Archive for category オーディオマニア

Date: 8月 15th, 2014
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(その4)

音の世界、オーディオの世界では、美しさは移ろいやすさ、美しいは移ろいやすいのであるのなら、
幻想をそこに抱くのは、むしろ自然な行為なのかもしれない──、ともおもう。

幻想そのものをもってしまうこと、幻想に身をおくことも、
オーディオマニアとしての資質として必要なことなのかもしれない。

幻想があるからこそ理想もある、とはいえないだろうか。

私も幻想を、これまでもってきたことがある。
いまもなにがしかの幻想が、心のどこかにひそんでいるかもしれない。
幻想とはまったく無縁のオーディオをやってきているとは、いえない。

30年ほど前、永遠の価値をもつオーディオ機器について話し合い、考えていたことがある。
永遠とまでいかなくとも、永続する価値をもつオーディオ機器で、システムを構築したい、とさえ思っていた。

幻想は、和英辞書によれば、a fantasy (夢); an illusion (誤った希望); a vision (視覚的な)、とある。

使わずに保管しておけば新品のままであり続ける──、というのは、あきらかに an illusion だ。
誤った希望である。

なぜ人は、誤った希望を持ってしまうのか。
どこで、なぜ誤ってしまったのか。
そして、誤った希望に騙されてしまうことがあるのか。

オーディオマニアだから──、
これがその答なのかもしれない。

Date: 8月 14th, 2014
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(その3)

CDプレーヤーは、そう遠くない将来なくなってしまうんじゃないか、といわれる。
そうかもしれない。
細々と残っていてくのかもしれない。

なくなってしまうと心配している人は、いまのうちに気に入ったCDプレーヤーを、
その時ための呼びとして確保しておかなければならない、という人もいるときく。

その気持、わからないわけではないが、
予備としてもう一台、CDプレーヤーを購入したとして、
その人は箱に入れたまま、その時がくるまで保管しておくのだろうか。
それともいま持っているCDプレーヤーと交互に使っていくのだろうか。

旧いアンプを使っている人は、そのアンプに使われているパーツ、
それも未使用品を故障した時のために保管している人がいる。
この気持もわかる。

けれどどちらの場合も、ただ保管しておくだけでは、CDプレーヤーもパーツも劣化していく。
元箱に入れたまま保管しておけば、外観はきれいなままだが、肝心の中身はどうか。
もちろん中身もきれいなままである。
きれいなままであれば、性能が劣化していないのであればいいのだが、そんなことはない。

使わずに保管していても、どんなものであれ劣化していく。
トランジスターも同じだ。

リード線のところから湿気が内部に入り込んでいく。
保管という点に関しては、実はトランジスター、半導体よりも真空管のほうが長持ちする。
この点に関しては半導体の技術者に確かめたことがある。

技術者もまった同じ意見だった。
ただ保管しておくだけだったら真空管のほうが、まだいい、と。
半導体は、特に古いトランジスターは湿気の影響を受けている場合がある。
もちろん、古い、製造中止になっているトランジスターのすべてがダメになっているわけではないが、
使わずに大事に保管しておけば、新品のままを維持できる、というのは幻想でしかない。

Date: 8月 10th, 2014
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(その2)

「オーディオマニアは、いつも装置をいじってばかりいる」。
こんなふうな厭味をいわれることがある。

確かにいじっている時間は短くない。
ステレオサウンドで働いていたころは、仕事でオーディオをいじっていて、
帰宅後、今度の自分のシステムをいじる、そんなことを飽きずによくやっていた。

いじっている時間は、ときには長いこともある。
私も20代のそんなころからすれば、あまりいじらなくなっている、ともいえるが、
それでも徹底的にいじることに集中する時期は、いまでもある。

そういう時期を過ぎれば、ほとんどいじることなく聴いているだけの時期が続き、
またしばらくすると、なにのかきっかけがあろうとなかろうと、いじる時期に移行する。

なぜ、オーディオマニアはいじるのか。

音を良くしたいから、ということになっている。
最近、ほんとうにそうだろうか、とも思うようになってきた。

何度か書いているように、オーディオ機器は劣化する。
どんなに大切に扱っていたとしても、劣化は絶対不可避の現象である。

このことを強く意識している、していないに関係なく、
オーディオマニアは、このことを感じているからこそ、
オーディオマニアでない人よりもいじる傾向にあるのではないか。

