Archive for category ULTRA DAC

Date: 9月 30th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その26)

ステレオサウンド 86号に、ボブ・スチュアートのインタヴュー記事が載っている。
当時連載されていた「プロフェッサー中矢のAudio Who’s Who」である。

そこに、こうある。
《ブースロイド氏に音楽の好みをたずねたら、案の定、楽しみで聴く音楽は九九パーセントがクラシックとの答えが返ってきた》

そうだろう、と改めて感じていた。
当時、メリディアンはブランド名で、社名はブースロイド・スチュアートであり、
工業デザイナーのアレン・ブースロイドとエンジニアのボブ・スチュアートの二人が設立。

余談になるが、二人の出逢いは、イギリスのオーディオメーカー、レクソンであり、
ブースロイド、スチュアート、この二人による最初のモデルは、
コントロールアンプのAC1、パワーアンプのAP1である。

AC1のデザインには、驚いた。
こういうデザイン、いいなぁ、と思っていた。
音はどうだったのだろうか。
聴く機会はなかった。
オーディオ雑誌でも、音のことはほとんど話題にならなかった。

それでもレクソンのデザインのことは、いまでもはっきりと思い出せるほどに強烈だった。
そのレクソンのアンプを、ブースロイドとスチュアートの二人の最初の作であることを知るのは、
M20+207の音を聴いたころだった。

そうなるとレクソンのアンプもデザインだけでなく、音のことも気になってくる。
どんな音がしていたのだろうか。

それに当時は中学生だった。
なんとなくデザイン優先のアンプのようにも受けとっていた。
デザインというものを、ほとんど理解していなかったから、そう感じたのであって、
いま改めてレクソンのアンプを見つめ直すと、パワーアンプは非常に理に適っているかたちであるし、
コントロールアンプも、また違う見方ができる(このことはいずれ書きたい)。

86号の記事はボブ・スチュアートのインタヴューだから、
スチュアートの音楽の好みについても書かれてある。

Date: 9月 30th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その25)

昔なら、イギリスのオーディオ機器、それもスピーカーシステムに関しては、
タンノイにしてもBBCモニターの流れを汲むメーカーにしても、
クラシックを好んで聴く人による設計・開発という印象を受けることが多かった。

それが変りはじめてきたのは、ハーベスのMonitor HLかもしれない。
それまでのBBCモニター系列のスピーカーシステムが、ベクストレンウーファーだったのに対し、
Monitor HLはポリプロピレンウーファーだった。

黒で、表面にダンプ剤が塗布されたベクストレンと、
乳白色で半透明のポリプロピレンとでは、見た目の印象はずいぶん違う。
見た目の明るさは正反対である。

Monitor HLは、たとえばBCII(ベクストレンウーファー)と比較すると、
あきらかに明るい音を響かせる。
瀬川先生は、ステレオサウンド 54号の特集で、
《もしかすると、設計者のハーウッドは、クラシックよりポップス愛好家なのかもしれない》
と試聴記の最後に書かれているくらいである。

そんな40年前の時代とは違い、
いまではイギリスのスピーカーメーカーも、はっきりと世代の新しいメーカーが登場している。
それらの中には、クラシック寄りと思えないモノも少なくない。
とはいっても、Monitor HLがそうであったように、
クラシックが鳴らないわけではなく、充分魅力的に聴かせながらも、
「もしかすると……」と思わせるところも、昔のイギリスのスピーカーの音に馴染んだ者にはある。

メリディアンもハーベスと同時期に登場したイギリスのメーカーであっても、
こちらははっきりとクラシックをメインに好んで聴く人による音であった。

1970年代後半、ハーベスもメリディアンも新しく登場したメーカーであっても、
そういうわずかな違いがあったように感じている。

このことはM20+207の組合せを聴けば、多くの人が納得するはずだ。

Date: 9月 17th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その24)

そういう違いのある、MCD350の音とULTRA DACの音で「Moanin’」を聴いている。
MCD350によるSACDの音を基準とすれば、
ULTRA DACによるMQAディスクの音は、やや暗いと受けとられるし、
後者の音を基準とすれば、MCD350での音は明るすぎる、ともなる。

どちらの鳴り方が「Moanin’」なのか。
「Moanin’」はmoanから来ている、とある。

moanには、 (苦痛·悲しみの)うめき(声) 、
〈不幸などを〉嘆く、悲しむ、〈死者を〉いたみ悲しむの意味がある。

そんなmoanの意味を知れば、ULTRA DACでの「Moanin’」なのかとも思う。
クラシックを主に聴いてきた私は、
「Moanin’」の鳴り方はこうでなくては、というのがまだ形成されていない。

「Moanin’」の意味を考えずに、能天気に聴いているのであれば、
MCD350の音も気に入っている。
それでも、一度「Moanin’」の意味を知ろうと思ったのであれば、
聴き方も自ずと変ってくるというものだ。

ULTRA DACでの「Moanin’」も、やはり静かだ。
静かであっても、いわゆる鉛などを使った鈍重な静けさの音が、
角を矯めて牛を殺す的に陥りがちであるのとは違う。

