Archive for category 表現する

Date: 3月 17th, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(その4)

マーラーが見てきた景色は、マーラーの目を通した景色である。
マーラーが見ていた景色を、同じところから見ることが仮にできたとしても、
マーラーが生きていた時代と、いま私が生きている時代とでは、いろいろ違うことがある。

暗騒音にしてもマーラーの時代といまとではずいぶん違うことだろう。
空気も違うことだろう。
街を歩く人びとの服装も、マーラーの時代といまとではもちろん違う。
街並も、いまも現存している建物もあるだろうが、やはり変ってきている。

そうなるとマーラーが見ていたものと私がそこに立って見ているものが、必ずしも完全に一致することはない。

マーラーというフィルターを通して、マーラーだからこそ感じとれたものを含めて、
その風景を、ときにマーラーの音楽の聴き手であるわれわれは、感じとれることもある。

マーラーが生きてきた時代、マーラーの人生がどうだったのかは、
マーラーに関する書籍が、世界でいちばん多く出版されている、といわれている日本に住んでいるわけだから、
関心のある方は、すべてではないにしても、マーラーの聴き手であれば何冊かは読まれているだろう。
だから、それについてここでは書かない。

マーラーの音楽の中に入っている「景色」とは、いわゆる景色だけではない。
マーラーが、その人生で見てきたものがみな入っている、と解釈できると思う。

だから交響曲第一番の第一楽章が夜明けを描いていることは、
なんというアイロニーなであり、象徴的であろうか、とおもってしまう。

Date: 10月 31st, 2012
Cate: 表現する

夜の質感(その3)

まだステレオサウンドで働く前のこと、
五味先生の「いい音いい音楽」に、こう書いてあった。
     *
 マーラーがかつてオーストリアのある山荘にこもって作曲していたとき、そこを訪問したブルーノ・ワルターが、辺りの景色を立ち止まって眺めていたら、マーラーはいったそうだ、「そんなものを見たって無意味さ。その景色はみな私の音楽の中に入っているよ」——と。マーラーのこの顰に倣うなら、ぼくたちは日本にいて、いまやあらゆる国の音楽を聴けるばかりか、その風景をさえ居ながらにして感知することができる。
     *
このとき、まだマーラーのレコードはそんなに聴いていたわけではなかった。
ほかに聴きたいレコードを優先していたから、まだマーラーは先でいいや、という気持もあったし、
まだ学生で自分で稼いでいたわけではないから、数えるほどしかもっていなかった。
FMで放送されたものをカセットテープに録音したものが、他にすこしあったくらいだった。

そんなころに、五味先生のこの文章を読んだわけで、
素直にそうなんだ、という気持もあったし、
マーラーさん、少し誇張がはいっているでしょう、という気持がなかったわけでもない。

そうはいっても、まだまだマーラーの聴き手として未熟どころか、
交響曲においてもすべてを聴いていたわけではなかったから、自分なりの結論を出すようなことはしなかった。

そんな聴き手が、ステレオサウンドで働くようになってから一変、
こんなにも集中して、部分的ではあってもマーラーをこれほど聴くようになるとは思ってなかった。

記憶違いでなければ、ステレオサウンドの試聴室ではじめて聴いたマーラーは、
何度か書いているアバド/シカゴ交響楽団による第一番である。

このマーラーを聴いて、マーラーの言葉、
「そんなものを見たって無意味さ。その景色はみな私の音楽の中に入っているよ」が嘘でないことを実感した。

若書きの作品といわれる第一番なのに、
第一楽章の冒頭を聴けば、景色が浮ぶ。

すべての指揮者によるマーラーの演奏でそうなるわけではないし、
オーディオ機器によっても、浮ばない音もあるし、その景色に違いが生じる。

とはいえ、優れたマーラーの演奏を、音楽を極力歪めずに鳴らすのであれば、
マーラーの音楽の中にマーラーが見てきた景色は、たしかにはいっている。
そのことを実感できる。

Date: 10月 30th, 2012
Cate: 表現する

夜の質感(その2)

