音を聴くということ(ギーゼキングの言葉)
ワルター・ギーゼキングが「ピアノとともに」(白水社刊・杉浦博訳)で語っている。
*
なんらかのとくべつな指や手の運び方に、美しい音が出る原因をさがそうとするのはむだなことだと思うのである。わたしの確信によれば、響きの美しい演奏法習得の唯一の道は、聴覚の体系的な訓練である。
*
聴覚の訓練、それも体系的な訓練。
オーディオにおいても、まったく同じだといえる。
ワルター・ギーゼキングが「ピアノとともに」(白水社刊・杉浦博訳)で語っている。
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なんらかのとくべつな指や手の運び方に、美しい音が出る原因をさがそうとするのはむだなことだと思うのである。わたしの確信によれば、響きの美しい演奏法習得の唯一の道は、聴覚の体系的な訓練である。
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聴覚の訓練、それも体系的な訓練。
オーディオにおいても、まったく同じだといえる。
菅野先生が、優れたヘッドフォンを「感覚の逸脱のブレーキ」と表現されていた。
確かに、そうだと思う。
車にも、私が趣味としている自転車にもブレーキがついている。
信頼できるブレーキがついているからこそ、スピードを出せるし、ある安心がある。
もし自転車にブレーキがついてなかったり、極端に効きが悪い状態だったら、
そんな自転車には乗りたくないし、仮に乗ったとしてものろのろと乗るしかない。
オーディオは車や自転車とは違う。
ブレーキがなくとも、支障はないといえばそういえる。
それでもアンプのレベルコントロール(ボリュウム)は、
アクセルでもあるが、ある種のブレーキの役目ももつ。
音量を極端に上げすぎた──、
これも「感覚の逸脱」、小さな逸脱といえよう。
だから上げすぎたと感じたら、サッと下げる。
ほとんど無意識に使っている「ブレーキ」だが、
意識的な「ブレーキ」には、ヘッドフォンのほかに何があるだろうか。
ステレオサウンドにいたころ、菅野先生から聞いた話がある。
菅野先生ご自身の話である。
ある時期、音というものがわからなくなった。
それでラジカセを買いに行かれたそうだ。
オーディオ評論家として顔も名も知られているから、デパートに行って買ってきたよ、
と笑いながら話されていた。
そのときも、さすがだな、と思っていたけれど、
いまのほうが、もっとそう思っている。
菅野先生も、いうまでもなくご自身の耳を信じられている。
それでも、信じ込まれているのではないように思っている。
信じることと信じ込むことには、微妙な違いがあり、
こと音を聴くうえでは、信じ込んでしまっては、音の罠のようなところに陥ってしまうこともある。
自分の耳は絶対だ、と信じ込める人は、
音がわからなくなった、という経験はされていないであろう。
私は自分の耳を信じている。
最終的には自分の耳で聴くしかない。
それでも信じ込まないようにはしている。
つねに自問自答が、耳には必要であり、
それを怠ったとき、知らぬ間に音の罠にどっぷりとはまってしまう。
そんな気がしている。
だからこそ、菅野先生のラジカセを話を思い出して書いた。
オーディオ評論家の誰それは耳が悪い、とか、クソ耳だ、とか、
そんな物言いをする人がいる、残念なことに少なからずいる。
これに関しては年代はあまり関係がないようだ。
まあ確かに、そういわれても仕方ない人が、
いまオーディオ評論家と呼ばれている人たちの中にいることは、私も感じている。
いまだけに限らない、昔だってそういう人たちは確かにいた。
これに関しても年代はあまり関係ない、といえる。
どこのサイトなのかは書かない。リンク先も書かないが、
あるオーディオ雑誌の編集を過去にやっていた人が書いているウェブサイトがある。
そこにあるオーディオ評論家の話が出てくる。
このオーディオ評論家は、いまもオーディオ雑誌に書かれている人だから特定されるようなことは控えたい。
どのようなことを書かれているのかも詳細は、検索にされないように書かない。
私はこの話を、その場にいた人から直接聞いている。