躍動している。
バド・パウエルの「Cleopatra’s Dream」も聴いた。
このディスクは、こうあってほしい、というイメージが私にもある。

もう少しセッティングを詰めていったら──、と感じもしていたが、
それでもベクトルは一致している。
ならば「Moanin’」も、ULTRA DACでの音こそ、となるのか。

「Moanin’」のDSDファイルをULTRA DACで鳴らした音も、
だから無性に聴きたい。

Date: 9月 17th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その23)

audio wednesdayで、D/Aコンバーターをつけ加えたことは三度ほどある。
一度はオーディオアルケミーの安価なモノ、
それからマイテックデジタルのManhattanにしたことが二回あった。

ラックスのD38uを使っていたころである。
オーディオアルケミーだと、D38uのままで聴いた方が好結果だった。
Manhattanでは、D38uに感じていた不満なところがほぼなくなる。
それでもホーン鳴きが明らかに減った、という印象はなかった。

マッキントッシュのMCD350の筐体は、お世辞にもがっしりしているわけではない。
指で叩けば、そこそこ雑共振といえる音がする。

D38uは外装のウッドケースを外すと、内部が見える構造である。
MCD350よりは雑共振も少ない。

ホーン鳴きが気になるのは、このへんのことも関係している。
どんなオーディオ機器でも、実際に自分の手で持ってみた時の感触は、
わりあいそのままと音として出てくるところがある。

雑共振のかたまりのようなつくりのオーディオ機器から、澄んだ音が聴けたためしは一度もない。

MCD350のシャーシーの共振点と811Bのホーン鳴きは、近いところにあるのかもしれない。
MCD350にしてから、特にSACDを聴いていると、ホーン鳴きを以前よりも意識することが多くなった。

SACDの情報量の多さが、
MCD350のシャーシーの共振と相俟って811Bのホーン鳴きと浮び上らせているようだ。

ULTRA DACでは、そこが違った。
Manhattanでは、そうは鳴らなかった。
けれどULTRA DACでは、ホーン鳴きが抑えられているように感じる。
情報量は多いにも関らずだ。

ULTRA DACのシャーシーは雑共振がするような造りではない。
そのことだけでホーン鳴きが耳につかないわけでもないようだ。

ULTRA DACの帯域バランスというか、
エネルギーバランスも関係してのことのようにも感じている。

とはいえ、9月5日の試聴だけでは、そこまで断言できないものの、
しっかりとしたエネルギーバランスがあってこそのホーン鳴きの少なさではないのか。

Date: 9月 17th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その22)

それから忘れてはならないのが、
アルテックのホーン鳴きが、いままでほど気にならなかったことだ。

806Aドライバーは811Bホーンに取り付けられている。
811Bはホーン自体にデッドニングを一切施していない。

ホーン鳴きに対して、喫茶茶会記の811Bに何もしていないわけではないが、
積極的にやっているわけでもない。デッドニングはしていない。

ホーン鳴きは、確かに気になる。
けれどかける音楽よっては、いい方向に作用してくれることだってある。
それは、やはり金管楽器の鳴り方には、うまく作用することがある。

今年になってよくかけているのが、アート・ブレイキーの「Moanin’」。
「Moanin’」では811Bのホーン鳴きがむしろ心地よい、というより快感でもある。
これぞブラス! といいたくなるほど、うまくはまる。

圧縮された空気が開口部から一気に放射される金管楽器ならではの鳴り方は、
単にエネルギー感がうまく再現できたり、立ち上りがはやいからといって、
それだけで満足のいく鳴り方をしてくれるとはかぎらない。

昔ながらのホーン型で聴くと、それは、いわばホーン型特有の毒とわかっていても、
その魅力は認めざるをえない。

MQAディスクにも、「Moanin’」はある。
ユニバーサルミュージックのカタログをみると、
「Moanin’」のSACDとMQAディスクのマスターは同じようである。

ULTRA DACでの「Moanin’」のMQAディスクは、
MCD350で再生したSACDとはずいぶん違う。

明るさでいえば、MCD350でのSACDである。
けれど、いつも聴いていて感じているのは、ホーン鳴きによる効果と、その悪さである。
金管楽器の金属の厚みが、少し薄いように感じなくもない。

ULTRA DACで再生したMQAディスクの「Moanin’」は、明るくはない。
けれど、楽器の金属の薄さは感じなかった。
それにホーン鳴きの悪さを、さほど感じない。

これは少々意外だった。
アンプも同じ、スピーカーも同じ。
実はホーンの置き方をわずかに変えていたけれど、
それは以前、何度か試していて、どういう音の変化なのかはわかっていた。

それを考慮しても、意外に感じるほど、ホーン鳴きに耳につきにくい。

Date: 9月 16th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その21)

