オーディオは男の趣味であるからこそ(もっといえば……)
オーディオは男の趣味、
さらにいえば迎合しない男の趣味である。
オーディオは男の趣味、
さらにいえば迎合しない男の趣味である。
世田谷・砧に建てられた瀬川先生のリスニングルームにあったテーブルは、
EMTの930stの専用インシュレーター930-900の上にガラスの天板が置かれたものだった。
930-900を知らない人は、ちょっと変ったテーブルとしか思わないだろう。
930-900を知っている人は、その値段も知っているわけで、ニヤッとされるだろう。
マネしたいな、と思ったことがある。
トーレンスの101 Limitedを使っていたから、
930-900も持っていたけれど、テーブルの脚として使うわけにはいかなかった。
マネはしなかった、というよりマネできなかった。
それでも他のモノで同じことができないものか、と考えたことがある。
アルテックの604のことが浮んだ。すぐに浮んだ。
604の正面を上に向けて立てる。
604を安定させるために台座のようなモノは必要になると思うが、
604の上にガラスの天板を置く。
一本脚のガラスのテーブルになる。
心にかなった遊びのことを、勝遊ということを、
漢詩にうとい私はさきごろ知った。
名前に勝の字がつく私は、
オーディオはまさしく勝遊だと思ったし、
オーディオはまさしく男の趣味であることを、この勝遊があらわしているともおもった。
瀬川先生の「コンポーネントステレオをすすめ」は1970年代の本であり、
そこに書かれていることは、そのころの話であるわけだ。
約40年前のオープンリールデッキ、
それも30万円というのはたしかにかなりのぜいたくなテープデッキである。
HI-FI STEREO GUIDEの’74-’75年度版で、2トラ38の30万円くらいの製品となると、
アカイのGX400D PRO(275,000円)、ソニーのTC9000F-2(250,000円)、
ティアックのA7400(298,000円)、ルボックスのHS77 MKIII(320,000円)ぐらいしかなかった。
国産のオープンリールデッキの高級機でも15万円前後が主流である。
’76-’77年度版をみると、30万円くらいの2トラ38機は増えている。
それでも30万円のモデルは、ぜいたくなテープデッキであることにかわりはない。
スピーカーもなければアンプもアナログプレーヤーもなく、
オープンリールデッキとヘッドフォンだけ、というスタイル(スタート)は、
現在では、ポータブルオーディオにヘッドフォン(イヤフォン)が近いようにみえる。
ポータブルオーディオもヘッドフォン(イヤフォン)も、そうとうに高価なモノがある。
スピーカーをあえて持たず、ヘッドフォン(イヤフォン)だけで楽しむ人たちがいる。
40年前のオープンリールデッキが、ポータブルオーディオにかわっただけには、
私の目には見えない。
40年前のオープンリールデッキとヘッドフォンの大学生は、
次にアンプ、それからスピーカー、アナログプレーヤーと買い足していったはずだからだ。
アンプもスピーカーもアナログプレーヤーも、
約40年前の30万円のオープンリールデッキと同等のモノを選び、
それを目標にアルバイトでかせいでいったはずだ。
オープンリールデッキとヘッドフォンの世界だけで完結していない。
5月8日の川崎先生のブログ「ヘッドホンはまだワイヤード、そのコードも問題」、
冒頭の数行、
《美大入学直後のオーディオ装置は、
2chのオープンテープデッキと手に入れたあるメーカーのヘッドホンだけ。
オープン用の選び抜いたテープだけ10本も無く、ひたすら聴いていました。》
ここを読んで「あれっ、あのことは川崎先生のことなのか」と思った。
瀬川先生の「コンポーネントステレオのすすめ」の第二章、
「コンポーネントステレオを構成する」の中に、こんなことが書いてあった。
*
ある販売店にどこかの大学生が30万円ほどのお金を持ってやってきた。そして、38センチ2トラックの、つまり相当にぜいたくなテープデッキを買ったのだそうだ。大学生は店員に、ヘッドフォンを一個、おまけにサービスしてくれと頼んだ。
こんなデッキを買う客だから、アンプやスピーカーもさぞかし高級品を持っているだろうと店員が質問すると、大学生は、いや、このデッキが僕の最初の買い物なんだ、アンプやスピーカーやチューナーは、この次の休暇のアルバイトでかせぐんだ、と答えたそうだ。それまでは、友人たちにテープをダビングしてもらって、このヘッドフォンで楽しむのさ……と。
