オーディオは男の趣味であるからこそ(その6)
つまらぬ意地の張り合い。
オーディオマニアでない人からすれば、ほんとどうでもいいこと、
もっといえばアホなこと。
それでも、この「つまらぬ意地の張り合い」は、
オーディオマニアの聖域かもしれない。
なんらかの聖域をもつからこそ、オーディオは男の趣味。
つまらぬ意地の張り合い。
オーディオマニアでない人からすれば、ほんとどうでもいいこと、
もっといえばアホなこと。
それでも、この「つまらぬ意地の張り合い」は、
オーディオマニアの聖域かもしれない。
なんらかの聖域をもつからこそ、オーディオは男の趣味。
五味先生が「不運なタンノイ」で書かれていること。
オーディオは、まさしく男の趣味だな、と思わせる。
*
さてテレフンケンの音の輝きに恍惚とし、満足し、そのうちステレオが盛んとなるにつれ高音部に不満を見出すようになって、昨秋のヨーロッパ旅行でSABAを得た。
ミュンヘンに世界的に有名な博物館がある。エジソンの発明になる初期の蓄音機から最新のステレオ装置までが進歩の順次に展覧されている。その最新のステレオはテレフンケンではなくSABAだった。私は勇気と喜びをあらたにして日本へ着くであろうSABAへの期待に夢をふくらませた。
さて昨年暮にはるばる海を渡ってSABAはわが家に運び込まれた。それを聴いて、どんなに絶望したか。もう一つの新しいテレフンケンの装置は、工場のほうから、不備の点を発見して製造を中止した旨の連絡があった。私は怏々とたのしまなかった。いまひとつロンドンで聴いたデッカ《デコラ》は、テレフンケンがベンツならロールスロイスではあろう、しかし、これはS氏のもので、今さら同じものを取り寄せることは日本オーディオ界のパイオニアを自負する私の気持がゆるさない。人さまはいい音で満悦至極であるのに、私だけがなんでこうも不運なのか。私がどんな悪いことをしてきたというのか? 私は天を怨んだなあ。
*
デッカのデコラの素晴らしさを知り、認めながらも、それを購えることができても、
デコラは、すでに新潮社のS氏の愛器であるために、《気持がゆるさない》と。
求める音がデコラで得られるならば、それを買えるだけの財力があるのならば、
素直に買えばいいのに……、と思う人は、オーディオマニアではない。
傍からみれば、つまらぬ意地を張っているだけ──、
きっとそう見えるはずだ。
五味先生だけではない。
他の人も、そのはすだ。
瀬川先生は、これを《オーディオ・マニアに共通の心理だろう》と書かれている(「私とタンノイ」より)。
ほんとうにそうである。
意地の張り合いなんてしなければ、ずっと楽になれるのはわかっていても、
それでもオーディオは男の趣味だから……、やってしまう。
なにかのきっかけがあってなのか、ふと以前観た映画のシーンを部分的に思い出すことがある。
つい数日前も、そうだった。
思い出したのは(というよりも突然頭に浮んできたのは)、
「カールじいさんの空飛ぶ家」(原題:Up)である。
2009年の映画だ。
邦題は、アニメーション映画ということもあってのものか。
映画を観終れば、原題がUpであることが理解できる。
亡き妻との思い出がつまった家を風船で浮上させて旅に出る。
荒唐無稽な話と思われるだろうが、家ごとだから主人公のカールじいさんは旅に出る。
まだ観ていない人もいるだろうから、ストーリーについては触れないが、
クライマックス、ふたたび家ごと浮上するシーンがある。
グッと胸に来るものがある。
まさしく「Up」である。そこには別れもある。
数週間前からぼんやり考えているのは、
オーディオマニアの私にとっての「武器」はなんだろうか。
古い武器、新しい武器……。
新しい武器を手にするには、古い武器を捨て去ることが必要となるのなら、
その見極めが……。
そんなことを考えながら、映画「Up」がリンクしていくのでは、と感じている。
つきあいの長い音は、つきあいの長い音楽が生む心象があってこそ。
つきあいの長い音──、私にとってそれは、意外にもJBLなのかもしれない。
「オーディオ愛好家の五条件」、