ステレオサウンドの試聴室では、よくマーラーを聴いた。
作曲家別でいえば、やはりマーラーがいちばん多かったかもしれない。

私がステレオサウンドで働きはじめたのは1982年、
最初に試聴で聴いたマーラーはアバド/シカゴ交響楽団の第一番だった、と記憶している。
これはサウンドコニサーの試聴で、一楽章を何度も聴いた。
出だしの、あのはりつめた感じの温度感が、スピーカーが変ると、アンプが変ると、
きりっとした空気感が漂いはじめもするし、どこかぬるい澱んだ空気にもなったりして、
温度感もそれにともない上下する。
こんな朝の空気では目も覚めない、といいたくなるものもあれば、
しゃきっと目が覚めるような感じにもなる。

次はレーグナーの第六番だった。
インバルの第四番、第五番も何度聴いたことだろう。
小澤征爾の第二番は、井上先生がよく使われていた。

これら以外のマーラーも、単発で試聴に使われることがあった。

試聴はときどき夜にかかることもあったけれど、
ほとんどは昼間に行われる。場合によっては朝から、というときもあった。
明るい時間帯にマーラーの交響曲をくり返し聴く。

別にマーラーに限らないのだが、
マーラーを聴きたい気分だろうが、そんなことは関係なくくり返し聴くのが試聴であり、
それゆえに試聴レコードの選定の難しさがある、といえる。

自分のシステムで聴くマーラーとは違う接し方・聴き方のマーラーがあった。
そのおかげで気がつくことがあった。

Date: 10月 30th, 2012
Cate: 表現する

夜の質感(その1)

五味先生は、著書「いい音いい音楽」のなかで、こんなことを書かれている。
     *
「ハイドンは朝きく音楽だ」
 と言った人があるほど、出勤前などの、爽快な朝の気分にまことにふさわしい音楽である。そしてあえて言えば、ハイドンは男性の聴く音楽である。
     *
すこし誇張された書き方なのはわかっている。
けれど、たしかにそうだ、と読んだときに思ったものだ。
ハイドンのすべての作品が朝きく音楽、というわけではないだろうが、
ハイドンの作品でよく知られているものに関しては、そんな気はするし、
特に男性の聴く音楽というところは、まさにそうだと思う。

ハイドンが朝きく音楽であるとすれば、夜きく音楽はマーラー、ということになるだろう。

いまの季節、快晴の日は空が高くて、しかもからっと気持がいい。
そんな日の朝に、マーラーの交響曲(第四番ならまだしも)は、ふさわしい音楽はいえない。
朝からどんよりとした陰鬱な朝であれば、まだマーラーの交響曲もいいかもしれないけれど、
やはりマーラーは夜きく音楽だろう。

朝、マーラーの交響曲、二番、六番、七番とかを聴いて、
さあ、仕事に出かけよう!、という人は、まぁ、いないと思う。

音楽の聴き方は自由、ともいえる。
いくつものことが自由である。
音量も、音質も、時間も、場所も。
ソースが手元にあれば、いつでもさまざまな音楽が聴ける。
聴けるから、といって、その音楽にふさわしい時間というものがあることを、聴き手は無視できない。

けれどそうもいってられない状況もある。
ステレオサウンドの試聴室での取材が、そうだ。
天気のいい昼間からマーラーをかけることが多かった。

Date: 10月 22nd, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(その12)

前回の(その11)の最後に、
自意識なき自己顕示欲は存在するのか、と書いた。

これを書いたことによって、実は先を書きあぐねていた。

自意識なき自己顕示欲、と、1年以上前に、なかば勢いで書いてしまった。
書いてしまって、自意識なき自己顕示欲とは、いったいどういうことなんだろうか、
とそれから考えていた。

自意識とは、辞書には「自分についての意識、自我意識」とある。
わかったようでいてよくわからない説明である。

Wikipediaをみると、自意識の項目は作成中となっていて、
自己認識の項目のところに、自意識についての説明がある。
そこには自意識とは「自意識は責任能力や実直さの様な人間の特性の根拠」とある。

となると、自意識なき自己顕示欲は、
責任能力や実直さの様な人間の特性の根拠なき自己顕示欲、ということになる。

こう書いてみると、自意識なき自己顕示欲は存在する、
少なくとも自意識なき自己顕示欲による音は、たしかに存在する。
そして、自意識なき自己顕示欲による音を、聴いてきた──、
そう思える記憶がたしかにあることに気づく。

Date: 4月 11th, 2012
Cate: 楽しみ方, 表現する

オーディオの楽しみ方(読み方について)

