メリディアン ULTRA DACを聴いた(その27)
スチュアートの祖母は、コンサートピアニストだった、と86号の記事にはある。
両親も音楽好きで、クラシックに幼いころから親しんでいて、
86号のインタヴュー記事(1988年)では、
《好んで聴く音楽は、合唱音楽ということであった。特にCDになってからは、合唱音楽の再生に真価が発揮されるようになったという。自宅がケンブリッジにあるので、合唱音楽の宝庫ともいうべきケンブリッジ大学の、特にチャペルで行われるコンサートにはひんぱんに足を運んでいるとか。》
とある。
このことは当時のメリディアンのモデルの音以上に、
ULTRA DACの音を聴くと納得できる。
グラシェラ・スサーナだけでなく、声(歌)の再生は特に見事である。
人の声(歌)が好きな人ならば、ULTRA DACの音は聴かない方がいいかもしれない。
その場でULTRA DACを持って帰りたくなるほどに、よく鳴ってくれる。
人の声(歌)は、昔からいわれているように、音の違いがよくわかる。
声以外の場合、何かの楽器の再生音では時として騙されることがあっても、
人の声では、ほとんどの人が騙されることはない、とまでいわれるくらいに、
それはもっとも耳に馴染んだ音であるだけに、
よほど頭でっかちな聴き方をしないがぎり、人の声(歌)は、音がよくわかる。
瀬川先生が「聴感だけを頼りに……」(虚構世界の狩人・所収)が書かれている。
*
「きみ、美空ひばりを聴きたまえ。難しい音楽ばかり聴いていたって音はわからないよ。美空ひばりを聴いた方が、ずっと音のよしあしがよくわかるよ」
当時の私には、美空ひばりは鳥肌の立つほど嫌いな存在で、音楽の方はバロック以前と現代と、若さのポーズもあってひねったところばかり聴いていた時期だから歌謡曲そのものさえバカにしていて、池田圭氏の言われる真意が汲みとれなかった。池田氏は若いころ、外国の文学や音楽に深く親しんだ方である。その氏が言われる日本の歌謡曲説が、私にもどうやら、いまごろわかりかけてきたようだ。別に歌謡曲でなくたってかまわない。要は、人それぞれ、最も深く理解できる、身体で理解できる音楽を、スピーカーから鳴る音の良否の判断や音の調整の素材にしなくては、結局、本ものの良い音が出せないことを言いたいので、むろんそれがクラシックであってもロックやフォークであっても、ソウルやジャズであってもハワイアンやウエスタンであっても、一向にさしつかえないわけだ。わからない音楽を一所けんめい鳴らして耳を傾けたところで、音のよしあしなどわかりっこない。
*
そのとおりである。
けれど今回ULTRA DACを聴いて、怖いと感じたのは、
歌手の格を顕にするところである。