あるスピーカーの述懐(その49)
(その47)で書いている。
瀬川先生はアルテックで美空ひばりを、
井上先生はJBLで島倉千代子を、
二人とも、大嫌いな歌手をスピーカーを通しての音に驚かれている。
いうまでもなく美空ひばりも島倉千代子も日本人の歌手であり、
おそらくどちらも日本語の歌を聴いてのことであろう。
日本人のうたう日本語の歌を、アメリカのスピーカーを通しての音で驚くということ。
日本のスピーカーの音で聴いて驚く、ということではないということ。
このことは見逃してはならない。
(その47)で書いている。
瀬川先生はアルテックで美空ひばりを、
井上先生はJBLで島倉千代子を、
二人とも、大嫌いな歌手をスピーカーを通しての音に驚かれている。
いうまでもなく美空ひばりも島倉千代子も日本人の歌手であり、
おそらくどちらも日本語の歌を聴いてのことであろう。
日本人のうたう日本語の歌を、アメリカのスピーカーを通しての音で驚くということ。
日本のスピーカーの音で聴いて驚く、ということではないということ。
このことは見逃してはならない。
(その47)での引用に続いて、これも読んでほしいことだ。
*
……という具合にJBLのアンプについて書きはじめるとキリがないので、この辺で話をもとに戻すとそうした背景があった上で本誌第三号の、内外のアンプ65機種の総試聴特集に参加したわけで、こまかな部分は省略するが結果として、JBLのアンプを選んだことが私にとって最も正解であったことが確認できて大いに満足した。
しかしその試聴で、もうひとつの魅力ある製品を発見したというのが、これも前述したマッキントッシュのC22とMC275の組合せで、アルテックの604Eを鳴らした音であった。ことに、テストの終った初夏のすがすがしいある日の午後に聴いた、エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)の、滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声は、いまでも耳の底に焼きついているほどで、この一曲のためにこのアンプを欲しい、とさえ思ったものだ。
だが結局は、アルテックの604Eが私の家に永く住みつかなかったために、マッキントッシュもまた、私の装置には無縁のままでこんにちに至っているわけだが、たとえたった一度でも忘れ難い音を聴いた印象は強い。
*
瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」からの引用だ。
このことを読んで、どうおもうのか、どう感じるのか。
それもまた人それぞれなのだろう──とわかっているのだが、
スピーカーの音を好きな人とスピーカーの音が嫌いな人とでは、
解釈がずいぶん違ってくるのかもしれない。
オーディオマニアといっても、さまざまだ。
スピーカーの音を好きな人もいれば、
スピーカーの音を嫌いな人もいる。
スピーカーの存在がなくなることを、オーディオの理想と考える人は、
スピーカーの音が嫌いな人なのだろう。
どちらが上とかしたとか、そういうことではない。
けれど考えたいのは、なぜ、そんなふうに分かれてしまうのかについてだ。
瀬川先生が「聴感だけを頼りに……」(虚構世界の狩人・所収)が書かれている。
*
「きみ、美空ひばりを聴きたまえ。難しい音楽ばかり聴いていたって音はわからないよ。美空ひばりを聴いた方が、ずっと音のよしあしがよくわかるよ」
当時の私には、美空ひばりは鳥肌の立つほど嫌いな存在で、音楽の方はバロック以前と現代と、若さのポーズもあってひねったところばかり聴いていた時期だから歌謡曲そのものさえバカにしていて、池田圭氏の言われる真意が汲みとれなかった。池田氏は若いころ、外国の文学や音楽に深く親しんだ方である。その氏が言われる日本の歌謡曲説が、私にもどうやら、いまごろわかりかけてきたようだ。別に歌謡曲でなくたってかまわない。要は、人それぞれ、最も深く理解できる、身体で理解できる音楽を、スピーカーから鳴る音の良否の判断や音の調整の素材にしなくては、結局、本ものの良い音が出せないことを言いたいので、むろんそれがクラシックであってもロックやフォークであっても、ソウルやジャズであってもハワイアンやウエスタンであっても、一向にさしつかえないわけだ。わからない音楽を一所けんめい鳴らして耳を傾けたところで、音のよしあしなどわかりっこない。
*
ステレオサウンド 60号で、アルテックのA4について語られる瀬川先生は、
美空ひばりの体験をあげられている。
*
たまたま中2階の売場に、輸入クラシック・レコードを買いにいってたところですから、ギョッとしたわけですが、しかし、ギョッとしながらも、いまだに耳のなかにあのとき店内いっぱいにひびきわたった、このA4の音というのは、忘れがたく、焼きついているんですよ。