ひとつひとつの項目について書くつもりは最初からない。
五条件を、どう読み、どう解釈するかは、その人次第であり、
私がどう読み、とう解釈したかを書きたいから、
このテーマで書き始めたわけではない。
「孤独な鳥の条件」という詩と、偶然出逢ったからだ。
*
孤独な鳥の条件は五つある
第一に孤独な鳥は最も高いところを飛ぶ
第二に孤独な鳥は同伴者にわずらわされずその同類にさえわずらわされない
第三に孤独な鳥は嘴を空に向ける
第四に孤独な鳥ははっきりした色をもたない
第五に孤独な鳥は非常にやさしくうたう
*
16世紀スペインの神秘主義詩人、サン・フアン・デ・ラ・クルスの詩である。
検索すれば、他の日本語訳も見つかる。
微妙にニュアンスが違う。
どれがいいとは書かない。
上に引用した訳は、たまたま私が最初に見た訳というだけである。
「孤独な鳥の条件」と出逢って、
「オーディオ愛好家の五条件」とは、そういうことだったか、と、
はじめて気づいたことがあった。
「オーディオ愛好家の五条件」における五味先生の言葉使いは、
人によっては不快、不愉快、さらには怒りをおぼえるという人もいよう。
五味先生はあらためていうまでもなく、プロの物書きだ。
物書き(職能家)だから、書いたこと(活字になって発表したこと)は、
すべて自分に返ってくることは百も承知で書かれている、と私は思っている。
その上で、あそこでの表現をされている。
五条件とあるし、一読わかりやすい内容のようにも思える。
けれど、この五条件について、これまで何人ものオーディオマニアと話してみると、
解釈は実に人さまざまだった。
「④真空管を愛すること。」でも、
どこをどう読めば、そんなふうに受け止められるのか、と不思議になるほど、
人はどこまでも独善的に読めるものだと感心できるほどの人もいた。
「⑤金のない口惜しさを痛感していること。」は、
五味先生自身、《少々、説明が舌たらず》と書かれている。
説明は舌たらずだが、ここにそういった説明はもういらないはずだ。
でも、そのためか、そうじゃないだろう、と声を大にしていいたくなることが何度かあった。
この人は、所詮、こういう読み方なのか、と思った。
この「金のない口惜しさを痛感していること」、
もうこの意味すら通じないのか、と落胆もした。
だから、その人との縁は切った(ともいえるし切れてしまった、ともいえる)。
そういうお前の解釈こそ、ずれているのではないか、
独りよがりなのではないか、そういわれてもいい。
私は私の読み方で読んできた、いまも読んでいる。
オーディオ愛好家の五条件の冒頭は、こうである。
*
オーディオ愛好家──たとえば本誌を購読する人たち──をそうでない人より私は信用する。〝信じる〟というのが誇大に過ぎるなら、好きである。しかし究極のところ、そうした不特定多数の音楽愛好家が喋々する〝音〟というものを私はいっさい信用しない。音について私が隔意なく語れる相手は、いま二人しかいない。その人とは、例えばハルモニア・ムンディ盤で聴くヘンデルの、こんどの〝コンチェルト・グロッソ〟(作品三)のオーボーの音はちょっと気にくわぬ、と言われれば、それがバロック当時の古楽器を使っている所為であるとか、コレギウム・アウレウムの演奏にしては弦の録音にいやな誇張が感じられるとか(コレギウム・アウレウム合奏団の弦楽器は、すべてガット弦を、古い調弦法で調弦して使っている)、そんな説明は何ひとつ聞かずとも私は納得するし、多分百人の批評家がコレギウム・アウレウム合奏団のこのレコードは素晴しい、と激賞しても「ちょっと気にくわぬ」その人の耳のほうを私は信じるだろう。
もちろん、彼と私とは音楽の聴き方もちがうし、感性もちがう。それが彼の印象を有無なく信じられるのは、つづめて言えば人間を信じるからだ。彼がレコード音楽に、オーディオに注いだ苦渋に満ちた愛と歳月の歴史を私は知っている。
*
《人間を信じるからだ》とある。
これにつきる。
信じられぬ相手に、オーディオの、音楽の何を語れるというのだろうか。
SNSの普及、そこでのオーディオについてのやりとりをながめていると、
