Date: 5月 28th, 2014
Cate: きく
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音を聴くということ(試聴のこと・その7)

4343のトゥイーター2405を取り外して天板に置き、
すべてのユニットをインライン配置を実行したした人にとっては、
そのことによって得られた音の変化は、すべてインライン配置によるものだ、と判断してしまうことだろう。

けれど第三者は冷静である。
そこでの音の変化を、インライン配置によるものだとはすぐには結びつけない。
いい方向への音の変化であろうと、そうでない方向への変化であろうと、
2405をフロントバッフルから取り外して、
天板に置くことによるさまざまな変化がもたらした音と受けとめるかもしれない。
私は、そう受けとめる。

2405を天板に置くために(インライン配置にするために)、多くの要素が変化しているから、
そこでの音の変化をインライン配置によるものだとは捉えない。

もちろんインライン配置にしたことのメリットがあることは認める。
けれど、音の変化はインライン配置だけによるものではないことは、何度でも強調しておく。

それを「インライン配置はやっぱりいい」と言い切ってしまうことのもつ意味を考えてほしい、と思う。

そう言い切ってしまえれば、オーディオは楽である。
けれどオーディオの世界を知れば知るほど、そう言い切れないことがわかってくる。
何かを変える。そのことによって、他の要素も変ってしまうことが往々にしてある。
ひとつの要素だけ変えることは、厳格な意味ではできないのではないか──。

ならば、「インライン配置はやっぱりいい」と言い切ってしまってもいいではないか、
なにか不都合があるのか──。

その人が満足さえしていれば、不都合はないといえばない。
それでも、私はそうではない、と思うだけだ。

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