Archive for category 音楽家

Date: 5月 19th, 2022
Cate: Kate Bush, ディスク/ブック

So(その2)

ピーター・ガブリエルの“Don’t Give Up”。
これがケイト・ブッシュではなく、誰か別の女性歌手だったら、
これほど聴いてきただろうか。

ライヴ盤ではケイト・ブッシュではない。
だからといって曲の評価が変るわけではないが、
それでも私はケイト・ブッシュとによる“Don’t Give Up”を聴きたい。

“Don’t Give Up”を聴いたのは23歳のときだった。
1986年、いったい何回“Don’t Give Up”を聴いただろうか。

自分のシステムでも数え切れないほど聴いていたし、
ステレオサウンドの試聴室でも、試聴の準備の時、
試聴が終ってからも聴いていたりした。

そうとうにいろいろな音で、“Don’t Give Up”を聴いている。
それでも飽きずに、いい曲(歌)だな、と感じながら聴いていた。

ケイト・ブッシュが“Don’t Give Up”と歌う。
聴き手のこちらに語りかけるように歌う。

ケイト・ブッシュによる“Don’t Give Up”、この言葉は心に沁みる。
けれど、それは“Don’t Give Up”と誰かに言ってほしかったわけではなかったからだった。

六十年近く生きていれば、
“Don’t Give Up”と言ってほしいときがあった。

そういう時に“Don’t Give Up”を聴いている。
初めて聴いた時よりも、より心に沁みたかといえば、まったく違っていた。

他の人はどうなのかは知らないし、どうでもいい。
私は、そういう時に聴いた“Don’t Give Up”は、最後まで聴けなかった。

Date: 5月 1st, 2022
Cate: Jacqueline du Pré

Jacqueline du Pré(その3)

三浦淳史氏の「20世紀の名演奏家」に、ビアトリス・ハリスンが載っている。
私は、ビアトリス・ハリスンを、この本で知った。

ビアトリス・ハリスンのことは、あとがきにも書かれている。
     *
 わが国に、ほとんど馴染みのない女流チェリストのビアトリス・ハリスンを選んだのは他でもない──「国際的な名女流チェリストは一世紀にひとりか、ふたりしか生まれない」というジンクスがその通りになったからである。戦前にビアトリス・ハリスン、戦後のジャクリーヌ・デュ・プレがそうである。ふたり共イギリスの生んだ女流チェリストであるのも、不思議といえば不思議である。
 エルガーの名作「チェロ協奏曲」はハリスンによって、その真価が発揮され、これをデュ・プレが引き継いだ形になっている。「エルガーのチェロ・コンは女流に限る」というジンクスも破られていない。
     *
ビアトリス・ハリスンは1892年12月9日に生れ、1965年3月10日に没している。
録音は少ない。

デュ=プレもそれほど多いわけではないが、ハリスンはもっと少ない。
「20世紀の名演奏家」のハリスンの章には、
エルガーのチェロ協奏曲はPearl盤とEMI盤、二種の復刻盤がある、と書かれている。

聴きたい、と思ったけれど、どちらも見つけることができなかったのは、
探し方が悪かったのか。
「20世紀の名演奏家」は、出てすぐに買って読んでいる。
それでも聴く機会はなかった。

いつか聴く機会が訪れるだろう──、とその時は思っていたけれど、
いつしか忘れかけていた。

「20世紀の名演奏家」は1987年に出ている。
なのでずいぶん月日は経ってしまったけれど、思い出して、
TIDALで検束してみると、ある(聴ける)。

しかもMQA(44.1kHz)で聴ける。

Date: 4月 30th, 2022
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その9)

