Archive for category 音楽家

Date: 7月 18th, 2022
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その4)

アレクシス・ワイセンベルクも、ゴールドベルグ変奏曲を二回録音している。
しかも二回目はグレン・グールドと同じ1981年である。

グールドの1981年録音のゴールドベルグ変奏曲は、1982年秋に出た。
ワイセンベルクのゴールドベルグ変奏曲は、いつ出たのだろうか。
記憶にない、というのではなく、まったく気づいていなかった。

私がワイセンベルクのゴールドベルグ変奏曲を聴いたのは、
別項「アレクシス・ワイセンベルク」で書いているように昨夏から、
TIDALに、ワイセンベルクのアルバムがかなりの数あるからだ。

グールドがワイセンベルクのことを高く評価していたのは知っていた。
それでもこれまでほとんどといってくらいにワイセンベルクを聴いてこなかった。
それがいまでは聴くようになった。

グールドのゴールドベルグ変奏曲の未発表レコーディング・セッション・全テイク、
これが出るというニュースをきいてからもワイセンベルクのゴールドベルグ変奏曲を聴いた。

聴いていて、ワイセンベルクはグールドに似ている、というよりも、
グールドに近い、と感じていた。
そしてグールドの未発表のテイクのなかには、
ワイセンベルクの演奏に近い変奏曲があっても不思議ではない──、
そんなことをおもうようにもなっていた。

近い演奏がまったくない、と思っていない。
といっても、まだ聴いていないのだから、なんともいえない。
まったくないのかも知れない。

あと二ヵ月ちょっと経てば、グールドの未発表テイクは発売になる。
その時またワイセンベルクのゴールドベルグ変奏曲を聴いている。

Date: 7月 16th, 2022
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その3)

グレン・グールドは、音楽のキット化を提唱していたことがある。
音楽のキット化は、クラシック音楽におけることであって、
ベートーヴェンの第九のことを思い浮べたことがある。
     *
 戦後のLP時代に入って、〝第九〟でもっとも印象にのこるのはトスカニーニ盤だろうか。
 はじめてこれを聴いたとき、そのテンポの速いのに驚いた。これはベートーヴェンを冒涜するものだとそれから腹を立てた。ワインガルトナーしかそれまで知らなかったのだからこの怒りは当然だったと今でもおもう。もともと、ヴェルディの〝レクイエム〟やオペラを指揮した場合を除いて、彼のチャップリン的風貌とともにトスカニーニをあまり私は好きではなかった。戦前の世評の高い、〝第五〟を聴いたときからそうである。のちに、トスカニーニがアメリカへ招聘されるにあたって、〝トリスタンとイゾルデ〟を指揮することを条件に出した話を、マーラー夫人の回想記で読み、トスカニーニにワグナーが振れてたまるかとマーラーと同様、いきどおりをおぼえたが、いずれにせよ、イタ公トスカニーニにベートーヴェンは不向きと私はさめていた。だからその〝第九〟をはじめて聴いたとき、先ずテンポの速さにあきれ、何とアメリカナイズされたベートーヴェンかと心で舌打ちしたのである。
 それが、幾度か、くりかえして聴くうちに速さが気にならなくなったから《馴れる》というのはこわいものだ。むしろその第三楽章アダージォなど、他に比肩するもののない名演と今では思っている。
「何と美しいアダージォだ……」
 トスカニーニー自身が、プレイバックでこの楽章を聴きながら涙を流した話を、後年、彼の秘書をつとめた人の回想録〝ザ・マエストロ〟で読んだときも、だからさもありなんと思ったくらいで、いかなフルトヴェングラーの〝第九〟——第二次大戦後のバイロイト音楽祭復活に際し、そのオープニングに演奏されたもの。ちなみに、フルトヴェングラーは生前この〝第九〟のレコードプレスを許さなかった——でさえ、アダージォはトスカニーニにくらべやや冗長で、緻密な美しさにおとる印象を私はうけた。フルトヴェングラーがこれをプレスさせなかったのも当然とおもえた。それくらい、第三楽章のトスカニーニは完ぺきだった。ベートーヴェンの〝第九〟では古くはビーチャム卿、ピエール・モントゥ、ワルター、カラヤン、クリュイタンス、ベームと聴いてきたが、ついに決定盤ともいうべき演奏・録音に優れたレコードを私は知らない。
     *
五味先生の「《第九交響曲》からの引用だ。
グレン・グールドのいう音楽のキット化は、こういうことである。