度々書いているM20にも、ULTRA DACに通じる良さは感じていた。
特にCDプレーヤーの207との組合せでは、ここに源流があるのかも、とおもう。

M20+207も、沈黙したがっていた──、
私の記憶のなかでは、いまもそういう音で鳴っている。

それでもM20+207の、その音、ひっそりと鳴る音は、時としてこじんまりしがちだった。
それが、このミニマムな組合せの良さだったとはわかっていても、それだけでは満足できようがなかった。

M20+207の音から、約30年。
ULTRA DACの音は、見事だ。立派ともいえる。
こじまんりとはしていない。
もっとこうあってほしい、と思っていたところはすべてにおいて良くなっている。
むしろ堂々としている。
それでいてこれみよがしではない。

ULTRA DACの音は澄明と書いたが、それは低音域において顕著なのかもしれない。
低音が澄んでいる。
この、澄んだ低音を実現するための大きさならば、
大きすぎと感じたULTRA DACのサイズもすんなり受け入れられるようになる。

別項で書いている「JUSTICE LEAGUE」のサウンドトラック盤。
9月5日のaudio wednesdayで、最初にかけたディスクはこれだった。

ハイレス・ミュージックの鈴木秀一郎さんと私だけの時にかけている。
マッキントッシュのMCD350で鳴らしている。

その時の音と、ULTRA DACでの音は大きく違っていた。
アンプの電源を入れてさほど時間が経っていない音との比較ということもあるが、
それ以上の違いがあった。それこそ澄んだ低音とそうでない低音の違いであり、
低音における解像力の違いとしても、それははっきりとあらわれていた。

ULTRA DACを聴く以前は、そんなふうに感じていなかったが、
MCD350の低音はわずかとはいえ混濁している。
おそらくMCD350だけがそうなのではないのかもしれない。
多くのCDプレーヤー、D/Aコンバーターにも同じことはいえるのかもしれない。

混濁した低音は、マスとしての力を感じさせることだってある。
澄んだ低音は、充分な力がなければ、頼りなく感じもしよう。
ULTRA DACはそうではなかった。

「JUSTICE LEAGUE」の一曲目、“EVERYBODY KNOWS”には、聴いている皆が耳をすます。
そんな雰囲気を感じていた。
そういえば、この場合もすますも、澄ますである。

“COME TOGETHER”は、大きめの音量でかけた。
こういう音で聴きたかったんだ、という聴き応えのある音で鳴ってくれた。

MCD350だけで聴いていたら、いまどきのサウンドトラック盤というのは、
こんな音づくりなのか、と判断を誤るところだった。
「JUSTICE LEAGUE」はaudio wednesdayの当日に買っている。

Date: 9月 16th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その20)

瀬川先生は、「澄明」と書かれる。「透明」ではない。
透明な音は、いまや世の中に溢れている、といってもいい。

ULTRA DACより高価なD/Aコンバーターは、いくつもある。
ULTRA DACより透明な音のD/Aコンバーターも、直接比較試聴したわけではないが、
いくつもある、といっていい。

現状において、これ以上透明な音はない、
そういえるぐらい透明な音があっても、
だからといって《鳴る音より音の歇んだ沈黙が美しい》といえるわけではない。
《無音の清澄感》があるともいえない。

ULTRA DACの静けさは、澄明である。
だからこそ、他の、D/Aコンバーターとは違うと感じたのだろう。

《ふと音が歇んだときの静寂の深さが違う》、
《音の鳴らない静けさに気品がある》、
そういう静けさをULTRA DACは再現してくれる。

情景が浮ぶのは、そういうところと深く関係しているのかもしれない。
しかも、その静けさは、決して鈍重な静けさではない。

機械的な雑共振を抑えるために、鉛が使われることがある。
トーンアームではオイルが使われることもある。

鉛の振動を抑える効果は確かにある。
粘性の高いオイルによるダンプ効果も確かにある。

けれど、それらの手法は、往々にして鈍重な静けさへとなる。
活き活きとした表情、ヴィヴィッドな音も、雑共振とともに失われていく傾向がある。
ULTRA DACに、そういう傾向は微塵も感じられなかった。

そういう音(静けさ)ゆえに、アルテックから沈黙したがっていたのだろう。

Date: 9月 16th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その19)

