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メリディアン ULTRA DACを聴いた(その36)
スピーカーにもプリエコーの発生はある。
デジタルフィルターにもプリエコーの発生がある。
それぞれ逆相か同相かという違いはあるにしても、どちらにもあるわけだ。
にもかかわらずプリエコーが音に影響を与えていることを確認するには、
スピーカーからの音をまたねばならない。
スピーカーからの音を聴いて判断するしかない。
スピーカーは遅れている──、
以前からずっといわれ続けてきている。
瀬川先生の「オーディオABC」には、こんなことが書かれてあった。
*
スピーカーの研究では、かつて世界的に最高権威のひとり、といわれた H. F. Olson 博士(「音響工学」をはじめとして音響学に貢献する研究書をたくさん書いています)が日本を訪れたとき、日本のオーディオ関係者のひとりが、冗談めかしてこうたずねました。
「オルソン先生、ここ数年の間に、レコードやテープの録音・再生やアンプに関しては飛躍的な発展をしているのに、スピーカーばかりは、数十年来、目立った進歩をしていませんが、何か画期的なアイデアはないもんでしょうか」
するとオルソン博士、澄ましてこう言ったのです。
「しかし、あなたの言われる〝たいしたことない〟スピーカーを使って、アンプやレコードの良し悪しが、はっきり聴き分けられるじゃありませんか?」
これには、質問した人も大笑いでカブトを脱いだ、という話です。
むろん、この返事はアメリカ人一流のジョークで包まれています。けれど、なるほど、オルソン博士の言うように、私たちは、現在の不完全なスピーカーを使ってさえ、ごく高級な二台のアンプの微妙な音色の差を確実に聴き分けています。スピーカーがどんなに安ものでも、アンプをグレードアップすれば、すれだけ良い音質で鳴ります。
けれど右の話はあくまで半分はジョークなのです。スピーカーはやっぱり遅れているのです。
*
スピーカーの歪率は、アンプのそれよりも大きい。
桁が違うほどに大きいけれど、アンプの微妙な差を、そのスピーカーで聴き分けている。
というより、聴き分けるしかない。
聴き分けられるということは、アンプの歪とスピーカーの歪は、
歪率という数字で表わしきれない違いがあるからに違いない。
プリエコーに関してもそうなのかもしれない。
電気系が発するプリエコーと機械系・振動系が発するプリエコーが、
現象としては近いものであっても、同じとは考えにくい。
そして、確かな裏づけをなにか持っているわけではないが、
スピーカーの中でも、ホーン型は、プリエコーに関して敏感に反応してしまうのではないか。
メリディアン ULTRA DACを聴いた(その35)
デジタルフィルターが発生するプリエコーについて知った時にまず考えたのは、
スピーカーが発するプリエコーのことである。
スピーカーユニットのボイスコイルにプラスの信号が加われば、
ボイスコイルは前に動こうとする。
その際に発生する反動を、磁気回路を含むフレームが受け止める。
この反動は、フレームがすべて吸収してくれるのであればなんら問題はないが、
現実はそうではなく、フレームを伝わって、
振動板外周のフレームから輻射される。
この現象は、ダイヤトーンが、DS1000の開発時に測定し、
カタログなどで発表している。
目にした人もけっこう多いはずだ。
フレームはほとんどが金属であり、
振動が伝わる内部音速はかなり速い。
そのため、振動板外周のフレームから輻射される音は、
振動板が発する音よりも先である。
つまり、これも一種のプリエコーである。
ただし、ボイスコイルが前に動こうとする際に発生する反動故に、
ここでの輻射は逆相である。
デジタルフィルターのプリエコーが同相であるのは、この点が違うが、
プリエコーであることにはかわりない。
同相と逆相のプリエコーならば、打ち消し合いが起るかも……、
そんなバカなことも考えてみたりしたが、
プリエコーが音に影響を与えていることは、
スピーカーで実験してみれば、すぐにわかることである。
ダイヤトーンのように測定して対策を講じているメーカーもあれば、
そうでないメーカーのスピーカーも数多くあった。
そういうスピーカーで、われわれはCDの音を聴いているわけだ。
そこでプリエコーの発生が、元の信号にないのは理解しても、
それがどの程度、どんなふうに音に影響を与えるのか──、
知りたいのはそこであったけれど、答はどこにもなかった。
メリディアン ULTRA DACを聴いた(その34)
初期のCDプレーヤーに、ほぼ共通していえたのは、
音の伸びやかさに欠ける、というか、窮屈さを感じてしまうことである。
その原因についてあれこれいわれていた。
そのひとつがアナログフィルターの存在である。
デジタルフィルターを搭載していないCDプレーヤーでは、
かなり高次のハイカットフィルターが必要となる。
ソニーでいえば、CDP101は9次で、CDP701ESは、
