オーディオマニアとして(続グレン・グールドからの課題)
本項といえる「オーディオマニアとして」でも、
グレン・グールドの「録音は未来、演奏会の舞台は過去だった」を引用している。
グールドがいう「わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくこと」──、
この部分が落ち着いた静けさの心的状態だけでないこと、
その前に「わくわくする驚き」とあることが、
私にとっては、「録音は未来」へとつながっていく。
本項といえる「オーディオマニアとして」でも、
グレン・グールドの「録音は未来、演奏会の舞台は過去だった」を引用している。
グールドがいう「わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくこと」──、
この部分が落ち着いた静けさの心的状態だけでないこと、
その前に「わくわくする驚き」とあることが、
私にとっては、「録音は未来」へとつながっていく。
グレン・グールドの、この文章を引用するのは、これで三回目。
一回目は「快感か幸福か(その1)」、二回目は「ベートーヴェン(動的平衡・その4)」。
*
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。
*
濁った水がある。
水に混じってしまった不純物は、ゆっくりと水の底に沈殿していく。
水は透明度をとり戻していく、落ち着いた静けさの心的状態によって。
心も同じのはず。
落ち着いた静けさの心的状態では、まじってしまった不純物も底へと沈殿していく。
アドレナリンを瞬間的に射出してしまえば、不純物はまいあがり濁る。
わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくために、
オーディオの働きを借りるのがオーディオマニアではないのか。
グールドは、積極的な意味で使っている、とことわったうえで、
美的ナルシシズムの諸要素を評価するようになってきている、としている。
美的ナルシシズム、美的ナルシシズムの諸要素。
オーディオではナルシシズムは決していい意味では使われない。
ナルシシズム、ナルシシスト。
これらが音について語るとき使われるのは、いい意味であったことはない。
オーディオマニアとしての美的ナルシシズム、
自分自身の神性の創造、
グールドからのオーディオマニアへの課題だと私は受けとっている。
音のカンヅメは、
クヮェトロ氏が胸のポケットのようなものからとり出したピカピカ光る箱のようなものと同じである。
われわれ人間にはまったく理解できない理論で、音を封じ込め(記録)、解放(再生)する。
ケーブルもいらない、電源もいらない。
つまり、そんな細かなことに悩まされることなく、
そして聴き手が何も苦労することなく、最上の記録と再生を手に入れられる。
おとぎ話のような、魔法のような、そんな箱(カンヅメ)で音楽を聴くようになったら、
私はどう思うのか。
そうなってしまったら、私でも「録音は未来で、演奏会の舞台は過去だった」とは思わなくなる、はずだ。
少なくとも「録音は未来」ということはいわなくなるような気がする。
私がなぜ「録音は未来」と考えるのかは、現在のオーディオのメカニズムと大いに関係している。
こんな複雑なシステムで聴いていて、つねにいい音で、と思いつづけているからこそ、「録音は未来」となる。
つまりオーディオマニアとして再生するからこそ、「録音は未来」であって、
魔法のような音のカンヅメから、何もしないで、いい音が鳴ってきたら、もう録音は未来ではなくなってしまう。
それはそれで素晴らしいとは思っても、そこにはオーディオマニアの私はもう存在しなくなる。
いままでとはまったく異る次元の理論が発見されて、
文字通りの音楽を封じ込める、いわゆる音のカンヅメが可能になったとしよう。
そのカンヅメのフタを開ければ、たちどころに音楽が部屋いっぱいに鳴り響く。
しかも、音量、スケール感を除けば、演奏会で聴いた音(聴ける音)がそのまま鳴っている。
同じような架空の話は瀬川先生書かれている。
