Archive for category 表現する

Date: 9月 20th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(聴いてもらうということ)

自分の体臭はわからない。それと同じで自分の音の色もわからない。
だからこそ、信頼できるひとに聴いてもらい指摘してもらうことで、自分の音の色・クセを知ることができる。
そう、ずっと以前から語られている。

たしかに自分の体臭はわからないものなのだろう。
これについては、とくに反論するつもりはない。

だが、音に関しては、そう安易にとらえてどうするんだ、と反論したい。
ほんとうに自分の音の色は、誰かに聴いてもらい指摘されなければわからないものなのか。

音は体臭と違い、正面から向ってくる。
自分の音といっても、あくまでも自分が鳴らしこんだスピーカーシステムから鳴ってくる音。
体臭といっしょくたにとらえることはできないだろう。

それに「音楽」を聴く。
さまざまな音楽──それは音楽のジャンルだけにとどまらず、いろんな年代の、いろんな国の、
いろんなレーベルの、じつに多彩なレコードをわれわれは聴いている。
演奏のスタイルも違えば、おさめられた音も、一枚として同じレコードは存在しない。
すべてが異っている。このことが、自分の音の色・クセを教えてくれることになる。

理想は、かけるレコードがかわればがらりと、そこに再現される世界がかわる。
ただ、どんなレコードをもってきても、頑固に変らないところがある、
多少はかわっても大すじでは同じところもある。

四六時中、数少ないレコード、それも、そこにおさめられている音楽も音も似通っているものばかりかけていては、
そういうレコードによる違いには気づきにくくなるけれど、
そうじゃなく好きなレコードを鳴らしていると、自然に録音の年代の違いもどんどんひろがっていく。

それこそSPの復刻ものから最新の録音まで、そのあいだには真空管式の機器全盛の時代のものもしれば、
初期のトランジスターの、いわゆる「石くさい」音のものもあるし、
モノーラル、ステレオの違いは当然とし、マイクロフォン・セッティングも時代によって、国によって、
レーベルによって、そして録音エンジニアによって、
そういう「違い」のコレクションが、知らず知らずのうちに充実してくる。

それらのコレクションを鳴らしていれば、そしてオーディオのチューニングをしていけば、
どうしても拭いとれない何かがあることに、いつかは気がつく。

それが、いわゆるその人の音の色だ。

自分自身でそこに気がつくよりも誰かに聴いてもらった方が早いだろう。それが楽だ。
だからといって、聴いてもらうことに頼っていては、自分の音の色を知ったつもりになるだけで、
なにも表現できていない、いつまでたっても表現できずじまいに陥るかもしれない。
楽な(安易な)道を選ぶのはその人の勝手だが、それで「オーディオ」と呼べるだろうか。

Date: 8月 3rd, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(自分語りについて)

音を表現していくのは難しさがある。
音を直接表現できない以上、なにかをもってくることで、音楽、オーディオについて語る、書いていくことになる。

自分語りがある。
音楽、オーディオについて語るために自分語りをもってくるのと、
自分語りをしたいがために、音楽、オーディオについて語るのとでは、まったく違うものである。

自分語りを目的としているのに、それを巧妙に隠した文章は、
赤裸々に己のことを書いてある、ふうに読めなくもない。そう受け取っている読み手もいることだろう。
ここまで……、こんなことまで書くんだ、この人は、と思わせておきながら、じつのところ、
そこに書いてあることといえば、広く浅く自分語りをしているだけだったりしてないだろうか。

音楽、オーディオについて語るための表現手段としての自分語りの場合、狭く深く、といってもいいのかもしれない。

そんなことを感じることが多くなってきた。

ニーチェが「善悪の彼岸」に書いている。
「自己について多くを語ることは、自己を隠すひとつの手段でもあり得る」と。

自分語りを目的としている人の、音楽、オーディオについての文章は結局のところ、
なにひとつ語っていない、己のことも、音楽、オーディオについても。

Date: 7月 25th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その1)

間違っている音は、ある。

悪い音でもない、おかしな音でもない、嫌いな音でもない、間違っている音がある。

ヴァイオリンの独奏、ベースの独奏をおさめたCDを鳴らしているのに、楽器の数が一提ではない。
ヴァイオリンなりベースが二提、三提、ときには四提、
スピーカーのあいだにあらわれ弾いているように聴かせる音がある。

音像が音量を上げるにつれて肥大するのとはまったく異り、
楽器の数がほんらいのありかたとまったく違っている。
これも、もう間違っている。
好みの問題で片付けられるようなことではない。