ソニーのプロ用CDプレーヤーCDP5000と同じ11次のフィルターになっている。
そうとうに急峻なフィルターである。
高次になればなるほど部品点数は増えるし、
精度の高いフィルターを実現するには、細かな配慮も必要となる。
コストも当然かかるようになる。
デジタルフィルターを採用すれば、アナログフィルターはもっと低次のもので済む。
設計も楽になるし、部品点数も少なくなる。
なにより高次のフィルターよりも、低次のフィルターのほうが、音への影響は少なくなる。
デジタルフィルターとアナログフィルターとの併用で、
高次のアナログフィルターだけと同等か、それ以上のフィルター特性を実現できれば、
メーカーがどちらを選択するかは明らかだ。
それにアナログフィルターを構成する部品は、
量産したからといってさほどコストダウンは狙えない。
デジタルフィルターはLSI化されているから、量産効果ははっきりと出る。
1988年、デジタルフィルターを搭載していないCDプレーヤーはなかったはずだ。
メリディアン ULTRA DACを聴いた(その33)
1982年10月に登場したCDプレーヤーのなかで、
デジタルフィルターを搭載していたのはマランツ(フィリップス)のCD63だけだったはずだ。
ソニーにしてもオーレックス、Lo-D、デンオン、ケンウッド、パイオニア、テクニクス、ヤマハ、
どのモデルもデジタルフィルターは搭載していなかった、と記憶している。
ソニーがデジタルフィルターを搭載した最初のモデルは、CDP502ESである。
その前に出たCDP701ESも、一号機のCDP101もデジタルフィルターはなかった。
CD63だけが、4倍オーバーサンプリングのデジタルフィルターを搭載していたわけだが、
それすらも登場当時は、ほとんどの人が知らなかったはずである。
そのころすでにステレオサウンドで働いていたけれど、
私だけでなく、他の編集者も、デジタルフィルターを知っていた者はいなかった。
ただCD63に搭載されていたD/AコンバーターのTDA1540は、
14ビットだということはみな知っていた。
どうやって16ビットに対応しているんだろうか、
そのことにみな疑問をもっていても、そこにデジタルフィルターが関与していることは、
まったく知らなかった。
国産CDプレーヤーでデジタルフィルターを搭載した最初のモデルは、
NECのCD803である。
とはいえ、CD803の登場と同時に、
デジタルフィルターがどういうものなのか理解したわけでもなかった。
マランツの二号機CD73(1983年)の解説で、デジタルフィルターが搭載されている、と書いていても、
ではデジタルフィルターがどういう動作をするのかをわかっていたわけではない。
このころはデジタルフィルターありなし、そんなこと関係なしにCDプレーヤーの音を聴いていたわけだ。
1983年登場の、各社の第二世代機では、ソニーのCDP701ESは良くできていた。
CDP701ESは、半年ほど使っていたことがある。
知人が購入したCDP701ESを借りていた時期である。
1984年ごろのことだ。
CDプレーヤーの進歩は早かった。
1983年登場のトップモデルとはいえ、CDP701ESは、過去のモデルになりつつあった。
それでも自分の部屋で聴いていると、意外に音がいいことに気づいた。
ステレオサウンドの試聴室で聴いた印象よりも、ずっといい。
そのころは気づかなかったけれど、
デジタルフィルターを搭載していなかったこともあったのかもしれない。
メリディアン ULTRA DACを聴いた(その32)
ラックスのDA7と同じ1988年、
無線と実験の読者投稿欄に、ユニークなD/Aコンバーターの自作記事が載った。
楠亮平氏という方によるNOS DAC(Non Over Sampling D/A converter)である。
記事に掲載されていた回路図は、
こんなに少ない素子数でD/Aコンバーターが自作できるのか、というくらいだった。
デジタルフィルターを排除したD/Aコンバーターだった。
詳細までは記憶していないが、
デジタルフィルターの問題点を指摘してのものだったようにも記憶している。
NOS DACは、この記事だけで終りはしなかった。
自作派の人たちのあいだでも、さまざまなNOS DACが作られていったのは、
Googleで検索してみればすぐにわかることだし、
メーカーからも製品化されたこともあるし、現行製品でもある。
デジタルフィルターとの組合せが前提設計のD/Aコンバーターでは、
デジタルフィルターを省いてしまうと、技術的な問題点が発生する──、
そういう指摘の記事も読んだことがある。
それはそうだろう、と思いながらも、NOS DACはプリエコー、ポストエコーが発生しない。
そのことに(そのことだけではないだろうが)音質的メリットを感じる人がいる。
そうでなければ、単なるキワモノ的な記事で終っていただろう。
少なくとも1988年には、プリエコー、ポストエコーの問題を指摘する流れが生れていた。
もっとも現在では、FIR型デジタルフィルターでも、