パブロ・カザルス指揮のモーツァルトはよく聴く。
モーツァルトの交響曲を誰の指揮で、いちばん多く聴いたか。

正確に数えたわけではないが、カザルスのモーツァルトをもっとも数多く聴いている。
カザルスのモーツァルトが好きである。

だからといって、カザルスのモーツァルトばかり聴いているわけではなく、
ベンジャミン・ブリテン指揮のモーツァルトもカザルスについでよく聴いている。

カルロ・マリア・ジュリーニのモーツァルトもよく聴くし、
他にも同じくらいよく聴く指揮者は何人もいる。

こんなふうに書いていくと、節操ないように思われるだろうが、
聴きたいとおもったモーツァルトは、けっして一つ二つではない。

それと同じくらい、もうこの人(指揮者)のモーツァルトはもう十分だ──、
そんなふうに思ってしまっている指揮者もいる。

昨晩、ユッカ=ペッカ・サラステのモーツァルトの交響曲集を聴いていた。
2011年に発売になっているけれど、私は昨晩初めて聴いた。

サラステという指揮者を、私は過小評価していたことに気づかされるほどに、
清新な印象のモーツァルトである。

カザルスのモーツァルトとは、かなり違う。
それでも、どちらのモーツァルトも活き活きとしている。

そつなく演奏(指揮)しているけれど……、といった感じのモーツァルトではない。
モーツァルトの魅力を、こちらの心にあらたに残る感じで、
モーツァルトの聴きなれた交響曲が鳴ってくる。

私が寡聞にして知らないだけで、
サラステのモーツァルトは高い評価を得ているのだろうか。
どうなのだろう。

Date: 4月 15th, 2022
Cate: Maria Callas

マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その4)

4月になってからTIDALで集中的に聴いているのは、
ソプラノ、メゾ・ソプラノ歌手である。

手あたり次第とまではいかないものの、それに近い感じで、
とにかくどこかで名前を目にした歌手を検索しては聴いているところだ。

前々から気になっていたことなのだが、
最近では大手のレコード会社からレコード(録音物)を出しているからといって、
必ずしも実力が伴っているとはいい難い。

ソプラノ、メゾ・ソプラノ歌手でも、そう感じた、というよりも、
ピアニスト、ヴァイオリニストなどもよりも、より強くそう感じた。

なぜ、この歌手が大手のレコード会社からデヴューできているのに、
この歌手はそうでないのか──、そう感じる。

大手のレコード会社から華々しく登場した歌手のほうが、
あきらかに実力不足の感が否めなかったりする。

勘ぐった見方をすれば、その歌手の出身国で売りたいからなのだろう。
そういう売り方(レコードの制作)を否定はしない。

クラシックにおいて、売れるモノがあるからこそ、
売行きは見込めないけれど──、という企画が実現できたりするからだ。

そういった歌手が誰なのかは、はっきりと書かないけれど、
最近のドイツ・グラモフォンは、ややあからさまのように感じている。

今回、集中的に聴いてあらためて、その歌のうまさに凄さを感じるのは、
サビーヌ・ドゥヴィエルだ。

カテリーナ(カタリーナ)・ペルジケ (Katharina Persicke)もいい。
TIDALでは二枚のアルバムしか聴けないが、
どちらを聴いても、どこにも無理を感じさせない歌唱は将来が楽しみである。

他にも何人か注目したい歌手が見つかった。
その人たちについて書きたいのではなく、
ここでのタイトルである、
マリア・カラスは「古典」になってしまったのか、についてである。

Date: 2月 27th, 2022
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その5)

別項で、鮮度の高い音について書いているところだ。
この「鮮度の高い音」を、
オーディオにおける金科玉条とする人はけっこう多い。

そうしたい気持はわかるし、ワルいとまではいわないけれど、
その「鮮度の高い音」は、ほんとうの意味での鮮度の高い音なのか──、
そのことについてとことん語られているのを、私は見たことがない。

私がみたことがないだけであって、
どこかで行われていたのかもしれないが、その可能性を否定しないけれど、
どうもそうとは思えない。

「鮮度の高い音」を金科玉条とする人たちは、
録音に関しても、同じ事を唱える。
シンプルな録音こそ最上だ、と。

具体的に書けば、マイクロフォンの数は二本。
つまりワンポイント録音である。

マルチマイクロフォンにすれば、ミキシングのための機器が必要となる。
そういう機器は、音の鮮度を落とすことになる。
同じ理由で、エフェクター類の使用は、まったく認めない。

