Archive for category スピーカーの述懐

Date: 12月 2nd, 2021
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その19)

ここで、しつこいぐらいに、伊藤先生の言葉──、
《スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。良否は別として実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。》
を引用しておく。

自作スピーカーで聴いて、
バーンスタインのマーラーを聴いて、ひどい録音だ、と言った人を知るまでは、
私は伊藤先生の言葉を、
《スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。》
というふうに受け止めていた。

《良否は別として》のところを抜きにして、受け止めていた。
もっといえば、いいスピーカーは選ぶ人を試していた、という認識であった。

それがバーンスタインのマーラーをひどい録音だ、という人と会って、
確かに伊藤先生のいわれるとおりだ、と再認識したわけだ。

《良否は別として》、ここのところの意味を初めて実感できた。
ダメなスピーカーも、また選ぶ人を試していることを知ったわけだ。

別項で「598というスピーカーの存在」を書いている。
このテーマを書こうと思ったことの一つに、
伊藤先生の言葉がベースにあり、
バーンスタインのマーラーの録音を一刀両断で、
ひどい、と切り捨てた人の存在がある。

自分が試されている、とは微塵も感じない人がいる。

Date: 11月 27th, 2021
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その18)

バーンスタインのマーラーを聴いて、ひどい録音だ、と言った人は、
その自作スピーカーで長いこと音楽を聴いてきている。

彼にとっては、もっとも信頼できるオーディオ機器なのだろう。
そのことは理解できる。

けれど雑共振という、かなり大きい欠点も最初から抱えていた。
彼と、私よりもずっと以前から親しかったある人は、
その欠点を、それとなく指摘したそうだ。

その結果、彼との仲は気まずくなったそうだ。
そうだろう。
そうなることは明白だし、だからあくまでもさりげなく、
彼を傷つけまいとしての助言であったそうなのだが、
そうであっても彼はまったく受けつけなかった。

雑共振の発生はやっかいである。
すぐに雑共振が収束すればいいのだが、そうはいかない。
雑共振がおさまらないうちに、次の、エネルギーの大きな信号が加わる。
音楽を鳴らす、ということは、そういうことの連続である。

それでも自作した本人が満足して聴いていれば、
周りがとやかくいうことではない──、という考えもある。

実際、彼は大満足で聴いていた。
彼なりに不満点というか、もっとよくしていきたい、と考えていたのだろうが、
自作スピーカーをまるごと交換することは考えていなかった。

くり返す、それはその人の選択なのだから、それでいいのだ。
けれど、それでは録音について、とんちんかんなことをいうことになる。

雑共振が顕になりにくいプログラムソースでは、
ある程度の判断はできても、そうでないプログラムソースでは、
バーンスタインのマーラーに対しての発言のようになってしまう。

そこに、彼はまったくの疑問をもたない。
彼は一刀両断でバーンスタインのマーラーの録音を切り捨てたことは、
彼にとっては、けっこうな快感なのだったのだろう。

Date: 11月 23rd, 2021
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その17)

その12)で、スイングジャーナルからの録音評の仕事をことわった人のことを書いた。

録音評は、オーディオ機器の試聴とは少し違うところがある。
オーディオ機器の場合は、その出版社の試聴室で聴くことが主である。
自宅試聴もないわけではないが、総テストならば、試聴室ということになる。

同じ聴くということ、試聴するということでは録音評に関することも同じであっても、
こちらは自宅で、ということが多い。

いまもレコード芸術では録音評があるけれど、
これを担当している人たちが、レコード芸術の試聴室に集まって試聴しているとは思えない。
それぞれ自分のシステムでの試聴のはずである。

(その12)でのくり返しになるが、このことにさほどの違いはなかろう、と思っている人は、
聴くことの難しさと怖さを理解していないし、
録音評こそ、自分の音について語っている、ということに気づいていない。

