときいている。
オーディオ機器の操作は、ステレオサウンド編集部の染谷氏が担当されていた。
感謝しているからこそ、ひとつ言いたい。
なぜ、きちんと検証作業を行なわないのだろうか。
昔のステレオサウンドを見れば、すぐにでもわかることである。
誌面では小さな扱いの写真だが、編集部内には、フィルムがきちんと保管されている。
こちらで確かめれば、もっと細かいことまでわかる。
なぜ一手間を惜しむのだろうか。
オーディオという趣味は、その一手間の積み重ねによって、音を紡いでいき、築いていく行為だというのに……。
そして編集という行為も、まさしくそうであるのに……。
今日、練馬区役所主催の「五味康祐氏遺愛のオーディオとレコード試聴会」に行ってきた。
午前中に1回、午後3回開催されるほどだから、前回(1月)の試聴会の申込みがいかに多かったのかが、わかる。
年輩の女性同士で来られている方も見かけた。
練馬区役所本庁舎の会議室に、五味先生のタンノイ・オートグラフは設置されている。
部屋に入ると、正面にオートグラフ、
その間に木製ラック、それにEMT930st、マッキントッシュのC22、MC275が収められていた。
五味先生がお使いになっていたラックは、ヤマハ製のものだった。
オートグラフが目にはいった次の瞬間、すぐに探したのは「浄」の書だ。
五味先生のリスニングルームでは、オートグラフに向かって左側の壁、天井近くに飾ってあった。
「浄』は右側の壁に、飾ってあった。
写真で何度も見、目に焼き付けていたつもりだったが、
こうやって、その前に立つと、印象は、ずっと深いものとなる。
たくましく、骨太で、ふしぎな味わいがある。
技巧うんぬんなど、どこ吹く風といったらいいのだろうか。
なぜ、この「浄」なのかが、わかる気がした。
区役所の方の話によると、おそらく中国の石碑からの拓本だろう、とのことだった。
1月24、25の両日、練馬区役所で、五味先生のオーディオ機器によるレコードコンサートが行なわれた。
往復ハガキによる事前申込みで、応募者多数だったための抽選にはずれてしまい、
口惜しい思いをされた方も多いだろう。
私もダメだった。
1月上旬に届いたハガキには、応募者が予想以上に多かったため、
改めて機会を設ける予定だと書いてあった。
正直、まったく期待はしていなかった。
さきほど郵便受けをのぞいたら、届いていた。
3月に、また行なう、とある。今度は行ける。
五味先生が聴いておられた音の片鱗でも、この耳で聴ければ、それでいい。
そして、五味先生が実際に愛用された機器たちを見ておきたい。
それが叶う。