Archive for category 作曲家
ベートーヴェンの「第九」(その18)
《人は幸せになるために生まれてきたのではない。自らの運命を成就するために生まれてきたのだ》
ロマン・ロランがベートーヴェンをモデルとしたといわれている「ジャン・クリストフ」に出てくる。
「歓喜の歌」の歓喜とは、そういうことなのか、とも思う。
ベートーヴェンの「第九」(その17)
これからなされていく「第九」の録音で、私が聴きたいと思う演奏(指揮者)は、
もう現れてこないかもしれない──、そんな予感とともに、
パブロ・カザルス指揮のベートーヴェンの「第九」は聴きたい。
どうしても聴きたい。
録音は残っている、という話は聞いている。
ほんとうなのかどうかはわからない。
残っているのであれば、たとえひどい録音であろうと、カザルスの「第九」はぜひとも聴きたい。
カザルスの第七交響曲を聴いて、打ちのめされた。
第八交響曲もよく聴く。
第七、第八と続けて聴くこともある。
続けて聴くと「第九」を聴きたいという気持は高まる。
どうしようもなく高まっていく。
それはカザルスの演奏だから、いっそうそうなるともいえる。
カザルスのベートーヴェンの交響曲を聴いていると、
「細部に神は宿る」とは、このことだと確信できる。
カザルスとマールボロ管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲は、
細部まで磨き抜かれたという演奏ではない。
むしろ逆の演奏でもある。
なのに「細部に神は宿る」は心底からそう思うのは、
細部までカザルスゆえの「意志」が貫かれているからだ。
細部まで熱いからだ、ともいえる。
音が停滞することがない。
すべての音が、次の音を生み出す力をもっている、と感じるから、
カザルスのベートーヴェンを聴いて、
「細部に神は宿る」とはまさしくこの演奏のことだと自分自身にいいきかせている。
ベートーヴェンの「第九」(その16)
ジュリーニ/ベルリンフィルハーモニーのあとも、「第九」の新譜は聴いてきた。
すべてを聴いていたわけではない。
聴きたいと思った指揮者の「第九」は聴いてきた。
けれど2011年のリッカルド・シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、
2012年になって輸入盤が入ってきたクリスティアン・ティーレマン/ウィーンフィルハーモニー、
これ以降なされた録音の「第九」を聴いていない。
ベートーヴェンの「第九」を聴いてみたいという指揮者がいないというのが、
シャイー、ティーレマンで留っている理由である。
聴いてみたい、と心が動かない。
そうなってしまったのは、老化なのだろうか、とも思う。
このまま、新しく録音された「第九」を聴かずに、
いままで聴いてきた「第九」をくり返し聴いていくのだろうか。
ベートーヴェンの「第九」(その15)
(その9)で引用した五味先生の文章を、もう一度読んでほしい。
*
ベートーヴェンのやさしさは、再生音を優美にしないと断じてわからぬ性質のものだと今は言える。以前にも多少そんな感じは抱いたが、更めて知った。ベートーヴェンに飽きが来るならそれは再生装置が至らぬからだ。ベートーヴェンはシューベルトなんかよりずっと、かなしい位やさしい人である。後期の作品はそうである。ゲーテの言う、粗暴で荒々しいベートーヴェンしか聴こえて来ないなら、断言する、演奏か、装置がわるい。
(「エリートのための音楽」より)
*
ソニーのポーダブルCDの音は、決して優美な音ではなかった。
安っぽい音といってはいいすぎだが、価格相当の音でしかなかった。
それでもジュリーニの「第九」に涙した。
ソニーのポータブルCDの音は、優美な再生音ではなかったけれど、
それまでの私は、優美な再生音を出そう、優美な再生音でベートーヴェンを聴きたい、
その一心でオーディオをやってきた。
優美な再生音が出せていたのかよりも、
出そうとつとめてきた日々があったからこそ、といえる。
だから音楽を聴いてきてよかった、
ベートーヴェンを聴いてきてよかった、とともに、
オーディオをやってきてよかった、ともおもっていた。
ベートーヴェンの「第九」(その14)