「五味オーディオ教室」に、こう書いてあった。
     *
 はじめに言っておかねばならないが、再生装置のスピーカーは沈黙したがっている。音を出すより黙りたがっている。これを悟るのに私は三十年余りかかったように思う。
 むろん、音を出さぬ時の(レコードを聴かぬ日の)スピーカー・エンクロージァは、部屋の壁ぎわに置かれた不様な箱であり、私の家の場合でいえばひじょうに嵩張った物体である。お世辞にも家具とは呼べぬ。ある人のは、多少、コンソールに纏められてあるかも知れないが、そんな外観のことではなく、それを鳴らすために電気を入れるとしよう。プレーヤーのターンテーブルが、まず回り出す。それにレコードをのせる以前のたまゆらの静謐の中に、すでにスピーカーの意志的沈黙ははじまる。
 優れた再生装置におけるほど、どんな華麗な音を鳴らすよりも沈黙こそはスピーカーのもてる機能を発揮した状態だ。装置が優れているほど、そしてこの沈黙は美しい。どう説明したらいいか。レコードに針をおろすのが間延びすれば、もうそれは沈黙ではない。ただの不様な置物(木箱)の無音にとどまる。
 光をプリズムに通せば、赤や黄や青色に分かれることは誰でも知っているが、円盤にそういう色の縞を描き分け、これを早く回転させれば円盤は白色に見えることも知られている。つまり白こそあらゆる色彩を含むために無色である。この原理を応用して、無音こそ、すべての音色をふくんだ無音であると仮定し、従来とはまったく異なる録音機を発明しようとした学者がいたそうだ。
 従来のテープレコーダーは、磁気テープにマイクの捉えた音を電気信号としてプラスする、その学者の考えは、磁気テープの無音は、すでにあらゆる音を内蔵したものゆえ、マイクより伝達される音をマイナスすれば、テープには、ひじょうに鮮明な音が刻まれるだろう、簡単にいえばそういうことらしい。
 私はその方面にはシロウトで、テープヘッドにそういうマイナス音の伝達が可能かどうか、また単純に考えて無音(零)からマイクの捉えた音(正数)をマイナスするのは、数式で言えば結局プラスとなり、従来のものとどう違うのか、その辺はわからない。しかし感じとしては、この学者の考えるところはじつによくわかった。
 ネガティブな録音法とも称すべきこれを考案した学者の話は、だいぶ以前に『科学朝日』のY君から聞いたのだが、その後、いっこうに新案の録音機が発表されぬところをみると、工程のどこぞに無理があるのだろう。あるいはまったく空想に過ぎぬ録音法なのかもしれぬが、そんなことはどうでもよい。
 おそらくこの学者も私と同じレコードの聴き方をしてきた人に相違ないと思う。ひじょうに密度の濃い沈黙——スピーカーの無音は、あらゆる華麗な音を内蔵するのを知った人だ、そういう沈黙のきこえる耳をもっている人だ、と思う。
 レコードを鑑賞するのに、針をおろす以前のこうした沈黙を知らぬ人の鑑賞法など、私は信用しない。音楽が鳴り出すまでにどれほど多彩な楽想や、期待にみちびかれた演奏がきこえているか。そもそも期待を前置せぬどんな鑑賞があり得るのか。
 音楽は、自然音ではない。悲しみの余り人間は絶叫することはある。しかし絶叫した声でメロディを唄ったりはすまい。オペラにおける“悲しみのアリア”は、この意味で不自然だと私は思う。メロディをくちずさむ悲しみはあるが、甲高いソプラノの歌など悲しみの中で人は口にするものではない。歌劇における嘆きのアリアはかくて矛盾している。
 私たちがたとえば“ドン・ジョバンニ”のエルヴィーラの嘆きのアリア「私を裏切った……」(Mi tradi……)に感動するのは、またトリスタンの死後にうたうイゾルデに昂奮するのは、言うまでもなくそれが優れた音楽だからで、嘆くのが自然だからではない。厳密には理不尽な矛盾した嘆き方ゆえ感動するとも言えるだろう。
 そういうものだろう。スピーカーは沈黙を意志するから美しい。こういう沈黙の美しさがきこえる耳の所有者なら、だからステレオで二つもスピーカーが沈黙を鳴らすのは余計だというだろう。4チャンネルなど、そもそも何を聴くに必要か、と。四つもの沈黙を君は聴くに耐えるほど無神経な耳で、音楽を聴く気か、と。
 たしかに一時期、4チャンネルは、モノがステレオになったときにも比すべき“音の革命”をもたらすとメーカーは宣伝し、尻馬に乗った低級なオーディオ評論家と称する輩が「君の部屋がコンサート・ホールのひろがりをもつ」などと提灯もちをしたことがあった。本当に部屋がコンサート・ホールの感じになるなら、女房を質においても私はその装置を自分のものにしていたろう。神もって、これだけは断言できる。私はそうしなかった。これは現在の4チャンネル・テープがプログラム・ソースとしてまだ他愛のないものだということとは、別の話である。他愛がなくたって音がいいなら私は黙ってそうしている。間違いなしに、私はそういう音キチである。
 ——でも、一度は考えた。私の聴いて来た4チャンネルはすべて、わが家のエンクロージァによったものではない。ソニーの工場やビクターやサンスイ本社の研究室で、それぞれに試作・発売しているスピーカー・システムによるものだった。わが家のエンクロージァでならという一縷の望みは、だから持てるのである。幸い、拙宅にはテレフンケンS8型のスピーカーシステムがあり、ときおりタンノイ・オートグラフと聴き比べているが、これがまんざらでもない。どうかすればオートグラフよりピアノの音など艶っぽく響く。この二つを組んで、一度、聴いてみることにしたわけだ。
 ただ、前にも書いたがサンスイ式は疑似4チャンネルで、いやである。プリ・レコーデッド・テープもデッキの性能がまだよくないからいやである。となれば、ダイナコ方式(スピーカーの結合で位相差をひき出す)の疑似4チャンネルによるほかはない。完璧な4チャンネルは望むべくもないことはわかっているが、試しに鳴らしてみることにしたのだ。
 いろいろなレコードを、自家製テープやら市販テープを、私は聴いた。ずいぶん聴いた。そして大変なことを発見した。疑似でも交響曲は予想以上に音に厚みを増して鳴った。逆に濁ったり、ぼけてきこえるオーケストラもあったが、ピアノは2チャンネルのときより一層グランド・ピアノの音色を響かせたように思う。バイロイトの録音テープなども2チャンネルの場合より明らかに聴衆のざわめきをリアルに聞かせる。でも、肝心のステージのジークフリートやミーメの声は張りを失う。
 試みに、ふたたびオートグラフだけに戻した。私は、いきをのんだ。その音声の清澄さ、輝き、音そのものが持つ気品、陰影の深さ。まるで比較にならない。なんというオートグラフの(2チャンネルの)素晴らしさだろう。
 私は茫然とし、あらためてピアノやオーケストラを2チャンネルで聴き直して、悟ったのである。4チャンネルの騒々しさや音の厚みとは、ふと音が歇んだときの静寂の深さが違うことを。言うなら、無音の清澄感にそれはまさっているし、音の鳴らない静けさに気品がある。
 ふつう、無音から鳴り出す音の大きさの比を、SN比であらわすそうだが、言えばSN比が違うのだ。そして高級な装置ほどこのSN比は大となる。再生装置をグレード・アップすればするほど、鳴る音より音の歇んだ沈黙が美しい。この意味でも明らかに2チャンネルは、4チャンネルより高級らしい。
 私は知った。これまで音をよくするために金をかけたつもりでいたが、なんのことはない、音の歇んだ沈黙をより大事にするために、音の出る器械をせっせと買っていた、と。一千万円をかけて私が求めたのは、結局はこの沈黙のほうだった。お恥ずかしい話だが、そう悟ったとき突然、涙がこぼれた。私は間違っていないだろう。終尾楽章の顫音で次第に音が消えた跡の、優れた装置のもつ沈黙の気高さ! 沈黙は余韻を曳き、いつまでも私のまわりに残っている。レコードを鳴らさずとも、生活のまわりに残っている。そういう沈黙だけが、たとえばマーラーの『交響曲第四番』第二楽章の独奏ヴァイオリンを悪魔的に響かせる。それがきこえてくるのは楽器からではなく沈黙のほうからだ。家庭における音楽鑑賞は、そして、ここから始まるだろう。
     *
この文章には、
「鳴る音より、音の歇んだ沈黙の深さで、スピーカーのよし悪しはわかる。」とつけられていた。