その話が偽りでないことを知っている。
そのオーディオ評論家(誰もが知っている人)は、あるスピーカーシステムの試聴を行っていた。
あとからその場に入った人はすぐに、左右逆に鳴っていることに気づいた。
にも関わらず、そのオーディオ評論家は最後まで左右逆に接続されていることに気づかず、
「いい音だな」という評価を下していた。
初めて聴くディスクでの話ではない。その人の試聴用ディスクとして長年聴いてきているディスクでの話である。
こんな話を書くと、だからオーディオ評論家を含めて他人の耳なんて信じられない、
信じられるのは自分の耳だけ、といいたくなるのはわかる。
けれど、左右逆であることに気づかなかった人もまた同じことを言っているのである。
信じられるのは自分の耳だけだ、と。
オーディオについて書かれたもの、
オーディオ雑誌に載っている製品紹介、試聴テストの試聴記、
そういったものは必要ない、
それらはすべて他人の耳が聴いたものであって、信じられるのは自分の耳だけだから。
昔からいわれているし、いまもいわれていることだ。
正論といえば正論である。
オーディオは自分のリスニングルームで、
自分のスピーカーで自分ひとりで音楽を聴くものだから、
他人の耳なんかどうでもいい、自分の耳だけが信じられるのは当然すぎることである。
ステレオサウンド 38号でも、瀬川先生は
《あまり理屈をふりまわさないで、ご自分の耳にできるだけ素直にしたがいなさい、ということですね》
と最後にいわれている。
長島先生は
《表面的なきれいな音だけにこだわらずに、ご自分の音をさがしてほしいということでしょうか。オーディオ・システムというのは、あくまでも個人の、プライベートなものですから》と、
井上先生は
《ほとんどすべての人間が聴覚をもっていて、生まれながらに現実の音に反応しているはずです。それが再生音になると、どうして他人の手引きや教えばかりを求めるのか。いい音というのは、あなたがいまいいと思った音なんですよ、とぼくはいっておきたい。つまり結局は、ご自分で探し出すことでしかないんです》と。
結局は、自分の耳で聴いて、それにしたがい、探し出すということにつきる。
それは百も承知で、ほんとうに自分の耳をそう簡単に信じていいものだろうか、ともつねに思っていた。
舌読は、舌で書物を読むこと、つまり舌による読書である。
読書とは本(書物)を読むことなのだが、
読書は読(み)書(き)であるとも読めないことはない。
舌読という言葉を知って思ったのはそのことだ。
読書とは、書物を読み、なにかを己の裡(心)に書くことである、と。
書くとは掻くであり、傷つけてしるす意だということも知った。
読書とオーディオを介してレコード(録音物)を聴く行為はまったく同じとはいえないまでも、
非常に似ているともいえる。
ならばオーディオを介してレコード(録音物)を聴く行為は、
書物を読むのが読書であるから、録音物を聴くは、聴録となるのだろうか。
あまりいい造語ではないのはわかっている。
それでも、聴録という言葉を使うのは、
オーディオを介してレコード(録音物)を聴く行為は、聴(き)録(る)であるからだ。
昨夜書いたフランス映画「オーケストラ!」のこと、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のこと。
これを、若いころ、とんがっていたのが年取ってまるくなってしまっただけだろう、と読もうと思えば読める。
年取ってまるくなった、よくいわれることである。
でも、このことが意味しているのは、少し違うところにあるように思っている。
若いころ針のようにとがっている。
年取ってまるくなるとは、針先が摩耗して丸くなることだと思われがちだが、
私は上下左右全方向に針が増えていって、全体のかたちとして球体になることを、
まるくなる、というふうに解釈している。
若いころの針は、本数がすくない。それにある方向にだけ向いていたりする。
だからこそ、相手にとがっている、と感じさせるだけであって、
歳を重ねて、さまざなことを体験していくことで、針の本数は増え、
いままで針のなかった方向に針が生じていく。
そうやって針全体が形成するかたちは球体になっていくのが、まるくなることであり、