ベートーヴェンの前に出ていた、ウィーンフィルハーモニーとのブラームスも素晴らしかった。
だからベルリンフィルハーモニーとのベートーヴェンも期待していた。
期待していたからこそ、無理をしてでもCDと聴くためのポータブルCDを購った。
ソニーのポータブルCDだった。
質屋にあったくらいだから最新機種でもなく、普及クラスの型落ちモデルである。
どんな音なのかはまったく期待していなかったし、その通りの音しかしてこなかった。
それでも、聴いていて涙がとまらなかった。
男は成人したら、涙を流していいのは感動したときだけだ、と決めていた。
つらかろうが、くやしかろうが、涙は流さないのが大人の男だと思っていた。
こんなにも涙は出るものか、と思うほどだった。
一楽章がおわり、二楽章、三楽章と聴いて、四楽章。
バリトンの独唱がはじまると、もっと涙が出た。
大切なもの、大事にしてきたものがほとんどなくなってしまった狭い部屋で、
ひとりでいた。ひとりできいていた。
音楽を聴いてきてよかった、と思った。
ベートーヴェンを聴いてきてよかった、とも思っていた。
ベートーヴェンの「第九」(その13)
1990年8月に左膝を骨折した。
一ヵ月半ほど入院していた。
真夏に入院して、退院するころは秋だった。
退院したからといって病院と縁が切れるわけではなく、
リハビリテーションがあるから毎日通院していた。
骨折して脚が一時的ではあるが不自由になると、
健康なころには気づかないことが多々在ることを知らされる。
普段何気なく歩いているのはどこにも故障がないからである。
片膝が曲らないだけで、歩き難さを感じる。
道の断面が平らではないから、端を歩くのが大変だし、
歩道に電柱があったりする。
そういう歩道に限って狭いのだから、電柱をよけるのもいやになる。
階段もそうだ。
昇るのが大変だと思われがちだが、昇りはゆっくり進めばいいだけで、
怖いのは降りである。
昇りのエスカレーターはあっても、降りのエスカレーターはない駅が大半だった。
なぜ? と思う。
リハビリに通い始めのころは歩くのも遅かった。
高齢の方に追い越されもした。
そんな日々が一ヵ月以上続いた。
リハビリから戻ってきても、部屋には何もなかった。
音楽を鳴らすシステムが何もなかった。
それでもリハビリからの帰り道、ジュリーニ/ベルリンフィルハーモニーの「第九」の新譜をみかけた。
聴きたい、と思った。
といっても聴くシステムがないから、
当時住んでいた西荻窪駅近くの質屋でポータブルCDがあったのを買った。
(その6)で書いたことを、また書いているのは、
この時のジュリーニの「第九」は不意打ちだったからだ。
ジュリーニの「第九」だから買った。
期待して聴いた。
それでも不意打ちのような感動におそわれた。
そのときの私は、仕事をしていなかった。
ひとりでいた。
リハビリだけの日々。
日常生活を送っていた、
とはいえ、みじめな生活といえばそうである。
どことなく社会から取り残され隔離されているように感じていたのかもしれない。
ポータブルCDだから付属のイヤフォンで聴いた。
少し大きめの音で聴いた。
妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その22)
BBCモニターのLS3/5Aは好きなスピーカーである。
いまも好きなスピーカーといえる。
私にとってのLS3/5Aとは、ロジャース製の15ΩインピーダンスのLS3/5Aである。
そのLS3/5Aを初めて聴いた時から、
この音のまま、サイズが大きくなってくれたら……、
そんな無理なことを考えたし、LS3/5Aと共通する音色を聴かせてくれるスピーカーが登場すると、
これはLS3/5Aの延長線上にあるスピーカーかどうかを判断するようになっていた。
メリディアンのM20。
LS3/5Aと同じ口径のウーファーを上下二発配し、中間にトゥイーター。
ユニットのそのものはLS3/5Aのそれと近い。
M20はパワーアンプを内蔵していたアクティヴ型だった。
専用スタンド(脚)が最初からついていた。
M20をメリディアンのCDプレーヤーと接いで鳴ってきた音には、ころっとまいってしまった。
私には、LS3/5Aの延長線上にはっきりとあるスピーカーと感じた。
LS3/5Aよりも音量も出せるし、その分スケールもある。
