Archive for category オーディオマニア

Date: 6月 10th, 2015
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(ブラック・ジャックを読んでいて……)

手塚治虫のブラック・ジャックに、こんなセリフがある。

《手術もせずにほうってある きず口を見るのは がまんできないんだよ》
「のろわれた手術(オペ)」より

ブラッグ・ジャックは少年チャンピオンに連載されているのを読んでいた。
だから、このセリフも連載時に読んでいる。
そのころは、まだオーディオマニアではなかった。

いまオーディオマニアとして、このブラック・ジャックをセリフに出あって、
はっとした。気づかされたことがあった。

オーディオマニアは、自分のシステムから出る音を良くしようとする。
それは好きな音楽を少しでもいい音で聴きたいがためである。

でも、それだけではないことに、ブラック・ジャックのセリフを読んで気づかされた。
《手術もせずにほうってある きず口を見るのは がまんできないんだよ》という、
ブラック・ジャックと同じ気持があることに。

Date: 6月 4th, 2015
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(その呼称・その3)

いまオーディオ評論家と名乗っている人・そう呼ばれている人もまた、
オーディオ評論家とHi−Fi評論家がいる、と私は思っている。

ここでのHi−Fiの定義は、高城重躬氏をHi−Fiマニアと呼ぶのとは違ってくるけれども。

Date: 6月 1st, 2015
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(その呼称・その2)

あくまでも私のなかでの、ということわりをつけてではあるが、
五味先生はオーディオマニア、
高城重躬氏はHi−Fiマニア、
となる。

Date: 6月 1st, 2015
Cate: オーディオマニア, オーディスト

オーディオマニアとして(その呼称・その1)

何者か、と問われれば、オーディオマニアと答える。

いまはオーディオマニアといっているけれど、
ずいぶん昔には音キチという呼称もあった。
オーディオマニアの「マニア」の部分を嫌う人はオーディオファイルを使ったりする。
レコード演奏家という呼称もある。

ほんの一時期ではあるが、ステレオサウンド誌上に「オーディスト」なる呼称も登場した。
幸いにもいまでは使われなくなっている。
オーディストについては、別項で書いているのでそちらをお読みいただきたい。

誰がどんな呼称を気に入って使おうと他人があれこれいうことではない。
オーディスト以外であれば。

私はオーディオマニアを使う。
音キチと呼ばれてもいいと思っている。
けれど、だからといってHi−Fiマニアと呼ばれるのは抵抗を感じる。

オーディオに関心のない人、もしかすると関心をもっている人でも、
オーディオマニアとHi−Fiマニアは呼び方の違いだけで同じと思っているだろうが、
私の中ではオーディオマニアとHi−Fiマニアは、同じところはあってもはっきりと違うところもある。
だから、あくまでも私はオーディオマニアである。

Date: 5月 27th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その6)

つきあいの長い音の中に、瀬川先生にとってマークレビンソンは含まれないような気がする。

Date: 5月 27th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その5)

つきあいの長い音──、瀬川先生のそれはEMTでありJBL、そしてKEF(LS5/1A)である。

Date: 5月 25th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その4)

つきあいの長い音とは、自分の感覚に馴染んでいるということ。

Date: 5月 22nd, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その3)

つきあいの長い音を持つ人が得られるのは、安心感だけではない。

Date: 5月 21st, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その2)

つきあいの長い音を持たない人は、持てなかったのか持たなかったのか。

Date: 5月 20th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その1)

つきあいの長い音を持つ人と持たない人がいる。

Date: 1月 6th, 2015
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(圧倒的であれ・その1)

オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ、とおもう。

Date: 11月 18th, 2014
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアの覚悟(その1)

オーディオマニアの覚悟にするか、オーディオマニアとしての覚悟にするか、
そこで迷いながら書き始めている。
タイトルを思いついただけで書き始めた。

オーディオマニアに覚悟が求められるのか、必要であるのか──、
オーディオマニアの覚悟、オーディオマニアとしての覚悟、
そんなこと、覚悟なんて考えるのはオーディオを大袈裟に考え過ぎとする人にとっては、
オーディオマニアの覚悟は、どうでもいいことになる。

オーディオマニアの覚悟とは、どういうものなのか。
まだなんともいえない。

まず浮んだのはグレン・グールドがコンサート・ドロップアウトするとき、覚悟があったのかなかったのか。
覚悟がなければ、コンサート・ドロップアウトはできなかったのではないか。

オーディオマニアの覚悟、なんなのだろうか。

Date: 10月 29th, 2014
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(その13)

録音されたモノを再生する、という行為で、
高城重躬氏の行為と、市販されているプログラムソースを購入して鳴らす、という私を含めての一般的な行為、
このふたつの行為の違いはなんなのか。

