つきあいの長い音(その2)
つきあいの長い音を持たない人は、持てなかったのか持たなかったのか。
つきあいの長い音を持たない人は、持てなかったのか持たなかったのか。
つきあいの長い音を持つ人と持たない人がいる。
オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ、とおもう。
オーディオマニアの覚悟にするか、オーディオマニアとしての覚悟にするか、
そこで迷いながら書き始めている。
タイトルを思いついただけで書き始めた。
オーディオマニアに覚悟が求められるのか、必要であるのか──、
オーディオマニアの覚悟、オーディオマニアとしての覚悟、
そんなこと、覚悟なんて考えるのはオーディオを大袈裟に考え過ぎとする人にとっては、
オーディオマニアの覚悟は、どうでもいいことになる。
オーディオマニアの覚悟とは、どういうものなのか。
まだなんともいえない。
まず浮んだのはグレン・グールドがコンサート・ドロップアウトするとき、覚悟があったのかなかったのか。
覚悟がなければ、コンサート・ドロップアウトはできなかったのではないか。
オーディオマニアの覚悟、なんなのだろうか。
録音されたモノを再生する、という行為で、
高城重躬氏の行為と、市販されているプログラムソースを購入して鳴らす、という私を含めての一般的な行為、
このふたつの行為の違いはなんなのか。
別項「ハイ・フィデリティ再考」の(その29)で書いたことをくり返すことになる。
High Fidelity ReproductionかHigh Fidelity Play backの違いである。
High Fidelity Reproductionは、誰かがどこかで録音したプログラムソースを鳴らす行為であり、
High Fidelity Play backは、高城氏がやられていた行為である。
この考えが一般的がどうかはわからないが、私はそう考えている。
グレン・グールドがいうところの「感覚として、録音は未来で、演奏会の舞台は過去だった」、
録音は未来であるためには、reproductionでなければならない。
reproduction(リプロダクション)には、High Fidelity ReproductionとGood Reproductionとがある。
1950年代にイギリスの音響界で、ハイ・フィデリティについて討論がなされていたころ出て来た概念が、
Good Reproduction(グッド・リプロダクション)であり、
最近のステレオサウンドで、ハイ・フィデリティとグッド・リプロダクションの扱われ方には、
いくつかいいたくなるけれど、ここでは控えておこう。
録音の対象であるスタインウェイが置かれた部屋での再生。
そこでほぼナマのスタインウェイの音と判断がつかないレベルの音が出たとしても、
スタインウェイのピアノを、その場から出した状態で、もう一度再生してみたらどうなるか。
ずいぶん違う印象の音になることはまちがいない。
スタインウェイのピアノが置かれた状態では、
ナマのスタインウェイの音と再生音との区別がはっきりとわからなかった人でも、
スタインウェイのピアノがなくなってしまった状態では、わかる人も出てくるはず。
このことで高城重躬氏が追求されていた「原音再生」を否定はしないし、できもしない。
ピアノがあることの、再生音への影響は高城重躬氏もよくわかっておられたであろうし、
あくまでも高城氏のリスニングルーム(スタインウェイのピアノが置かれた部屋)という、
非常に限られた条件下での原音再生であるのだから。
高城氏がLPも再生されていたのは知っている。
重量級のターンテーブルプラッターを、
オープンリールデッキのモーターを流用しての糸ドライヴという手法を、かなり昔からやられていた。
けれど高城氏の著書を読むかぎりでは、あくまでも音の追求ということに関しては、
LPで、ということではなく、自身で録音されたスタインウェイの音である。
高城氏がオーディオ、音について書かれたものを読む際に忘れてはならないのは、このことである。
とはいえいったん録音したものの再生であることには、レコード再生も自宅録音の再生も変りはない。
たとえば同じ部屋をふたつつくり、片方の部屋にはスタインウェイのピアノ、
もう片方にオーディオのシステムを置く。
ピアノの音うマイクロフォンで拾い、録音せずにそのまま隣の部屋のオーディオで鳴らす。
これでそっくりの音が出るように追求する、という原音再生の手法も考えられる。
けれど高城氏はそうではない。いったん録音されている。
高城重躬氏の録音も、その音も聴いたことがない。
高城氏の自宅録音の音がどのレベルにあるのかは、だから何もいえない。