《決定盤ともいうべき演奏・録音に優れたレコード》が、
第九にはなかったと感じたらどうするか。

第三楽章はトスカニーニで聴いて、
第一楽章、第二楽章、第四楽章は、
《他に比肩するもののない名演》と感じている指揮者の演奏をそれぞれ選択する。

それをひとつにまとめて聴く、という行為が音楽のキット化だった。
グールドの音楽のキット化を読んだ時、
おもしろいと感じながらも、実際の問題点としてあれこれ思ったものだ。

けれど、今回のゴールドベルグ変奏曲の未発表レコーディング・セッション・全テイクは、
まさにグールドが提唱した音楽のキット化のための理想的な素材ととらえることができる。

そして、一つおもうことがある。
アレクシス・ワイセンベルクのゴールドベルグ変奏曲のことである。

Date: 7月 13th, 2022
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その2)

グレン・グールドの生誕90年で、没後40年の今年、
ソニー・クラシカルは、なにを出してくるのだろうか──、
といったことを(その1)で書いた。

数日前に、やっと判明した。
1981年録音のゴールドベルグ変奏曲の未発表レコーディング・セッション・全テイク。
全アルバムのSACDでの発売はなかったけれど、
これはこれでなかなかに嬉しい企画である。

もちろんすぐに予約した。
予約した、予約するつもり、という人はけっこういると思う。
ものすごい数が売れるとは思わないけれど、
とりあえず買っておこう、という人は少なくないと思うからだ。

けれどだけれど、いったい買った人の何割がきちんと聴きとおすだろうか。
買い逃したくない、仕事をリタイアしたら、その時じっくりと聴く──、
そんなことを思っている人もまた少なくないだろうが、
はたして、ほんとうにじっくりと今回のこのCDボックスのすべてを聴きとおすか──、
そう問われれば、私はたぶんやらないだろう、と答える。

三十ある変奏曲のいくつかに関しては、じっくりと聴き比べだろうが、
すべてをそうすることはない、と思っている。

Date: 6月 4th, 2022
Cate: Jacqueline du Pré

Jacqueline du Pré(その4)

6月3日に、ジャクリーヌ・デュ=プレのリマスターCDボックスが発売になった。
TIDALでも聴けるようになるだろう、と予想していた。
昨日から、TIDALでも、かなりのアルバムが新しいリマスターで、
しかもMQA Studio(196kHz)で聴けるようになった。

CDボックスを買っても、MQAでは聴くことはできない。
CDのスペックでの音でしか聴けない。

ストリーミングで音楽を聴くなんて……、という人は、
このことをどう受け止めているのだろうか。

昨晩は、TIDALに入っていてほんとうによかった、と、
ひとりで首肯いていた。

もしTIDALで入っていなかったとしても、
今回のデュ=プレのことは、入る大きなきっかけとなったはずだ。

Date: 5月 19th, 2022
Cate: Kate Bush, ディスク/ブック

So(その2)

ピーター・ガブリエルの“Don’t Give Up”。
これがケイト・ブッシュではなく、誰か別の女性歌手だったら、
これほど聴いてきただろうか。

ライヴ盤ではケイト・ブッシュではない。
だからといって曲の評価が変るわけではないが、
それでも私はケイト・ブッシュとによる“Don’t Give Up”を聴きたい。

“Don’t Give Up”を聴いたのは23歳のときだった。
1986年、いったい何回“Don’t Give Up”を聴いただろうか。

自分のシステムでも数え切れないほど聴いていたし、
ステレオサウンドの試聴室でも、試聴の準備の時、
試聴が終ってからも聴いていたりした。

そうとうにいろいろな音で、“Don’t Give Up”を聴いている。
それでも飽きずに、いい曲(歌)だな、と感じながら聴いていた。

ケイト・ブッシュが“Don’t Give Up”と歌う。
聴き手のこちらに語りかけるように歌う。

ケイト・ブッシュによる“Don’t Give Up”、この言葉は心に沁みる。
けれど、それは“Don’t Give Up”と誰かに言ってほしかったわけではなかったからだった。

六十年近く生きていれば、
“Don’t Give Up”と言ってほしいときがあった。

そういう時に“Don’t Give Up”を聴いている。
初めて聴いた時よりも、より心に沁みたかといえば、まったく違っていた。

他の人はどうなのかは知らないし、どうでもいい。
私は、そういう時に聴いた“Don’t Give Up”は、最後まで聴けなかった。

Date: 5月 1st, 2022
Cate: Jacqueline du Pré

Jacqueline du Pré(その3)

