あるスピーカーの述懐(その36)
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’75」の巻頭座談会、
この座談会で、瀬川先生は、
《荒唐無稽なたとえですが、自分がガリバーになって、小人の国のオーケストラの演奏を聴いているというようにはお考えになりませんか。》
と発言されている。
リアリティのある音だからこそ、
こういうふうに感じることができるのではないだろうか。
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’75」の巻頭座談会、
この座談会で、瀬川先生は、
《荒唐無稽なたとえですが、自分がガリバーになって、小人の国のオーケストラの演奏を聴いているというようにはお考えになりませんか。》
と発言されている。
リアリティのある音だからこそ、
こういうふうに感じることができるのではないだろうか。
どれほど音がリアルであったとしても、
細部の音にいたるまでリアルであったとしても、
それだけで、マリア・カラスによる「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)を、
マリア・カラスの自画像そのものだ、と感じられるわけではない。
リアリティがあってこそ、
マリア・カラスの自画像と感じられるし、
マリア・カラスの自画像と感じられる音こそが、リアリティのある音だ。
耳に近い音だけを求める聴き手がいる。
心に近い音を、なぜだか求めない聴き手である。
心に近い音を求めない聴き手は、耳の芯をもっていないのかもしれない。
マリア・カラスによる「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)を、
マリア・カラスの自画像そのものだ、というふうに聴き手に気づかせるスピーカーがある。
どんなに細かなところまで明瞭に再現しても、
そんなふうにまったく感じさせないスピーカーも、またある。
ある人にとってマリア・カラスの自画像と感じさせたスピーカーであっても、
鳴らす人が違えば、そう感じなくなることもある。
同じ音を聴いても、ある人は自画像だ、と感じ、
別の人は、そんなことまったく感じない。
自画像と感じさせることが、音の良し悪しと直接的に関係しているわけでもない。
さまざまなスピーカーが世の中に存在し、
さまざまな聴き手(鳴らし手)もまた世の中に存在している。
自画像なんて、そんなことは純粋な音楽鑑賞には不要なのかもしれない。
そんなことも考えながらも、マリア・カラスの「清らかな女神よ」を聴いて、
そういったことをまったく感じない(感じさせない)スピーカーは、
聴き手と対話しないスピーカーなのかもしれない。
トロフィーは飾っておくものだ。
スピーカーシステムにしろ、アンプにしろ、
トロフィーオーディオとして扱われた(買われた)モノは、
その部屋の主にとっては、トロフィー(飾りもの)なのだろう、
勝ち誇るための、そのことを再確認するためになるのだろう。
スピーカーシステムにしても、アンプにしても、
音・音楽を聴くためのモノである。
トロフィーオーディオは、部屋をデコレーションするためにあるともいえる。
そこにオーディオとしてのデザインはない、と思う。
トロフィーオーディオとしてのスピーカーシステムの選択。
別にスピーカーに限らない。
トロフィーオーディオとして、アンプやその他の製品を選択していく。
そしてそれらすべてを揃えられれば、
トロフィーオーディオの主は、さぞや勝ち誇れるだろう。
勝ち誇ることで、本人が大満足しているのであればそれでいいのだが、
トロフィーオーディオとは無縁のオーディオをやっている私は、
ステレオサウンド 59号の瀬川先生の、パラゴンについての文章を思い出す。
*
ステレオレコードの市販された1958年以来だから、もう23年も前の製品で、たいていなら多少古めかしくなるはずだが、パラゴンに限っては、外観も音も、決して古くない。さすがはJBLの力作で、少しオーディオ道楽した人が、一度は我家に入れてみたいと考える。目の前に置いて眺めているだけで、惚れ惚れと、しかも豊かな気分になれるという、そのことだけでも素晴らしい。まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。
*
《目の前に置いて眺めているだけで、惚れ惚れと、しかも豊かな気分になれるという、そのことだけでも素晴らしい》
とある。
豊かな気分になれる──、このことはとても大切なことであり、
勝ち誇ることとは違うことでもある。
スピーカーはスピーカーの音を聴いている──。
辻村寿三郎氏が、ある対談でこんなことを語られている。
