(その12)で、スイングジャーナルからの録音評の仕事をことわった人のことを書いた。
録音評は、オーディオ機器の試聴とは少し違うところがある。
オーディオ機器の場合は、その出版社の試聴室で聴くことが主である。
自宅試聴もないわけではないが、総テストならば、試聴室ということになる。
同じ聴くということ、試聴するということでは録音評に関することも同じであっても、
こちらは自宅で、ということが多い。
いまもレコード芸術では録音評があるけれど、
これを担当している人たちが、レコード芸術の試聴室に集まって試聴しているとは思えない。
それぞれ自分のシステムでの試聴のはずである。
(その12)でのくり返しになるが、このことにさほどの違いはなかろう、と思っている人は、
聴くことの難しさと怖さを理解していないし、
録音評こそ、自分の音について語っている、ということに気づいていない。
これまでに何度か引用している伊藤先生の言葉──、
《スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。良否は別として実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。》
これを改めて、ここで書いているのは、「良否は別として」のところである。
もう二十年近く前のことだが、ある人のところで、
バーンスタインのマーラーの五番を聴いていた。
ドイツ・グラモフォン盤である。
そのスピーカーの主(自作スピーカーだった)は、
バーンスタインのマーラーを聴いて、ひどい録音だ、と言った。
当時、ラウドネス・ウォーということが頻繁に語られていた時でもあった。
彼は、ひどい録音だね、のあとに、ラウドネス・ウォーだね、とも言った。
彼がそういうのも理解できなくはなかった。
彼の自信作であるスピーカーで聴くと、そう聴こえるからである。
トランペットだけの出だしはまだよかった。
けれどオーケストラが総奏で、しかもフォルティシモで鳴り出すと、
もうひどい。耳を蔽いたくなる。
スピーカーのあちこちが雑共振をおこしているからだ。
バッフル板にとりつけることで共振をおさえる設計のホーンを、そうしないで、
しかも雑共振を附加する取り付け方をやっている。
これではホーンが受け持つ帯域に、エネルギーの強い音が入ってくると、もうひどい。