これまでに何度か引用している伊藤先生の言葉──、
《スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。良否は別として実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。》

これを改めて、ここで書いているのは、「良否は別として」のところである。

もう二十年近く前のことだが、ある人のところで、
バーンスタインのマーラーの五番を聴いていた。
ドイツ・グラモフォン盤である。

そのスピーカーの主(自作スピーカーだった)は、
バーンスタインのマーラーを聴いて、ひどい録音だ、と言った。
当時、ラウドネス・ウォーということが頻繁に語られていた時でもあった。

彼は、ひどい録音だね、のあとに、ラウドネス・ウォーだね、とも言った。
彼がそういうのも理解できなくはなかった。

彼の自信作であるスピーカーで聴くと、そう聴こえるからである。
トランペットだけの出だしはまだよかった。
けれどオーケストラが総奏で、しかもフォルティシモで鳴り出すと、
もうひどい。耳を蔽いたくなる。

スピーカーのあちこちが雑共振をおこしているからだ。
バッフル板にとりつけることで共振をおさえる設計のホーンを、そうしないで、
しかも雑共振を附加する取り付け方をやっている。

これではホーンが受け持つ帯域に、エネルギーの強い音が入ってくると、もうひどい。

Date: 10月 29th, 2021
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その16)

似合うスピーカーを、オーディオマニアは選んでいるのだろうか。
音が良ければ、似合わないスピーカーを選んでもいいものなのか。
世評の高いスピーカーならば──、価格の高いスピーカーならば──、
似合わなくてもいいのだろうか。

なにをもってして、似合う、というのか。
それを考えずのスピーカー選びはないのかもしれない。

Date: 9月 11th, 2021
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その15)

聴き手しか求めないスピーカーがあるような気がしている。
鳴らし手を求めているスピーカーが、一方にある。

弾き手を求めるスピーカーも、あってほしい。

Date: 9月 10th, 2021
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その14)

スピーカーはしゃべってくれない、何かを話してくれるわけではない。
スピーカーは音を鳴らす器械ではあっても、具体的な言葉で、
こうしてほしい、とか、もっとうまく鳴らしてほしい、とかを、伝えてくれるわけではない。

スピーカーから聴こえてくるのは、音である。
その音は歌であったり、ピアノの音であったり、電子楽器の音であったりする。
アンプから送られてきた信号を、振動板の動きに変換して、音を出すだけである。

100円程度で買えるスピーカーであっても、
一千万円を超えるスピーカーであっても、そのことにかわりはない。

つまり100円で売られているスピーカーも、
一千万円を超えるスピーカーであっても、
自分の意志を、具体的な言葉で伝えてくれるわけではない。

スピーカーは、その音しか伝えてくれない。
だから、その音を翻訳して、
スピーカーが何を要求しているのかを感じとれなくては、
そのスピーカーの聴き手は、そのスピーカーの鳴らし手にはなりえない。

そのスピーカーを買ってきて、設置して、
アンプに接いで音を鳴るようにする。
それだけでは、そのスピーカーの鳴らし手とは、まだ呼べない。

時にはアンプを替えたり、ケーブルを交換したり、
置き場所も変えてみたりして、音を良くしようとする。

良くなった、そうでもなかった、悪くなった──、
と一喜一憂しただけでも、スピーカーの鳴らし手とは、まだいえない。

目の前にある、そのスピーカーがどう鳴らされたがっているのか、
それを感じとって鳴らすことが出来て、はじめて鳴らし手といえる

Date: 1月 1st, 2018
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その13)

スピーカーは時として不機嫌になる。
理由はひとつだけでないようだし、はっきりとはわからないことがあるからやっかいだが、
誰といっしょに聴くかによって、スピーカーの鳴り方が多く変ることがある。