反面、小さなスケールから感じる精度の高さはやや薄れたように感じても、
音色は共通するところがあり、この種の音色に当時の私は弱かった。
M20はずいぶん迷った。
買いたい、と本気で考えていた。
買っておけばよかったかな、と思ったこともある。
その後、数多くのスピーカーが登場し、そのすべてを聴いたわけではないが、
めぼしいモノは聴いてきた。
LS3/5A、M20、ふたつのスピーカーがつくる線上に位置するスピーカーは、
私にとってはひさしく登場しなかった。
同じLS3/5AとM20がつくる線上であっても、
人によって感じる良さは共通しながらも違ってくるだろうから、
あのスピーカーは延長線上にある、という人がいても、
私にとってはベーゼンドルファーのVC7まではなかった。
VC7を初めて聴いた時、LS3/5A、M20の延長線上にある。
しかもずいぶん時間がかかったおかげか、
LS3/5AとM20の距離よりもずっと離れた位置にVC7はいるように感じた。
ヨッフムのマタイ受難曲(その3)
クラシックをながいこと聴いてきた聴き手で、
マタイ受難曲を聴いたことがない、ということはまずないと思う。
もしそういう人がいたら、怠惰な聴き手といってもいい。
他の作曲家の、他の曲でもいいのだが、
マタイ受難曲は、その聴き手が誰の演奏で聴いているのかは、
聴き手の、人となりを語っている、と思ってきた。
今回瀬川先生もヨッフムのマタイ受難曲、ということを聞いて、
その感を深くした。
クラシックという音楽のジャンルには、膨大な曲がある。
マタイ受難曲がどれほど傑作であっても、膨大な数の中のひとつでしかない。
それにも関わらず、たった一曲で相手(聴き手)の人となりを決めつけるのか。
それこそが間違った行為だ、といわれても、
私はそう感じているし、そう思っている。
ブルックナーのよさもわからぬ聴き手のいうことなど、
阿呆臭くて聞いてられない、と思われてもいい。
他の作曲家の、他の曲で感じたことが同じであっても、
マタイ受難曲において、まるで違うのであれば、
結局のところは、表現する言葉が同じだけでしかない……、
そんなふうにも思えてしまう。
私がどうしてもいいとは感じない演奏によるマタイ受難曲を、ある人は絶賛する。
私にもすすめてきた。
その時から、ここに書いていることを思ってきている。
ヨッフムのマタイ受難曲(その2)
瀬川先生は、どこかにマタイ受難曲について書かれているのだろうか。
いまのところ、私は見つけ出せずにいる。
マタイ受難曲を聴かれていた──、
そう信じていた。
誰の指揮で聴かれていたのか。
リヒターなのか、カラヤンなのか、クレンペラーなのか……。
それを知りたいと、秘かに思っていた。
もしかすると……、というところはあった。
ヨッフムかもしれない……、と思うところはあった。
「虚構世界の狩人」におさめられている「夢の中のレクイエム」で書かれている。
*
最後にどうしても「レクイエム」について書かないわけにはゆかないが、誰に何と言われても私は、カラヤンのあの、悪魔的に妖しい官能美に魅せられ放しでいることを告白せずにはいられない。この演奏にはそして、ぞっとするような深淵が隠されている。ただし私はふつう、ラクリモサまでしか、つまり第一面の終りまでしか聴かないのだが。
そのせいだろうか、もう何年も前たった一度だが、夢の中でとびきり美しいレクイエムを聴いたことがある。どこかの教会の聖堂の下で、柱の陰からミサに列席していた。「キリエ」からそれは異常な美しさに満ちていて、そのうちに私は、こんな美しい演奏ってあるだろうか、こんなに浄化された音楽があっていいのだろうかという気持になり、泪がとめどなく流れ始めたが、やがてラクリモサの終りで目がさめて、恥ずかしい話だが枕がぐっしょり濡れていた。現実の演奏で、あんなに美しい音はついに聴けないが、しかし夢の中でミサに参列したのは、おそらく、ウィーンの聖シュテファン教会でのミサの実況を収めたヨッフム盤の影響ではないかと、いまにして思う。一九五五年十二月二日の録音だからステレオではないが、モーツァルトを追悼してのミサであるだけにそれは厳粛をきわめ、冒頭の鐘の音からすでに身の凍るような思いのするすごいレコードだ。カラヤンとは別の意味で大切にしているレコードである(独アルヒーフARC3048/49)。