ただ高城氏が書かれていることを信じれば、かなりのレベルにあった、ということになる。
納得できないわけではない。
その理由は、録音と再生が完全に同一空間であることが、まずあげられる。
次に録音の対象物であるスタインウェイのピアノも、また同一空間にあるからだ。
高城氏にとっての原音再生とは、市販のプログラムソースを再生してのものではなく、
あくまでも自身のリスニングルームにおいて録音し再生するという条件での原音再生だと、私は受けとめている。
市販のプログラムソースが、どういう環境で再生されるのかは、実に多彩だ。
再生システムもみな異るし、再生空間の広さも、どんなに広い空間であって、まずホールよりも小さい。
録音スタジオ(といっても大小さまざまだが)の広さなら、
ほぼ同じ大きさの空間を確保できる人はいよう。
そういう空間でも、再生する音量はまた人によって違う。
ナマの楽器のリアリティを感じるほどの音量を求める人もいれば、
それだけの音量が出せる環境にいても、小音量も好む人もいる。
こんなことをひとつひとつ書いていけばきりがないほどに、再生の環境は違いすぎる。
だが高城氏の録音は、再生空間が同一空間であり、
おそらく再生音量もスタインウェイのピアノと同じになるようにされているとみていいはず。
しかも、そこにはスタインウェイのピアノが、再生の時にも置かれている。
高城氏の原音再生が、再生時にはスタインウェイのピアノがリスニングルームの外に出されるのであれば、
実際に高城氏のリスニングルームで鳴っていた音との違いは生じる。
リスニングルームに楽器があれば、良くも悪くも、その楽器の音・響きが再生音に影響を与える。
高城重躬氏という人がいた。
若い人は知らないだろうが、私が「五味オーディオ教室」を読んだころは、
低音コンクリートホーンをベースにしたオールホーンシステムを構築したことで知られていた。
私よりも古いオーディオマニアの人なら、五味先生との論争を読まれている。
私が「五味オーディオ教室」と出逢ったころは、その野論争は終熄していたが、
それでもなにかあったんだろうな、ということは伝わってきていた。
高城重躬氏はオールホーンシステムだけでなく、
リスニングルームにスタインウェイのグランドピアノをいれられていることでも知られている。
このスタインウェイを録音して、その場で再生して、という意味での原音再生を目指されていた。
スタインウェイだけではない。
鈴虫の鳴き声を録音して、スピーカーユニットであるゴトーユニットの改良にも関係されていた。
高城重躬氏がやられていたオーディオは、
五味先生がやられていたオーディオとは異るところがある。
五味先生は自分で録音した音源を再生されているわけではない。
誰かがどこかで録音したものを、自分のリスニングルームで再生することに血道をあげられていた。
高城重躬氏ももちろん市販されているソフトも聴かれていたであろうが、
少なくとも高城氏が書かれた文章を読むかぎりでは、音の改良に使われるのは、自身で録音されたものである。
だから、五味先生と高城氏、ふたりの立っているところは、同じオーディオという言葉で括れる範囲であっても、
ずいぶんと違うところである。
ずっと以前から、ワンポイント・マイクロフォンによる録音こそが、最良の録音方式である──、
特にクラシックに関心をもつ人のあいだでは信じられてきた(いる)。
ワンポイント・マイクロフォンによる録音は、クラシックではいつの時代でも試みられてきている。
エーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」は、
もっとも早い時期に行なわれたワンポイント・マイクロフォンによるステレオ録音だし、
プロプリウス・レーベルのカンターテ・ドミノは、もっとも有名なワンポイント・マイクロフォンによる録音である。
優れたワンポイント・マイクロフォンによる録音は、たしかに素晴らしい出来である。
エーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」は50年以上前の録音とは俄に信じられないほどの出来だし、
カンターテ・ドミノは、ルボックスのオープンリールデッキA77で録られたとは思えない。
理屈で考えてもワンポイント・マイクロフォンでうまくいけば、理想的ともいいたくなる録音のやり方である。
優秀なマイクロフォンと優秀なテープデッキを揃えれば、
さらにマイクロフォン・ケーブルにも凝って、できるだけ短い長さのケーブルにして……、
そんないかにもオーディオマニア的なやり方をそこに加えれば、さらにいい音で録れるかというと、