つまり音を悪くしないために、いじっている。

Date: 2月 20th, 2014
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(その1)

「ぼくは音ではなく音楽を聴いている」、
「オーディオマニアは音楽ではなく音を聴いている」、
「ナマの演奏こそが最上のものであり、録音されたものは……」、
他にもあれこれ、こういったことは書き連ねることはできるけど、
バカらしくなってくるので、このへんでいいだろう。

オーディオマニアならば、それも熱心なオーディオマニアならば、
こういったことを直接いわれたり、暗に云われたりした経験があるかもしれない。

オーディオに凝っている人の中にも、「音ではなく音楽を聴いている」という人はいる。

音を聴く、音楽を聴く、
このふたつの違いは、いったいどういうものなのか。
音ではなく音楽を聴く、ということは果してできることなのか。

「音ではなく音楽を聴く」ということは、いったいどういうことですか、
とその人に訊いてみたくなることはない。

オーディオマニアを侮蔑する表現として、「音楽ではなく音を聴いている」があるわけだが、
どんな人であれ、聴いているのは音、というより、空気の疎密波である。

この空気の疎密波を耳が感知して、脳が音として認識している。
人間の耳とはまったく異る器官をもつ生物がいたとしたら、
空気の疎密波を音ではなく視覚情報として認識することだってあるはず。

「音ではなく音楽を聴いている」と主張する人でも、
つまりオーディオ(録音・再生という系)を、
音楽の副次的なもの、隷属的なものとして受けとっている人でも、空気の疎密波を聴いていることに変りはない。

Date: 8月 14th, 2013
Cate: オーディオマニア

ただ、ぼんやりと……選ばなかった途をおもう(その1)

心地よい温度の湯につかっていると、ぼんやりできる。
ぼんやりしているのが好きだから、風呂にはいっているのかもしれない。
電車に乗っていても、iPhoneを見ているときもあるが、ぼんやりしている時間のほうが長い。

ひとりで風呂につかっているとき、ひとりで電車に乗っているときぐらいは、
ぼんやりしていてもいいじゃないか、と思うほどに、ぼんやりしている時間が好きである。

ぼんやりしていると、考えることよりもなんとなく思ってしまう。
二年に一度くらい、そのぼんやりした時間におもうことのひとつに、
オーディオに興味を持たなかったら……、ということがある。

中学二年のときに「五味オーディオ教室」を読んだ。
もし「五味オーディオ教室」と出逢っていなければ、教師になっていたと思う。

父は、中学の英語の教師をやっていた。
母は口に出していわなかったけれど、長男の私には、教師になってほしかったようだ。
なんとなくだけど、母の気持はわかっていたし、
中学のころは本気で理科の教師になたたい、と思っていた。

理科の授業がおもしろかったし、中学のときの理科の先生もいい先生だったことも影響している。
単に教室で生徒に授業をするだけが教師の仕事ではないことは、
父を見ていてわかっていた。

いろいろ大変なこともあるのはわかっていた。
それでも、教師という仕事は面白いだろうな、と思っていた。

それが「五味オーディオ教室」と出逢い、オーディオに急速にのめり込んでいく。
それでも中学三年くらいまでは、教師を目指そうとしていた。
でも高校に入り、ますますオーディオの熱は高くなるばかり。
結局、教師になることはどこかへと消えてしまっていた。

「五味オーディオ教室」に出逢わない人生ではなかったわけだから、こうなってしまったわけだが、
それでも教師になっていたら、生れ故郷の熊本から離れることなく暮らしていた、はず。

音楽は聴いていただろう。
多少はいい音で聴いているのかもしれない。
でも、audio sharingをつくることもなかったはず。
twitterもやっていないと思う。
facebookは、twitter以上にやらない、といえる。

ましてfacebookにaudio sharingという非公開のグループをつくるなんてことは、絶対にやらなかった。
このブログにしても、そうだ。
オーディオをやっていなければ、やっていない。

ぼんやりしていたい男なのだから。

湯につかりながらぼんやりしているときに、そんなことを思っている。

何をやっているんだろうな……、とも思う。
でも、facebookグループのaudio sharingに参加している人同士で知合いになられているのをみると、
少しは人様のお役に立っているんだな、ともおもっている。