三浦淳史氏の「20世紀の名演奏家」に、ビアトリス・ハリスンが載っている。
私は、ビアトリス・ハリスンを、この本で知った。

ビアトリス・ハリスンのことは、あとがきにも書かれている。
     *
 わが国に、ほとんど馴染みのない女流チェリストのビアトリス・ハリスンを選んだのは他でもない──「国際的な名女流チェリストは一世紀にひとりか、ふたりしか生まれない」というジンクスがその通りになったからである。戦前にビアトリス・ハリスン、戦後のジャクリーヌ・デュ・プレがそうである。ふたり共イギリスの生んだ女流チェリストであるのも、不思議といえば不思議である。
 エルガーの名作「チェロ協奏曲」はハリスンによって、その真価が発揮され、これをデュ・プレが引き継いだ形になっている。「エルガーのチェロ・コンは女流に限る」というジンクスも破られていない。
     *
ビアトリス・ハリスンは1892年12月9日に生れ、1965年3月10日に没している。
録音は少ない。

デュ=プレもそれほど多いわけではないが、ハリスンはもっと少ない。
「20世紀の名演奏家」のハリスンの章には、
エルガーのチェロ協奏曲はPearl盤とEMI盤、二種の復刻盤がある、と書かれている。

聴きたい、と思ったけれど、どちらも見つけることができなかったのは、
探し方が悪かったのか。
「20世紀の名演奏家」は、出てすぐに買って読んでいる。
それでも聴く機会はなかった。

いつか聴く機会が訪れるだろう──、とその時は思っていたけれど、
いつしか忘れかけていた。

「20世紀の名演奏家」は1987年に出ている。
なのでずいぶん月日は経ってしまったけれど、思い出して、
TIDALで検束してみると、ある(聴ける)。

しかもMQA(44.1kHz)で聴ける。

Date: 4月 30th, 2022
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その9)

パブロ・カザルス指揮のモーツァルトはよく聴く。
モーツァルトの交響曲を誰の指揮で、いちばん多く聴いたか。

正確に数えたわけではないが、カザルスのモーツァルトをもっとも数多く聴いている。
カザルスのモーツァルトが好きである。

だからといって、カザルスのモーツァルトばかり聴いているわけではなく、
ベンジャミン・ブリテン指揮のモーツァルトもカザルスについでよく聴いている。

カルロ・マリア・ジュリーニのモーツァルトもよく聴くし、
他にも同じくらいよく聴く指揮者は何人もいる。

こんなふうに書いていくと、節操ないように思われるだろうが、
聴きたいとおもったモーツァルトは、けっして一つ二つではない。

それと同じくらい、もうこの人(指揮者)のモーツァルトはもう十分だ──、
そんなふうに思ってしまっている指揮者もいる。

昨晩、ユッカ=ペッカ・サラステのモーツァルトの交響曲集を聴いていた。
2011年に発売になっているけれど、私は昨晩初めて聴いた。

サラステという指揮者を、私は過小評価していたことに気づかされるほどに、
清新な印象のモーツァルトである。

カザルスのモーツァルトとは、かなり違う。
それでも、どちらのモーツァルトも活き活きとしている。

そつなく演奏(指揮)しているけれど……、といった感じのモーツァルトではない。
モーツァルトの魅力を、こちらの心にあらたに残る感じで、
モーツァルトの聴きなれた交響曲が鳴ってくる。

私が寡聞にして知らないだけで、
サラステのモーツァルトは高い評価を得ているのだろうか。
どうなのだろう。

Date: 4月 15th, 2022
Cate: Maria Callas

マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その4)

4月になってからTIDALで集中的に聴いているのは、
ソプラノ、メゾ・ソプラノ歌手である。

手あたり次第とまではいかないものの、それに近い感じで、
とにかくどこかで名前を目にした歌手を検索しては聴いているところだ。

前々から気になっていたことなのだが、
最近では大手のレコード会社からレコード(録音物)を出しているからといって、
必ずしも実力が伴っているとはいい難い。

ソプラノ、メゾ・ソプラノ歌手でも、そう感じた、というよりも、
ピアニスト、ヴァイオリニストなどもよりも、より強くそう感じた。

なぜ、この歌手が大手のレコード会社からデヴューできているのに、
この歌手はそうでないのか──、そう感じる。

大手のレコード会社から華々しく登場した歌手のほうが、
あきらかに実力不足の感が否めなかったりする。

勘ぐった見方をすれば、その歌手の出身国で売りたいからなのだろう。
そういう売り方(レコードの制作)を否定はしない。

クラシックにおいて、売れるモノがあるからこそ、
売行きは見込めないけれど──、という企画が実現できたりするからだ。

そういった歌手が誰なのかは、はっきりと書かないけれど、
最近のドイツ・グラモフォンは、ややあからさまのように感じている。

今回、集中的に聴いてあらためて、その歌のうまさに凄さを感じるのは、
サビーヌ・ドゥヴィエルだ。

カテリーナ(カタリーナ)・ペルジケ (Katharina Persicke)もいい。
TIDALでは二枚のアルバムしか聴けないが、
どちらを聴いても、どこにも無理を感じさせない歌唱は将来が楽しみである。