現在市販されている、名の通ったスピーカーシステムで聴くかぎり、
よほど特殊な使い方でもしないことには、こういう現象はまず起きない。
起す方が、ある意味スゴイといえる。

たいていはユニットを組み合わせただけで、
基本を無視した自作のスピーカーか(自作スピーカーを非難しているのではない)、
もしくは既製のスピーカーシステムを内蔵ネットワークを介さずにすべてマルチアンプドライブし、
それだけでなくなんらかの電気的な処理でも施さないかぎり、こういう間違ったことにはならない。

なにも客観性のある音で鳴らせ、と、ひとに強要はしない。
けれどオーディオには録音と再生のあいだには、約束事がある。

この約束事だけは守ったうえで、自分の音というものがある、ともいえる。
その約束事を完全に無視して、心に染み入る音だから、などと力説されても、
そこに説得力はこれっぽっちも存在しない。間違っている音なのだから。

はやく気づいてほしい、と想うばかりだ。

Date: 7月 13th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(普遍性とは)

与えられたプログラムソースを再生する以上、いくら自分の好きな音だからといって、
あまりにも逸脱した表現は、どこかおかしい、といわざるをえない。

主観と客観のバランスを求められる、ということは、ずっと以前から云われ続けてきたことでもある。

では客観性のある音とは、いったいどういう音なのか。
そして、その一方で、「徹底した主観こそが客観性をもちえる」ともいわれている。

たしかに、そう思う時もけっこうある。
ただ、このことばだけでは、客観性のある音がどういうものかははっきりとしない。

今日、四谷三丁目にある喫茶茶会記であれこれ、けっこうな時間話していてふと思ったのは、
普遍性について、である。

客観性のある音、普遍性のある音。ほぼ同じような音と受けとめられるだろうが、
けっして、まったく同じ音なわけではないだろう。

「徹底した主観こそが客観性をもちえる」のであれば、
「透徹した主観こそが普遍性へとつながっていく」といえないだろうか。

客観性とは人に認められること、ならば、普遍性は神に認められること、かとも思えてくる。
そして、普遍性への過程に「浄化」があるようにも思う。

Date: 7月 12th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(その9)

裡なる原型をつくっていくには、リモデリング、リレンダリングの前に、
モデリング、レンダリングの行程がある。

聴こえてくる側には、プログラムソースに内包されている「原型」もあるし、
スピーカーシステムに起因する「原型」といった、複数の「原型」があり、
それら「原型」の組合せをリモデリング、リレンダリングで修整していく。

だが裡なる原型は、ゼロからつくっていくものだろう。
最初からうまくいく性質のものではない。
つくってはこわし、またつくってはこわしのくり返しが、
最初のうちはずっと続いていくのではなかろうか、と思いたくなるほどたやすいことではない。

「原型」をモデリングしていくには、とにかく音楽を聴くこと。
そして、音を聴くこと。ひたすら聴くこと。

ときにはスピーカーシステムを変え、アンプを変え、
アクセサリーの類いにも必要以上に凝ってみることにもなるだろう。
そうやって試行錯誤していくしかない。このことに関しては、誰も手助けはできないのだから。

Date: 7月 11th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(その8)

スピーカーシステムから発せられる音を聴く耳、
裡なる原型の発する「聲」を聴くための、もうひとつの耳。

この「ふたつ」の耳が聴きえた「ふたつ」の音が調和することこそ、音の表現なのだろう。

「音は人なり」とは、そういうことではないだろうか。

Date: 7月 10th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(その7)

「原型」はなにも聴こえてくる側だけに在るのではない。
「原型」は己の裡にも在るし、あらねばならない。

Date: 7月 9th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(その6)

アナログディスクにしろ、CD、SACDにしろ、
それからこれから大きく普及するであろう配信によるソースにしろ、
これから先、どれだけ「器」が多くなり、高密度化されようと、
そこにおさめられているのが相似形、近似値であることにかわりはない。

そして、スピーカーシステムにかぎらず、オーディオ機器すべて完璧なモノが存在しない以上、
再生側でもなんらか取零しが発生し、そのままでは同時に不要と思われるものがついてくることになる。

聴き手側は、あくまでプログラムソースに納められている相似形、近似値の、
ようするに「原型」をもとに、本来の姿に近づけるべく修正していく。
ときに余分なものをとりさり、必要と思われるものを肉付けしたり(リモデリング)、
色調や肌理を整えたり、陰影を付けより立体的にみせたり(リレンダリング)する。

