Archive for category スピーカーの述懐

Date: 1月 25th, 2023
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その43)

「スピーカーの存在感がなくなる」、
このことこそ、オーディオの理想と考える人は、
スピーカーの音が嫌いな人なのだろう、とすでに書いている。

オーディオにおける官能性、
再生音における官能性、
これらはどこにひそんでいるのだろうか──、を考えると、
スピーカーの存在がなくなってしまっては、
どこに官能性を求める、見出すのだろうか、という疑問が自然と湧いてくる──、
そう考えるのは、スピーカーの音が好きな人なのだろう。

録音された音楽にこそ官能性はあって、
十全に再生できれば、
スピーカーの存在がなくなってこそ官能性が再現される──、
これは理屈でしかないような気さえする。

Date: 1月 20th, 2023
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その42)

オーディオは、音楽を聴くための道具、であるとともに、
音楽を聴く「意識」でもあるわけだが、
前者の意味だけでスピーカーを捉えている人と後者の意味を含めて捉えている人とがいる。

前者の意味だけで捉えている人が選ぶスピーカーと、
後者の意味を含めて捉えている人が選ぶスピーカーが、仮に同じとなったとしても、
そのスピーカーから鳴ってくる音は、違って当然である。

Date: 1月 12th, 2023
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その41)

オーディオ評論家も、そうだ、といっていい。
スピーカーの音を好きなオーディオ評論家がいれば、
スピーカーの音を嫌いなオーディオ評論家もいる。

スピーカーの音を嫌いな、とするのが言い過ぎなら、
スピーカーの音を好きじゃない、といいかえてもよいが、
とにかく、そういうオーディオ評論家がいることは確かだ。

スピーカーの音が好きなオーディオ評論家の書くものを、
スピーカーの音が好きなオーディオマニアが読む、
スピーカーの音が好きなオーディオ評論家の書くものを、
スピーカーの音が嫌いなオーディオマニアが読む、
スピーカーの音が嫌いなオーディオ評論家の書くものを、
スピーカーの音が好きなオーディオマニアが読む、
スピーカーの音が嫌いなオーディオ評論家の書くものを、
スピーカーの音が嫌いなオーディオマニアが読む、
こんな組合せが、現実にはある。

Date: 1月 12th, 2023
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その40)

スピーカーの音が好きな人のスピーカーの鳴らし方、
スピーカーの音が嫌いな人のスピーカーの鳴らし方、
この二つが同じということは、まずありえない。

スピーカーの音が好きな人もスピーカーの音が嫌いな人も、
求めるのはいい音であって、そのための鳴らし方であっても、
同じになることはないはずだ。

Date: 1月 11th, 2023
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その39)

オーディオとは、結局のところ、スピーカーの音の魅力といえる。
スピーカーというメカニズムが発する音の魅力である。

だからこそ、あるスピーカーの音を好きになるし、
そのスピーカーも好きになるのではないのか。

もちろん、そればかりではない。
それでも「スピーカーの存在感がなくなる」というフレーズを、
このことを目標する人もいるし、
そんなスピーカーを求める人もいる。

この人たちは、スピーカーの音が嫌いなのだろう。
オーディオマニアには、スピーカーの音を嫌う人がいる、
惚れ込む人もいる。

Date: 10月 29th, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その38)

あるスピーカーの音を好きになる。
そのスピーカーも好きになる。

スピーカーは道具である。
道具は使い手(ここでは鳴らし手)の力量に応じていってほしいもの。

好きなスピーカーが鳴らし手の力量とともに成長していくということはない。
モノだからだ。

だから鳴らし手は次のスピーカー(道具)を求めるようになる。
好きなスピーカーの延長にあるスピーカーを求めることもある。

たとえばロジャースのLS3/5A。
このスピーカーに惚れ込んだ者がいる。
LS3/5Aはよいスピーカーではあっても、サイズ、開発年代など、
それらによる限界もある。

限界を熟知して使いこなす。それもオーディオの楽しみなのだが、
LS3/5Aの音を、ぐんと格上げしてスケールを増した音を欲するようになったら──。

LS3/5Aの次のスピーカーは同じか、といえば、そんなことはない。
人によって、そうとうに違ってこよう。

ここでも、耳に近い音としてLS3/5Aの次のスピーカーを欲する者と、
心に近い音としてLS3/5Aの次のスピーカーを欲する者とでは、
大きく違ってきて当然である。

