Archive for category 表現する

Date: 9月 10th, 2014
Cate: 表現する

音を表現するということ(その13)

菅野先生の「レコード演奏家」論がある。
私は「レコード演奏家」論に賛同しているが、
すべてのオーディオマニアがそうでないことは知っている。

ただ「レコード演奏家」論に異をとなえる人の中には、
誤解以外のなにものではないだろう、といいたくなることもある。

菅野先生の「レコード演奏家」論は、ステレオサウンドから出ている。
audio sharinngでも、2002年版を公開している。

私が公開しているところに以前リンクがはられていた。
そこで「レコード演奏家」論がどう語られているのか、見てみた。

そこには料理人が差し出した料理に、味見もせずに塩コショウをふりかけるのと同じ行為だ、
音楽の聴き手として許せない行為だ、とあった。

どこをどう読めば、そう受けとれるのか、逆に訊ねたくなったくらいである。
そんな読み方で「レコード演奏家」論を誤解している人がいる。

賛同していない人のすべてがこういう人ではない。
人それぞれであって、「レコード演奏家」論を認めていない人もいる。

その一方で「レコード演奏家」論に賛同しながらも、曲解されているのでは? と思える人もいるように感じている。

Date: 1月 19th, 2014
Cate: 表現する

音を表現するということ(聴きに行くことについて)

人に自分の音を聴いてもらう、
人の音を聴きに行く、試聴会にも行くし、ジャズ喫茶、名曲喫茶にも足を運ぶ、
さらにはコンサートにも行く。

自分のオーディオからの音だけではなく、
さまざまな音で音楽を聴く。

悪いことではない。

こういうことはやめたほうがいい、とは思っていない。
でも、と思う時もある。

どこかに出かけて音を聴くのは楽しいし、いい刺戟にもなることがある。
勉強になることだってあるだろう。

それでも、まず大事なのは自分の音と正面切って対峙すること。
そうやって自分の音を徹底して聴くこと、である、いいところも悪いところも。

Date: 12月 2nd, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(その8)

シノーポリによるマーラーは、当時賛否両論があったように記憶している。
私のまわりにも、どちらかといえば否定的な意見をもつ人がいたし、
そうかと思えば熱狂的に、といいたくなるほどシノーポリの演奏を支持する人もいた。

非常に興味深い、という意味では面白い演奏なのはわかるけれども、
それでも、ここまで……、という気持が多少なりとも湧いてきたことも事実だった。

否定的とまではいかなかったけれど、熱狂的に支持するともいかなかった。
つまり態度保留にしていた。

しかも、ここ十数年、シノーポリのマーラーは聴いていない。
いちどすべて聴いてみよう、とは思っている。
私も歳をとっているし、時代も変っている。
鳴らすスピーカーも変った。
いま、どう感じるかを知りたい、と思うからだ。

バーンスタインのマーラーとシノーポリのマーラー、
当時、このふたつのマーラーを聴いて漠然と感じていたのは、
解釈(interpretation)と分析(analysis)の違いと、その境界の曖昧さだった

クラシックを聴く人は、同じ曲を何人もの演奏家の録音で聴いている。
それはつまり聴いた演奏家の数だけの解釈を聴いているわけであり、
シノーポリのマーラーも、シノーポリの解釈であることはわかってはいる。
わかってはいるけれども、当時、シノーポリの演奏は解釈よりも、
分析的な面が色濃く感じられるような気がしていた。

Date: 11月 25th, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(その7)

私はバーンスタインの新録にマーラーの闇(と勝手に思っているだけにしろ)を感じる。
けれど、マーラーの聴き手のすべてがバーンスタインの新録に、それを感じているとは限らない。

バーンスタインの旧録に強く感じている人だっていていいし、
ワルターだ、という人、いやテンシュテットこそが、という人だっていよう。

闇といっても、あまりにも漠然としすぎている。
闇をどう感じているかによっても、変ってくることだから、
誰が正しいのかなんて無意味でもある。

ただ私にはバーンスタインの新録だ、ということだけが、私にとってのマーラーであり、
私のマーラーの聴き方、ということになるだけの話だ。

そのバーンスタインのマーラーの新録と、ほぼ同時期に、
同じドイツ・グラモフォンに、シノーポリがフィルハーモニー管弦楽団を指揮して、
マーラーの全集の録音をすすめていた。