30万円あれば、ローコストのコンポーネントを一揃い揃えることもできるのに、彼は遠大な計画をたてて、建て増し式で高い水準の装置を揃えようとしている。一式30万円の装置でも、部分的に少しずつ入れ換えしながら、成長させることができなくはないが、しかしそれでは最初から低い水準のパーツでがまんしなくてはならないし、成長の完成したときに最初のパーツはほとんど姿を消してしまうだろう。右の実話のように、一度に完結しなくとも、大きな目標に向かって計画を少しずつ実現させるという考えを、私は好きだ。
*
どこかの大学生は、川崎先生のことなのかもしれないし、
まったく別の人のことなのかもしれない。
オーディオは、男の趣味だとおもう。
ずっと以前、とあるところから、
あるオーディオ機器の取り扱い説明書を書いてくれないか、という依頼があった。
ことわる理由もなかったし、取り扱い説明書を書くのも、何かの勉強だと思い受けたことがある。
とはいうものの、これまでオーディオ機器の取り扱い説明書を読んだことはほとんどない。
かなり多くのオーディオマニアが、私と同じではなかろうか。
なのでいくつかの取り扱い説明書を取り寄せて、読んだことがある。
オーディオ機器の取り扱い説明書も、各社さまざまなのを知った。
こういう機会でもないかぎり、取り扱い説明書をじっくり読むことはなかった。
基本的に、オーディオ機器であれば取り扱い説明書はなくとも使える。
そういう自信を持っていた。
けれど先日のaudio wednesdayでは取り扱い説明書を読むことになった。
オーディオ機器の取り扱い説明書を読むのは二十年以上なかった。
喫茶茶会記の新しいアンプ、マッキントッシュのMA7900のフロントパネルには、
それほど多くのツマミがあるわけではない。
最初MA7900を前にして、あれっ? と思った。
モードセレクターが見当たらなかったからだ。
MA2275にはついていた。
モードセレクターなんて要らない、と考える人もいるが、
モードセレクターの有用性を知らない(気づいていない)人は、
そういう調整の仕方をしているわけとなる。
マッキントッシュもついになくしたのか……、と思っていた。
途中でMA7900の内蔵D/Aコンバーターの音を聴こう、ということになった。
私は単純に、入力セレクターをまわしていけば、
デジタル入力がディスプレイに表示されるのだと思っていた。
人生を幸福にする為には、日常の瑣事を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。
人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を与えたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。
人生を幸福にする為には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。
*
芥川龍之介の「瑣事」からの引用である。
まさしくそういうことである。
昨晩の「最後のオーディオマニア」は、続きを書くつもりはまったくなかった。
昨晩は、audio wednesdayだった。
4月のaudio wednesdayでは手抜きの鳴らし方だったことは、以前書いた通り。
今回は手抜きをせずにセッティングした。
喫茶茶会記のスピーカーは、いわゆる自作スピーカーの範疇にはいる。
15インチ口径のウーファーを収めたエンクロージュアの上に、
中域のドライバーとホーン、高域のドーム型のユニットがのる。
それゆえいじろうと思えば、ずっといじっていられるほど、あれこれ試せる。
三つのユニットの位置関係はいじらなくとも、
中域と高域のユニットの置き方をいじっていくだけでも、音はころころ変っていく。
スピーカーとは、そういうモノである。
ただ、そのことを面倒に思う人がいるのも事実である。
いまでは、そう思う人のほうが多いのではないだろうか。
それから、自作スピーカーを未完成品、
既製品スピーカーを完成品と捉えてる人も、また多いのかもしれない。
いつのころからか、オーディオ機器がブラックボックス化している。
いやむしろオーディオマニアがブラックボックスとして捉えているようでもある。