ステレオサウンドにいたとき、音を言葉で表現することの難しさについて、
編集部の先輩のNさんとよく話していた。

オーディオ雑誌からは、昔から言われ続けている通り、そこにあるのは文字と写真とイラスト、図版などであり、
誌面からは音は出てこない。
視覚的なもので音を読者に伝えるために、オーディオ評論家だけでなく編集者もあれこれ考え続けていた。

何度話し合ったところで、決定打はない。
そういうものが、もし世の中に存在しているのであれば、誰かがすでに見つけていたはず。
それが見つからないからこそ、オーディオ評論が面白い、ともいえる。

そういえば、菅野先生から10年ほど前に聞いた話がある。
菅野先生が髪を切りにいかれている店で、
「オーディオにはまったく興味はないんですけど、
音を表現する文章は面白いからときどきオーディオ雑誌を読んでいます。」
と店のスタッフの方に話しかけられた、ということだった。

菅野先生は、意外な話として話された。
私も意外な話として聞いていた。

オーディオに興味のある人は、たとえばスピーカーシステムの買い替えを検討している人は、
スピーカーシステムの特集記事、新製品の試聴記事が載っていれば、
その文章から、そのスピーカーシステムがいったいどんな音をなのか、
そのスピーカーシステムの能力の高さはどの程度のものなのか、
いま鳴らしているモノよりもどれだけいいのか、
そしていま自分が求めている音をほんとうに実現してくれるものなのか、
はたまた価格に見合った音、価格以上の音を出してくれるのか、等々、さまざまな情報を読み取ろうとする。

けれど、菅野先生が話してくれた人は、
そんなことにはまったく無関心なのだから(オーディオに関心がないのだから)、
音の表現方法の面白さを、オーディオマニアよりも純粋に楽しんでいる、ともいえるわけだ。

Date: 4月 6th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続×五・使いこなしについて話してきたこと)

マンガだから、荒唐無稽な話ではない。
「シャカリキ!」で8歳の野々村輝が一番坂への挑戦は、結局は失敗に終る。
坂の中ほどでいちど足をついているくらい体力を消耗しているだから、
坂を下っているあいだに多少は体力は回復したとしても、8歳の少年。
ふたたび登りはじめたけれど、やはり途中で精根尽き果てて倒れてしまう。

一度目の足をついてしまったことと、二度目の倒れてしまったことの意味あいは同じではない。
一度目は限界への挑戦(それも失敗)であって、二度目は限界を超えてしまった、といえる。

オーディオはスポーツではない。
体力の限界を越えてやるようなものではない、のだが、
それでも、オーディオの「限界」とは、なんだろうか、と考えてしまう。

ひとつにはオーディオ機器の限界がある。
とはいえ、この限界は一般的に思われているよりもずっと高いものだという認識を私は持っている。
そして、使う人の限界がある。

人の限界はつねに同じというわけではない。
その人次第で、その限界は変動・変化していく。
今日の限界は、必ずしも明日の限界というわけではない。

けれど、人の限界には、そういう限界とは違う、もうひとつの「限界」があるような気がしてならない。
オーディオにおいても、それがある、と思っている。
その「限界」を超えて、その「限界」をより高くしていくには、
オーディオにおいても、野々村輝と同じやり方をやっていくしかない、と信じていたい。

Date: 4月 5th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々続々・使いこなしについて話してきたこと)

人によって考えは違う。だから手が止ってしまったとしても、
それが動き出すまで待てばいい。少なくとも、手が止ってしまうというのは、
音があるところまでいっているからでもあり、それならば好きな音楽を楽しむだけ楽しめばいい。
もちろん、これを、以前は私は言っていたことがある。

それでもオーディオをはじめてまだ10年ほどのときに、手が止ってしまうことがあったら、
いまの私は、「もう一度、一からやってみたらどうか」と言う。

システムを解体して再び組むという作業は、ものすごいエネルギーを必要とする。
こんなことは若いときにやっておかなければ、歳をとってからでは、ますます億劫になってしまう。
若いときに一度やっておけば、さらに10年後、20年後にもう一度、これをやれるかもしれないが、
若いときにやったことがなければ、引越しでもないのにシステムを解体しての再構築は、しんどい。

「シャカリキ!」の主人公、野々村輝は8歳のときに一番坂に挑戦して、
この項の最初に書いたように足をついてしまったところから再スタートするのではなく、
坂を下ってまた一から挑戦していく。
「シャカリキ!」の主人公の、この行動は、話が進み高校生になったときの行動でもある。

