Archive for category きく

Date: 9月 10th, 2016
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その2)

信号処理に関係する機能は、感覚の逸脱のアクセルとなる、ともいえる。
レベルコントロールも、音量を上げすぎと感じたら、
それは感覚の逸脱であり、レベルコントロールをすっと下げるわけだが、
感覚の逸脱ということでは音量が小さすぎるのも、感覚の逸脱といえるはずである。

音楽には、個々の楽器には適正音量があるからこそ、
上げすぎと感じるともいえる。
ならば音が小さすぎるのも、適正音量から外れているのだから、
適正音量の範囲までレベルコントロールをあげるのかといえば、
多くの場合、音量が大きいことは批判の対象となりがちなのに、
音量が小さいことはそうはならず、むしろ評価としては高くなることがある。

アクースティック蓄音器にはレベルコントロールはなかった。
レベルコントロールがつき、音量を自在に変えられるようになるのは、
電気蓄音器になってからである。

電気が蓄音器をコントロールするようになり、
レベルコントロールだけでなく、さまざまな信号処理機能が付加されていった。
フィルター、トーンコントロール、グラフィックイコライザー、パラメトリックイコライザー、
さらにはデジタル信号処理が加わることで、使い手がいじれる領域は拡大していっている。

感覚逸脱のアクセルは、逸脱の度合はそれぞれ違うけれど、確実に増えてきている。
怖いのは、これらを使う人が、
必ずしも感覚の逸脱のアクセルになるということを意識していないことにある。

別項で書いている「間違っている音」に関しては、その実例でもある。
最新の、それもプロフェッショナルが使う信号処理の機器を手に入れて、
あきらかに逸脱してしまっていた。

本来、これらの機器は、ブレーキとまではいえなくとも、いわば整音の機能を実現したモノである。
なのに使い手によって、反対の機能として働くことになる。

Date: 5月 30th, 2016
Cate: きく

ひとりで聴くという行為(その1)

コンサート会場にいけば、まわりに大勢の人がいる。
人気のある演奏家によるコンサートであれば空席はないが、
知名度のあまりない演奏家の場合だと、空席の方が多いことだってある。

私も一度だけ、そういうコンサートに行ったことがある。
両隣の席、前、後の席にも誰もいなかった。
観客の入りは五割を切っていたのかもしれない。

あまり人のいないコンサートは、どこか奇妙な感じすらする。
満員になるコンサートの場合、そのホールに入った瞬間に、
先に入っている観客のざわめきに包まれる。
がらがらのコンサートではそれがなかった。

演奏が始まる前の、こういったバイアスのかかりかたが、
こちらの聴き方になんら影響を与えないとは考えていない。
バイアスの影響から人は完全に逃れることはできないはずだから、
仮にまったく同じ演奏が舞台上でなされたとしても、
満員のコンサートとがらがらのコンサートでは、感じ方も違ってくるはず。

ここまでは昔から思っていたことであり、
そう思っている人もけっこういるであろう。

先日、ある記事を読んだ。
タイトルは「映画のシーンによって、人は異なる化学物質を放出している:研究結果」とついていた。

これから研究は進んでいくのだろうが、
映画のシーン(内容)によって人は異る化学物質を放出している、ということは、
ひとりで音楽を聴く(映画を観る)のと、
大勢で音楽を聴く(映画を観る)のとでは、感じ方が違ってくることになる。

異なる化学物質が放出されているということは、
放出された化学物質を吸っているということでもある。

体の中に取り込んだ化学物質の影響が聴く・観るに影響を与えないわけがない。

Date: 5月 18th, 2016
Cate: きく

習慣となっていくこと、なっていかないこと

facebookでシェアされていた記事のタイトルを見て考えてしまった。
音楽にお金を払う習慣はなくなるのか?  LINEミュージックの評価がヤバい」というタイトルだった。

記事の内容は、タイトルから想像がつく範囲のことであったし、内容についてふれたいわけではない。
あくまでもタイトルであり、「習慣」にあったからだ。

この「習慣」がひっかかってきた。
そうか習慣なのか、と思ってしまった。

習慣とは、辞書にはつぎのようにある。
長い期間繰り返し行われていて、そうすることが決まりのようになっている事柄。また、繰り返し行うこと。

レコード(録音物)を買ってきて、家で音楽を聴く。
この行為を習慣と考えたことがなかっただけに、
オーディオマニア、音楽マニアでない人にとって、
レコード(録音物)にお金を払って聴く、ということは習慣なのか、と意外だった。