*
部屋に「目があるものがない」恐ろしさっていうのが、わからない方が多いですね。ものを創る人間というのは、できるだけ自己顕示欲を消す作業をするから、部屋に「目がない」方が怖かったりするんだけど。
(吉野朔実「いたいけな瞳」文庫版より)
*
辻村寿三郎氏がいわれる「目があるもの」とは人形のことだ。
対談では続けて、こうも言われている。
*
辻村 本当は自己顕示欲が無くなるなんてことはありえないんだけど、それが無くなったら死んでしまうようなものなんだけど。
吉野 でも、消したいという欲求が、生きるということでもある。
辻村 そうそう、消したいっていう欲求があってこそもの創りだし、創造の仕事でしょう。どうしても自分をあまやかすことが嫌なんですよね。だから厳しいものが部屋にないと落ち着かない。お人形の目が「見ているぞ」っていう感じであると安心する。
*
人形作家の辻村氏が人形をつくる部屋に、「目があるもの」として人形を置く。
同じ意味あいで、オーディオマニアが、己のリスニングルームに「耳があるもの」を置く。
「耳があるもの」イコール・マイクロフォンではないような気がする。
マイクロフォンは「耳があるもの」ではなく、耳の代理であるからだ。
「耳があるもの」としてのオーディオ機器は、以前も同じことを書いているが、
やはりスピーカーである。
スピーカーとマイクロフォンの動作原理は,基本的に同じだ。
つまりスピーカーユニットはマイクロフォンの代りになる。
そんなことをいっても、あくまでも理屈の上のことだろう、と思われるかもしれないが、
バスドラムの録音に、
とあるスピーカーメーカーのウーファーユニットを使っている録音スタジオがある。
かなり名の知れたスタジオであるし、
そのウーファーのメーカーも同様によく知られているメーカーだ。
それに、かなり以前、スピーカーから出た音が部屋の壁や床に反射して、
スピーカーの振動板を揺らしている──、という測定結果を見た記憶がある。
片側のスピーカーから音を出して、
音を出していない方のスピーカーの端子にオシロスコープを取り付けるという測定だった。
だからスピーカーこそ「耳があるもの」というのは、強引すぎかな、とは思うのだが、
それでもスピーカーのセッティングにおいて、
「耳があるもの」という意識をもって臨むのか、
まったくそんなこと気にせずにやるのか。
ある聴き手の目の前にあるスピーカー、
つまりその聴き手がいま音楽を聴いているスピーカーは、
その聴き手を挑発しているのだろうか。
聴き手を挑発するスピーカーもあれば、まったくそうでないスピーカーもある。
それにある人にとっては挑発といえるスピーカーが、
別の人にとっては、まったくそうでなかったりもする。
挑発するスピーカーだとしても、どう聴き手を挑発するのか。
このあたりが、スピーカーにおける良友と悪友に関係してこよう。
そのうえで、スピーカーは聴き手を挑発するのか、
それともスピーカーは鳴らし手を挑発するのか。
いまあなたの目の前にあって、音を鳴らしているスピーカーは、
あなたにとって良友なのか、それとも悪友なのか。
悪友といえるスピーカーを鳴らしてきた人と、
悪友といえるスピーカーとは無縁のオーディオを送ってきた人。
どちらがしあわせなのだろうか。
いや、どちらが不幸なのだろうか。
1980年ごろ、トリオがΣドライブという方式を、
プリメインアンプ、パワーアンプに採用していた。
リモートセンシング技術を応用したもので、
スピーカーケーブルを二組使うことで、NFBループ領域を拡大するものだった。
この時、トリオはスピーカーの逆起電力を測定するために、
特殊なユニットを開発していた。
二組のボイスコイルと磁気回路をもつユニットである。
一つのボイスコイルは通常のボイスコイルで、パワーアンプと接続されている。
その後方にもう一つのボイスコイルがある。
もちろんボイスコイルボビンは同じである。
二つのボイスコイルは連動している。
このボイスコイルが逆起電力の検出用である。
当時の日本のメーカーは、こういうことまでやっていた。
いま思うと、さらにもう一歩突っ込んで、
磁気回路を対称磁界と非対称磁界の両方で作り、
対称磁界と非対称磁界で、逆起電力に変化が発生するのか、
発生するとしたら、どういう変化を示すのか、
そこまで測定してほしかった。
非対称磁界と対称磁界のユニット、
それぞれで、どういう音の違いが生じるのか、
スピーカーの開発者でなければ聴く機会はない、といっていい。
私も聴いたことはない。
どれだけの音の違いがあるのかは、正直わからない。
もしかするとそれほどの音の違いはないのかもしれない。
なのにJBLのSFGのアピールがうまくて、対称磁界でなければ──、