気にくわない人といっしょに聴いていると、
スピーカーはかなりの確率で不機嫌になる。

私ひとりが感じていることではなく、
世代に関係なく、かなりの人が、そういっている。

ずいぶん前の話だが、あるオーディオ評論家のお宅に、
ある新聞社の人間が訪ねてきた。
なんの連絡もなしにいきなりの訪問である。

そのころの電話帳には、オーディオ評論家の名前で探せば、
電話番号も住所も、たいていはわかった。
それに新聞社の人間ならば、電話帳に載っていなくとも調べる手段はあろう。

いきなり訪ねてきて、音を聴かせてくれ、というような人を相手に、
上機嫌になれる人なんていないだろう。
そのオーディオ評論家は不機嫌になった。

無下にことわれば、新聞に何を書かれるかわかったものではない。
しぶしぶ承知しても、不機嫌であることは変らない。

音を聴かせると、その男は、片チャンネルのドライバーが鳴っていない、という。
そんなことはない、とオーディオ評論家は答える。
その男が来るまで、きちんと鳴っていたのだから。

不機嫌な上に、そんなことをいわれたものだから、ますますイヤな気分になり、
音を聴くどころではない。

しばらくすると、またその男は、同じことをいう。
片チャンネルのスコーカーが鳴っていない、と。

そんなはずはない、とオーディオ評論家はまた答える。

新聞社の男は、やっと帰った。
やっとひとりになって、音を聴いてみると、
確かに新聞社の男の指摘通りに片チャンネルのスコーカーが鳴っていない。
いきなり訪ねてきた男であっても、悪いことをしたな、と思いつつも、
そのオーディオ評論家は、いっしょに聴く人によって、
スピーカーが不機嫌になる──、
どころか鳴らなくなってしまうということがあることをあらためて実感したそうだ。

Date: 12月 31st, 2017
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その12)

スイングジャーナルの編集部に、1970年代後半にいた友人からきいた話がある。
ある人に、レコードの録音評を依頼した。
けれど、その人は丁寧にことわってきた。

レコードの録音評は、多くの場合、
その人自身のシステムで聴くことになる。

オーディオ機器の試聴であれば、
ステレオサウンドの場合、試聴室に来てもらっての試聴ということになる。
レコード(録音物)の場合は、スイングジャーナルも、おそらくレコード芸術も、
録音評をやる人のところにレコードを届けての試聴となる。

掲載される雑誌の試聴室で聴くのか、自身のシステムで聴くのか、
さほど違いはなかろう、と思う人は、聴くことの難しさと怖さを理解していない。

そのレコードの録音について語る、ということは、
自身のシステムから鳴ってきた音について語ることである。

そのレコードのここがよかった、というのはまだいい。
そのレコードのここがよくない、というのは、
ほんとうにその録音のまずさについて語っているのか、
それとも自身のシステムの不備を語っているのか、微妙なところである。

自身のシステムの不備とは、システムが力量に問題があるのか、
それとも聴き手(鳴らし手)の力量に問題があるのか、
そこもしっかりと判断しなければならない。

つまりセルフチェックをつねにくりかえしの試聴を行なわなければ、
いったい何を聴いているのかがわからなくなってくる。

そんなのわかりきったことだろう、
レコードの録音の良し悪しを聴いているんだ、と言い切れる人は、
しっぺがえしを喰らっていることにすら気づかずにいるだけだ。

レコードの録音評にしても、スピーカーの試聴記にしても、
己をさらけ出している、というより、
己をさらけ出すことだ、ということに気づかずにいれる人は、
聴くことの怖さを知らずにいる能天気な人、
オーディオ、音楽を嗜好品としてしか捉えていない人だろう。

Date: 12月 31st, 2017
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その11)

その2)でも書いている伊藤先生のいわれたこと。
「スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。良否は別として実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。」