他にも何人か注目したい歌手が見つかった。
その人たちについて書きたいのではなく、
ここでのタイトルである、
マリア・カラスは「古典」になってしまったのか、についてである。

Date: 2月 27th, 2022
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その5)

別項で、鮮度の高い音について書いているところだ。
この「鮮度の高い音」を、
オーディオにおける金科玉条とする人はけっこう多い。

そうしたい気持はわかるし、ワルいとまではいわないけれど、
その「鮮度の高い音」は、ほんとうの意味での鮮度の高い音なのか──、
そのことについてとことん語られているのを、私は見たことがない。

私がみたことがないだけであって、
どこかで行われていたのかもしれないが、その可能性を否定しないけれど、
どうもそうとは思えない。

「鮮度の高い音」を金科玉条とする人たちは、
録音に関しても、同じ事を唱える。
シンプルな録音こそ最上だ、と。

具体的に書けば、マイクロフォンの数は二本。
つまりワンポイント録音である。

マルチマイクロフォンにすれば、ミキシングのための機器が必要となる。
そういう機器は、音の鮮度を落とすことになる。
同じ理由で、エフェクター類の使用は、まったく認めない。

ケーブルも吟味して、できるだけ短い距離で、各機器を接続する。
使用する器材はマイクロフォンと録音機器のみである。

これ以上、削ったら録音ができないまでに減らしての録音こそ、
鮮度の高い音が録れる、ということになる。

実際に、そういうコンセプトを売りにしているレーベルもある。
このことが悪いわけでもないし、可能性を感じないわけでもない。

たとえばプロプリウスから出ているカンターテ・ドミノ。
この録音こそ、まさにこういう録音である。

これまでにさんざん聴いてきたし、これからも昔ほどではないにしろ、
確認のために聴くことは間違いない。

でも、カンターテ・ドミノをstudio productと感じているかといえば、
そうではない。

Date: 2月 19th, 2022
Cate: Maria Callas

マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その3)

いろいろな人で、ある歌を聴く。
そのあとで、マリア・カラスで同じ歌を聴く。

マリア・カラスだけを聴いていれば……、という考えはしたくない。
それでも、誰かの歌のあとでマリア・カラスによる歌を聴くと、
ついそんなことを口走ってしまいたくなる。

先日もそうだった。
カラヤンによる「カルメン」を聴いていた。
アグネス・バルツァがカルメンを歌っている。

これだけを聴いていれば、バルツァのカルメンは素晴らしい、と心底思う。
なのに、カラスでも聴いてみよう、と思ってしまうと、もうだめだ。

なぜ、こんなにも存在感が違うのだろうか。
歌のテクニックということでは、いまではマリア・カラスよりも達者な歌手は少なくない。

カラスの歌は、生身の女性が歌っているという感じが、とにかく強い。
《お人形さんの可憐さにとどまった》歌では、決してない。

録音はカラスの方が古い。
なのに、カラスによってうたわれる歌は、色鮮やかだ。

むしろ新しい録音の、新しい歌手による歌のほうが、色褪て聴こえたりもする。

Date: 2月 2nd, 2022
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その1)

今年は2022年。
グレン・グールドの生誕90年で、没後40年。

ソニー・クラシカルは、なにか出してくるのだろうか。
それとも2032年の生誕100年、没後50年までおあずけとなるのだろうか。

何も出てこないような気もするけれど、
それでもまぁいいや、と思えるのは、TIDALでMQA Studioで聴けるようになったからだ。

そのTIDALだが、第一四半期に日本でのサービス開始となる、らしい。

Date: 1月 31st, 2022
Cate: Jacqueline du Pré

Jacqueline du Pré(その2)