「虚構世界の狩人」所収の「聴感だけを頼りに……」の冒頭がそうだ。
そこには「X星からUFOに乗っていま私の目の前に飛んできた、ミスター・クヮェトロ氏」が登場する。
クヮェトロ氏に、ステレオのメカニズムを電気的、物理的に説明する。
アナログディスクでもいい、コンパクトディスクでもいい、
どうやって音を記憶し音が鳴るのか、
プレーヤーの仕組み、アンプの仕組み、スピーカーの仕組みなどすべてを事細かに説明する。
これは大変なことだし、ていねいに説明しようとすればするほど、
われわれはいかに複雑な機構で録音し、それを再生しているのかをあらためて実感できる。
クヮェトロ氏は、長々とした説明をきくはめになる。
そして、瀬川先生はこう続けられている。
*
「というような次第なんですがね、クヮェトロさん。こういう仕掛のメカニズムで、たとえば私の声を録音・再生したら、いったいどの程度忠実に再現できると思いますか」
するとクヮェトロ氏、しばらく首をひねっていたが、やおら胸のポケットのあたりから何やらピカピカ光る箱のようなものをとり出した。(中略)
ところでそのピカピカ光る箱、だが、これもわれわれに身近な例でいえば小型の手帳か電卓ぐらいの大きさで、しかしこれまた見たこともない素材で、アルミニウムよりは深い光沢で、ステンレスよりは冷たく硬い材質のようで、しかし彼が何やらあちこち押したりしているのをみると金属にしてはエラスティックな感じがして何とも奇妙だか、しかし話はさっきの、私が地球上のステレオ録・再装置の話をして、それでたとえば私の声がどの程度の忠実さで再現できると思うか、と質問したところに戻る。
するとその箱をいじりまわしていたQ氏の手もとから、何と驚いたことに、いま長々と説明していた私の声が、気味悪いぐらいそっくりに再生されてきたではないか! そしてQ氏はニヤリと笑って言ったのである。
「もしかしてこの声よりももう少し忠実かもしれませんが、それにしてはお話の装置は複雑すぎますね」
*
地球に住む人類とはまったく異る知的生命体にとっては、
現在のオーディオのメカニズムは、あまりにも複雑で、滑稽なものにみえるのかもしれない。
われわれは、そういうシステムで、音楽を聴いている。
オーディオマニアは、録音されたものを聴く。
たまにライヴ放送を聴くことはあっても、ほぼすべて録音されたものを聴いている、といえる。
録音されたものは、最新録音のものであれ、数ヵ月から一年ほど前に録音されているわけで、
つまりは過去の演奏といえなくもない。
それに最新録音ばかりを聴いているわけではない。
もっと前に録音されたものも聴く。
十年前の録音、二十年前の録音、三十年前の録音……、
さらにもっと古い録音も聴く。そうなってくるとステレオ録音ではなくモノーラル録音になり、
モノーラル録音でもテープ録音もあればディスク録音もあり、
電気を使わなかったアクースティック録音の復刻まで聴いている。
そうなってくると百年ほど前の録音ということになる。
数ヵ月前の録音ですら過去というふうに捉えるのであれば、
五十年、百年近く前の録音となると、過去というより大昔というふうに捉える人がいても不思議ではない。
録音された音楽を、いまでもカンヅメ音楽と軽視する人がいる。
まるでナマのコンサートで演奏される音楽とはべつものであるかのように蔑視する。
そういう人は、こうもいう。
自分らはコンサートで、現在の音楽を聴いている、
オーディオマニア(に限らず録音物で聴く人)が聴いているのは、すべて過去の演奏だ、と。
たしかに録音された日時は、現在からすれば過去である。
数ヵ月前であろうと十年前であろうと過去である。
録音されたものも、過去といえるのだろうか。
グレン・グールドがたしかいっていた。
グールドの感覚として、録音は未来で、演奏会の舞台は過去だった、と。
音の世界、オーディオの世界では、美しさは移ろいやすさ、美しいは移ろいやすいのであるのなら、
幻想をそこに抱くのは、むしろ自然な行為なのかもしれない──、ともおもう。
幻想そのものをもってしまうこと、幻想に身をおくことも、
オーディオマニアとしての資質として必要なことなのかもしれない。
幻想があるからこそ理想もある、とはいえないだろうか。