ほぼ同じことを、黒田先生が、ステレオサウンド 45号特集の「試聴テストを終えて」で書かれている。
     *
 このスピーカーでこのレコードをきいたら、こんな感じだったと、限られた字数でしるすことはできる。その言葉に、うそもいつわりもない。ただ、たしかにぼくがそうきいたにはちがいないが、立場をいれかえ、言葉の順番をかえると、そのスピーカーはぼくにそうきかせたということになる。スピーカーにもし口があれば(speakerのくせに口がないとはおかしなことだが)、そうかお前には俺をその程度にしかきけなかったのか──ということになる。
 スピーカーに口がないのをいいことに、というより、このことはアンプについても、カートリッジについても、つまりさまざまなパーツについていえることだが、好き勝手なことをいっていると、結果として、おのれの耳のやくざさかげんを、さらにはきき方のなまぬるさを、逆に、スピーカーに笑われることになりかねない。
 テストという言葉を使おうと、試聴という言葉をつかおうと、ことは同じだが、いずれにしろ、主客は、微妙なバランスでいれかわる。テストをしていたつもりの人間がテストされ、試聴されていたはずのスピーカーがその時のききてを試聴しているということだって、充分に起こりうる。
 それを覚悟していなくては、こういう仕事はできない。たしかに、いささかの自信は、なくもない。しかし、自信があれば、それでいいというわけにはいかないだろう。自信という奴には、ともすると、慢心と結託して、のぼせあがるという性格がある。
 なんでまた、そんなわかりきったことを、ことあらためていいだしたかといえば、それは他でもない、そっくりかえっての試聴が、ものであるスピーカーからしっぺがえしをくらう危険があるからだ。自分が充分にききとりかえたかどうかの、いわばセルフ・チェックをくりかえしつつ、先に進まないかぎり落し穴がぽっかり口をあけているのにも気づかず足をふみだしかねない。
     *
覚悟なき聴き手が増えているように感じることがある。
同じことはレコードの録音評にもいえることだ。

Date: 11月 5th, 2017
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その10)

聴き手を試さなくなったスピーカーは、
聴き手を育てなくなったスピーカーとするならば、
読み手を試さなくなったオーディオ雑誌は、
読み手を育てなくなったオーディオ雑誌ともいえる。

Date: 4月 26th, 2017
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その9)

「手強い」スピーカーは、減ってきているような気もしている。
代りに増えてきたのは、要求の多い、小難しいスピーカーのような気もしている。

「手強い」スピーカーも要求の多いスピーカーではないか、と思われるかもしれないが、
私はそうは思っていない。
「手強い」と要求の多いとは別のことである。

「手強い」スピーカーばかりが減ってきているのだろうか。
「手強い」鳴らし手も、また減ってきているのかもしれない。

「手強い」スピーカーが減ってきたから、
「手強い」鳴らし手も減ってきたともいえるだろうし、
「手強い」鳴らし手が少なくなってきたから、
「手強い」スピーカーも登場しなくなってきた、ともいえよう。

「手強い」ということが、スピーカーだけに限らず、
他のところでも失われつつあるような気がしてならない。

オーディオ雑誌の読み手に関してもそうだ。
「手強い」読み手は、どのくらい減ったのだろうか。

Date: 4月 25th, 2017
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その8)

オーディオマニアならば、
「このスピーカーを使いこなすのは難しい」とか、
「うまく鳴らすのが難しい」といったことを口にしなくとも、
一度や二度、思ったことはあるはずだ。

「難しい」という言葉を使う。
「難しい」に近い言葉として「手強い」がある。

ほとんど同じ意味として使われることもある「難しい」と「手強い」。
それでも完全に同じ意味なわけではなく、微妙な意味の違いがあるからこそ、
時には「難しい」を使い、「手強い」を使うこともある。

有名人と著名人とがある。
どちらも、広く名が知られた人という意味をもつが、
まったく同じなわけではない。

有名人は悪いことをしでかして名が知られている人も含まれるのに対し、
著名人はそうではなく、悪いことをしでかした人は含まれない──、
といった使い分けがなされている。