決して針先が摩耗して丸くなってしまうわけではない。
これが理想的な歳の重ね方なのだと思う。
私はまだいびつなかたちだと自覚している。
どこまで球体に近づけるのかはわからない。
そして針先を向けるのは、外に対してではなく、
内(裡)に対して、であるはずだ。
ステレオサウンドで働いて学んだことのひとつに、試聴という行為の難しさがある。
いろいろな人の、いろいろな試聴があった。
最初のうちは先輩がやっていたアナログプレーヤーの操作もいつごろからか私がやるようになっていた。
CDプレーヤーの操作なども含めて、試聴のオペレートをやってきて、
試聴とは、読者だったころに考えていたよりも、難しさを含んでいることを実感した。
スピーカーの特集記事のためにスピーカーをかなりの数集める。
それらのスピーカーを一機種ずつ、たいていは価格順(安い方から)試聴室に運び込み、聴いてもらう。
LP、CDを数枚、同じところをかけて試聴が終れば、試聴室から運び出し、次のスピーカーに入れ替える。
これをくり返すのが試聴である。
ここまでなら、ほとんどの読者が想像していることであるし、私もそういうものだと思っていた。
試聴とはそういうものではある。
けれど、実際の試聴は、こんなところまで厳格にしなければならないのか、と感じた。
試聴に関わるオーディオ評論家にとっても編集者にとっても、しんどさがある。
音を聴いているだけだろう、それのどこが……、と思う人は、
試聴のことを理解していない人である、と言い切れる。
それに、自分のシステムに対しても、厳しい姿勢で音を聴いていない、とも言い切れる。
4343のトゥイーター2405を取り外して天板に置き、
すべてのユニットをインライン配置を実行したした人にとっては、
そのことによって得られた音の変化は、すべてインライン配置によるものだ、と判断してしまうことだろう。
けれど第三者は冷静である。
そこでの音の変化を、インライン配置によるものだとはすぐには結びつけない。
いい方向への音の変化であろうと、そうでない方向への変化であろうと、
2405をフロントバッフルから取り外して、
天板に置くことによるさまざまな変化がもたらした音と受けとめるかもしれない。
私は、そう受けとめる。
2405を天板に置くために(インライン配置にするために)、多くの要素が変化しているから、
そこでの音の変化をインライン配置によるものだとは捉えない。
もちろんインライン配置にしたことのメリットがあることは認める。
けれど、音の変化はインライン配置だけによるものではないことは、何度でも強調しておく。
それを「インライン配置はやっぱりいい」と言い切ってしまうことのもつ意味を考えてほしい、と思う。
そう言い切ってしまえれば、オーディオは楽である。
けれどオーディオの世界を知れば知るほど、そう言い切れないことがわかってくる。
何かを変える。そのことによって、他の要素も変ってしまうことが往々にしてある。
ひとつの要素だけ変えることは、厳格な意味ではできないのではないか──。
ならば、「インライン配置はやっぱりいい」と言い切ってしまってもいいではないか、
なにか不都合があるのか──。
その人が満足さえしていれば、不都合はないといえばない。
それでも、私はそうではない、と思うだけだ。
フロントバッフルも天板も振動している。
その振動は同じではない。
つまりフロントバッフルに取り付けられているときにフロントバッフルから伝わってくる振動と、
天板から2405へと伝わってくる振動は決して同じではない。
しかもフロントバッフルに取り付けた状態では前方から振動が伝わってくる。
天板の場合に2405の下部から振動が伝わってくる。
それにフロントバッフルに取り付けられているとウーファーの背圧の影響も受けている。
天板に置くためには、ネットワークから2405までのケーブルをはわせなければならない。
4343にもともとついているケーブルをそのまま利用したとしても、
ケーブルの這わせ方が違ってくる。
天板に置いた2405にサブバッフルをつけるどうか。
さらには天板のどの位置に置くのか。前後方法の調整はほかのユニットとの位相関係の変化にもつながる。