私も幻想を、これまでもってきたことがある。
いまもなにがしかの幻想が、心のどこかにひそんでいるかもしれない。
幻想とはまったく無縁のオーディオをやってきているとは、いえない。
30年ほど前、永遠の価値をもつオーディオ機器について話し合い、考えていたことがある。
永遠とまでいかなくとも、永続する価値をもつオーディオ機器で、システムを構築したい、とさえ思っていた。
幻想は、和英辞書によれば、a fantasy (夢); an illusion (誤った希望); a vision (視覚的な)、とある。
使わずに保管しておけば新品のままであり続ける──、というのは、あきらかに an illusion だ。
誤った希望である。
なぜ人は、誤った希望を持ってしまうのか。
どこで、なぜ誤ってしまったのか。
そして、誤った希望に騙されてしまうことがあるのか。
オーディオマニアだから──、
これがその答なのかもしれない。
CDプレーヤーは、そう遠くない将来なくなってしまうんじゃないか、といわれる。
そうかもしれない。
細々と残っていてくのかもしれない。
なくなってしまうと心配している人は、いまのうちに気に入ったCDプレーヤーを、
その時ための呼びとして確保しておかなければならない、という人もいるときく。
その気持、わからないわけではないが、
予備としてもう一台、CDプレーヤーを購入したとして、
その人は箱に入れたまま、その時がくるまで保管しておくのだろうか。
それともいま持っているCDプレーヤーと交互に使っていくのだろうか。
旧いアンプを使っている人は、そのアンプに使われているパーツ、
それも未使用品を故障した時のために保管している人がいる。
この気持もわかる。
けれどどちらの場合も、ただ保管しておくだけでは、CDプレーヤーもパーツも劣化していく。
元箱に入れたまま保管しておけば、外観はきれいなままだが、肝心の中身はどうか。
もちろん中身もきれいなままである。
きれいなままであれば、性能が劣化していないのであればいいのだが、そんなことはない。
使わずに保管していても、どんなものであれ劣化していく。
トランジスターも同じだ。
リード線のところから湿気が内部に入り込んでいく。
保管という点に関しては、実はトランジスター、半導体よりも真空管のほうが長持ちする。
この点に関しては半導体の技術者に確かめたことがある。
技術者もまった同じ意見だった。
ただ保管しておくだけだったら真空管のほうが、まだいい、と。
半導体は、特に古いトランジスターは湿気の影響を受けている場合がある。
もちろん、古い、製造中止になっているトランジスターのすべてがダメになっているわけではないが、
使わずに大事に保管しておけば、新品のままを維持できる、というのは幻想でしかない。
「オーディオマニアは、いつも装置をいじってばかりいる」。
こんなふうな厭味をいわれることがある。
確かにいじっている時間は短くない。
ステレオサウンドで働いていたころは、仕事でオーディオをいじっていて、
帰宅後、今度の自分のシステムをいじる、そんなことを飽きずによくやっていた。
いじっている時間は、ときには長いこともある。
私も20代のそんなころからすれば、あまりいじらなくなっている、ともいえるが、
それでも徹底的にいじることに集中する時期は、いまでもある。
そういう時期を過ぎれば、ほとんどいじることなく聴いているだけの時期が続き、
またしばらくすると、なにのかきっかけがあろうとなかろうと、いじる時期に移行する。
なぜ、オーディオマニアはいじるのか。
音を良くしたいから、ということになっている。
最近、ほんとうにそうだろうか、とも思うようになってきた。
何度か書いているように、オーディオ機器は劣化する。
どんなに大切に扱っていたとしても、劣化は絶対不可避の現象である。
このことを強く意識している、していないに関係なく、
オーディオマニアは、このことを感じているからこそ、
オーディオマニアでない人よりもいじる傾向にあるのではないか。
つまり音を悪くしないために、いじっている。
「ぼくは音ではなく音楽を聴いている」、