*
だからヨッフムかもしれない……、とずっと思い続けてきた。
モーツァルトのレクイエムとバッハのマタイ受難曲とは同じにできないことはわかっていても、
それでもヨッフムかもしれない……、となぜ思い続けてこられたのか、
自分でも不思議に思っていた。
先日、あるオーディオマニアの方と話していた時に、
瀬川先生もヨッフムのマタイ受難曲だった、ということを聞くことができた。
ここから新たに考えることが始まる。
マーラーの第九(Heart of Darkness・その4)
音は空気をともなう。
つねに空気をともなう。
空気があるから、われわれは音を聴くことができるわけだから、
当り前すぎることを書いているのはわかっている。
それでも、こういうことを書いているのは、
いわゆる音の違いは、この空気がどれだけ、そしてどのように音についてくることに、
深く関係しているように感じている。
音に空気がついてくる、ともいえるし、音が空気を巻き込む、ともいえる。
よく「低音の量感が……」という。
スピーカーによって変るのは当然だとしても、
低域特性がフラットなアンプによっても、量感は変ってくる。
このへんのことも、音にどれだけ空気がついてくるに関係しているように思っている。
音楽も、また同じように感じることがある。
空気をいっぱいつれてくる音楽もあれば、
空気をいっぱいつれてくる演奏もある。
ブルックナーを「長い」と感じてしまうのは、
私の場合、どうもこのことと無関係ではないようなのだ。
マーラーの音楽(ひとつひとつの音)がつれてくる空気は、多い。
多いがゆうえに濃い。
もちろんそうでないマーラーの演奏もある。そんなマーラーの演奏を、私はいいとは感じない。
ブルックナーだと、曲の構成に対して、音がつれてくる空気が足りないような気がする。
その足りない分を、何かで増している。
だから水増しして聴こえるのかもしれないし、「長い」と感じるのかもしれない。
マーラーの第九(Heart of Darkness・その3)
誰の演奏(指揮)で聴くのかは大事なことだ。
だからブルックナーも、長いと感じながらも゛何人かの指揮者の演奏を聴いた。
私がいたころのステレオサウンドのオーディオ評論家では、
長島先生がブルックナーをお好きだった。
「長くないですか」、そんなことを長島先生にぶつけたことがある。
「若いなぁ」と返された。
シューリヒトのブルックナーを教えてくださった。
もちろん買った。
あのころは国内盤LPしかなかったと記憶している。
20代前半ということもあったのか、それでも長い、と感じた。
ジュリーニのブルックナーも、もちろん聴いている。
フルトヴェングラーでも聴いているし、あと数人聴いている。
あのころとしては新譜だったシノーポリのブルックナーも聴いた。
シノーポリのブルックナーに関しては、ちょど来日していたこともあり、
サントリーホールに聴きに行った。
それでもブルックナーに感じる水増ししたような長さを、
私の中からなくすことはできなかった。
マーラーも凡庸な指揮者とオーケストラの、凡庸な演奏な演奏を聴いたら、
長い、と思うかもしれない。
以前にも書いているように、もうインバルのマーラーは聴かない。
さんざんステレオサウンドの試聴室で聴いたのが、その大きな理由である。
インバル指揮のマーラーの第四と第五は、数えきれないほど聴いた。
あのころのインバルのマーラーは、フランクフルト放送交響楽団とだった。
いま東京都交響楽団とのSACDが出ている。
オーディオ的な関心で聴いてみたい気がまったくないわけではない。
それにフランクフルト放送交響楽団との第五では、
補助マイクなしのワンポイントマイクだけの録音もCDになっているから、
そういう聴き比べという意味では、まったく関心がないとはいわない。
でもそういうことを抜きにして、聴いてみたいとは思わない。
そんなこともあってインバルのマーラーは、第一、第四と第五だけしか聴いていない。
第九は聴いていない。聴いたら、長いと感じるのか。
感じたとして、その「長い」はブルックナーの交響曲に対しての「長い」と同じなのか。
完全に同じではないにしても、何か共通するものがあるとも感じている。