スピーカーにおける「難しい」と「手強い」と考えるに、
その7)で書いている、聴き手を試すスピーカーこそが、
実は「手強い」スピーカーであるはずだ。

Date: 1月 28th, 2015
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その7)

(その2)で書いた伊藤先生の言葉。
「スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。良否は別として実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。」

試されている。
そう実感している。ほんとうにそう思うようになってきた。

同時に、聴き手(選び手)を試さなくなってきているスピーカーも増えてきたように思うようになってきた。
そういうスピーカーが、よいスピーカーだと認識されるように、次第になってきているのが現代なのだろうか。

これも以前書いたことなのだが、「わかりやすい」音のスピーカーが確実にある。
四年前にこう書いている。
     *
文章において、わかりやすさは必ずしも善ではない。
これはスピーカーの音についても、言える。

他者からの「承認」がえやすい音のスピーカーがある。
これも、いわば「わかりやすい」音のスピーカーのなかに含まれることもある。

この場合も、わかりやすい音は、必ずしも善ではない。

聴き手を育てていくうえでの、ひとつのきっかけにならないからだ。

優れたスピーカーとは何か、と問われたときに、
聴き手を育てていく、ひとつの要素となるモノ、と私は答える。
オーディオにおけるジャーナリズム(その11・余談)」より
     *
聴き手を試さなくなったスピーカーは、
聴き手を育てなくなったスピーカーともいえよう。

Date: 2月 13th, 2014
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その6)

録音・再生というオーディオの系は、
音を電気信号に変換し記録し、その記録した電気信号をふたたび音に変換するものであり、
記録することは可能でも、記憶することはできない系である。

エレクトロニクスとメカニズムで構成されるオーディオの系だから、
記録は可能でも記憶はできないのは理論的にも技術的にも当然のことなのだが、
それでもほんとうにオーディオは記憶できないものなのか、と思うようになったのは、
「Harkness」でソニー・ロリンズのSaxophone Colossusを聴いてからであり、
聴くたびに実感している。

私の「Harkness」は何度も書いているように、岩崎先生が鳴らされていたそのものである。
だから別項「終のスピーカー」でも書いている。

Saxophone Colossusを鳴らすと、
岩崎先生がどうこのレコードを聴かれていたのか、
もっといえばSaxophone Colossusとどう対峙されていたのかが、感覚的に伝わってくる鳴り方をする。

それはもう「Harkness」というスピーカーシステムが、
これに搭載されているD130というユニットが、岩崎先生の聴き方・鳴らし方を記憶しているかのようである。

そんなのは、岩崎千明という男の鳴らし方のクセが残っているだけのこと。
そう考える人がいるのも無理もない。
だが聴けば、そうとしか思えない音が鳴ってくる。

なぜ 「Harkness」は記憶しているのか。
「Harkness」は岩崎先生のリスニングルームにあって、
岩崎先生が鳴らされる音を聴いていたからだ。
私は、これで納得している。

Date: 11月 25th, 2013
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その5)

スピーカーはいうまでもあくアンプからの入力信号を振動板の動きに変換して、
空気の疎密波をつくりだし音とするメカニズムである。

つまりは、こういう考え方ができるのではないか。

スピーカーは耳である。
アンプからの入力信号を聴きとる耳である、と。

これだけでスピーカーをリスニングルームにおいて「耳があるもの」とするわけではない。

結局は、「音は人なり」ということにつきる。

「音は人なり」、
このことを否定する人には、
スピーカーを「耳があるもの」とする私の考えはまったくおかしなことでしかない。
それはそれでいい。

あくまでも「音は人なり」をオーディオの、否定できない現象として認めるのであれば、
スピーカーこそが「耳があるもの」だと思えてならない。

スピーカーは音を出すメカニズムである。
その音に、鳴らす人の人となりが表出されるのであれば、
スピーカーは鳴らす人のすべてを聴きとって、音としている。

そう思うからだ。