まずそんなことは起りえない。
そう考えている人は、録音を、その場で鳴っている音をそのまま録ることだと思っているのだろう。
だか、どんなに優れたマイクロフォンとテープデッキを用意したところで、
これから先どんなにそれらの性能が向上したとしても、あくまでも録れるのは、
その場で鳴っている音ではなく、録音する人が聴いている音なのだ。
このことを勘違いしてしまった人が、
安易に(短絡的に)ワンポイント・マイクロフォンで録音したものを聴かされたのだった。
その録音を「いいでしょう」という人もいた。
私はそうは思えなかった。
ここで考えたいのは、録音にも「未来」と呼べるものとそうでないものがあるということだ。
現在の録音方式、
つまりマイクロフォンがとらえた空気の疎密波を電気信号に変換して、
さらにテープレコーダーであれば磁気に変換して記録する。
この方式と、私が架空の話としての音のカンヅメの録音との大きな違いは、
どこにあるかというと、方式そのものの違いではなく、
われわれが耳にしている録音は、演奏が行なわれた場で鳴っていた音を録っているのではない。
あくまでも、われわれがLP、CDなどで聴いているのは、
演奏が行なわれた場で鳴っていた音を、録音する者が聴いた音である、ということである。
瀬川先生が書かれた、クヮェトロ氏が取り出したピカピカ光る箱のようなもの、
私が書いた音のカンヅメが記録しているのは、そこで鳴っていた音をそのまま記録する。
聴いた音、鳴っていた音。
いまのところ、鳴っていた音を録ることは不可能である。
だからこそ、録音エンジニアが聴いた音を録る、ということに意図的にも結果的にもそうなってしまう。
以前、あるオーディオマニアが録ったピアノのCDを聴いたことがある。
ワンポイント・マイクロフォンによる録音である。
はっきりいって、ひどい録音だった。
なぜ、ひどいのか。
その録音を手がけたオーディオマニアは、そこで鳴っていた音を録ろう、としていたからである。
本項といえる「オーディオマニアとして」でも、
グレン・グールドの「録音は未来、演奏会の舞台は過去だった」を引用している。
グールドがいう「わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくこと」──、
この部分が落ち着いた静けさの心的状態だけでないこと、
その前に「わくわくする驚き」とあることが、
私にとっては、「録音は未来」へとつながっていく。
グレン・グールドの、この文章を引用するのは、これで三回目。
一回目は「快感か幸福か(その1)」、二回目は「ベートーヴェン(動的平衡・その4)」。
*
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。
*
濁った水がある。
水に混じってしまった不純物は、ゆっくりと水の底に沈殿していく。
水は透明度をとり戻していく、落ち着いた静けさの心的状態によって。
心も同じのはず。
落ち着いた静けさの心的状態では、まじってしまった不純物も底へと沈殿していく。
アドレナリンを瞬間的に射出してしまえば、不純物はまいあがり濁る。
わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくために、
オーディオの働きを借りるのがオーディオマニアではないのか。
グールドは、積極的な意味で使っている、とことわったうえで、
美的ナルシシズムの諸要素を評価するようになってきている、としている。
美的ナルシシズム、美的ナルシシズムの諸要素。
オーディオではナルシシズムは決していい意味では使われない。
ナルシシズム、ナルシシスト。
これらが音について語るとき使われるのは、いい意味であったことはない。
オーディオマニアとしての美的ナルシシズム、
自分自身の神性の創造、
グールドからのオーディオマニアへの課題だと私は受けとっている。
音のカンヅメは、
クヮェトロ氏が胸のポケットのようなものからとり出したピカピカ光る箱のようなものと同じである。
われわれ人間にはまったく理解できない理論で、音を封じ込め(記録)、解放(再生)する。
ケーブルもいらない、電源もいらない。
つまり、そんな細かなことに悩まされることなく、
そして聴き手が何も苦労することなく、最上の記録と再生を手に入れられる。
おとぎ話のような、魔法のような、そんな箱(カンヅメ)で音楽を聴くようになったら、
私はどう思うのか。
そうなってしまったら、私でも「録音は未来で、演奏会の舞台は過去だった」とは思わなくなる、はずだ。
少なくとも「録音は未来」ということはいわなくなるような気がする。
私がなぜ「録音は未来」と考えるのかは、現在のオーディオのメカニズムと大いに関係している。