対称型ではなく非対称型の設計にすることでプリエコーを抑えている。
プリエコーとポストエコーとでは、プリエコーの方が音質上影響が大きい、といわれている。
メリディアン ULTRA DACを聴いた(その31)
CDプレーヤーに搭載されているデジタルフィルターの問題点、
プリエコー、ポストエコーの発生についてメーカーが指摘したのは、
ラックスが最初ではないだろうか。
1988年にラックスが出してきたD/AコンバーターのDA07は、
フルエンシー理論によるD/A変換を実現している。
この時、DA07のカタログや資料で、一般的なデジタルフィルターが、
プリエコー、ポストエコーを発生させてしまうことが指摘されていた。
原信号には存在しないプリエコーとポストエコー。
これらが問題となってきたのは、DA7の登場より後のことである。
確か、この時点ではフルエンシーD/AコンバーターはLSI化されていなかった。
その後、フルエンシーD/Aコンバーターは、
新潟精密がLSI化している。
FN1242Aである。
十年くらい前までは入手可能だったが、
いまでは新潟精密もなくなっているし、FN1242Aの入手も難しいだろう。
DA07は意欲作だった。
200W+200Wクラスのパワーアンプ並の筐体のD/Aコンバーターだった。
ペアとなるトランスポートDP07と組み合わせた音は、
ここでも意欲作ということばを使いたくなるものだった。
聴いていてすごい、と感じるところもあった、
欲しいという気持は起きてきた。
それでもDP07の大きさと恰好、
DP07とDA07を二つ並べたときに受ける印象は、
欲しい、という気持を萎えさせてしまうところも、私は感じてしまった。
いまになって、ラックスのDA07を思い出すのは、
メリディアンのULTRA DACを聴いてしまったからでもある。
メリディアン 218を聴いた(その12)
子宮回帰願望うんぬんというのは、
おそらくケイト・ブッシュの一枚目“THE KICK INSIDE”、
二枚目の“Lionheart”までの印象で語られたのではないか、とおもう。
三枚目の“Never for Ever”がもしデビューアルバムだったとしたら、
“THE KICK INSIDE”も“Lionheart”も存在していなかったとしたら、
ケイト・ブッシュが好きな男は子宮回帰願望の強いやつだ、みたいなことは、
おそらく出てこなかった、と思う。
なのにULTRA DACでの“THE DREAMING”を聴いていて、
私は子宮回帰願望について思い出していたし、聴き終ってからは考えてもいた。
“Never for Ever”のジャケットのイラスト。
どんなイラストなのかはここでは説明しないので、
Googleで画像検索してみてほしい。
私が“THE DREAMING”に感じている子宮的世界とは、
“Never for Ever”のジャケット的世界に、
さらに深く入りこんでしまったかのような──、
“THE KICK INSIDE”と“Lionheart”までの子宮回帰願望と、
“THE DREAMING”での子宮回帰願望を同じに感じる人は、そうはいないと思う。
ケイト・ブッシュは“Never for Ever”から、プロデュースも担当し始めた。
ジョン・ケリーと共同であった。
“THE DREAMING”で、ケイト・ブッシュ単独のプロデュースである。
だからなのかもしれない、そう感じてしまうのは。
よくハイエンドオーディオの世界では、
スピーカーの後方に音場が出来上る、といわれる。
私は“THE DREAMING”において、そんな音場の出来方はまったく求めていない。
そんな音場が再現されたところで、子宮回帰願望が満たされるわけがない。
メリディアン 218を聴いた(その11)
3月6日のaudio wednesdayで、
マッキントッシュのMCD350で、ケイト・ブッシュの“THE DREAMING”を聴いた。
4月3日のaudio wednesdayでは、メリディアンのULTRA DACで“THE DREAMING”を聴いた。
そして今回(5月1日)のaudio wednesdayで、メリディアンの218で“THE DREAMING”を聴いた。
2108年リマスター盤を三回続けて聴いている。
私にとって圧倒的だったのは、いうまでもないけれど、
ULTRA DACでの“THE DREAMING”の音だった。
次はMCD350での“THE DREAMING”だった。
そして僅差で218での“THE DREAMING”と、あえて順位をつければこうなる。
218での“THE DREAMING”は、MCD350と218を接続するケーブル、
今回は比較的柔らかい(音ではなく実際に手で触れた感触)のケーブルだった。
ここのケーブルを傾向の違うモノにすれば──、ということは次の機会に試してみたい。
私が10代のころ、
ケイト・ブッシュが好きな男は子宮回帰願望の強いやつだ、みたいなことがいわれていた。
誰が言い始めたことなのか、