Date: 10月 11th, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その37)

ステレオサウンド 224号、342と343ページ、
山本浩司氏が、ディナウディオのContour 60iの新製品紹介記事を書かれている。

見出しに《誰をも「見るオーディオ」の虜にする魔力が宿る》とある。
当然、山本浩司氏の本文の最後に、
《誰をが〈見るオーディオ〉の魔力の虜になってしまうに違いない》とある。

オーディオアクセサリー 186号、46、47ページ、
小原由夫氏が、パラダイムのPERSONA Bの導入記を書かれている。

見出しに《“見える音”を具現化してくれる》とある。
小原由夫氏の本文冒頭に、
《いつの頃だったか、オーディオ再生において『見える音』を意識し始めた》
とあるだけでなく、
PERSONA Bの音について、
《ペルソナBがもたらす『見える音』は、手を伸ばせば触れられそうなリアリスティックな音のフォルムだ》
とある。

小原由夫氏は、見える音について、
《見える音とはつまり、ステレオイメージの中にヴォーカリストや楽器奏者が明確な音像定位を伴って、リアルに浮かび上がり、それが3次元的なホログラフィックの如く見えることだ》
というふうに説明されている。

山本浩司氏のContour 60iの試聴記には、
《高さ方向のみならず奥行きの深い3次元的な広がりを持つステージが構築される》
とある。

山本浩司氏のいう《見るオーディオ》、
小原由夫氏のいう《見える音》は、同じことをいっていると受けとっていいはず。

そして、これは耳に近い音のことなのだろう。

Date: 10月 10th, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その36)

ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’75」の巻頭座談会、
この座談会で、瀬川先生は、
《荒唐無稽なたとえですが、自分がガリバーになって、小人の国のオーケストラの演奏を聴いているというようにはお考えになりませんか。》
と発言されている。

リアリティのある音だからこそ、
こういうふうに感じることができるのではないだろうか。

Date: 7月 23rd, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その35)

どれほど音がリアルであったとしても、
細部の音にいたるまでリアルであったとしても、
それだけで、マリア・カラスによる「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)を、
マリア・カラスの自画像そのものだ、と感じられるわけではない。

リアリティがあってこそ、
マリア・カラスの自画像と感じられるし、
マリア・カラスの自画像と感じられる音こそが、リアリティのある音だ。

Date: 6月 26th, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その34)

耳に近い音だけを求める聴き手がいる。
心に近い音を、なぜだか求めない聴き手である。

心に近い音を求めない聴き手は、耳の芯をもっていないのかもしれない。

Date: 6月 23rd, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その33)

マリア・カラスによる「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)を、
マリア・カラスの自画像そのものだ、というふうに聴き手に気づかせるスピーカーがある。

どんなに細かなところまで明瞭に再現しても、
そんなふうにまったく感じさせないスピーカーも、またある。

ある人にとってマリア・カラスの自画像と感じさせたスピーカーであっても、
鳴らす人が違えば、そう感じなくなることもある。

同じ音を聴いても、ある人は自画像だ、と感じ、
別の人は、そんなことまったく感じない。

自画像と感じさせることが、音の良し悪しと直接的に関係しているわけでもない。

さまざまなスピーカーが世の中に存在し、
さまざまな聴き手(鳴らし手)もまた世の中に存在している。

自画像なんて、そんなことは純粋な音楽鑑賞には不要なのかもしれない。
そんなことも考えながらも、マリア・カラスの「清らかな女神よ」を聴いて、
そういったことをまったく感じない(感じさせない)スピーカーは、
聴き手と対話しないスピーカーなのかもしれない。

Date: 5月 2nd, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その32)

トロフィーは飾っておくものだ。
スピーカーシステムにしろ、アンプにしろ、
トロフィーオーディオとして扱われた(買われた)モノは、
その部屋の主にとっては、トロフィー(飾りもの)なのだろう、
勝ち誇るための、そのことを再確認するためになるのだろう。

スピーカーシステムにしても、アンプにしても、
音・音楽を聴くためのモノである。

トロフィーオーディオは、部屋をデコレーションするためにあるともいえる。
そこにオーディオとしてのデザインはない、と思う。

Date: 4月 12th, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その31)