《再生装置のスピーカーは沈黙したがっている。音を出すより黙りたがっている》ことを、
五味先生は30年余りかけて悟られた。

そのことをオーディオに興味を持ち始めたばかりの中学生の私に、
経験として理解することは到底できないことであり、
それでも知識として、とても重要なことなのは、わかっていた(つもりだった)。

それからさまざまなスピーカーを聴いてきた。
沈黙したがっているスピーカーは確かにある。

私がそう感じたのは、主にイギリスのスピーカーにおいてだった。
すべてのスピーカーが沈黙したがっているとは思えなかった。

特にアルテックのスピーカーは、沈黙したがっているわけではない、と思っていた。

ヴァイタヴォックスは、アルテックの英国版と説明されることがある。
確かにそういえる。
なぜ、アルテックの英国版なのか。
それはヴァイタヴォックスは、沈黙したがっていて、アルテックはそうではないからだ──、
とずっと思ってきた。

ULTRA DACを聴いて、考えを改めているところだ。
アルテックも沈黙したがっていたことに、いまごろになって気づいた。

Date: 9月 16th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その18)

瀬川先生が、SMEの3012-R Specialの音について書かれていることは、
そっくりULTRA DACの音のことでもある。

ここのとこは、もう一度引用しておこう。
     *
 えもいわれぬ良い雰囲気が漂いはじめる。テストしている、という気分は、あっという間に忘れ去ってゆく。音のひと粒ひと粒が、生きて、聴き手をグンととらえる。といっても、よくある鮮度鮮度したような、いかにも音の粒立ちがいいぞ、とこけおどかすような、あるいは、いかにも音がたくさん、そして前に出てくるぞ、式のきょうび流行りのおしつけがましい下品な音は正反対。キャラキャラと安っぽい音ではなく、しっとり落ちついて、音の支えがしっかりしていて、十分に腰の坐った、案外太い感じの、といって決して図太いのではなく音の実在感の豊かな、混然と溶け合いながら音のひとつひとつの姿が確かに、悠然と姿を現わしてくる、という印象の音がする。
     *
ほんとうに、こういう印象の音がする。
疑う人もいるとは思う。
それでもいい。
わからぬ人は、いつも時代にもいるし、
そういう人にどれだけ言葉を尽くしても、徒労に終ることはわかっている。