ケーブルも吟味して、できるだけ短い距離で、各機器を接続する。
使用する器材はマイクロフォンと録音機器のみである。

これ以上、削ったら録音ができないまでに減らしての録音こそ、
鮮度の高い音が録れる、ということになる。

実際に、そういうコンセプトを売りにしているレーベルもある。
このことが悪いわけでもないし、可能性を感じないわけでもない。

たとえばプロプリウスから出ているカンターテ・ドミノ。
この録音こそ、まさにこういう録音である。

これまでにさんざん聴いてきたし、これからも昔ほどではないにしろ、
確認のために聴くことは間違いない。

でも、カンターテ・ドミノをstudio productと感じているかといえば、
そうではない。

Date: 2月 19th, 2022
Cate: Maria Callas

マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その3)

いろいろな人で、ある歌を聴く。
そのあとで、マリア・カラスで同じ歌を聴く。

マリア・カラスだけを聴いていれば……、という考えはしたくない。
それでも、誰かの歌のあとでマリア・カラスによる歌を聴くと、
ついそんなことを口走ってしまいたくなる。

先日もそうだった。
カラヤンによる「カルメン」を聴いていた。
アグネス・バルツァがカルメンを歌っている。

これだけを聴いていれば、バルツァのカルメンは素晴らしい、と心底思う。
なのに、カラスでも聴いてみよう、と思ってしまうと、もうだめだ。

なぜ、こんなにも存在感が違うのだろうか。
歌のテクニックということでは、いまではマリア・カラスよりも達者な歌手は少なくない。

カラスの歌は、生身の女性が歌っているという感じが、とにかく強い。
《お人形さんの可憐さにとどまった》歌では、決してない。

録音はカラスの方が古い。
なのに、カラスによってうたわれる歌は、色鮮やかだ。

むしろ新しい録音の、新しい歌手による歌のほうが、色褪て聴こえたりもする。

Date: 2月 2nd, 2022
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その1)

今年は2022年。
グレン・グールドの生誕90年で、没後40年。

ソニー・クラシカルは、なにか出してくるのだろうか。
それとも2032年の生誕100年、没後50年までおあずけとなるのだろうか。

何も出てこないような気もするけれど、
それでもまぁいいや、と思えるのは、TIDALでMQA Studioで聴けるようになったからだ。

そのTIDALだが、第一四半期に日本でのサービス開始となる、らしい。

Date: 1月 31st, 2022
Cate: Jacqueline du Pré

Jacqueline du Pré(その2)

2022年の1月も、今日で終り。
他の人はどうだか知らないが、
私は1月が、他の月よりも多少長く感じてしまう。
待ち遠しいと思う日がいくつかあるためだろう。

自分の誕生日がある、ということ。
誕生日は、いくつになってもうれしいものだ。

それだけでなく、私の好きな演奏家、作曲家の誕生日も1月の後半に集まっている。
水瓶座の時期に、いくつもある。

今日はシューベルトの誕生日だし、27日はモーツァルトの誕生日でもあった。
フルトヴェングラーが25日、そして26日はジャクリーヌ・デュ=プレである。

これだけではないけれど、好きな演奏家、作曲家の誕生日近くになると、
あと数日で、デュ=プレの誕生日だな、とおもう。
自動的にそうおもうようになっている。

特にデュ=プレの場合は、いまも生きていたら──、
そんなことを、どうしてもおもってしまう。

1945年生れだから、今年で77だ。
多発性硬化症という病に冒されてなければ、いまも現役だろう。
どんな演奏(録音)を残してくれていただろうか──、夢想する。

そんなことおもったところで……、とはわかっていても、
毎年、この時期になると、そんなことをおもう日々が続く。

26日の夜おそくに、iPhoneのロック画面の写真を替えた。
これまでもデュ=プレの写真にしていた。

今回は若いころのデュ=プレの写真にした。
ショートカットのころのデュ=プレは十八歳前後のはずで、
女学生の雰囲気の写真である。

ステージにいるデュ=プレは、どこかをみている。
バックにはオーケストラがいるのだから、彼女がみているのは、指揮者だろう。

でも、ここ数日、毎日、数回以上、このデュ=プレの写真をみていると、
どこを視ているのだろうか、とおもう。

Date: 1月 28th, 2022
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その8)