トロフィーオーディオとしてのスピーカーシステムの選択。
別にスピーカーに限らない。
トロフィーオーディオとして、アンプやその他の製品を選択していく。

そしてそれらすべてを揃えられれば、
トロフィーオーディオの主は、さぞや勝ち誇れるだろう。

勝ち誇ることで、本人が大満足しているのであればそれでいいのだが、
トロフィーオーディオとは無縁のオーディオをやっている私は、
ステレオサウンド 59号の瀬川先生の、パラゴンについての文章を思い出す。
     *
 ステレオレコードの市販された1958年以来だから、もう23年も前の製品で、たいていなら多少古めかしくなるはずだが、パラゴンに限っては、外観も音も、決して古くない。さすがはJBLの力作で、少しオーディオ道楽した人が、一度は我家に入れてみたいと考える。目の前に置いて眺めているだけで、惚れ惚れと、しかも豊かな気分になれるという、そのことだけでも素晴らしい。まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。
     *
《目の前に置いて眺めているだけで、惚れ惚れと、しかも豊かな気分になれるという、そのことだけでも素晴らしい》
とある。
豊かな気分になれる──、このことはとても大切なことであり、
勝ち誇ることとは違うことでもある。

Date: 3月 19th, 2022
Cate: スピーカーの述懐
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あるスピーカーの述懐(その30)

スピーカーはスピーカーの音を聴いている──。

辻村寿三郎氏が、ある対談でこんなことを語られている。
     *
部屋に「目があるものがない」恐ろしさっていうのが、わからない方が多いですね。ものを創る人間というのは、できるだけ自己顕示欲を消す作業をするから、部屋に「目がない」方が怖かったりするんだけど。
(吉野朔実「いたいけな瞳」文庫版より)
     *
辻村寿三郎氏がいわれる「目があるもの」とは人形のことだ。
対談では続けて、こうも言われている。
     *
辻村 本当は自己顕示欲が無くなるなんてことはありえないんだけど、それが無くなったら死んでしまうようなものなんだけど。
吉野 でも、消したいという欲求が、生きるということでもある。
辻村 そうそう、消したいっていう欲求があってこそもの創りだし、創造の仕事でしょう。どうしても自分をあまやかすことが嫌なんですよね。だから厳しいものが部屋にないと落ち着かない。お人形の目が「見ているぞ」っていう感じであると安心する。
     *
人形作家の辻村氏が人形をつくる部屋に、「目があるもの」として人形を置く。
同じ意味あいで、オーディオマニアが、己のリスニングルームに「耳があるもの」を置く。

「耳があるもの」イコール・マイクロフォンではないような気がする。
マイクロフォンは「耳があるもの」ではなく、耳の代理であるからだ。

「耳があるもの」としてのオーディオ機器は、以前も同じことを書いているが、
やはりスピーカーである。

スピーカーとマイクロフォンの動作原理は,基本的に同じだ。
つまりスピーカーユニットはマイクロフォンの代りになる。

そんなことをいっても、あくまでも理屈の上のことだろう、と思われるかもしれないが、
バスドラムの録音に、
とあるスピーカーメーカーのウーファーユニットを使っている録音スタジオがある。
かなり名の知れたスタジオであるし、
そのウーファーのメーカーも同様によく知られているメーカーだ。

それに、かなり以前、スピーカーから出た音が部屋の壁や床に反射して、
スピーカーの振動板を揺らしている──、という測定結果を見た記憶がある。

片側のスピーカーから音を出して、
音を出していない方のスピーカーの端子にオシロスコープを取り付けるという測定だった。

だからスピーカーこそ「耳があるもの」というのは、強引すぎかな、とは思うのだが、
それでもスピーカーのセッティングにおいて、
「耳があるもの」という意識をもって臨むのか、
まったくそんなこと気にせずにやるのか。

Date: 3月 18th, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その29)

ある聴き手の目の前にあるスピーカー、

つまりその聴き手がいま音楽を聴いているスピーカーは、
その聴き手を挑発しているのだろうか。

聴き手を挑発するスピーカーもあれば、まったくそうでないスピーカーもある。

それにある人にとっては挑発といえるスピーカーが、
別の人にとっては、まったくそうでなかったりもする。

挑発するスピーカーだとしても、どう聴き手を挑発するのか。
このあたりが、スピーカーにおける良友と悪友に関係してこよう。

そのうえで、スピーカーは聴き手を挑発するのか、
それともスピーカーは鳴らし手を挑発するのか。