もしかすると私だけが習慣ととらえていなかっただけなのかもしれない。
でもオーディオマニアにとって、レコード(録音物)にお金を払うことは習慣といえるのだろうか。

いま動画配信を行う会社がいくつかある。
HuluやNetflixがある。
月々約1000円ほどの料金で映画やドラマなどが見放題なのだが、
このサービスにお金を払うことは、私にとって習慣といえる。

この記事のタイトルは、そこまで考えてのものではないのだろうが、
それでも考えさせられるものがある。

Date: 1月 14th, 2016
Cate: きく

音を聴くということ(ギーゼキングの言葉)

ワルター・ギーゼキングが「ピアノとともに」(白水社刊・杉浦博訳)で語っている。
     *
なんらかのとくべつな指や手の運び方に、美しい音が出る原因をさがそうとするのはむだなことだと思うのである。わたしの確信によれば、響きの美しい演奏法習得の唯一の道は、聴覚の体系的な訓練である。
     *
聴覚の訓練、それも体系的な訓練。
オーディオにおいても、まったく同じだといえる。

Date: 1月 6th, 2016
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その1)

菅野先生が、優れたヘッドフォンを「感覚の逸脱のブレーキ」と表現されていた。
確かに、そうだと思う。

車にも、私が趣味としている自転車にもブレーキがついている。
信頼できるブレーキがついているからこそ、スピードを出せるし、ある安心がある。

もし自転車にブレーキがついてなかったり、極端に効きが悪い状態だったら、
そんな自転車には乗りたくないし、仮に乗ったとしてものろのろと乗るしかない。

オーディオは車や自転車とは違う。
ブレーキがなくとも、支障はないといえばそういえる。

それでもアンプのレベルコントロール(ボリュウム)は、
アクセルでもあるが、ある種のブレーキの役目ももつ。

音量を極端に上げすぎた──、
これも「感覚の逸脱」、小さな逸脱といえよう。
だから上げすぎたと感じたら、サッと下げる。

ほとんど無意識に使っている「ブレーキ」だが、
意識的な「ブレーキ」には、ヘッドフォンのほかに何があるだろうか。

Date: 12月 24th, 2015
Cate: きく

音を聴くということ(その3)

ステレオサウンドにいたころ、菅野先生から聞いた話がある。
菅野先生ご自身の話である。

ある時期、音というものがわからなくなった。
それでラジカセを買いに行かれたそうだ。

オーディオ評論家として顔も名も知られているから、デパートに行って買ってきたよ、
と笑いながら話されていた。

そのときも、さすがだな、と思っていたけれど、
いまのほうが、もっとそう思っている。

菅野先生も、いうまでもなくご自身の耳を信じられている。
それでも、信じ込まれているのではないように思っている。

信じることと信じ込むことには、微妙な違いがあり、
こと音を聴くうえでは、信じ込んでしまっては、音の罠のようなところに陥ってしまうこともある。

自分の耳は絶対だ、と信じ込める人は、
音がわからなくなった、という経験はされていないであろう。

私は自分の耳を信じている。
最終的には自分の耳で聴くしかない。
それでも信じ込まないようにはしている。

つねに自問自答が、耳には必要であり、
それを怠ったとき、知らぬ間に音の罠にどっぷりとはまってしまう。

そんな気がしている。
だからこそ、菅野先生のラジカセを話を思い出して書いた。

Date: 12月 17th, 2015
Cate: きく

音を聴くということ(その2)

オーディオ評論家の誰それは耳が悪い、とか、クソ耳だ、とか、
そんな物言いをする人がいる、残念なことに少なからずいる。
これに関しては年代はあまり関係がないようだ。

まあ確かに、そういわれても仕方ない人が、
いまオーディオ評論家と呼ばれている人たちの中にいることは、私も感じている。
いまだけに限らない、昔だってそういう人たちは確かにいた。
これに関しても年代はあまり関係ない、といえる。

どこのサイトなのかは書かない。リンク先も書かないが、
あるオーディオ雑誌の編集を過去にやっていた人が書いているウェブサイトがある。
そこにあるオーディオ評論家の話が出てくる。