この人たちは、五味先生のオーディオ愛好家の五条件を読んでいないのか、とおもう。
私が勝手にそうおもっているだけだ。
五味先生のオーディオ愛好家の五条件。
「①メーカー・ブランドを信用しないこと」では、
《音を出すのは器械ではなくその人のキャラクターだ。してみれば、メーカーブランドなど当てにはならない。各自のオーディオ愛好ぶりを推量する一資料にそれはすぎぬ、ということを痛切に経験したことのない人と私はオーディオを語ろうとは思わない。》
と書かれている。
「②ヒゲのこわさを知ること。」では、
《三百枚余の大事なレコードを私は所持するが、今、その一枚だってヒゲはないのをここに断言できる。レコードを、つまりは音楽をいかに大切に扱い、考えるかを端的に示すこれは一条項だろう。
したがって、一枚に何万円を投じてレコードを買おうとその人の勝手だが、ヒゲだらけの盤でパハマンやシュナーベルやカペーがいいとほざく手合いを、私は信用しないのだ。》
と書かれている。
「③ヒアリング・テストは、それ以上に測定器が羅列する数字は、いっさい信じるに足らぬことを肝に銘じて知っていること。」では、
《テストで比較できるのは、音の差なのである。和ではない。だが和を抜きにしてぼくらの耳は音の美を享受はできない。何にせよ、測定結果やヒアリング・テストを盲信する手合いとオーディオを語ろうとは私は思わないものだ。》
と書かれている。
「④真空管を愛すること。」では、
《真空管のよさを愛したことのない人にオーディオの何たるかを語ろうとは、私は思わない。》
と書かれている。
「⑤金のない口惜しさを痛感していること。」では、
《この時ほど、金がほしいと思ったことはない。金さえあれば四十九番のレコードが買える、それをいい音で聴ける……そんな意味からではない。どう言えばいいか、ハイドンの味わった貧しさが無性にこの時、私には応えたのだ。ハイドンの立場で金が欲しいと思った。矛盾しているようだが、彼が教えてくれた贅美のうちにある悲しみは、つまりは過去の彼の貧しさにつながっている。だからこそ美しく響くのだろうと私はおもう。
少々、説明が舌たらずだが、音も亦そのようなものではないのか。貧しさを知らぬ人に、貧乏の口惜しさを味わっていない人にどうして、オーディオ愛好家の苦心して出す美などわかるものか。美しい音色が創り出せようか?》
と書かれている。
オーディオ愛好家の五条件を、五味先生があげられている。
「オーディオ巡礼」でも読めるが、私は「五味オーディオ教室」で先に読んでいた。
①メーカー・ブランドを信用しないこと。
②ヒゲのこわさを知ること。
③ヒアリング・テストは、それ以上に測定器が羅列する数字は、いっさい信じるに足らぬことを肝に銘じて知っていること。
④真空管を愛すること。
⑤金のない口惜しさを痛感していること。
これはすぐに憶えた。
そこに書いてあった内容を含めて、憶えた。
②はLPに関することであっても、CDでも同じだ、と思っている。
CDプレーヤーにはアナログプレーヤーのようなスピンドルがないから、
ディスクにヒゲがつくことはない。
それでもトレイにディスクをセットする際、
ぞんざいに置けば、なんとなく音場がきれいに広がらなくなることがときおりある。
CD登場後、しばらくしていわれはじめたディスクの二回かけである。
CDプレーヤーのトレイのディスクを置く個所の形状、
クランパーの仕方、構造によって、二回かけしてもさほど変らないモデルも増えてきているが、
それでもゼロになっているとは思っていない。
同じディスクなのに、さきほどまでの鳴り方と微妙に何かが違うと感じることがなくなってはいない。
そういう時は、トレイを出してもう一度プレイボタンを押してみる。
100%、二回かけしたほうがいいと限らないが、それでも改善されることがあるのも事実だ。
私は、この二回かけがどちらかといえば嫌いで、そんなことをやりたくないから、
トレイにディスクを置く際は、LPにヒゲをつけないのと同じような感覚で扱っている。
17歳のときに、オーディオを仕事としよう、と決めた、と前回書いた。