2405を天板に直置きするのか、間にフェルトやゴム、その他の素材を介するのかどうか。
こういったこまごまとしたことが、2405を天板に置きインライン配置にしたことによる変化である。
もっと細かな変化もあるが、それを書き出すことがここでの目的ではないし、
いいたいのは、これだけの要素が変化している中で、
インライン配置にしたから音が良くなった、とはいえない、ということだ。
さまざまな要素が変化している。
しかもそれらは独立しているわけではない。
それらが結びついた結果として音は変化している。
だからこそ、何を聴いているのかを明確にする必要がある。
オーディオマニアたるもの少しでもいい音が出せる可能性があるのなら、あれこれ試してみる。
例えばJBLの4343。
4ウェイ・4スピーカーの4343はウーファーミッドバス、ミッドハイの三つのユニットはインライン配置。
ならば9.5kHz以上を受け持つ2405をフロントバッフルから取り外して、エンクロージュアの天板にのせれば、
四つのユニットすべてインライン配置にできる。
実際にやってみたとする。
音はずいぶんと変る。
それを実行した人にとって、それがいい結果だったと仮定する。
すると、その人は、やっぱりすべてのユニットをインライン配置にしたほうがいい、というかもしれない。
そういいたくなる気持はわかる。
わかるけれど、2405をインライン配置にしたことで、変った要素は、ユニット配置だけではない。
まず2405をフロントバッフルから取り外す。
この時点でフロントバッフルへの荷重が変化する。
それにフロントバッフルの振動モードも変化する。
2405を取り外したところにはメクラ板をとりつける必要がある。
するとメクラ板がミッドハイの両側に位置することになり、この影響も無視できない。
メクラ板はフロントバッフルから伝わってくる振動に対しても、
エンクロージュア内部の音圧によっても共振しているからだ。
2405を天板の上にのせる。
ただこれだけでも音は変化する。
試しに2405を本来の位置に取り付けたままで、
2405と同じくらいの大きさで同じくらいの重量をもつモノを4343の天板の上に置いて聴いてみるといい。
きちんと調整された4343ならば、この変化量に驚く。
天板のどこに置くかでも変化する。
2405を天板に置くことで天板の振動モードは変化する。
天板だけが変化するのではない。
エンクロージュアの側板、前後のバッフル、底板はすべてつながっているわけだから、
天板の振動モードの変化は、他の部分の振動モードの変化へとつながる。
スロープ特性と極性の組合せをひとつひとつ聴いていっているとき、レベルはまったく手をつけなかった。
それからCDも一枚に決め、CDプレーヤーから試聴しているあいだは、一度も取り出すことなく聴く。
スロープ特性、極性を切り替える際には、コントロールアンプのボリュウムには手を触れない。
ボリュウムはそのまま、つまり音量は最初に決めたままである。
そしてCDプレーヤーは切り替えの際には、ポーズ・ボタンを押す。
停止状態にはしない。
チャンネルデヴァイダーの切り替え操作が終ったら曲の頭に戻し、再生ボタンを押す。
これをくり返し行う。
一枚のディスクの同じところを何度も何度も聴いていく。
何かを切り替えていくときに、他の箇所はまずいじらない。
ボリュウム操作をしてしまうと、厳密には同じ音量には設定し難い。
音量がわずかでも違ってくれば、スロープ特性の違いのみを聴きたいのに、
そこに音量の違いという要素が加わってくる。
CDプレーヤーをポーズ(一旦停止)にするのも同じ理由からである。
停止してしまうと、ディスクの回転が止る。
ふたたび再生ボタンを押すとディスクの回転が始まるわけだが、
CDプレーヤーにはサーボ技術が不可欠であり、
このサーボの立上り時に音が安定するのに、わずかな時間を必要とする。
だからポーズにしてディスクはつねに回転させた状態を維持するわけである。
今年一月にあるオーディオマニアのお宅に伺う機会があった。
バイアンプ駆動のシステムだった。
何枚かのCDを聴いて、気になるところがあって、
チャネルデヴァイダーのスロープ特性と極性の切り換えをいくつか試してみた。