カザルスの演奏は、ソニー・クラシカルからも出ているおかげで、
TIDALでMQA Studioで聴ける。
といっても、これまで発売されたすべての録音が聴けるわけではない。

モーツァルトの交響曲がない。
CD(アメリカ盤)は持っているし、リッピングしているから聴けるのだが、
やはりMQA Studioで聴いてみたい。どうしても聴きたい。

TIDALでMQA Studioで聴けるようになるのかどうかは、
いまのところわからない。

カザルスによる剛毅な音楽は、
太い血管を血がたっぷりと、そして勢いよく通っているからなのだろう。
そんな感じを受ける。

そんな演奏を毛嫌いする人がいるのは知っている。
優美さに欠ける──、そんなことをいう人もいる。
野暮とすらいう人もいる。

それはそれでいいけれど、剛毅な音楽だからこその音楽の優しさを、
そういう人は知らないのか。

Date: 11月 13th, 2021
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

グレン・グールドのモーツァルトのピアノ・ソナタ

13歳の秋、「五味オーディオ教室」に、こうあった。
《モーツァルトの、たとえば〝トルコ行進曲〟の目をみはる清新さ》──、
グレン・グールドのことだ。

まだ、この時は、グールドのトルコ行進曲は聴いていなかった。

《目をみはる清新さ》、
この時は勝手に、こんな演奏なのかしら、と想像していた。

実際のグールドの演奏は、聴きなれていた演奏とは大きく違っていたし、
想像とも違っていた。

それからずいぶん月日が経った。
くり返し聴いた日々もあったし、
まったく聴かなくなったころもあった。

SACDでも出たので手に入れた。
SACDでも聴けるし、いまではTIDALでMQA Studioでも聴ける。

ついさっきまで聴いていた。MQA Studioで聴いていた。
聴いていて、いままで感じたことのないことを考えていた。

なにかものすごいつらい状況に追いやられた時、
音楽を聴く気力すらわいてこない時、
とにかく尋常ではない時に聴ける音楽は、こういう音楽なのではないか、と。

Date: 10月 31st, 2021
Cate: Kathleen Ferrier, ディスク/ブック

KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL

“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL” を聴いて、
もう三十年以上が過ぎている。

1985年にCDで初めて聴いたその日から、
“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は愛聴盤である。

EMI録音のフェリアーはMQAで聴けるけれど、
デッカ録音の“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は、MQAではいまのところ聴けない。
聴ける日がはやく来てほしい。

三日前に、バーバラ・ヘンドリックスの“Negro Spirituals”を、ひさしぶりに聴いた。
いいアルバムだと感じたので、そのことを書いている。

ながいことレコード(録音物)で音楽を聴いていると、こういうことはあるものだ。
“Negro Spirituals”の例がある一方で、
一時期、熱心に聴いていたのに、いまはもうさっぱり聴かなくなってしまった──、
ということだってある。

そういうものである。

“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”も、
もしかする、聴いても何も感じなくなる日がやってくるのかもしれない。

絶対に来ない、とはいいきれない。

そんな日が来たら、私は「人」として終ってしまった──、そうおもう。
そんな日が来たら、もう自死しか選択肢は残っていない──、
私にとって“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は、そういう愛聴盤だ。

Date: 9月 25th, 2021
Cate: Glenn Gould

9月25日(その2)

1932年9月25日が、グレン・グールドの誕生日である。

グレン・グールドがもし生きていれば、89歳。
八年前にも、グールドの81歳の姿は想像できない、と書いているのだから、
89歳、そして来年の90歳の姿は、やはり想像できない。

それでも生きていてくれていれば──、と、
グレン・グールドの演奏を聴いてきた者ならば思うだろう。

私はベートーヴェンのピアノ・ソナタの最後の三曲を録音しなおしてほしかった。
ゴールドベルグ変奏曲の旧録と新録を聴いているわけだから、
再録音してくれていたら──、と。

他にもグールドの解釈で聴きたかった作曲家、曲はある。
それでもベートーヴェンの三曲だけは、再録音で残してほしかった。

グールドが亡くなった1982年にも、そう思った。
このおもいは、強くなっていくばかりだ。

Date: 6月 11th, 2021
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その7)