何番が最初に出たのかは憶えていないが、
私がシノーポリのマーラーを最初に聴いたのは第五番だった。

シノーポリは心理学、脳外科を大学で学んできた人ということでも、
シノーポリのマーラーは注目されていた。

マーラーと同じユダヤ人としてのバーンスタインとは、
イタリア人で学究的(衒学的ともいわれていた)なマーラーの解釈をする、
というようなことがいわれていたシノーポリは、ずいぶんと立つ位置の異るところでのマーラーを聴かせてくれた。

Date: 11月 23rd, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(その6)

マーラーの人生には、闇が待ち構えていた。

こう書いた所で、本当なのかどうかなんて、いま生きている者は誰もほんとうのところはわからない。
ただ想像で書くだけだ。

闇が待ち構えていた、としても、
それはマーラーに限ったことではない、ともいえる。
人すべて、皆、闇が待ち構えている。
ただ闇が待ち構えている、その気配に気づくか気づかずに生きていけるのか、
そんな違いがあるだけなのかもしれない。

こうやって書き連ねたところでなにも本当のところがはっきりしてくるわけではない。
もうマーラーはこの世にいないのだから。

われわれはマーラーの残した曲を聴くだけである。
それも誰かが演奏したものを通して。

オーディオマニアは、さらに録音されたもの、
オーディオという、一種のからくりを通して聴いている。

古い録音のマーラーも、最新録音のマーラーも聴ける。
いくつものマーラーをそうやって聴いてきた。
聴いていないレコードも、まだ少なくない。

実演よりもレコードでのマーラーを聴くことが圧倒的に多かった。
そうやって聴いてきた。

そして、私はバーンスタインのマーラー全集をとる。
CBSに録音した旧録ではなく、ドイツ・グラモフォンでの新録をとるのは、
私にとって、マーラーの闇を感じられるのが、
濃密な闇が感じられるのがバーンスタインの新録だからである。

Date: 11月 22nd, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(その5)

光は自分が何よりも速いと思っているが、それは違う。
光がどんなに速く進んでも、その向う先にはいつも暗闇がすでに到着して待ち構えているのだ。

テリー・プラチェットのことばだ。

マーラーの音楽には、このことを実感させるところがある。
闇が待ち構えている──、そんな感じを受けることがある。

Date: 3月 31st, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(桜の季節)

まだ咲いていない地域もあるけれど、
私が住む地域ではすでに桜は満開をすぎて花弁が舞い始めている。

駅までの道のり、桜並木を歩いていく。
朝、明るい時間にも歩き、帰りは日によって、まだ夕方の明るい時間のときもあれば、
暗くなって、それでもまだ人通りが多い時間のときもあるし、
もう深夜になって、人通りもほとんどなくなった時間に、桜並木を歩く。

夜おそい時間ともなれば、この道も暗くなる。
その暗さの中に、桜の淡い色が目に入ってくるけれど、
それよりも強い印象を与えてくれるのは、幹・枝である。

暗いから、明るい時間では幹・枝の表皮の質感がはっきりとわかるのが、
この時間ともなれば幹はそういうところまではもちろん見えず、
だからこそ幹の形(枝ぶり)が明るいとき見ているよりも、
そのシルエットが花明りによってはっきりと浮び上っている。

同じ桜の木を、朝と夜とでは反対方向から眺めているわけだが、同じ桜の木を見ていることには変りはない。
なのに明るい時間と深夜遅い、ほんとうに暗くなってからとでは、
桜の木のシルエットの印象がまるで違ってくる。

ひとりで歩いていると、それも誰も歩いていなかったりすると、
桜の木のシルエットに、どきっとする。
明るい時間では感じられなかった、異形さを感じとっているからだ。

というより、異形として私が感じとっている、と書くべきだろう。
明るい時間ではまったく感じなかった怖さがあり、
これもまた「夜の質感」なのだとおもう。

Date: 3月 17th, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(その4)

マーラーが見てきた景色は、マーラーの目を通した景色である。
マーラーが見ていた景色を、同じところから見ることが仮にできたとしても、
マーラーが生きていた時代と、いま私が生きている時代とでは、いろいろ違うことがある。

暗騒音にしてもマーラーの時代といまとではずいぶん違うことだろう。
空気も違うことだろう。
街を歩く人びとの服装も、マーラーの時代といまとではもちろん違う。
街並も、いまも現存している建物もあるだろうが、やはり変ってきている。