それでも、なんとか伝えたい、とも思う。
疑う耳(いや頭か)には、ULTRA DACの音は届かないかもしれない。
それは過剰な音では決してないからだ。

メリディアンはSMEと同じくイギリスのオーディオメーカーだということを感じていた。
ULTRA DACも、イギリスのD/Aコンバーターだとういことを強く感じていた。

ULTRA DACの音は、静かである。
ULTRA DACの静けさは、月並な表現ではあるが、
心が洗われるようでもある。

洗われるは、(あらわれる)であり、顕れるでもある、と感じる。
洗われることで、心が裸になるというか、素直になるとでもいおうか、
そうなることで、己の音楽に対する心がはっきりと顕れる。

ULTRA DACの静けさは、単なるS/N比の優秀性だけではないと思う。
そして、ここてもおもい出すのが、五味先生が書かれていたことだ。

Date: 9月 16th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その17)

想い浮かべた情景は、まだある。
瀬川先生がSMEの3012-R Specialについて、ステレオサウンド 56号に書かれていたことだ。
     *
 音が鳴った瞬間の我々一同の顔つきといったらなかった。この欄担当のS君、野次馬として覗きにきていたM君、それに私、三人が、ものをいわずにまず唖然として互いの顔を見合わせた。あまりにも良い音が鳴ってきたからである。
 えもいわれぬ良い雰囲気が漂いはじめる。テストしている、という気分は、あっという間に忘れ去ってゆく。音のひと粒ひと粒が、生きて、聴き手をグンととらえる。といっても、よくある鮮度鮮度したような、いかにも音の粒立ちがいいぞ、とこけおどかすような、あるいは、いかにも音がたくさん、そして前に出てくるぞ、式のきょうび流行りのおしつけがましい下品な音は正反対。キャラキャラと安っぽい音ではなく、しっとり落ちついて、音の支えがしっかりしていて、十分に腰の坐った、案外太い感じの、といって決して図太いのではなく音の実在感の豊かな、混然と溶け合いながら音のひとつひとつの姿が確かに、悠然と姿を現わしてくる、という印象の音がする。しかも、国産のアーム一般のイメージに対して、出てくる音が何となくバタくさいというのは、アンプやスピーカーならわからないでもないが、アームでそういう差が出るのは、どういう理由なのだろうか。むろん、ステンレスまがいの音など少しもしないし、弦楽器の木質の音が確かに聴こえる。ボウイングが手にとるように、ありありと見えてくるようだ。ヴァイオリンの音が、JBLでもこんなに良く鳴るのか、と驚かされる。ということは、JBLにそういう可能性があったということにもなる。
 S君の提案で、カートリッジを代えてみる。デンオンDL303。あの音が細くなりすぎずほどよい肉付きで鳴ってくる。それならと、こんどはオルトフォンSPUをとりつける。MC30とDL303は、オーディオクラフトのAS4PLヘッドシェルにとりつけてあった。SPUは、オリジナルのGシェルだ。我々一同は、もう十分に楽しくなって、すっかり興に乗っている。次から次と、ほとんど無差別に、誰かがレコードを探し出しては私に渡す。クラシック、ジャズ、フュージョン、録音の新旧にかかわりなく……。
 どのレコードも、実にうまいこと鳴ってくれる。嬉しくなってくる。酒の出てこないのが口惜しいくらい、テストという雰囲気ではなくなっている。ペギー・リーとジョージ・シアリングの1959年のライヴ(ビューティ・アンド・ザ・ビート)が、こんなにたっぷりと、豊かに鳴るのがふしぎに思われてくる。レコードの途中で思わず私が「おい、これがレヴィンソンのアンプの音だと思えるか!」と叫ぶ。レヴィンソンといい、JBLといい、こんなに暖かく豊かでリッチな面を持っていたことを、SMEとマイクロの組合せが教えてくれたことになる。
     *
《どのレコードも、実にうまいこと鳴ってくれる。嬉しくなってくる》とある。
まさに、そういう感じで鳴ってくる。

《ヴァイオリンの音が、JBLでもこんなに良く鳴るのか、と驚かされる。ということは、JBLにそういう可能性があったということにもなる》
とも書かれている。

これも同じようなことを感じていた。
喫茶茶会記のアルテックのドライバー806Aには、
いま中国製の互換ダイアフラムが装着されている。
一枚四千円くらいのダイアフラムである。

値段を考慮すれば、よく出来ているダイアフラムと思うけれど、
不満がまったくないわけでもない。気になるところは、やはりある。
それでも、アルテック純正のダイアフラムは、いまでは非常に高価だし、
この点に関しては、アルテックのドライバーを愛用されている方、共通の悩みだろう。

このダイアフラムを、あれにしてみたら──、と思ってはいるが、
それでもULTRA DACでの音は、このままでもいいんじゃないか、と思わせるほどだった。

瀬川先生は《レコードの途中で思わず私が「おい、これがレヴィンソンのアンプの音だと思えるか!」》
と叫ばれたそうだが、
私だって、「おい、これが四千円もしないダイアフラムの音だと思えるか!」といいたくなっていた。