このオーディオ評論家は、いまもオーディオ雑誌に書かれている人だから特定されるようなことは控えたい。
どのようなことを書かれているのかも詳細は、検索にされないように書かない。

私はこの話を、その場にいた人から直接聞いている。
その話が偽りでないことを知っている。

そのオーディオ評論家(誰もが知っている人)は、あるスピーカーシステムの試聴を行っていた。
あとからその場に入った人はすぐに、左右逆に鳴っていることに気づいた。
にも関わらず、そのオーディオ評論家は最後まで左右逆に接続されていることに気づかず、
「いい音だな」という評価を下していた。

初めて聴くディスクでの話ではない。その人の試聴用ディスクとして長年聴いてきているディスクでの話である。

こんな話を書くと、だからオーディオ評論家を含めて他人の耳なんて信じられない、
信じられるのは自分の耳だけ、といいたくなるのはわかる。

けれど、左右逆であることに気づかなかった人もまた同じことを言っているのである。
信じられるのは自分の耳だけだ、と。

Date: 12月 16th, 2015
Cate: きく

音を聴くということ(その1)

オーディオについて書かれたもの、
オーディオ雑誌に載っている製品紹介、試聴テストの試聴記、
そういったものは必要ない、
それらはすべて他人の耳が聴いたものであって、信じられるのは自分の耳だけだから。

昔からいわれているし、いまもいわれていることだ。
正論といえば正論である。

オーディオは自分のリスニングルームで、
自分のスピーカーで自分ひとりで音楽を聴くものだから、
他人の耳なんかどうでもいい、自分の耳だけが信じられるのは当然すぎることである。

ステレオサウンド 38号でも、瀬川先生は
《あまり理屈をふりまわさないで、ご自分の耳にできるだけ素直にしたがいなさい、ということですね》
と最後にいわれている。
長島先生は
《表面的なきれいな音だけにこだわらずに、ご自分の音をさがしてほしいということでしょうか。オーディオ・システムというのは、あくまでも個人の、プライベートなものですから》と、
井上先生は
《ほとんどすべての人間が聴覚をもっていて、生まれながらに現実の音に反応しているはずです。それが再生音になると、どうして他人の手引きや教えばかりを求めるのか。いい音というのは、あなたがいまいいと思った音なんですよ、とぼくはいっておきたい。つまり結局は、ご自分で探し出すことでしかないんです》と。

結局は、自分の耳で聴いて、それにしたがい、探し出すということにつきる。
それは百も承知で、ほんとうに自分の耳をそう簡単に信じていいものだろうか、ともつねに思っていた。

Date: 7月 18th, 2015
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その12)

舌読は、舌で書物を読むこと、つまり舌による読書である。

読書とは本(書物)を読むことなのだが、
読書は読(み)書(き)であるとも読めないことはない。

舌読という言葉を知って思ったのはそのことだ。
読書とは、書物を読み、なにかを己の裡(心)に書くことである、と。

書くとは掻くであり、傷つけてしるす意だということも知った。

読書とオーディオを介してレコード(録音物)を聴く行為はまったく同じとはいえないまでも、
非常に似ているともいえる。

ならばオーディオを介してレコード(録音物)を聴く行為は、
書物を読むのが読書であるから、録音物を聴くは、聴録となるのだろうか。

あまりいい造語ではないのはわかっている。
それでも、聴録という言葉を使うのは、
オーディオを介してレコード(録音物)を聴く行為は、聴(き)録(る)であるからだ。

Date: 10月 14th, 2014
Cate: きく, 老い

まるくなるということ

昨夜書いたフランス映画「オーケストラ!」のこと、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のこと。
これを、若いころ、とんがっていたのが年取ってまるくなってしまっただけだろう、と読もうと思えば読める。

年取ってまるくなった、よくいわれることである。
でも、このことが意味しているのは、少し違うところにあるように思っている。

若いころ針のようにとがっている。
年取ってまるくなるとは、針先が摩耗して丸くなることだと思われがちだが、
私は上下左右全方向に針が増えていって、全体のかたちとして球体になることを、
まるくなる、というふうに解釈している。