別項「ハイ・フィデリティ再考」の(その29)で書いたことをくり返すことになる。

High Fidelity ReproductionかHigh Fidelity Play backの違いである。
High Fidelity Reproductionは、誰かがどこかで録音したプログラムソースを鳴らす行為であり、
High Fidelity Play backは、高城氏がやられていた行為である。

この考えが一般的がどうかはわからないが、私はそう考えている。
グレン・グールドがいうところの「感覚として、録音は未来で、演奏会の舞台は過去だった」、
録音は未来であるためには、reproductionでなければならない。

reproduction(リプロダクション)には、High Fidelity ReproductionとGood Reproductionとがある。
1950年代にイギリスの音響界で、ハイ・フィデリティについて討論がなされていたころ出て来た概念が、
Good Reproduction(グッド・リプロダクション)であり、
最近のステレオサウンドで、ハイ・フィデリティとグッド・リプロダクションの扱われ方には、
いくつかいいたくなるけれど、ここでは控えておこう。

Date: 10月 29th, 2014
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(その12)

録音の対象であるスタインウェイが置かれた部屋での再生。
そこでほぼナマのスタインウェイの音と判断がつかないレベルの音が出たとしても、
スタインウェイのピアノを、その場から出した状態で、もう一度再生してみたらどうなるか。

ずいぶん違う印象の音になることはまちがいない。
スタインウェイのピアノが置かれた状態では、
ナマのスタインウェイの音と再生音との区別がはっきりとわからなかった人でも、
スタインウェイのピアノがなくなってしまった状態では、わかる人も出てくるはず。

このことで高城重躬氏が追求されていた「原音再生」を否定はしないし、できもしない。
ピアノがあることの、再生音への影響は高城重躬氏もよくわかっておられたであろうし、
あくまでも高城氏のリスニングルーム(スタインウェイのピアノが置かれた部屋)という、
非常に限られた条件下での原音再生であるのだから。

高城氏がLPも再生されていたのは知っている。
重量級のターンテーブルプラッターを、
オープンリールデッキのモーターを流用しての糸ドライヴという手法を、かなり昔からやられていた。

けれど高城氏の著書を読むかぎりでは、あくまでも音の追求ということに関しては、
LPで、ということではなく、自身で録音されたスタインウェイの音である。

高城氏がオーディオ、音について書かれたものを読む際に忘れてはならないのは、このことである。
とはいえいったん録音したものの再生であることには、レコード再生も自宅録音の再生も変りはない。

たとえば同じ部屋をふたつつくり、片方の部屋にはスタインウェイのピアノ、
もう片方にオーディオのシステムを置く。

ピアノの音うマイクロフォンで拾い、録音せずにそのまま隣の部屋のオーディオで鳴らす。
これでそっくりの音が出るように追求する、という原音再生の手法も考えられる。
けれど高城氏はそうではない。いったん録音されている。

Date: 9月 22nd, 2014
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(その11)

高城重躬氏の録音も、その音も聴いたことがない。
高城氏の自宅録音の音がどのレベルにあるのかは、だから何もいえない。

ただ高城氏が書かれていることを信じれば、かなりのレベルにあった、ということになる。
納得できないわけではない。

その理由は、録音と再生が完全に同一空間であることが、まずあげられる。
次に録音の対象物であるスタインウェイのピアノも、また同一空間にあるからだ。

高城氏にとっての原音再生とは、市販のプログラムソースを再生してのものではなく、
あくまでも自身のリスニングルームにおいて録音し再生するという条件での原音再生だと、私は受けとめている。

市販のプログラムソースが、どういう環境で再生されるのかは、実に多彩だ。
再生システムもみな異るし、再生空間の広さも、どんなに広い空間であって、まずホールよりも小さい。

録音スタジオ(といっても大小さまざまだが)の広さなら、
ほぼ同じ大きさの空間を確保できる人はいよう。

そういう空間でも、再生する音量はまた人によって違う。
ナマの楽器のリアリティを感じるほどの音量を求める人もいれば、
それだけの音量が出せる環境にいても、小音量も好む人もいる。

こんなことをひとつひとつ書いていけばきりがないほどに、再生の環境は違いすぎる。
だが高城氏の録音は、再生空間が同一空間であり、
おそらく再生音量もスタインウェイのピアノと同じになるようにされているとみていいはず。

しかも、そこにはスタインウェイのピアノが、再生の時にも置かれている。
高城氏の原音再生が、再生時にはスタインウェイのピアノがリスニングルームの外に出されるのであれば、
実際に高城氏のリスニングルームで鳴っていた音との違いは生じる。

リスニングルームに楽器があれば、良くも悪くも、その楽器の音・響きが再生音に影響を与える。