こんな複雑なシステムで聴いていて、つねにいい音で、と思いつづけているからこそ、「録音は未来」となる。
つまりオーディオマニアとして再生するからこそ、「録音は未来」であって、
魔法のような音のカンヅメから、何もしないで、いい音が鳴ってきたら、もう録音は未来ではなくなってしまう。
それはそれで素晴らしいとは思っても、そこにはオーディオマニアの私はもう存在しなくなる。
いままでとはまったく異る次元の理論が発見されて、
文字通りの音楽を封じ込める、いわゆる音のカンヅメが可能になったとしよう。
そのカンヅメのフタを開ければ、たちどころに音楽が部屋いっぱいに鳴り響く。
しかも、音量、スケール感を除けば、演奏会で聴いた音(聴ける音)がそのまま鳴っている。
同じような架空の話は瀬川先生書かれている。
「虚構世界の狩人」所収の「聴感だけを頼りに……」の冒頭がそうだ。
そこには「X星からUFOに乗っていま私の目の前に飛んできた、ミスター・クヮェトロ氏」が登場する。
クヮェトロ氏に、ステレオのメカニズムを電気的、物理的に説明する。
アナログディスクでもいい、コンパクトディスクでもいい、
どうやって音を記憶し音が鳴るのか、
プレーヤーの仕組み、アンプの仕組み、スピーカーの仕組みなどすべてを事細かに説明する。
これは大変なことだし、ていねいに説明しようとすればするほど、
われわれはいかに複雑な機構で録音し、それを再生しているのかをあらためて実感できる。
クヮェトロ氏は、長々とした説明をきくはめになる。
そして、瀬川先生はこう続けられている。
*
「というような次第なんですがね、クヮェトロさん。こういう仕掛のメカニズムで、たとえば私の声を録音・再生したら、いったいどの程度忠実に再現できると思いますか」
するとクヮェトロ氏、しばらく首をひねっていたが、やおら胸のポケットのあたりから何やらピカピカ光る箱のようなものをとり出した。(中略)
ところでそのピカピカ光る箱、だが、これもわれわれに身近な例でいえば小型の手帳か電卓ぐらいの大きさで、しかしこれまた見たこともない素材で、アルミニウムよりは深い光沢で、ステンレスよりは冷たく硬い材質のようで、しかし彼が何やらあちこち押したりしているのをみると金属にしてはエラスティックな感じがして何とも奇妙だか、しかし話はさっきの、私が地球上のステレオ録・再装置の話をして、それでたとえば私の声がどの程度の忠実さで再現できると思うか、と質問したところに戻る。
するとその箱をいじりまわしていたQ氏の手もとから、何と驚いたことに、いま長々と説明していた私の声が、気味悪いぐらいそっくりに再生されてきたではないか! そしてQ氏はニヤリと笑って言ったのである。
「もしかしてこの声よりももう少し忠実かもしれませんが、それにしてはお話の装置は複雑すぎますね」
*
地球に住む人類とはまったく異る知的生命体にとっては、
現在のオーディオのメカニズムは、あまりにも複雑で、滑稽なものにみえるのかもしれない。
われわれは、そういうシステムで、音楽を聴いている。
オーディオマニアは、録音されたものを聴く。
たまにライヴ放送を聴くことはあっても、ほぼすべて録音されたものを聴いている、といえる。
録音されたものは、最新録音のものであれ、数ヵ月から一年ほど前に録音されているわけで、
つまりは過去の演奏といえなくもない。
それに最新録音ばかりを聴いているわけではない。
もっと前に録音されたものも聴く。
十年前の録音、二十年前の録音、三十年前の録音……、
さらにもっと古い録音も聴く。そうなってくるとステレオ録音ではなくモノーラル録音になり、
モノーラル録音でもテープ録音もあればディスク録音もあり、
電気を使わなかったアクースティック録音の復刻まで聴いている。
そうなってくると百年ほど前の録音ということになる。
数ヵ月前の録音ですら過去というふうに捉えるのであれば、
五十年、百年近く前の録音となると、過去というより大昔というふうに捉える人がいても不思議ではない。
録音された音楽を、いまでもカンヅメ音楽と軽視する人がいる。
まるでナマのコンサートで演奏される音楽とはべつものであるかのように蔑視する。
そういう人は、こうもいう。
自分らはコンサートで、現在の音楽を聴いている、
オーディオマニア(に限らず録音物で聴く人)が聴いているのは、すべて過去の演奏だ、と。
たしかに録音された日時は、現在からすれば過去である。
数ヵ月前であろうと十年前であろうと過去である。
録音されたものも、過去といえるのだろうか。
グレン・グールドがたしかいっていた。
グールドの感覚として、録音は未来で、演奏会の舞台は過去だった、と。