ぼくの耳のなかでは、やっぱり、突如、鳴った美空ひばりの声が、印象的にのこっているわけですよ。時とともに非常に美化されてのこっている。あれだけリッチな朗々とした、なんとも言えないひびきのいい音というのは、ぼくはあとにも先にも聴いたことがなかった。
*
1993年のステレオサウンド別冊「JBLのすべて」に書かれている。
*
奇しくもJBLのC34を聴いたのは、飛行館スタジオにちかい当時のコロムビア・大蔵スタジオのモニタールームであった。作曲家の古賀先生を拝見したのも記憶に新しいが、そのときの録音は、もっとも嫌いな歌謡曲、それも島倉千代子であった。しかしマイクを通しJBLから聴かれた音は、得も言われぬ見事なもので、嫌いな歌手の声が天の声にも増して素晴らしかったことに驚歎したのである。
*
瀬川先生も井上先生も、大嫌いな歌手をスピーカーを通しての音に驚かれている。
瀬川先生はアルテックで美空ひばりを、
井上先生はJBLで島倉千代子を。
こういう体験があるのかないのか。
いまでは非常に高額なスピーカーシステムが、あたりまえのように存在している。
振動板の材質、製造方法、フレームのつくり、マグネットなど、
細部にわたって意を尽くし贅を尽くした──、
そんなふうなことを謳っていたりする。
けれど磁界に関しては、どうなのか。
JBLはアルニコマグネットからフェライトマグネットに移行した時に、
対称磁界(Symmetrical Field Geometry、SFGと略されていた)を謳っていた。
JBLと同時期にアルテックもタンノイもフェライトに移行したが、
対称磁界について触れたのはJBLだけだった。
対称磁界と非対称磁界。
実際のところ、どれだけ音に影響するのか、比較試聴したことはないが、
少なからぬ影響はあるものと考えられる。
駆動のいちばんの源は、ここなのだから。
なのに現代のハイエンドのスピーカーメーカーで、
対称磁界を謳っているところはどれだけあるだろうか。
すべてのユニットの構造図を見たわけではないが、
いくつかのメーカーのユニットの構造図をみるかぎりは、対称磁界のユニットはなかった。
それでいいのだろうか。
スピーカーといえば通じるのだけれども、
あえてラッパと呼びたくなる性質のモノがある。
そういうスピーカーもあれば、トランスデューサーと呼びたくなるモノもある。
いい悪いではなく、本質的なところでの違いからくるものだ。
けれど、この違いは、聴く音楽に深く関わってこよう。
音楽のジャンルということではない。
演奏家のスタイルというか、そういうことに深く関係してくる。
ラッパと呼びたくなるスピーカーを好んで聴く人がよく聴く演奏家と、
トランスデューサーと呼びたくなるスピーカーを好んで聴く人がよく聴く演奏家、
同じことは、まずないだろう。
ヘンデルのメサイアを聴いている人がいる。
何度も聴く人生がある
メサイアを一度も聴かない人もいる。
音楽好きであっても、メサイアを一度も聴かずの人生がある。
メサイアでなくてもいい。
マタイ受難曲でもいい、ベートーヴェンの第九であってもいい。
クラシックにかぎらない。
昔から聴きつがれている曲、そしてこれから先もずっと聴かれていくであろう音楽に、
まったく触れない人生がある。
いい悪いではなく、そういう人生がある、というだけのこと。
スピーカーも、また同じだ。
メサイアを何度も鳴らすスピーカーもあれば、一度も鳴らさずのスピーカーもある。
「スピーカーの存在感がなくなる」、
このことこそ、オーディオの理想と考える人は、
スピーカーの音が嫌いな人なのだろう、とすでに書いている。
オーディオにおける官能性、
再生音における官能性、
これらはどこにひそんでいるのだろうか──、を考えると、
スピーカーの存在がなくなってしまっては、
どこに官能性を求める、見出すのだろうか、という疑問が自然と湧いてくる──、
そう考えるのは、スピーカーの音が好きな人なのだろう。
録音された音楽にこそ官能性はあって、
十全に再生できれば、
スピーカーの存在がなくなってこそ官能性が再現される──、
これは理屈でしかないような気さえする。
オーディオは、音楽を聴くための道具、であるとともに、
音楽を聴く「意識」でもあるわけだが、
前者の意味だけでスピーカーを捉えている人と後者の意味を含めて捉えている人とがいる。
前者の意味だけで捉えている人が選ぶスピーカーと、
後者の意味を含めて捉えている人が選ぶスピーカーが、仮に同じとなったとしても、
そのスピーカーから鳴ってくる音は、違って当然である。
オーディオ評論家も、そうだ、といっていい。
スピーカーの音を好きなオーディオ評論家がいれば、
スピーカーの音を嫌いなオーディオ評論家もいる。
スピーカーの音を嫌いな、とするのが言い過ぎなら、
スピーカーの音を好きじゃない、といいかえてもよいが、
とにかく、そういうオーディオ評論家がいることは確かだ。
スピーカーの音が好きなオーディオ評論家の書くものを、
スピーカーの音が好きなオーディオマニアが読む、