やっと登ってきた坂をまた引き返して最初から登りなおす、なんていうことは、
マンガというつくり話の中のことであって、それと現実のオーディオにあてはめるなんて……、
と思われる方は、こんなめんどうなことはやらない方がいい。

足をついたところで一旦休憩して体力が回復してまた登りはじめた方がいい、
その方が目的地(頂上)にははやく到着するのだから、と言うだろう。

でもそれで、ほんとうに頂上に辿り着けるのだろうか。
オーディオの目的地は、あるのではなくつくられるものてあるのだから、
その目的地に辿り着くには、強くなければならない、と思う。

オーディオはひとりでやっていくものであるから、強くありたい、と思う。
そうありたいから、足をついたら最初からやり直す。

Date: 4月 5th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々続・使いこなしについて話してきたこと)

実際に、このことを試してみるとわかるのだが、
意外に、とでもいおうか、それとも、やっぱり、とでもいうべきなのか、
システムを解体する前の状態と同じにセッティングしなおしたと思って音を出してみると、
あくまでも感覚量にしかすぎないのだが、解体前の音の50%再現できれば、いい方だと思っている。

50%にも満たない音がすることだって、少なくないと思う。

これをやるときに、解体前の状態を写真に撮ったりメモをとったりせずに、
やろう! と決意したら、即システムをすべて解体して、一旦リスニングルームの外にオーディオ機器を出す、
それもこれはできれば、ほかの人にやってもらった方がいい。
オーディオ機器の扱いで信頼のできる人にまかせてやってもらう。
そうすれば解体するときに、セッティングを記憶することができなくなるからである。

ある期間をかけてこつこつ築いてきた──、とはいっても、そのすべてを意外にも、
それを行ってきた本人が把握し切れていないからであり、注意を向けていないところに関しては、
どうなっていたのかさえ思い出せないこともあるはず。

それに記憶していることでも同じにやったつもりでも、同じようにしかなっていないことも、少なからずある。
アクセサリーを多用している場合だと、そうなりがちだろう。

結局、自分でやってきたことにもかかわらず、思い出せないことは実のところ、
そのことは自分の手法として身についているとはいえないのではないか。

そういうやり方でも、チューニングをやっていってれば音は変化する。
変化する以上は、どちらかを選択して、その時点でいい音と思えた方を当然選択する。
これをずっと続けていれるのであれば、それはそれでいいのかもしれないが、
これに関しても、微妙ではありながらも、大事な問題が絡んできていて、
Aの音とBの音を比較して、よい方を選ぶ、というやり方では目的地を見失うこともある。
これについては、項を改めて書いていくが、
ある期間をオーディオを続けていると、ふと手が止ってしまうことがあっても不思議ではない。

くりかえすが、私が一度システムを解体して、もう一度最初からやってみることを、
ここで書いているのは、そういうときにそういう状況から抜け出るため、
そして抜け出た後に身につくことが最も多いやり方であるためだ。

Date: 4月 4th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々・使いこなしについて話してきたこと)

そういうときオーディオマニアは、
もしかすると自分の音はかなりいいところまでいっているんじゃないか、と思うこともある。
自分の音に対して懐疑的な人であっても、そんな気持になるときはあるはず。
そうでなければ、オーディオはながく続けてはこれない、とも思うからだ。

この1年間、オーディオとひたすら取り組んできた。
最初は、ほんとうにひどい鳴り方しかしなかった音が、音楽が楽しめる鳴り方になってきた。
と同時に、これから先、どういうふうに取り組んでいけばいいのかが、
自分の中から湧いてこない状態にもなってしまったかのようでもある……、
「だから、一度音を聴きに来てほしい」という連絡があり、4月1日に行ってきた。

話を聞いて、音を聴かせてもらい、また話をしていた。
午後1時にその方をお宅を訪れて、9時半ごろまでいた。
本人だけでなく、奥さんもいっしょに私の話をきいてくれていた。
いくつか具体的なチューニングについて話してきたものの、
これだけの時間話してきても、まだまだ話したりないことのほうが多い。
それでも、ひとつだけくり返し言ってきたのは、
一度、いまのセッティング、これまでチューニングしてきたことをすべて崩して、
リスニングルームからすべてのオーディオ機器(ラックや置き台を含めて)すべてを一旦出して、
つまり部屋を空っぽにした状態で、もう一度、最初からセッティング、チューニングしてみることをすすめてきた。