Date: 9月 16th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その16)

メリディアンのULTRAD DACで聴いたグラシェラ・スサーナの歌について、
情景ということばを使った。

ULTRA DACの音は、私にとって情景と深くつながってくるようなところがある。
ULTRA DACの音を聴いていて、ふと、こんなふうだったのか、という、別の情景を思い浮べてもいた。

私にとって最初のステレオサウンドは41号と、
同時期の別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」である。

「コンポーネントステレオの世界 ’77」は一冊、組合せである。
編集部が想像した読者からの手紙に、オーディオ評論家が組合せをつくっていく。

そのなかに女性ヴォーカルをしっとり、ひっそりと聴くための組合せを、という手紙があり、
井上先生が担当されていた。

スピーカーシステムには、キャバスのBrigantinだった。
もうひとつロジャースのLS3/5Aも選ばれていた。
アンプはAGIの511とQUADの405、カートリッジはAKGのP8ES。

この組合せの試聴では、読者は存在しないわけだが、
井上先生、編集者、レポーターの坂清也氏、少なくとも三人以上がいるわけだ。

井上先生のことだから、きっと深夜の試聴になっていたことだろう。
そういえば、メリディアンの輸入元のハイレス・ミュージックの鈴木秀一郎さんから、
井上先生のエピソードを一つ聞いた。

鈴木さんは、あるオーディオメーカーに、そのころ勤められていた。
そのオーディオメーカーが井上先生に試聴を依頼した。
井上先生が、その会社に到着されたのは午前0時過ぎだった。

正面玄関は閉まっている。
こんな時間は、警備員のいる入口から入ることになる。
井上先生もそこから入られたわけだが、警備員が、0時すぎということもあって、
入場者名簿に名前を書いてほしい、と井上先生に言ったそうだ。

警備員の仕事として、それは当然なのだが、
井上先生は怒って帰られた、らしい。

担当者が、警備員に、井上卓也というオーディオ評論家が夜遅くに来社するということを伝えていれば、
こんなことも起らなかっただろうし、井上先生ももう少し早く(せめて日付が変る前に)、
着いていれば、そういうことにもならなかっただろう。

そういう井上先生だから、「コンポーネントステレオの世界 ’77」での試聴も、
きっと深夜から早朝にかけてだった、と思う。

そういう時間帯にいい歳した男三人(もしくはそれ以上)が、
Brigantinから鳴ってくる女性ヴォーカルに耳をすます──、
そういう情景を、ULTRA DACの音を聴きながら、
こんなふうだったのかなぁ、と想い浮べていた。

Date: 9月 12th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(余談)

一週間前にメリディアンのULTRA DACを聴いている。
翌日から、この「メリディアン ULTRA DACを聴いた」を書き始めた。
いまのところ(その15)まで来た。
まだ書いていく、もう少し続く。

毎日、ULTRA DACのことを書くのは、楽しい。
読む側からすれば、またULTRA DACのことか、と思われるかもしれないが、
書いていて楽しいのだから、まだまだ書いていく。

ブログは、文字数の制約はない。
書きたいことがあれば、納得のいくまで書こうと思えば書ける。
そこは紙のオーディオ雑誌とはまったく違う。

オーディオ評論家(商売屋)であっても、元はオーディオマニアのはず。
オーディオマニアのところを忘れてしまったオーディオ評論家(商売屋)もいるだろうが、
そこまで堕ちてしまった人は少ない、と思いたい。

であれば、仕事でさまざまなオーディオ機器を試聴して、
これは! と思うオーディオ機器と出合うことはあるはず。
年に一回あるかないか、かもしれないが、まったくないことは、それこそないはずだ。

そういうオーディオ機器と出合う。
けれど、オーディオ雑誌の編集の都合上、
そのオーディオ機器について書けるとは限らない。
他の筆者が書くことだって、けっこうあるはずだ。

書きたいのに書けない。
そのもどかしさを味わったことのない人は、
もう根っからのオーディオ評論家(商売屋)だろう。

書くことができたとしても、ページ数(文字数)の制約が、必ずつきまとう。
もっと書きたいのに……、となる。

編集者に交渉する人もいるかもしれない。
私に書かせてほしい、もっと書かせてほしい、と。
それでもダメなことだってある。

以前なら、それでオシマイだったが、いまはインターネットという場がある。
ブログならば、いまなら簡単に作れて、公開できる。

書きたいことが書けない、
もっと書きたいのに書けない、
ならば書きたいことを納得のゆくまで書いて,公開すればいいではないか。

こんなことをいうと、「プロの書き手だから、金にならない文章は……」と、
オーディオ評論家(商売屋)はきっというであろう。

オーディオ雑誌の編集者と、そんなことをして揉めたくない、という人もいるに違いない。
それでも、書きたいことを書くことを、なぜ優先しないのか、と、問いたい。
そんなことだから、オーディオ評論家(商売屋)でしかないのではないか。

Date: 9月 11th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その15)