そんなふうに思い込んでいるだけなのかもしれない。
ただボイスコイルの種類によっても、
対称磁界と非対称磁界の音の違いのあらわれ方には差が出てくるであろうことは、
容易に想像できる。
ボイスコイルの幅がトッププレートの厚みよりも短く、
しかも最大振幅においても、
ボイスコイルの端がトッププレートからはみ出さない、
つまりショートボイスコイルであれば、
対称磁界と非対称磁界の音の違いは、それほど大きくないはずだ。
トッププレートの厚みと同じ幅のボイスコイルであれば、
振幅が大きくなれば、ボイスコイルの端がはみ出すことになり、
ボイスコイルの一部が非対称磁界に中におかれることになる。
となるとショートボイスコイルよりも、音の違いが大きくなるだろうし、
同じ考えでいけばロングボイスコイルであれば、より大きくあらわれるはずだ。
実際はどうなのだろうか。
1980年前後に、コバルトの世界的な不足により、
アルニコマグネットからフェライトマグネットへの変更が、
各スピーカーメーカーで行われた。
タンノイもアルテックもJBLも、アルニコからフェライトへという流れに逆らえなかった。
この時、JBLだけが、対称磁界ということを謳った。
アルニコとフェライトでは、磁気特性の違いにより、最適な形状が違ってくる。
そのためスピーカーユニットの磁気回路の設計も、当然変更になる。
JBLは、SFGということを積極的にアピールした。
SFGとはSymmetrical Field Geometryである。
フェライトマグネットはドーナツ状であり、外磁型となる。
フェライトマグネットをはさみこむようにトッププレートとバックプレートがある。
磁気回路のセンターポールピースがあり、
このポールピースとトッププレートのあいだに磁界が発生する。
ここで重要になるのはポールピースの形状である。
通常のフェライトマグネットのユニットが円筒状であるのに対して、
JBLのSFGユニットはT字状になっていた。
ポールピースがただの円筒状だと、非対称磁界になってしまう。
ポールピースがT字状であり、
T字の横棒の部分がトッププレートと同じ厚みであるSFGユニットでは、
対称磁界となる。
JBLは特許を取得していたはずだ。
だから他社はマネすることができなかった。
けれど、それからずいぶん時間が経っている。
特許は切れている(はず)。
振動板やフレームとか、外側から見えるところに関しては、
各スピーカーメーカーが、積極的にアピールしている。
マグネットについても同じである。
けれど磁界が対称であるのかそうでないのか。
このことに触れているメーカーはどれだけあるのだろうか。
二十年ほど前には、
ベートーヴェンの交響曲もブラームスの交響曲も立派に演奏できる指揮者が大勢いた──、
そんなことを1980年代の後半に、
福永陽一郎氏がレコード芸術に書かれていたと記憶している。
全面的に賛同するわけではないが、
福永陽一郎氏がいわんとされているところには共感するだけでなく、
スピーカーにおいても、いえることのような気がする。
スピーカーの進歩は確かにある。
その進歩によって、ベートーヴェンの交響曲、ブラームスの交響曲が、
立派に鳴ってくれるようになったとはいえない。
昔のスピーカーには、
ベートーヴェン、ブラームスの交響曲を立派に鳴らしてくれるモノが、
ひしめていた──とはいえないものの、
立派に鳴らしてくれるスピーカーが確かにあったことは、はっきりといえる。
いまはどうだろうか。
ここでも、耳に近く(遠く)、心に近く(遠く)がいえる。
心に近い音のスピーカーがあってこそ、
ベートーヴェンの交響曲、ブラームスの交響曲が立派に鳴ってくれる、ともいえるし、
ベートーヴェンの交響曲、ブラームスの交響曲が立派に鳴ってくれるからこそ、
心に近い音のスピーカーといえる。
福永陽一郎氏は、確かに「立派」とされていた(はず)。
この「立派」をどう解釈するかでも、心に近い(遠い)が変ってこよう。
トロフィーオーディオとして選ばれたスピーカーは、
いかなるモノであったとしても、
そして、そのスピーカー(トロフィースピーカー)で聴く人がどういう人であったところで、
心に近い音は、絶対に聴くことはできない。
心に近い音がある。心に遠い音もある。
耳に近い音がある。耳に遠い音もある。
耳に近く、心に遠い音がある。
耳に遠く、心に近い音がある。
耳に遠く、心に遠い音と耳に近く、心に近い音ならば、
耳に近く、心に近い音を、誰もが選ぶだろう。
まさか耳に遠く、心に遠い音を選ぶ人はいないはずだ。
耳に近く、心に遠い音と耳に遠く、心に近い音。
どちらをとるのかは、人によってわかれるように思う。
この選択が、パッシヴな聴き手とアクティヴな聴き手の別れ道なのかもしれない。