そうなるとマーラーが見ていたものと私がそこに立って見ているものが、必ずしも完全に一致することはない。

マーラーというフィルターを通して、マーラーだからこそ感じとれたものを含めて、
その風景を、ときにマーラーの音楽の聴き手であるわれわれは、感じとれることもある。

マーラーが生きてきた時代、マーラーの人生がどうだったのかは、
マーラーに関する書籍が、世界でいちばん多く出版されている、といわれている日本に住んでいるわけだから、
関心のある方は、すべてではないにしても、マーラーの聴き手であれば何冊かは読まれているだろう。
だから、それについてここでは書かない。

マーラーの音楽の中に入っている「景色」とは、いわゆる景色だけではない。
マーラーが、その人生で見てきたものがみな入っている、と解釈できると思う。

だから交響曲第一番の第一楽章が夜明けを描いていることは、
なんというアイロニーなであり、象徴的であろうか、とおもってしまう。

Date: 10月 31st, 2012
Cate: 表現する

夜の質感(その3)

まだステレオサウンドで働く前のこと、
五味先生の「いい音いい音楽」に、こう書いてあった。
     *
 マーラーがかつてオーストリアのある山荘にこもって作曲していたとき、そこを訪問したブルーノ・ワルターが、辺りの景色を立ち止まって眺めていたら、マーラーはいったそうだ、「そんなものを見たって無意味さ。その景色はみな私の音楽の中に入っているよ」——と。マーラーのこの顰に倣うなら、ぼくたちは日本にいて、いまやあらゆる国の音楽を聴けるばかりか、その風景をさえ居ながらにして感知することができる。
     *
このとき、まだマーラーのレコードはそんなに聴いていたわけではなかった。
ほかに聴きたいレコードを優先していたから、まだマーラーは先でいいや、という気持もあったし、
まだ学生で自分で稼いでいたわけではないから、数えるほどしかもっていなかった。
FMで放送されたものをカセットテープに録音したものが、他にすこしあったくらいだった。

そんなころに、五味先生のこの文章を読んだわけで、
素直にそうなんだ、という気持もあったし、
マーラーさん、少し誇張がはいっているでしょう、という気持がなかったわけでもない。

そうはいっても、まだまだマーラーの聴き手として未熟どころか、
交響曲においてもすべてを聴いていたわけではなかったから、自分なりの結論を出すようなことはしなかった。

そんな聴き手が、ステレオサウンドで働くようになってから一変、
こんなにも集中して、部分的ではあってもマーラーをこれほど聴くようになるとは思ってなかった。

記憶違いでなければ、ステレオサウンドの試聴室ではじめて聴いたマーラーは、
何度か書いているアバド/シカゴ交響楽団による第一番である。

このマーラーを聴いて、マーラーの言葉、
「そんなものを見たって無意味さ。その景色はみな私の音楽の中に入っているよ」が嘘でないことを実感した。

若書きの作品といわれる第一番なのに、
第一楽章の冒頭を聴けば、景色が浮ぶ。

すべての指揮者によるマーラーの演奏でそうなるわけではないし、
オーディオ機器によっても、浮ばない音もあるし、その景色に違いが生じる。

とはいえ、優れたマーラーの演奏を、音楽を極力歪めずに鳴らすのであれば、
マーラーの音楽の中にマーラーが見てきた景色は、たしかにはいっている。
そのことを実感できる。

Date: 10月 30th, 2012
Cate: 表現する

夜の質感(その2)

ステレオサウンドの試聴室では、よくマーラーを聴いた。
作曲家別でいえば、やはりマーラーがいちばん多かったかもしれない。

私がステレオサウンドで働きはじめたのは1982年、
最初に試聴で聴いたマーラーはアバド/シカゴ交響楽団の第一番だった、と記憶している。
これはサウンドコニサーの試聴で、一楽章を何度も聴いた。
出だしの、あのはりつめた感じの温度感が、スピーカーが変ると、アンプが変ると、
きりっとした空気感が漂いはじめもするし、どこかぬるい澱んだ空気にもなったりして、
温度感もそれにともない上下する。
こんな朝の空気では目も覚めない、といいたくなるものもあれば、
しゃきっと目が覚めるような感じにもなる。

次はレーグナーの第六番だった。
インバルの第四番、第五番も何度聴いたことだろう。
小澤征爾の第二番は、井上先生がよく使われていた。

これら以外のマーラーも、単発で試聴に使われることがあった。

試聴はときどき夜にかかることもあったけれど、
ほとんどは昼間に行われる。場合によっては朝から、というときもあった。
明るい時間帯にマーラーの交響曲をくり返し聴く。