デジタル機器はそういうところを感じさせがちだが、
アンプもブラックボックス化していたといえるし、スピーカーもブラックボックス化している。
メーカーにその気がなくとも、オーディオマニアがブラックボックスとして見ている、
受けとめている、という傾向は増しているように感じている。
それがいいことなのか悪いことなのかについて、ここでは触れないが、
傾向としては、そうなりつつあるし、
このことは、好きな音楽をいい音で聴きたい、と思い行動する人が増えたとしても、
オーディオマニアは減っていくのではないだろうか。
あれこれ考えてしまうから、このブログを書いているといえるけれど、
毎日ブログを書くためにあれこれ考えているともいえるところもある。
だからなのか、このブログを書きはじめる前には考えたことのない範囲まで、あれこれ考えるようになったのか。
ふと思いつくことがある。
「最後のオーディオマニア」ということもふと思いついた。
私はオーディオマニアだ、と自認している。私の周りにもオーディオマニアがいる。
私が生きている間は、最後のオーディオマニアということは起りえないであろうが、
いつの日か、そういう日が来ないとはいえないのではないか。
オーディオマニアが減りはじめる。
言いかえれば、若い世代からオーディオマニアが誕生しなくなる日が来て、
それまで生きてきたオーディオマニアがいなくなっていけば、
最後のオーディオマニアといわれる人が出てこよう。
オーディオマニアが誕生しなくなった日から、
最後のオーディオマニアまでのカウントダウンが始まる。
死の間際、「悔いのない人生だった」といえるような生き方はしていない。
実際に、その瞬間を迎えないことにはなんともいえないが、
さまざまな悔いを思い出すかもしれない。
忘れてしまっているような悔いまで思い出すかもしれない。
これから悔いのない人生を送ったとしても、
すでに53年間生きているのだから、悔いはある。
だからオーディオマニアとしての悔いだけは残さないようにしている。
それが覚悟だと思っている。
悔いとは、あることから逃げたり避けたり、ズルしたりの記憶でもあるはずだ。
他にも悔いといえることはあろうが、
とにかくオーディオマニアとして、
オーディオに関することから逃げたり、ズルしたりの記憶を持つようなことはしないようにすることが、
オーディオマニアとしての悔いを残さない道であるし、
オーディオと対決する、ということのはずだ。
中高域にホーン型を採用した同軸型ユニットがある。
アルテックの604、タンノイのデュアルコンセントリックがよく知られている。
ジェンセンのG610も古くからあった同軸型ユニットだし、他にもいくつかあった。
現行製品として中高域をホーンとした同軸型ユニットはある。
タンノイ、ジェンセンはウーファーのコーン紙をホーンの延長とみなしての設計であるため、
アルテックの604シリーズのように中高域のホーンがウーファーのコーンの前に存在しない。
いまもある同種の同軸型ユニットは、ホーンがアルテックの604のように前についている。
だからといってホーンがついている同軸型ユニットが604と同じとはいえないところがある。
ユニットを保管するとき、前面を下にして伏せておくことが多い。
通常のコーン型ウーファーやフルレンジユニットだと当り前のようにできる置き方だが、
アルテックの604も、同じように伏せておける。
つまり604のホーンはフレームよりも前に出ていないからだ。
けれど最近の同種の同軸型ユニットの中には、こういう置き方はできないモノが登場している。
ホーンがフレームよりも前に張り出しているからである。
同軸型ユニットとして、それも中高域がホーン型の場合、
ホーンを理論通りにしたいのは理解できる。
けれどそうしてしまえば、たいていの場合、ホーンが突き出てしまうことになる。
音のためにそうなってしまいました。
そうメーカーが広告やカタログに謳っていれば、その姿勢は評価されることが多い。
「音のために……」は、まさに男の趣味的でもある。
でもいまの私は「男の趣味」だからこそ、アルテックの604の姿勢を、より高く評価したい。
アルテックの技術者も、
つまりこのユニットのオリジナルの開発に関係していたランシングも、
もしかするともっとホーンを大きくしたいと考えたかもしれない。
ほんとうのところはわからないが、登場したユニットではホーンは突き出すことなく、