いろんな指揮者のモーツァルトの演奏を聴いていると、
ふと、こんな演奏じゃなくて……、と思ってしまうときがある。

そういう時に聴きたくなるモーツァルトは、きまってカザルス指揮のモーツァルトである。
そして、もうひとりフリッツ・ライナーのモーツァルトである。

ライナー/シカゴ交響楽団によるモーツァルトを聴いていると、
これこそがモーツァルトだ、と心でつぶやいている。

カザルスのモーツァルトもそうなのだが、こういうモーツァルトは聴けそうで聴けない。

ライナー/シカゴ交響楽団のモーツァルトの交響曲を聴く、ずっと前に、
ライナー/メトロポリタン歌劇場による「フィガロの結婚」を聴いていた。

録音は、私が手に入れたCDはかなり悪かった。
それでも演奏は素晴らしかった。

五味先生はカラヤンの旧録音(EMIでのモノーラル)を高く評価されていた。
五味先生はライナーの「フィガロの結婚」は聴かれていないのか。

「フィガロの結婚」の記憶があるから、
ライナー/シカゴ交響楽団のモーツァルトには期待していた。

期待は裏切られるどころか、こちらの勝手な期待を大きくこえたところで、
モーツァルトのト短調が鳴り響いていた。

五味先生の表現を借りれば、
《涙の追いつかぬモーツァルトの悲しい素顔》が浮き上ってくる演奏とは、
ライナーやカザルスの演奏のような気がしてならない。

Date: 4月 25th, 2021
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その19)

facebookでの(その17)へのコメントに、こうあった。

「骨格のある音」と「それ以外の音」、
「EMTの鳴らす音」と「それ以外のプレーヤーの音」とあった。

トーレンスの101 Limitedを使われている方からのコメントである。
いうまでもなく101 LimitedはEMTの930stと同じである。

私も20代のころ、101 Limitedを使っていたから、よくわかる。
別項「EMT 930stのこと(ガラード301との比較)」で、音の構図について触れた。

このことも、骨格のある音と密接に関係している。

そして音の構図の確かさがあってこその、ステージの再現である。

アナログディスク全盛時代には、骨格のある音、音の構図の確かなプレーヤーがあった。
数はそう多くはなかった、というよりも、少なかったけれど、確実に存在していた。

そういう音と接してきた耳とそうでない耳とでは、求める音が違って当然である。
直観的に捉えられる音に違いも生じてくる。

私より若い世代となると、アナログディスクではなく、
CDで音楽を聴き始めたという人が多いであろう。

CDプレーヤーで、骨格のある音、音の構図の確かなモデルもあったけれど、
それはアナログプレーヤーにおける割合よりもさらに小さかった。

ディスクに刻まれている音をあますところなく再現したからといって、
骨格のある音になるとはかぎらないし、
音の構図が確かなものになるともかぎらない。

Date: 4月 23rd, 2021
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その18)

「骨格のある音」、「骨格のしっかりした音」、
こういうことを考えるようになったのは、これもまた「五味オーディオ教室」からである。

「五味オーディオ教室」は、肉体のない音ということから始まっていた。
肉体のある音とは、どういう音なのか。

「五味オーディオ教室」を手に取ったばかりの13歳の私には、よくわからなかった。
ただ、世の中に肉体のある音(肉体の復活を感じさせる音)とそうでない音とがある、
その事実だけである。

肉体の復活は、音像定位がしっかりと再現されていれば、
それがそうなわけではない。

よくいわれる音のボディを感じさせるのも、
必ずしも肉体の復活を感じさせる音ではないはず、と私は受けとっている。

正直なところ、五味先生に訊きたかったことのひとつである。
けれど、五味先生は1980年に亡くなられている。
あえなかった。

だから、考え続けていくしかないわけで、例えば人物画。
ここにも骨格のある人物画と、骨格を感じさせない人物画とがあるように感じている。

どんなに写実性の高い人物画であっても、
その絵が必ずしも骨格のある(感じさせる)とはかぎらない。

ここでの人物画は服を着た人の場合である。

それでいても、骨格の感じられる人物画があるし、そうでないものもある。