別にマーラーに限らないのだが、
マーラーを聴きたい気分だろうが、そんなことは関係なくくり返し聴くのが試聴であり、
それゆえに試聴レコードの選定の難しさがある、といえる。

自分のシステムで聴くマーラーとは違う接し方・聴き方のマーラーがあった。
そのおかげで気がつくことがあった。

Date: 10月 30th, 2012
Cate: 表現する

夜の質感(その1)

五味先生は、著書「いい音いい音楽」のなかで、こんなことを書かれている。
     *
「ハイドンは朝きく音楽だ」
 と言った人があるほど、出勤前などの、爽快な朝の気分にまことにふさわしい音楽である。そしてあえて言えば、ハイドンは男性の聴く音楽である。
     *
すこし誇張された書き方なのはわかっている。
けれど、たしかにそうだ、と読んだときに思ったものだ。
ハイドンのすべての作品が朝きく音楽、というわけではないだろうが、
ハイドンの作品でよく知られているものに関しては、そんな気はするし、
特に男性の聴く音楽というところは、まさにそうだと思う。

ハイドンが朝きく音楽であるとすれば、夜きく音楽はマーラー、ということになるだろう。

いまの季節、快晴の日は空が高くて、しかもからっと気持がいい。
そんな日の朝に、マーラーの交響曲(第四番ならまだしも)は、ふさわしい音楽はいえない。
朝からどんよりとした陰鬱な朝であれば、まだマーラーの交響曲もいいかもしれないけれど、
やはりマーラーは夜きく音楽だろう。

朝、マーラーの交響曲、二番、六番、七番とかを聴いて、
さあ、仕事に出かけよう!、という人は、まぁ、いないと思う。

音楽の聴き方は自由、ともいえる。
いくつものことが自由である。
音量も、音質も、時間も、場所も。
ソースが手元にあれば、いつでもさまざまな音楽が聴ける。
聴けるから、といって、その音楽にふさわしい時間というものがあることを、聴き手は無視できない。

けれどそうもいってられない状況もある。
ステレオサウンドの試聴室での取材が、そうだ。
天気のいい昼間からマーラーをかけることが多かった。

Date: 10月 22nd, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(その12)

前回の(その11)の最後に、
自意識なき自己顕示欲は存在するのか、と書いた。

これを書いたことによって、実は先を書きあぐねていた。

自意識なき自己顕示欲、と、1年以上前に、なかば勢いで書いてしまった。
書いてしまって、自意識なき自己顕示欲とは、いったいどういうことなんだろうか、
とそれから考えていた。

自意識とは、辞書には「自分についての意識、自我意識」とある。
わかったようでいてよくわからない説明である。

Wikipediaをみると、自意識の項目は作成中となっていて、
自己認識の項目のところに、自意識についての説明がある。
そこには自意識とは「自意識は責任能力や実直さの様な人間の特性の根拠」とある。

となると、自意識なき自己顕示欲は、
責任能力や実直さの様な人間の特性の根拠なき自己顕示欲、ということになる。

こう書いてみると、自意識なき自己顕示欲は存在する、
少なくとも自意識なき自己顕示欲による音は、たしかに存在する。
そして、自意識なき自己顕示欲による音を、聴いてきた──、
そう思える記憶がたしかにあることに気づく。

Date: 4月 11th, 2012
Cate: 楽しみ方, 表現する

オーディオの楽しみ方(読み方について)

ステレオサウンドにいたとき、音を言葉で表現することの難しさについて、
編集部の先輩のNさんとよく話していた。

オーディオ雑誌からは、昔から言われ続けている通り、そこにあるのは文字と写真とイラスト、図版などであり、
誌面からは音は出てこない。
視覚的なもので音を読者に伝えるために、オーディオ評論家だけでなく編集者もあれこれ考え続けていた。

何度話し合ったところで、決定打はない。
そういうものが、もし世の中に存在しているのであれば、誰かがすでに見つけていたはず。
それが見つからないからこそ、オーディオ評論が面白い、ともいえる。

そういえば、菅野先生から10年ほど前に聞いた話がある。
菅野先生が髪を切りにいかれている店で、
「オーディオにはまったく興味はないんですけど、
音を表現する文章は面白いからときどきオーディオ雑誌を読んでいます。」
と店のスタッフの方に話しかけられた、ということだった。