若いころの針は、本数がすくない。それにある方向にだけ向いていたりする。
だからこそ、相手にとがっている、と感じさせるだけであって、
歳を重ねて、さまざなことを体験していくことで、針の本数は増え、
いままで針のなかった方向に針が生じていく。

そうやって針全体が形成するかたちは球体になっていくのが、まるくなることであり、
決して針先が摩耗して丸くなってしまうわけではない。
これが理想的な歳の重ね方なのだと思う。

私はまだいびつなかたちだと自覚している。
どこまで球体に近づけるのかはわからない。

そして針先を向けるのは、外に対してではなく、
内(裡)に対して、であるはずだ。

Date: 5月 30th, 2014
Cate: きく

音を聴くということ(試聴のこと・その8)

ステレオサウンドで働いて学んだことのひとつに、試聴という行為の難しさがある。
いろいろな人の、いろいろな試聴があった。
最初のうちは先輩がやっていたアナログプレーヤーの操作もいつごろからか私がやるようになっていた。
CDプレーヤーの操作なども含めて、試聴のオペレートをやってきて、
試聴とは、読者だったころに考えていたよりも、難しさを含んでいることを実感した。

スピーカーの特集記事のためにスピーカーをかなりの数集める。
それらのスピーカーを一機種ずつ、たいていは価格順(安い方から)試聴室に運び込み、聴いてもらう。
LP、CDを数枚、同じところをかけて試聴が終れば、試聴室から運び出し、次のスピーカーに入れ替える。
これをくり返すのが試聴である。

ここまでなら、ほとんどの読者が想像していることであるし、私もそういうものだと思っていた。
試聴とはそういうものではある。
けれど、実際の試聴は、こんなところまで厳格にしなければならないのか、と感じた。
試聴に関わるオーディオ評論家にとっても編集者にとっても、しんどさがある。

音を聴いているだけだろう、それのどこが……、と思う人は、
試聴のことを理解していない人である、と言い切れる。
それに、自分のシステムに対しても、厳しい姿勢で音を聴いていない、とも言い切れる。

Date: 5月 28th, 2014
Cate: きく

音を聴くということ(試聴のこと・その7)

4343のトゥイーター2405を取り外して天板に置き、
すべてのユニットをインライン配置を実行したした人にとっては、
そのことによって得られた音の変化は、すべてインライン配置によるものだ、と判断してしまうことだろう。

けれど第三者は冷静である。
そこでの音の変化を、インライン配置によるものだとはすぐには結びつけない。
いい方向への音の変化であろうと、そうでない方向への変化であろうと、
2405をフロントバッフルから取り外して、
天板に置くことによるさまざまな変化がもたらした音と受けとめるかもしれない。
私は、そう受けとめる。

2405を天板に置くために(インライン配置にするために)、多くの要素が変化しているから、
そこでの音の変化をインライン配置によるものだとは捉えない。

もちろんインライン配置にしたことのメリットがあることは認める。
けれど、音の変化はインライン配置だけによるものではないことは、何度でも強調しておく。

それを「インライン配置はやっぱりいい」と言い切ってしまうことのもつ意味を考えてほしい、と思う。

そう言い切ってしまえれば、オーディオは楽である。
けれどオーディオの世界を知れば知るほど、そう言い切れないことがわかってくる。
何かを変える。そのことによって、他の要素も変ってしまうことが往々にしてある。
ひとつの要素だけ変えることは、厳格な意味ではできないのではないか──。

ならば、「インライン配置はやっぱりいい」と言い切ってしまってもいいではないか、
なにか不都合があるのか──。

その人が満足さえしていれば、不都合はないといえばない。
それでも、私はそうではない、と思うだけだ。

Date: 5月 27th, 2014
Cate: きく

音を聴くということ(試聴のこと・その6)

フロントバッフルも天板も振動している。
その振動は同じではない。
つまりフロントバッフルに取り付けられているときにフロントバッフルから伝わってくる振動と、
天板から2405へと伝わってくる振動は決して同じではない。
しかもフロントバッフルに取り付けた状態では前方から振動が伝わってくる。
天板の場合に2405の下部から振動が伝わってくる。

それにフロントバッフルに取り付けられているとウーファーの背圧の影響も受けている。

天板に置くためには、ネットワークから2405までのケーブルをはわせなければならない。
4343にもともとついているケーブルをそのまま利用したとしても、
ケーブルの這わせ方が違ってくる。