「オーディオマニアは音楽ではなく音を聴いている」、
「ナマの演奏こそが最上のものであり、録音されたものは……」、
他にもあれこれ、こういったことは書き連ねることはできるけど、
バカらしくなってくるので、このへんでいいだろう。
オーディオマニアならば、それも熱心なオーディオマニアならば、
こういったことを直接いわれたり、暗に云われたりした経験があるかもしれない。
オーディオに凝っている人の中にも、「音ではなく音楽を聴いている」という人はいる。
音を聴く、音楽を聴く、
このふたつの違いは、いったいどういうものなのか。
音ではなく音楽を聴く、ということは果してできることなのか。
「音ではなく音楽を聴く」ということは、いったいどういうことですか、
とその人に訊いてみたくなることはない。
オーディオマニアを侮蔑する表現として、「音楽ではなく音を聴いている」があるわけだが、
どんな人であれ、聴いているのは音、というより、空気の疎密波である。
この空気の疎密波を耳が感知して、脳が音として認識している。
人間の耳とはまったく異る器官をもつ生物がいたとしたら、
空気の疎密波を音ではなく視覚情報として認識することだってあるはず。
「音ではなく音楽を聴いている」と主張する人でも、
つまりオーディオ(録音・再生という系)を、
音楽の副次的なもの、隷属的なものとして受けとっている人でも、空気の疎密波を聴いていることに変りはない。
心地よい温度の湯につかっていると、ぼんやりできる。
ぼんやりしているのが好きだから、風呂にはいっているのかもしれない。
電車に乗っていても、iPhoneを見ているときもあるが、ぼんやりしている時間のほうが長い。
ひとりで風呂につかっているとき、ひとりで電車に乗っているときぐらいは、
ぼんやりしていてもいいじゃないか、と思うほどに、ぼんやりしている時間が好きである。
ぼんやりしていると、考えることよりもなんとなく思ってしまう。
二年に一度くらい、そのぼんやりした時間におもうことのひとつに、
オーディオに興味を持たなかったら……、ということがある。
中学二年のときに「五味オーディオ教室」を読んだ。
もし「五味オーディオ教室」と出逢っていなければ、教師になっていたと思う。
父は、中学の英語の教師をやっていた。
母は口に出していわなかったけれど、長男の私には、教師になってほしかったようだ。
なんとなくだけど、母の気持はわかっていたし、
中学のころは本気で理科の教師になたたい、と思っていた。
理科の授業がおもしろかったし、中学のときの理科の先生もいい先生だったことも影響している。
単に教室で生徒に授業をするだけが教師の仕事ではないことは、
父を見ていてわかっていた。
いろいろ大変なこともあるのはわかっていた。
それでも、教師という仕事は面白いだろうな、と思っていた。
それが「五味オーディオ教室」と出逢い、オーディオに急速にのめり込んでいく。
それでも中学三年くらいまでは、教師を目指そうとしていた。
でも高校に入り、ますますオーディオの熱は高くなるばかり。
結局、教師になることはどこかへと消えてしまっていた。
「五味オーディオ教室」に出逢わない人生ではなかったわけだから、こうなってしまったわけだが、
それでも教師になっていたら、生れ故郷の熊本から離れることなく暮らしていた、はず。
音楽は聴いていただろう。
多少はいい音で聴いているのかもしれない。
でも、audio sharingをつくることもなかったはず。
twitterもやっていないと思う。
facebookは、twitter以上にやらない、といえる。
ましてfacebookにaudio sharingという非公開のグループをつくるなんてことは、絶対にやらなかった。
このブログにしても、そうだ。
オーディオをやっていなければ、やっていない。
ぼんやりしていたい男なのだから。
湯につかりながらぼんやりしているときに、そんなことを思っている。
何をやっているんだろうな……、とも思う。
でも、facebookグループのaudio sharingに参加している人同士で知合いになられているのをみると、
少しは人様のお役に立っているんだな、ともおもっている。