節操をもっていること、私は「男の趣味」として高く評価している。
604の、このサイズのホーンゆえに生じている同軸型ユニットとしての弱いところは、
当のアルテックの技術者はわかっていた、と思う。
それでもホーンを、あえてこのサイズとこの位置にまとめている。
そこを充分に理解して使うのが、男のはずだ。
こうやって書いていくと、
そういえばあれもそういうことだったのか、と憶い出すことが出てくる。
ステレオサウンド 54号の特集。
「いまいちばんいいスピーカーを選ぶ・最新の45機種テスト」の冒頭に、
黒田恭一、菅野沖彦、瀬川冬樹、三氏の座談会が載っている。
試聴のあとの総論と、いくつかのスピーカーを具体的に挙げて話されている。
その中での菅野先生の発言を引用しておく。
*
菅野 特に私が使ったレコードの、シェリングとヘブラーによるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタは、ヘブラーのピアノがスピーカーによって全然違って聴こえた。だいたいヘブラーという人はダメなピアニスト的な要素が強いのですが(笑い)、下手なお嬢様芸に毛の生えた程度のピアノにしか聴こえないスピーカーと、非常に優美に歌って素晴らしく鳴るスピーカーとがありました。そして日本のスピーカーは、概して下手なピアニストに聴こえましたね。ひどいのは、本当におさらい会じゃないかと思うようなピアノの鳴り方をしたスピーカーがあった。バランスとか、解像力、力に対する対応というようなもの以前というか、以外というか、音楽の響かせ方、歌わせ方に、何か根本的な違いがあるような気がします。
*
シェリングとヘブラーによるモーツァルトのヴァイリオン・ソナタのレコード。
ここに刻まれている情報(あえてこう書いている)を、あますところなく鳴らせたとしたら……。
その結果、ヘブラーのピアノが、下手なお嬢様芸に毛の生えた程度にしか鳴らなかったら、
そういうものだと受けとめてしまうのか。
菅野先生は、バランスとか、解像力、力に対する対応がきちんとしていたとしても、
それだけでヘブラーのピアノが優美に歌うわけではない、というふうに語られている。
ヘブラーというピアニストは、その程度だよ、といってしまうのは簡単である。
けれど、少なくともヘンリック・シェリングと組んで演奏し、録音を残している。
シェリングは、ヘブラーとは違いダメなヴァオリニスト的な要素が強い演奏家では決してない。
そのシェリングと組んでいるだから、
ヘブラーのピアノは、非常に優美に歌って素晴らしく鳴ってくるべきともいえる。
そのためにスピーカーに要求されるのは、
音楽の響かせ方、歌わせ方であり、
ここのところにヘブラーのピアノの鳴らし方の根本的な違いがあるような気がする、とされている。
このヘブラーと同じような経験が、私にとっては(その6)に書いたことである。
また別の経験もしている。
別項「AAとGGに通底するもの(その6)」を中心に、そのときのことを書いている。
グールドは、ヘブラーとは違うタイプのピアニストであり、
ダメなピアニスト的な要素はまったくないにも関わらず、そういうふうに鳴ってしまったのを聴いている。
ステレオサウンド 54号でのヘブラーと、私が経験したグールドとでは、
いくつかのことが違っていて、必ずしもまったく同じこととはいえないし、
音楽的感銘、音楽の響かせ方、歌わせ方、それに音楽性といったことは曖昧な表現である。
そんな曖昧な表現で何がわかるのか、という人は、
測定データを提示しろ、と言いがちだ。
だが、測定データで何がわかるのか、といいたい。
そして「測定データ……」という人には、レコード再生はかろうじてできたとしても、
レコード演奏はまず無理だといっておく。
五味先生の「五味オーディオ教室」から始まっている私のオーディオにおいて、
瀬川先生の再生アプローチは、
五味先生の再生アプローチと同じである、と感じていた。
「五味オーディオ教室」にこう書いてある。
すでに三回引用しているが、やはりもう一度書いておく。
*
EMTのプレーヤーで再生する音を聴いて、あらためてこのことに私は気づいた。以前にもEMTのカートリッジを、オルトフォンやサテンや、ノイマンのトランスに接続して聴いた。同じカートリッジが、そのたびに異なる音の響かせ方をした。国産品の悪口を言いたくはないが、トランス一つでも国産の“音づくり”は未だしだった。