2022年の1月も、今日で終り。
他の人はどうだか知らないが、
私は1月が、他の月よりも多少長く感じてしまう。
待ち遠しいと思う日がいくつかあるためだろう。

自分の誕生日がある、ということ。
誕生日は、いくつになってもうれしいものだ。

それだけでなく、私の好きな演奏家、作曲家の誕生日も1月の後半に集まっている。
水瓶座の時期に、いくつもある。

今日はシューベルトの誕生日だし、27日はモーツァルトの誕生日でもあった。
フルトヴェングラーが25日、そして26日はジャクリーヌ・デュ=プレである。

これだけではないけれど、好きな演奏家、作曲家の誕生日近くになると、
あと数日で、デュ=プレの誕生日だな、とおもう。
自動的にそうおもうようになっている。

特にデュ=プレの場合は、いまも生きていたら──、
そんなことを、どうしてもおもってしまう。

1945年生れだから、今年で77だ。
多発性硬化症という病に冒されてなければ、いまも現役だろう。
どんな演奏(録音)を残してくれていただろうか──、夢想する。

そんなことおもったところで……、とはわかっていても、
毎年、この時期になると、そんなことをおもう日々が続く。

26日の夜おそくに、iPhoneのロック画面の写真を替えた。
これまでもデュ=プレの写真にしていた。

今回は若いころのデュ=プレの写真にした。
ショートカットのころのデュ=プレは十八歳前後のはずで、
女学生の雰囲気の写真である。

ステージにいるデュ=プレは、どこかをみている。
バックにはオーケストラがいるのだから、彼女がみているのは、指揮者だろう。

でも、ここ数日、毎日、数回以上、このデュ=プレの写真をみていると、
どこを視ているのだろうか、とおもう。

Date: 1月 28th, 2022
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その8)

カザルスの演奏は、ソニー・クラシカルからも出ているおかげで、
TIDALでMQA Studioで聴ける。
といっても、これまで発売されたすべての録音が聴けるわけではない。

モーツァルトの交響曲がない。
CD(アメリカ盤)は持っているし、リッピングしているから聴けるのだが、
やはりMQA Studioで聴いてみたい。どうしても聴きたい。

TIDALでMQA Studioで聴けるようになるのかどうかは、
いまのところわからない。

カザルスによる剛毅な音楽は、
太い血管を血がたっぷりと、そして勢いよく通っているからなのだろう。
そんな感じを受ける。

そんな演奏を毛嫌いする人がいるのは知っている。
優美さに欠ける──、そんなことをいう人もいる。
野暮とすらいう人もいる。

それはそれでいいけれど、剛毅な音楽だからこその音楽の優しさを、
そういう人は知らないのか。

Date: 11月 13th, 2021
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

グレン・グールドのモーツァルトのピアノ・ソナタ

13歳の秋、「五味オーディオ教室」に、こうあった。
《モーツァルトの、たとえば〝トルコ行進曲〟の目をみはる清新さ》──、
グレン・グールドのことだ。

まだ、この時は、グールドのトルコ行進曲は聴いていなかった。

《目をみはる清新さ》、
この時は勝手に、こんな演奏なのかしら、と想像していた。

実際のグールドの演奏は、聴きなれていた演奏とは大きく違っていたし、
想像とも違っていた。

それからずいぶん月日が経った。
くり返し聴いた日々もあったし、
まったく聴かなくなったころもあった。

SACDでも出たので手に入れた。
SACDでも聴けるし、いまではTIDALでMQA Studioでも聴ける。

ついさっきまで聴いていた。MQA Studioで聴いていた。
聴いていて、いままで感じたことのないことを考えていた。

なにかものすごいつらい状況に追いやられた時、
音楽を聴く気力すらわいてこない時、
とにかく尋常ではない時に聴ける音楽は、こういう音楽なのではないか、と。

Date: 10月 31st, 2021
Cate: Kathleen Ferrier, ディスク/ブック

KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL

“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL” を聴いて、
もう三十年以上が過ぎている。

1985年にCDで初めて聴いたその日から、
“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は愛聴盤である。

EMI録音のフェリアーはMQAで聴けるけれど、
デッカ録音の“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は、MQAではいまのところ聴けない。
聴ける日がはやく来てほしい。

三日前に、バーバラ・ヘンドリックスの“Negro Spirituals”を、ひさしぶりに聴いた。
いいアルバムだと感じたので、そのことを書いている。

ながいことレコード(録音物)で音楽を聴いていると、こういうことはあるものだ。
“Negro Spirituals”の例がある一方で、
一時期、熱心に聴いていたのに、いまはもうさっぱり聴かなくなってしまった──、
ということだってある。

そういうものである。

“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”も、
もしかする、聴いても何も感じなくなる日がやってくるのかもしれない。

絶対に来ない、とはいいきれない。

そんな日が来たら、私は「人」として終ってしまった──、そうおもう。
そんな日が来たら、もう自死しか選択肢は残っていない──、
私にとって“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は、そういう愛聴盤だ。