マーラーの第九(Heart of Darkness・余談)
昨夜の最後にかけたカルロ・マリア・ジュリーニのマーラーの第九。
タワーレコードがSACDとして9月に発売するというニュースが、今日あった。
昨夜も、これがSACDだったら、いったいどんな鳴り方・響き方になるのだろうか。
この音楽が、どう聴き手であるこちらに迫ってくるのか。
それを考えずにはいられなかった。
一夜明けたら、SACDのニュース。
すごいタイミングである。
喫茶茶会記には、いまのところSACDプレーヤーはないけれど、
来年の新月のどこかで、また「新月に聴くマーラー」をやりたいと思ってしまった。
そのときにはなんとかSACDプレーヤーを用意しておきたい。
そして最後にかけるのは、やはりジュリーニの第九、第四楽章である。
ジュリーニのマーラーだけでなく、
キリル・コンドラシンのシェエラザードもSACDになる。
マーラーの第九(Heart of Darkness・その2)
長いといえば、ブルックナーの交響曲も長い。
こんなことを書いたら、ブルックナーの熱心な聴き手の方から、
お前はブルックナーがわかっていない、お前の理解できないところに良さがある、
などといわれそうだが、私はブルックナーを長いと感じてしまう。
五味先生の表現を借りれば、水増ししていると感じる。
だから長いと感じてしまう。
歳をとれば感じ方も変ってくるのか、と思っていたけれど、
50を過ぎたいまもそう感じてしまう。
私は、ブルックナーのほんとうの良さを味わうことなく終ってしまうかもしれない。
でも、そのことに何かを感じている、というわけではない。
そういう音楽の聴き方をしてきた結果であるし、
むしろブルックナーを長いと感じてしまうことに関心がある。
知人にカラヤンのブルックナーを絶賛する男がいる。
でも彼はマーラーをほとんど聴かない。
カラヤンにはベルリンフィルハーモニーとの1982年のライヴ録音のマーラーの第九が残っている。
カラヤンは’79年から’80年にかけてドイツ・グラモフォンにスタジオ録音している。
にも関わらず、わずかの間に、ドイツ・グラモフォンから、マーラーの第九が登場した。
スタジオ録音とライヴ録音の違いはあるにしても、
これだけの大作のレコードをわずかの期間のあいだにリリースしたということは、
それだけの演奏だということであり、カラヤンの1982年のマーラーの第九は、
カラヤンに対して否定的なところをもつ聴き手であっても、黙らせてしまうであろう。
カラヤンの残したもののなかでも、屈指の名盤であると思っているし、
多くのカラヤンの熱心な聴き手がそうであるとも思っていた。
知人はカラヤンの熱心な聴き手である。
にも関わらず、彼の口から、このマーラーの第九については、まったく出てこなかった。
マーラーの第九(Heart of Darkness・その1)
8月3日のaudio sharing例会の最後に鳴らしたマーラーの第九は、
私が初めて聴いたマーラーの第九であるカルロ・マリア・ジュリーニ指揮のものだ。
マーラーの第九が長い曲なのは知っていた。
LPは二枚組だった。
ジャケット裏の解説の演奏時間を見ても、長いのは誰にでもわかる。
マーラーの第九は、ながい。
物理的な時間の長さではなく、ながい作品である。
マーラーの他の交響曲で感じられることだが、
ふつうの作曲家ではここで終るだろう、と思える旋律のあとに、
また(というかまだ)続いていく。
マーラーの第九では、特にそれを顕著に感じる。
ジュリーニの演奏で初めてマーラーの第九を聴いたときにも、そう感じた。
ここで終りではないのか……、まだ続くのか。
その続いた旋律も終りの兆しをみせたかと思うと、
またまた続いていく。どこまで続くのだろうか……、と思いながら聴いていた。
特に第四楽章のアダージョでは、何度そう思ったことだろう。
もしジュリーニの演奏でなかったら、途中で針を上げていたかもしれないくらいに続いていく。
マーラーの最後の音楽が、ひたひたと迫ってくる。
ジュリーニ指揮シカゴ交響楽団による第九は、まさしく大きな音楽が聴き手にひたひたと迫ってくる。
逃れられないのは、わかっている。
聴き続けるしかない。そういう凄い演奏であり、音楽であると思うとともに、
だからながいのかとも思ってしまう。