スピーカーの音が好きなオーディオ評論家の書くものを、
スピーカーの音が嫌いなオーディオマニアが読む、
スピーカーの音が嫌いなオーディオ評論家の書くものを、
スピーカーの音が好きなオーディオマニアが読む、
スピーカーの音が嫌いなオーディオ評論家の書くものを、
スピーカーの音が嫌いなオーディオマニアが読む、
こんな組合せが、現実にはある。
スピーカーの音が好きな人のスピーカーの鳴らし方、
スピーカーの音が嫌いな人のスピーカーの鳴らし方、
この二つが同じということは、まずありえない。
スピーカーの音が好きな人もスピーカーの音が嫌いな人も、
求めるのはいい音であって、そのための鳴らし方であっても、
同じになることはないはずだ。
オーディオとは、結局のところ、スピーカーの音の魅力といえる。
スピーカーというメカニズムが発する音の魅力である。
だからこそ、あるスピーカーの音を好きになるし、
そのスピーカーも好きになるのではないのか。
もちろん、そればかりではない。
それでも「スピーカーの存在感がなくなる」というフレーズを、
このことを目標する人もいるし、
そんなスピーカーを求める人もいる。
この人たちは、スピーカーの音が嫌いなのだろう。
オーディオマニアには、スピーカーの音を嫌う人がいる、
惚れ込む人もいる。
あるスピーカーの音を好きになる。
そのスピーカーも好きになる。
スピーカーは道具である。
道具は使い手(ここでは鳴らし手)の力量に応じていってほしいもの。
好きなスピーカーが鳴らし手の力量とともに成長していくということはない。
モノだからだ。
だから鳴らし手は次のスピーカー(道具)を求めるようになる。
好きなスピーカーの延長にあるスピーカーを求めることもある。
たとえばロジャースのLS3/5A。
このスピーカーに惚れ込んだ者がいる。
LS3/5Aはよいスピーカーではあっても、サイズ、開発年代など、
それらによる限界もある。
限界を熟知して使いこなす。それもオーディオの楽しみなのだが、
LS3/5Aの音を、ぐんと格上げしてスケールを増した音を欲するようになったら──。
LS3/5Aの次のスピーカーは同じか、といえば、そんなことはない。
人によって、そうとうに違ってこよう。
ここでも、耳に近い音としてLS3/5Aの次のスピーカーを欲する者と、
心に近い音としてLS3/5Aの次のスピーカーを欲する者とでは、
大きく違ってきて当然である。
ステレオサウンド 224号、342と343ページ、
山本浩司氏が、ディナウディオのContour 60iの新製品紹介記事を書かれている。
見出しに《誰をも「見るオーディオ」の虜にする魔力が宿る》とある。
当然、山本浩司氏の本文の最後に、
《誰をが〈見るオーディオ〉の魔力の虜になってしまうに違いない》とある。
オーディオアクセサリー 186号、46、47ページ、
小原由夫氏が、パラダイムのPERSONA Bの導入記を書かれている。
見出しに《“見える音”を具現化してくれる》とある。
小原由夫氏の本文冒頭に、
《いつの頃だったか、オーディオ再生において『見える音』を意識し始めた》
とあるだけでなく、
PERSONA Bの音について、
《ペルソナBがもたらす『見える音』は、手を伸ばせば触れられそうなリアリスティックな音のフォルムだ》
とある。
小原由夫氏は、見える音について、
《見える音とはつまり、ステレオイメージの中にヴォーカリストや楽器奏者が明確な音像定位を伴って、リアルに浮かび上がり、それが3次元的なホログラフィックの如く見えることだ》
というふうに説明されている。
山本浩司氏のContour 60iの試聴記には、
《高さ方向のみならず奥行きの深い3次元的な広がりを持つステージが構築される》
とある。
山本浩司氏のいう《見るオーディオ》、
小原由夫氏のいう《見える音》は、同じことをいっていると受けとっていいはず。
そして、これは耳に近い音のことなのだろう。
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’75」の巻頭座談会、
この座談会で、瀬川先生は、
《荒唐無稽なたとえですが、自分がガリバーになって、小人の国のオーケストラの演奏を聴いているというようにはお考えになりませんか。》
と発言されている。
リアリティのある音だからこそ、
こういうふうに感じることができるのではないだろうか。
どれほど音がリアルであったとしても、
細部の音にいたるまでリアルであったとしても、
それだけで、マリア・カラスによる「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)を、
マリア・カラスの自画像そのものだ、と感じられるわけではない。
リアリティがあってこそ、
マリア・カラスの自画像と感じられるし、
マリア・カラスの自画像と感じられる音こそが、リアリティのある音だ。