できれば違うところを調整したかったのだけれど、私のシステムではないから、
スイッチで切り換えられる範囲であれば、元のポジションにすれば元に戻せるので、
この部分だけをいじってみた。
スロープ特性はハイカット、ローカット別個に指定できる。
ウーファーのハイカットを12dB/oct.で、上の帯域のローカットを18dB/oct.ということができる。
スロープ特性は12dB、18dB、24dBがあり、
ウーファーの正相・逆相、上の帯域の正相・逆相がそれぞれ指定できる。
最初はローカット、ハイカットとも12dB/oct.で、正相・正相、
その後に12dB/oct.のままウーファーを逆相、上の帯域を正相、
今度は12dB/oct.のままウーファーを正相、上の帯域を逆相、
さらに12dB/oct.のままでウーファー、上の帯域とも逆相にする。
同じことを18dB/oct.でもやる。
さらにウーファーのスロープ特性を12dB/oct.に、上の帯域のスロープ特性を18dB/oct.にして、
極性の切り替えを4パターン試していく。
今度はウーファーと上の帯域のスロープ特性を入れ替えて、
極性の切り替えをこれまた4パターンやっていく。
これで16通りの音を聴くことになる。
ほんとうは24dB/oct.の音も聴きたかったし、
12dB/oct.と24dB/oct.の組合せ、18dB/oct.と24dB/oct.の組合せも試してみたかったけれど、
あきらかに一緒に聴いていた人たちが退屈しているのがはっきりと感じられて、そこまではやらなかった。
私も変換ミスはけっこうやっているほうなので、あまりとやかくいえないけれど、
それでもオーディオマニアが、試聴を視聴としているのをみると、やっぱりいいたくなる。
試聴が視聴となるのは変換ミスなのだが、
それでも視聴が使われるのが増えてきているをみていると、
時代は変ってきているんだなぁ……、と思うこともあるし、
試聴ではなく視聴を使う人は、若い人なのだろうか……、ともおもっていたことがある。
だから、あるオーディオ店でのディスクをかけ替け、
なぜそうするのかの理由をきいて、勝手に若い人相手の時なんだろう、とおもっていた。
少なくとも私と同世代までの人であれば、試聴はやはり試聴であり、
試聴のためには同じディスクを何度もかけるのが常識であり、
それは自分のシステムを調整していくときでも、
同じディスクを何度も何度もしつこく聴いていくものだとおもっていた。
私が高校生のとき、熊本のオーディオ店の招きで定期的に来られていた瀬川先生も、
いつもレコードを複数枚を持ってこられて、
その中からさらに数枚を選んで、オーディオ機器を交換したら、同じところをかけてくれていた。
ステレオサウンドでの試聴もまったくそうである。
同じディスクの同じところも何度も何度も聴いていく。
これが試聴の基本的なことであり、
ほとんどのオーディオマニアがそうしていると思っていたのだが、
どうもそうではないことがわかってきた。
2月5日の、作曲のゴーストライターのニュース以来、
facebookでもtwitterでも、この件に関する書き込みが多い。
いろんな意見がある。
私はというと、問題となった人がつくったといわれている曲をまったく聴いていないから、
この件に関しては何かを書こうとは、いまのところ思っていない。
それでも、いまこうやって書いているのは、
twitterでの、いくつかの書き込みを見たからである。
問題となっている人は、「現代のベートーヴェン」と呼ばれていた。
そのこともあってtwitterには、ベートーヴェンの音楽を聴いても、
ベートーヴェンがどういう人性で、
それゆえにどういう人生をおくってきたかのということにはまったく関心がなくて、
「純粋に曲を聴いている」というのがあった。
何もベートーヴェンだけに限らない、他の作曲家の音楽においても、
「音楽自体を聴いて感動できる」というのもあった。
「純粋に曲を聴いている」も「音楽自体を聴いて感動できる」も、
表現は違えども同じことを主張している。
だが、ほんとうにそんな聴き方ができるのか。
純粋に音楽を聴く、ということはいったいどういうことなのか。