聴き手側で、ゼロからのモデリング、レンダリングは要求されることはない。

そして、ここに “High Fidelity(高忠実度)”が関係してくる。

Date: 7月 8th, 2010
Cate: D44000 Paragon, JBL, 表現する

パラゴンの形態(音を表現するということ)

パラゴンの形態は、どうみても現代スピーカーとは呼べない。

けれど、パラゴンは、パラゴンならではの手法で、
プログラムソースの相似形、近似値のデータにリモデリング、リレンダリングを行っている。
その結果が、パラゴン独得の形態へとつながっている。

Date: 6月 12th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(その5)

CDよりも、DVD-Audio、SACDのデータ量は多い。
パッケージメディアから配信へと移行していくことは、パッケージメディアの規格から解放されることでもあり、
受けて側の処理能力が高ければ、データ量はますます増えていくはずだ。

だが、どんなにデータ量が、CDとは比較にならないほど大きなものになったとしても、
どこまでいっても、それは近似値、相似形のデータでしかない。

マイクロフォンが変換した信号を100%あますところなく完全に記録できたとしても、
マイクロフォンが100%の変換を行っているわけではないし、
マイクロフォンが振動板が捉えた音を100%電気信号に変換したとしても、
そこで奏でられている音楽を100%捉えているわけではない。

それぞれどこかに取零しが存在する。

なにか画期的な収録・録音方法が発明されないかぎり、
どんな形であれ、聴き手であるわれわれの元に届くのは、近似・相似形のデータだ。
だからこそ、その相似形・近似値のデータを元にしたリモデリング、リレンダリングが、
聴き手側に要求され、必要とされる。

Date: 5月 27th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(その4)

優れたアナウンサーが、優れた朗読家とはかぎらない。

どちらも書かれた文章を読み上げることにかわりはない。
明瞭な発音、正確なアクセント、ここちよいリズムで読み上げる。

基本となる技術はおなじでも、
アナウンサーはannouncer、つまりannounce(告知する、知らせる)人。
アナウンサーに求められるのは、情報の正確な伝達である。

朗読は、announce ではなく、recite。
音楽や朗読などの少人数による公演は、recital(リサイタル)。

ここにある違いは、「表現」で、それを生むものとはなんであるのか。

Date: 5月 26th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(その3)

ジョン・カルショウが、ショルティとの「ニーベルングの指環」の録音について綴った書籍のタイトルを
“RING RESOUNDING” としているのは、さすがだと思う。

この “RESOUNDING” ということばを、再生側の立場で、解きほぐしていいかえるならば、
“remodeling(リモデリング)”と”rerendering(リレンダリング)” になると考える。

RESOUNDING = remodeling + rerendering というより、
RESOUNDING = remodeling × rerendering という感じが、私の中にはある。

“RESOUNDING”があったからこそ、”remodeling”と”rerendering” を思いついたしだいだ。

ところで、”RING RESOUNDING” の”RING” は、
ワーグナーの「ニーベルングの指環」の指環を指しているわけだが、もうひとつの意味も含まれていると思っている。

“RING” には、〈音が〉鳴り響く、という意味が、ここにはこめられているはずだ。

Date: 5月 25th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(その2)

プログラムソースに収められている音楽を再生していくことも、書くこと同様、
音を表現していく行為にほかならない。

だから、ここでもモデリング、レンダリングという認識が必要だ、
と考えるようになった(理由は他にもあるけれど)。

ただ再生行為の場合、リモデリング、リレンダリング、というように、「リ(Re )」を頭につけたほうが、
よりしっくり、ぴったりしてくる。

Date: 5月 24th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(その1)

オーディオ、音楽、音について考えていても、書くこととのあいだには、大きな隔たりがある。
音をどれだけ精確に聴きとったとしても、音について書くことのあいだにも、大きな問題がある。

鳴ってきた音を、それこそ事細かに、どれだけ多くの言葉を費やしたとしても、
語ることの構造を認識しないままでは、読み手に正確に伝えることは不可能なような気がする。

ことばで音を語ることは、ことばによるモデリングとレンダリングであり、
このことをはっきりと認識することで、ことばによる音の表現は明確になっていくのではなかろうか。

モデリングをおろそかにしたままで、レンダリングについてだけ、どれだけ言葉を綴ろうとも意味をなさない。
まず書き手が力を注ぐべきは、モデリングである。

と書きながらも、私自身、ことばによるモデリングとレンダリングについて、
はっきりと誰かに説明できるわけではない。
模索している段階である。

ただ、オーディオの調整においても、このモデリングとレンダリングについては、
しっかりと認識しておく必要がある、と考えている。
そうすることで、「モデリング」と「レンダリング」が、きっと明確になっていくであろう。