菅野先生は、意外な話として話された。
私も意外な話として聞いていた。

オーディオに興味のある人は、たとえばスピーカーシステムの買い替えを検討している人は、
スピーカーシステムの特集記事、新製品の試聴記事が載っていれば、
その文章から、そのスピーカーシステムがいったいどんな音をなのか、
そのスピーカーシステムの能力の高さはどの程度のものなのか、
いま鳴らしているモノよりもどれだけいいのか、
そしていま自分が求めている音をほんとうに実現してくれるものなのか、
はたまた価格に見合った音、価格以上の音を出してくれるのか、等々、さまざまな情報を読み取ろうとする。

けれど、菅野先生が話してくれた人は、
そんなことにはまったく無関心なのだから(オーディオに関心がないのだから)、
音の表現方法の面白さを、オーディオマニアよりも純粋に楽しんでいる、ともいえるわけだ。

Date: 4月 6th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続×五・使いこなしについて話してきたこと)

マンガだから、荒唐無稽な話ではない。
「シャカリキ!」で8歳の野々村輝が一番坂への挑戦は、結局は失敗に終る。
坂の中ほどでいちど足をついているくらい体力を消耗しているだから、
坂を下っているあいだに多少は体力は回復したとしても、8歳の少年。
ふたたび登りはじめたけれど、やはり途中で精根尽き果てて倒れてしまう。

一度目の足をついてしまったことと、二度目の倒れてしまったことの意味あいは同じではない。
一度目は限界への挑戦(それも失敗)であって、二度目は限界を超えてしまった、といえる。

オーディオはスポーツではない。
体力の限界を越えてやるようなものではない、のだが、
それでも、オーディオの「限界」とは、なんだろうか、と考えてしまう。

ひとつにはオーディオ機器の限界がある。
とはいえ、この限界は一般的に思われているよりもずっと高いものだという認識を私は持っている。
そして、使う人の限界がある。

人の限界はつねに同じというわけではない。
その人次第で、その限界は変動・変化していく。
今日の限界は、必ずしも明日の限界というわけではない。

けれど、人の限界には、そういう限界とは違う、もうひとつの「限界」があるような気がしてならない。
オーディオにおいても、それがある、と思っている。
その「限界」を超えて、その「限界」をより高くしていくには、
オーディオにおいても、野々村輝と同じやり方をやっていくしかない、と信じていたい。

Date: 4月 5th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々続々・使いこなしについて話してきたこと)

人によって考えは違う。だから手が止ってしまったとしても、
それが動き出すまで待てばいい。少なくとも、手が止ってしまうというのは、
音があるところまでいっているからでもあり、それならば好きな音楽を楽しむだけ楽しめばいい。
もちろん、これを、以前は私は言っていたことがある。

それでもオーディオをはじめてまだ10年ほどのときに、手が止ってしまうことがあったら、
いまの私は、「もう一度、一からやってみたらどうか」と言う。

システムを解体して再び組むという作業は、ものすごいエネルギーを必要とする。
こんなことは若いときにやっておかなければ、歳をとってからでは、ますます億劫になってしまう。
若いときに一度やっておけば、さらに10年後、20年後にもう一度、これをやれるかもしれないが、
若いときにやったことがなければ、引越しでもないのにシステムを解体しての再構築は、しんどい。

「シャカリキ!」の主人公、野々村輝は8歳のときに一番坂に挑戦して、
この項の最初に書いたように足をついてしまったところから再スタートするのではなく、
坂を下ってまた一から挑戦していく。
「シャカリキ!」の主人公の、この行動は、話が進み高校生になったときの行動でもある。

やっと登ってきた坂をまた引き返して最初から登りなおす、なんていうことは、
マンガというつくり話の中のことであって、それと現実のオーディオにあてはめるなんて……、
と思われる方は、こんなめんどうなことはやらない方がいい。

足をついたところで一旦休憩して体力が回復してまた登りはじめた方がいい、
その方が目的地(頂上)にははやく到着するのだから、と言うだろう。

でもそれで、ほんとうに頂上に辿り着けるのだろうか。
オーディオの目的地は、あるのではなくつくられるものてあるのだから、
その目的地に辿り着くには、強くなければならない、と思う。

オーディオはひとりでやっていくものであるから、強くありたい、と思う。
そうありたいから、足をついたら最初からやり直す。