9月5日のaudio wednesdayでは、
メリディアンのCDプレーヤー、206と508も聴いている。

時代が違っていても、メリディアンの音といえるものがどちらにも感じられた。
私だけが、そう感じていたのではなく、聴いていた人みなそうだった(ようだ)。

ULTRA DACの音も、そうだった。
けれど、私の耳にはULTRA DACといっしょに聴いた206、508の音よりも、

記憶のなかにあるM20の音が、ULTRA DACの音へと結びついていく。
M20はパワーアンプ内蔵とはいえ、スピーカー(変換器)である。
ULTRA DACはD/Aコンバーター。
デジタル信号をアナログへと変換するわけだから、
どちらも変換器といえば、そうなのだが、
電気信号を機械的振動へと変換するトランスデューサーとコンバーターは、
決して同一視できないのはわかっている。

それでもULTRA DACの音はM20の音をしっかり受け継いでいた。
少なくとも、私の耳にそう聴こえた。

しかもM20に、こうあってほしい、と思いつづけていたところがすべて満たされている。

M20はスピーカーシステムとして大型だったわけではない。むしろ小型に属する。
ULTRA DACは、D/Aコンバーターとして、かなり大型である。

800シリーズから大型になったメリディアンを知っていても、
ULTRA DACを目の前にして、「やっぱり大きいですね」といってしまった。

audio wednesdayに来た人も、「うっ、大きい……」と言っていた。

無駄に大きいわけではない。
内部をみることはできなかったが、電源部がかなりのスペースを占めている、とのこと。
試作機の段階ではスイッチング電源も試してみたけれど、
音の点で、従来通りの電源になった、という話だった。

M20とULTRA DACの、このサイズの違いは、そのまま、というより、
それ以上に音にあらわれている。

Date: 9月 11th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その14)

もうひとつ思い出していた音(音触)がある。
30年ほど前に聴いているメリディアンのM20の音である。

M20はパワーアンプ内蔵のスピーカーシステム。
スタンド込み(一体型)のフロアー型となるけれど、
エンクロージュアのサイズ自体は大きくはない。

ウーファーは10cm口径を二発、ソフトドーム型トゥイーターを、
いわゆる仮想同軸配置している。

これまでに何度か書いているようにM20の音は、魅力的だった。
買おうと、かなり本気で考えていた。

プリアンプの機能をもつメリディアンのCDプレーヤー207との組合せは、
私にとっては、メリディアンの数々のモデルの中で、いまも欲しい(聴きたい)と思う。

M20と207だけでシステムが成り立つ。
魅力的なのは、その簡潔さよりも、やはり音である。

ひとりぽつねんとしている夜に、M20と207のシステム、
それに女性ヴォーカルの愛聴盤があれば、ひとりでいることを忘れさせてくれるだけでなく、
ひとりでいることを堪能できよう。
聴きふけることができるからだ。

満たされるはずだ。
それでも、これだけでは、すまないところがオーディオマニアなのであって、
満足できる、といいながらも、あと少しばかりスケール感があれば……、とか、
あれこれこまかな注文をつけたくなってくる。

そんなことを求めなければ、幸せな音楽のある生活を送れるのに──、とわかっていても、
どうしようもなく求めてしまう。

Date: 9月 10th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その13)

私としては、このままグラシェラ・スサーナの歌だけを聴ければそれで充分という気持もあった。
けれど聴いているのは私だけではないし、
私だって、グラシェラ・スサーナ以外がどう鳴ってくれるのかを確認したい気持はある。

ユニバーサルミュージックのクラシックのサンプラーを聴いてみた。
まずは通常のCDで、
カラヤン/ウィーンフィルハーモニーによるR.シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」。
1959年のデッカ録音。
冒頭のノイズ。この鳴り方が通常のCDとMQAとでは大きく違う。
もうここだけでMQAの優位性が感じられる。

「ツァラトゥストラはかく語りき」はあまり聴きたくない曲だし、
サンプラーということもあって、収録時間は短い。それでも違いは誰の耳にもはっきりとわかるはずだ。

続いて2トラック目のカルロス・クライバー/ウィーンフィルハーモニーによるベートーヴェンの五番。
通常のCDの音も優れている。
それでもMQAでの音を聴いてしまうと、その違いははっきりと耳に残る。

ここでアップサンプリングのフィルターを切り替えてみた。
それまではshortで聴いていた。
ちなみにMQAディスク再生時には、フィルターは関係なくなる。

shortの音、mediumの音、longの音。
グラシェラ・スサーナの「仕方ないわ」では、圧倒的にshortの音だったが、
ここでは圧倒的にlongの音をとる。

longでのフィルターで再生したCDの音は、
クライバーの五番を最初に聴いた時の感触を思い出させた。
LPで聴いている。

クライバーのディスクは、この日、「椿姫」もかけた。
ここでもクライバーの「椿姫」をLPで聴いていたころの感触を思い出していた。

艶のある黒い円盤の感触が、ULTRA DACの音を聴いていると思い出させられる。
これも音触なのか、と思いながら聴いていた。