ところが、EMTのプレーヤーに内蔵されたイクォライザーによる音を聴いてアッと思ったわけだ。わかりやすく言うなら、昔の蓄音機の音がしたのである。最新のステレオ盤が。
いわゆるレンジ(周波数特性)ののびている意味では、シュアーV15のニュータイプやエンパイアははるかに秀逸で、EMTの内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣化したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、たとえばコーラスのレコードをかけると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。
私の家のスピーカー・エンクロージァやアンプのせいもあろうかとは思うが、とにかく同じアンプ、同じスピーカーで鳴らしても人数は増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉しなみに再生するのを意味するのだろうが、レンジはのびていないのだ。近ごろオーディオ批評家の言う意味ではハイ・ファイ的でないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードをかけたおもしろさはシュアーに劣る。
そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。あまりそれがあざやかなのでチクオンキ的と私は言ったのだが、つまりは、「音楽として美しく」鳴らすのこそは、オーディオの唯一無二のあり方ではなかったか? そう反省して、あらためてEMTに私は感心した。
極言すれば、レンジなどくそくらえ!
*
周波数レンジもセパレーションもシュアーに及ばないEMTなのに、
コーラスのレコードをかけると、三十人の合唱が五十人に聴こえる、ということは、
どちらの再生が録音に対して、より正確かといえば、おそらくシュアーだったかもしれない。
EMTで三十人が五十人に聴こえる、ということは、
つまりはEMTによる味つけ、色づけといった演出の結果であろう。
でも、それが「音楽として」「美しく」鳴らしてくれるのであれば、
どちらをとるのか。
私の答は、はっきりしている。
改めて、オーディオは極道、音楽は修道。
このことが、ここに書かれていたと実感している。
瀬川先生が「いま、いい音のアンプがほしい」に書かれていたことに通じていくことは、
ステレオサウンド 45号にも書かれている。
45号は前号から続いてのスピーカーシステムの総テストで、
KEFのModel 105の試聴記に、
《かなり真面目な作り方なので、組合せの方で例えばEMTとかマークレビンソン等のように艶や味つけをしてやらないと、おもしろみに欠ける傾向がある。》
と書かれている。
ここにも《ゾクゾク、ワクワクするような魅力》を求められていることがあらわれている。
KEFのModel 105は、私も好きなスピーカーのひとつである。
瀬川先生の試聴記にもあるように、
《そこに手を伸ばせば触れることができるのではないかと錯覚させるほど確かに定位する》。
熊本のオーディオ店に来られたとき、
瀬川先生が調整されたModel 105を、そのワンポイントで聴くことができた。
かけてくださったのはバルバラのレコードだった。
バルバラが、まさにスピーカーの中央にいると錯覚できるほどの鳴り方だった。
瀬川先生が45号の試聴記に書かれていることが、よくわかる。
そこにEMTやマークレビンソンを組み合わせて、
《艶や味つけをして》ということは、
それだけEMT、マークレビンソンはそういう性格を強く持ち合わせているということでもあり、
これが瀬川先生の再生アプローチであり、組合せの考えであると、私は受けとっていた。
同時に試聴記は、単なる試聴記に留まっていては、
それはオーディオ評論家の仕事ではない、ということも感じていた。
レコード(録音物)の再生における音楽的感銘とは、
いったいどこに存在しているのか。
このことを考えるとき決って思い出すのが、
瀬川先生の、この文章である。
*
ただ、SG520の持っている独特の色気のようなものがなかった。その意味では、音の作り方はマランツに近い──というより、JBLとマランツの中間ぐらいのところで、それをぐんと新しくしたらレヴィンソンの音になる、そんな印象だった。