これをやるのは、ほんとうに大変なことである。
ながい時間をかけて築いてきた音を、すべて解体してしまう。
そして「もう一度、一からやってみたらどうか」と私は言ってきた。

Date: 4月 4th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続・使いこなしについて話してきたこと)

オーディオマニアだったら、何度も目にしたり耳にしたりしていることだが、
オーディオは高価な機種を買い揃えるだけで、
いい音、もくしは求める(理想とする音)が簡単に手に入るものではない。
(いい音と理想とする音は、人によっては必ずしもまったく同じとはいえないところもあるが、
このことに関しては、今回はあえてふれない。)

購入したオーディオ機器は、リスニングルームとなる自分の部屋に、まず設置する。
そして音を出していく。
最初から、偶然がうまく重なってうまいとこ鳴ってくれることもある。
充分な配慮のもとにセッティングしていけば、オーディオ機器が素性の優れたものであれば、
そうひどい音はしないこともある。
それでも、そこで満足できるものではなく、たとえ最初からかなり満足のいく音が鳴ってきたとしても、
どこかをチューニングしていきたくなる。
まして、部屋の状態によっては、望んでいた音、求めていた音とはずいぶん違う音が鳴ってくることだってある。
となると、チューニングをこつこつとやっていくことになる。

最初からいい音で鳴ったとしてもそうでなかったとしても、チューニングをしていく。
中には、そんな細かいことをせずに、いきなりスピーカーシステムやアンプを買い換える人もいるだろう。
でも、オーディオマニアと呼ばれる人は、チューニングを施していく。

思いつく限り、あれこれ試していく。
自分で思いつかなくなったら、オーディオ雑誌やインターネットを参考にして、
チューニングの手法を手に入れ、それらを試していく。
オーディオの仲間がいれば、彼らの知恵を借りること(そして、貸すこと)もある。

そうやってやっていけば、ごく短期間での上下変動はあるものの、
音は少しずつ(ときにはぐんと)良くなっていくものである。
だから、オーディオは続けられていくし、続いていく。

それでも、ふと、いまの自分の音について確認作業を行ないたくなるときが訪れることもある。
チューニングをひたすらやってきて満足のいく音が出始めてきたとき、
そういうときは不思議と、チューニングの次のステップが思いつかないときでもあろう。

Date: 4月 3rd, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(使いこなしについて話してきたこと)

もう20年も経っているのか……、と今日書こうと思っていたことについて、
その年代をふりかえってみたらちょうど20年だった。

1992年に「シャカリキ!」というマンガの連載が始まった。
自転車のマンガである。いまでこそ東京の街中をロードレースで走っていく人は多い。
いまは自転車関係の雑誌も数も増えているし、
書店に置かれる冊数もはっきりと増えている。それに自転車店も増えた。

でも20年前、自転車はいまとは違い、ブームとは呼べる状況ではなかった。
そんななかで連載が始まった「シャカリキ!」を、夢中になって読んでいた。

主人公は野々村輝という少年。
彼が関西のある町に引越してきたところから始まる。
その町は坂が多いため、ほとんど自転車に乗る人がいない。
そこで自転車好きの主人公を待ちうけていたのは、二番坂と一番坂。

どちらも長い坂道で、一番坂は二番坂よりも2倍ほど長く高い坂という設定。
主人公の野々村輝は二番坂を登り切る。
同級生(小学生)は誰も自転車で登り切ることのできなかった二番坂を、である。

そして一番坂に挑戦する。
坂の中ほど、つまり二番坂と同じくらいのところで力尽き、ペダルから足が離れ、地に足をついてしまう。
このあとに主人公がとった行動は、まったく予測できないものだった。
野々村輝は何も言わずに坂を下ってしまう。
そして、もう一度スタート地点にもどり、一番坂を登りはじめる。

足をついたことぐらいなんでもない、そこで休んだわけでもないし、
そのまままた坂の頂上を目指して登り続けたとしても、誰もなにも言わない。
にもかかわらず、野々村輝は坂のはじまりまで戻っていく。