天板に置いた2405にサブバッフルをつけるどうか。
さらには天板のどの位置に置くのか。前後方法の調整はほかのユニットとの位相関係の変化にもつながる。

2405を天板に直置きするのか、間にフェルトやゴム、その他の素材を介するのかどうか。

こういったこまごまとしたことが、2405を天板に置きインライン配置にしたことによる変化である。
もっと細かな変化もあるが、それを書き出すことがここでの目的ではないし、
いいたいのは、これだけの要素が変化している中で、
インライン配置にしたから音が良くなった、とはいえない、ということだ。

さまざまな要素が変化している。
しかもそれらは独立しているわけではない。
それらが結びついた結果として音は変化している。

だからこそ、何を聴いているのかを明確にする必要がある。

Date: 5月 27th, 2014
Cate: きく

音を聴くということ(試聴のこと・その5)

オーディオマニアたるもの少しでもいい音が出せる可能性があるのなら、あれこれ試してみる。
例えばJBLの4343。
4ウェイ・4スピーカーの4343はウーファーミッドバス、ミッドハイの三つのユニットはインライン配置。
ならば9.5kHz以上を受け持つ2405をフロントバッフルから取り外して、エンクロージュアの天板にのせれば、
四つのユニットすべてインライン配置にできる。

実際にやってみたとする。
音はずいぶんと変る。
それを実行した人にとって、それがいい結果だったと仮定する。
すると、その人は、やっぱりすべてのユニットをインライン配置にしたほうがいい、というかもしれない。
そういいたくなる気持はわかる。
わかるけれど、2405をインライン配置にしたことで、変った要素は、ユニット配置だけではない。

まず2405をフロントバッフルから取り外す。
この時点でフロントバッフルへの荷重が変化する。
それにフロントバッフルの振動モードも変化する。

2405を取り外したところにはメクラ板をとりつける必要がある。
するとメクラ板がミッドハイの両側に位置することになり、この影響も無視できない。
メクラ板はフロントバッフルから伝わってくる振動に対しても、
エンクロージュア内部の音圧によっても共振しているからだ。

2405を天板の上にのせる。
ただこれだけでも音は変化する。
試しに2405を本来の位置に取り付けたままで、
2405と同じくらいの大きさで同じくらいの重量をもつモノを4343の天板の上に置いて聴いてみるといい。

きちんと調整された4343ならば、この変化量に驚く。
天板のどこに置くかでも変化する。

2405を天板に置くことで天板の振動モードは変化する。
天板だけが変化するのではない。
エンクロージュアの側板、前後のバッフル、底板はすべてつながっているわけだから、
天板の振動モードの変化は、他の部分の振動モードの変化へとつながる。

Date: 5月 26th, 2014
Cate: きく

音を聴くということ(試聴のこと・その4)

スロープ特性と極性の組合せをひとつひとつ聴いていっているとき、レベルはまったく手をつけなかった。
それからCDも一枚に決め、CDプレーヤーから試聴しているあいだは、一度も取り出すことなく聴く。

スロープ特性、極性を切り替える際には、コントロールアンプのボリュウムには手を触れない。
ボリュウムはそのまま、つまり音量は最初に決めたままである。

そしてCDプレーヤーは切り替えの際には、ポーズ・ボタンを押す。
停止状態にはしない。
チャンネルデヴァイダーの切り替え操作が終ったら曲の頭に戻し、再生ボタンを押す。

これをくり返し行う。
一枚のディスクの同じところを何度も何度も聴いていく。

何かを切り替えていくときに、他の箇所はまずいじらない。
ボリュウム操作をしてしまうと、厳密には同じ音量には設定し難い。
音量がわずかでも違ってくれば、スロープ特性の違いのみを聴きたいのに、
そこに音量の違いという要素が加わってくる。

CDプレーヤーをポーズ(一旦停止)にするのも同じ理由からである。
停止してしまうと、ディスクの回転が止る。
ふたたび再生ボタンを押すとディスクの回転が始まるわけだが、
CDプレーヤーにはサーボ技術が不可欠であり、
このサーボの立上り時に音が安定するのに、わずかな時間を必要とする。
だからポーズにしてディスクはつねに回転させた状態を維持するわけである。