そのことは、あとになってレヴィンソンに会って、話を聞いて、納得した。彼はマランツに心酔し、マランツを越えるアンプを作りたかったと語った。その彼は若く、当時はとても純粋だった(近ごろ少し経営者ふうになってきてしまったが)。レヴィンソンが、初めて来日した折に彼に会ったM氏という精神科の医師が、このままで行くと彼は発狂しかねない人間だ、と私に語ったことが印象に残っている。たしかにその当時のレヴィンソンは、音に狂い、アンプ作りに狂い、そうした狂気に近い鋭敏な感覚のみが嗅ぎ分け、聴き分け、そして仕上げたという感じが、LNP2からも聴きとれた。そういう感じがまた私には魅力として聴こえたのにちがいない。
そうであっても、若い鋭敏な聴感の作り出す音には、人生の深みや豊かさがもう一歩欠けている。その後のレヴィンソンのアンプの足跡を聴けばわかることだが、彼は結局発狂せずに、むしろ歳を重ねてやや練達の経営者の才能をあらわしはじめたようで、その意味でレヴィンソンのアンプの音には、狂気すれすれのきわどい音が影をひそめ、代って、ML7Lに代表されるような、欠落感のない、いわば物理特性完璧型の音に近づきはじめた。かつてのマランツの音を今日的に再現しはじめたのがレヴィンソンの意図の一端であってみれば、それは当然の帰結なのかもしれないが、しかし一方、私のように、どこか一歩踏み外しかけた微妙なバランスポイントに魅力を感じとるタイプの人間にとってみれば、全き完成に近づくことは、聴き手として安心できる反面、ゾクゾク、ワクワクするような魅力の薄れることが、何となくものたりない。いや、ゾクゾク、ワクワクは、録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワクは蘇る筈だ──という理屈はたしかにある。そうである筈だ、と自分に言い聞かせてみてもなお、しかし私はアンプに限らず、オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたいのだ。
結局のところそれは、前述したように、音の質感やバランスを徹底的に追い込んでおいた上で、どこかほんの一ヵ所、絶妙に踏み外して作ることのできたときにのみ、聴くことのできる魅力、であるのかもしれず、そうだとしたら、いまのレヴィンソンはむろんのこと、現在の国産アンプメーカーの多くの、徹底的に物理特性を追い込んでゆく作り方を主流とする今後のアンプの音に、それが果して望めるものかどうか──。
だがあえて言いたい。今のままのアンプの作り方を延長してゆけば、やがて各社のアンプの音は、もっと似てしまう。そうなったときに、あえて、このアンプでなくては、と人に選ばせるためには、アンプの音はいかにあるべきか。そう考えてみると、そこに、音で苦労し人生で苦労したヴェテランの鋭い感覚でのみ作り出すことのできる、ある絶妙の味わいこそ、必要なのではないかと思われる。
*
1981年夏、ステレオサウンド別冊の巻頭からの引用だ。
《ゾクゾク、ワクワク》を音楽的感銘と捉えれば、
(音楽的感銘は)録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、
それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワク(音楽的感銘)は蘇る筈だ、
ということになる。確かにこれは理屈だ。正しい理屈のように思える。
そう思っている人も多いのではないだろうか。
そうだとしたら、音楽的感銘をできる限りそこなわないように再生するのが、
正しい鳴らし方ということになる。
けれど瀬川先生がそうであるように、
《オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたい》
という人もいる。
それがどういうことであるのかは自覚している。
瀬川先生も書かれている。
《結局のところそれは、前述したように、音の質感やバランスを徹底的に追い込んでおいた上で、どこかほんの一ヵ所、絶妙に踏み外して作ることのできたときにのみ、聴くことのできる魅力、であるのかもしれず》と。
それを音楽的感銘といっていいものかどうか。
それはオーディオ的感銘ではないか、という人もいるはず。
けれどオーディオを介在させることで、
音楽的感銘をより高めようというする再生アプローチが、
瀬川先生の《レコードを演奏》するであったのだと、私は思っているし、
私自身がめざしているのも、そこである。