坂をのぼるのはしんどいけれど、時間をかけて登ってきた坂を下ってしまうのはあっという間である。
その短い時間で体力が回復することはない。
常識的に考えれば、足をついたところからまた登り続けた方が、一番坂を登り切る可能性はまだ高い。
それでもまた最初から挑む。

こんなオーディオと関係のないことを書くのは、2日前(4月1日)に、音を聴きに出かけていたからだ。

Date: 3月 19th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(音の黄金比)

音は「バランスが大事だ」とかなり昔からいわれつづけている。

まずは帯域バランス。それから音色の硬軟のバランス。情緒的な面と知性的な面とのバランス、陽と陰とのバランス。
こうやって例をあげていくと、いくつでも出てくる。
これらのバランスが見事にとれいてる総合的な音は、見事な音といえることだろう。
それが、いい音であるのか、は措いとくとしても、ケチのつけようのない音であることは確かなはず。

ただ、バランスでも、特に対比的・対称的・対照的な面に関わってくるバランスにおいては、
1対1、つまりぴったり同等であることが、美しい音を生み出すとはどうしても思えない。

1対1ではなくて、すこしどちらかに傾いたバランス、
それはおそらく黄金比とよばれる比率になるのかもしれないが、
そういうバランスの音こそが、
そしてその比率が、ときに音楽の表情の変化によって逆転することのできる音のみが、
美しい音として認識されてゆくような気がする。

こんなことを書いてはいても、
ではどうやって音の、そういう面のバランスを数値化が出来るのか、と問われても答えられない。
結局は、耳で判断するしかないことなのだから、そこに黄金比をもってくるのはもともと無理がある考え──、
そう思われてもいい。同意してくれる方がいなくてもいい。私もそう思っているところがある。

それでも感覚的な黄金比は確かにある、と感じていて、
この黄金比を己の感覚として身につけることが、私にとっての「音を表現する」ということになっていく……。

Date: 3月 15th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続×五・聴く、ということ)

音は、どこをいじったとしても必ず変化する。
その変化量や変化のベクトルは同じでないにしても、
音が変化しないということは──これは断言しておくが──、絶対にない。

こんなことでも音は変るのか……、と、ときには、その「発見」に喜ぶこともあるし、
またときには、こんなことで音は変ってほしくない、と思うこともある。
ちょっとやそっとのことでは音が変らない、そんなオーディオが欲しい気持はどこかにある。
それでも、音は変る。

にも関わらず、世の中にはオーディオを趣味としているといいながらも、
ケーブルを変えても音は変らない(この程度ならまだいいほうなのかもしれない)、
中にはアンプを変えても音は変らない、という人もいる。

実は、そういう人の音のきき方は、音の違いのみに意識を集中しているのではないか、と感じる。
音の変化を聴き分けるのだから、それでいいんじゃないか、といわれそうだが、
音を聴くということは、音の良さを聴きとろうとする行為であって、
それぞれのオーディオ機器の音の良さを感じとろう、聴きとろうという意識であれば、
音の違いは自然とわかってくるもの。

Date: 9月 13th, 2011
Cate: 表現する

音を表現するということ(その11)

自己表現について考えていく前に、自己顕示について考えてみたい。

自己顕示欲については、ここで触れたように、
自己顕示欲を全否定するわけではない。

ただ……、と思う。
自分の音を誰かに聴かせることになったとする。
そのとき、この自己顕示欲を意識することにならないだろうか。

誰にも聴かせない──、どんな人に頼まれたとしても断わることができさえすれば、
そして家族にさえも聴かせない。
その音を聴くのは、世界に自分ひとりだけという状況をつくり維持していければ、
そこで鳴っている音は、自己顕示欲から解放され、無縁でいられるのかもしれない。

けれど、そこに誰かが存在することになれば、そうもいかなくなる。
ここで毎日書いている文章も、結局は誰かに読まれている。
つまりは、読んでくださっている方に向けての表現といえるところも当然あって、
そこ(そして底)には自己顕示欲が、どういうかたちにしろ、存在している。

あと何年こうやって文章を書いていくのかは私にもわからないけれど、
ひとつはっきりいえることは、最後まで自己顕示欲から完全に解放されることはない、ということ。

けれど、音の表現に関しては、もしかすると、自己顕示欲からの完全な解放が可能なのかもしれない。
それとも、誰にも聴かせなかったとしても、無理なことなのだろうか。

もうひとつ思うのは、自意識なき自己顕示欲は存在するのか、ということ。