実際にオーディオを仕事としていた時期がある。
けれどいまは、オーディオで収入を得ているわけではない。
なのに「仕事は?」ときかれると、
「オーディオマニア」とこたえるのが私だ。
川崎先生のことばを借りれば、商売屋か職能家であるか、だ。
オーディオで収入を得ていないから、商売屋ではない。
オーディオの商売屋ではない。
「仕事は?」ときかれ、「オーディオマニア」とこたえていたのは、
無意識のうちに、オーディオの職能家とおもわれたかったからなのだろう。
オーディオで収入を得ていた時期があり、そこから離れてずいぶん経つことで、
商売屋と職能家の違いについて、正しく捉えられるようになってきたのだろうか。
これから先「仕事は?」ときかれたら、
「(職能家としての)オーディオマニア」とこたえよう。
もちろん(職能家としての)のところは、口には出さなくとも、そうこたえよう。
オーディオは男の趣味、
さらにいえば迎合しない男の趣味である。
世田谷・砧に建てられた瀬川先生のリスニングルームにあったテーブルは、
EMTの930stの専用インシュレーター930-900の上にガラスの天板が置かれたものだった。
930-900を知らない人は、ちょっと変ったテーブルとしか思わないだろう。
930-900を知っている人は、その値段も知っているわけで、ニヤッとされるだろう。
マネしたいな、と思ったことがある。
トーレンスの101 Limitedを使っていたから、
930-900も持っていたけれど、テーブルの脚として使うわけにはいかなかった。
マネはしなかった、というよりマネできなかった。
それでも他のモノで同じことができないものか、と考えたことがある。
アルテックの604のことが浮んだ。すぐに浮んだ。
604の正面を上に向けて立てる。
604を安定させるために台座のようなモノは必要になると思うが、
604の上にガラスの天板を置く。
一本脚のガラスのテーブルになる。
心にかなった遊びのことを、勝遊ということを、
漢詩にうとい私はさきごろ知った。
名前に勝の字がつく私は、
オーディオはまさしく勝遊だと思ったし、
オーディオはまさしく男の趣味であることを、この勝遊があらわしているともおもった。
瀬川先生の「コンポーネントステレオをすすめ」は1970年代の本であり、
そこに書かれていることは、そのころの話であるわけだ。
約40年前のオープンリールデッキ、
それも30万円というのはたしかにかなりのぜいたくなテープデッキである。
HI-FI STEREO GUIDEの’74-’75年度版で、2トラ38の30万円くらいの製品となると、
アカイのGX400D PRO(275,000円)、ソニーのTC9000F-2(250,000円)、
ティアックのA7400(298,000円)、ルボックスのHS77 MKIII(320,000円)ぐらいしかなかった。
国産のオープンリールデッキの高級機でも15万円前後が主流である。
’76-’77年度版をみると、30万円くらいの2トラ38機は増えている。
それでも30万円のモデルは、ぜいたくなテープデッキであることにかわりはない。
スピーカーもなければアンプもアナログプレーヤーもなく、
オープンリールデッキとヘッドフォンだけ、というスタイル(スタート)は、
現在では、ポータブルオーディオにヘッドフォン(イヤフォン)が近いようにみえる。
ポータブルオーディオもヘッドフォン(イヤフォン)も、そうとうに高価なモノがある。
スピーカーをあえて持たず、ヘッドフォン(イヤフォン)だけで楽しむ人たちがいる。
40年前のオープンリールデッキが、ポータブルオーディオにかわっただけには、
私の目には見えない。
40年前のオープンリールデッキとヘッドフォンの大学生は、
次にアンプ、それからスピーカー、アナログプレーヤーと買い足していったはずだからだ。
アンプもスピーカーもアナログプレーヤーも、
約40年前の30万円のオープンリールデッキと同等のモノを選び、
それを目標にアルバイトでかせいでいったはずだ。
オープンリールデッキとヘッドフォンの世界だけで完結していない。