ほんとうなのかどうかも、どうでもいいことなのだが、
ULTRA DACでの“THE DREAMING”を聴いていて、このことを久しぶりに思い出していた。
たしかにそうかもしれないなぁ、と、
ULTRA DACでの“THE DREAMING”にどっぷり浸かって聴いていると、
否定できない気持になってくる。
といっても、一般にイメージされている子宮とは、まったく違う子宮であり、
それはあくまでも私の勝手な想像によるケイト・ブッシュの“THE DREAMING”的子宮である。
こういう鳴らし方が、“THE DREAMING”の正しい鳴らし方なのかどうかはなんともいえないが、
私にとって“THE DREAMING”は「青春の一枚」であって、
青春の一枚とは、そういうことを含めてのことでもある。
メリディアン 218を聴いた(その10)
この項に興味を持って読んでいる方たちがもっとも知りたいのは、
ULTRA DACと較べてどうなのか、だろう。
今回はULTRA DACとの比較試聴ではない。
これから先も、そういうことをやろうとは考えていない。
それでも、これまで三回、
喫茶茶会記でのaudio wednesdayでULTRA DACを聴いている(鳴らしている)。
その記憶を元に語るならば、やはり違う、となる。
そのくらいにULTRA DACと218は違う。
MQA-CDの再生、通常のCDの再生、どちらも違う。
2,500,000円と125,000円という価格の違いを考慮すれば、
違いは小さいともいえる。
それでもいちばん違うと私が感じたのは、
そこで鳴っている空気の量である。
同じ音量で鳴らしているわけだが、
ULTRA DACで鳴らしている時の、空気の量はやはり多い。
多いといっても、喫茶茶会記の空間が拡がるわけでもないし、
空気が物理的に増えるわけではないのだが、
スピーカーが動かす空気の量が違うとしかいいようがない違いが、はっきりとある。
つまり、それはどういうことかといえば、空気の密度感が違う、ということなのかもしれない。
と同時に音の量感とは、そういうことなのか、と合点がいった今回の試聴でもある。
誤解しないでほしいのは、218で鳴らしたときの空気の密度感が低い、というわけではない。
ULTRA DACで鳴らす空気の密度感が高い(濃い)のである。
メリディアン 218を聴いた(その9)
218は125,000円だから消費税8%ならば、135,000円になる。
これだけの予算があったとしよう。
オーディオに、これだけの予算がかけられる、としたら、どうするか。
何を買うのか。
人によって答は違う。
一人として同じシステムで聴いているわけではないし、
仮に同じシステムで聴いている人が何人かいたとして、
皆が同じだとは考えられない。
人によって価値観、考え方は違う。
それによって、135,000円という予算が、ポンと与えられたらどうするかも違ってくる。
CDプレーヤーにMCD350クラスのモノを使っている、としよう。
135,000円でラインケーブルを買う、という人もいよう。
長さによるが、10万円を超えるケーブルであれば、
上をみればキリがないとはいえ、かなりのケーブルが手に入る。
電源コードという人もいるだろうし、
その他のアクセサリー類という人もいよう。
どれが正解というわけではない。
私なら、MQA-CDを聴きたい、と考えるから、218を選ぶ。
MQAの音は、長いことアナログディスク再生にこだわってきた人ならば、
絶対になんらかの良さを見出せる、はず。
そう断言できる。
だからMQA-CDの音を聴く度に、
私は菅野先生のことをおもう。
音触という表現をつくられた菅野先生は、
MQA-CDの音をどう表現されるだろうか。
そのことを、こうやって書きながらもおもってしまう。
メリディアン 218を聴いた(その8)
(その1)で書いているように、
マッキントッシュのMCD350とメリディアンの218は、
ジャンルの違う機器とはいえ、同価格帯の製品とはならない。
私は、安易なCDプレーヤーのセパレート化には、否定的である。
なんでもかんでもセパレートにしてしまえば、音が良くなるわけではない。
今回は、MCD350と218は同じコンセントから電源をとっている。
つまりMCD350単体で音を聴いている時であっても、
218は電源を入れていて、なんらかの影響をMCD350に与えているとみるべきで、
その意味では、
MCD350単体の音、MCD350+218の音を厳密に比較試聴しているとはいえないところがある。
MCD350単体で聴いた方がいいんじゃないか、と、
これまでの聴いてきた記憶と照らし合せ、そう思うところもある。
とはいえ、あれこれやったあとの218で、もう一度かけたブリテンのモーツァルトは、
もう鈍くはなかった。
このへんになると、どちらがいいというよりも、
かけるディスクに応じて、どちらから出力をとるのかを選択すればいいと思う。
つまりカートリッジをかえるように、
D/Aコンバーター部をかえて聴けばいい。
そしてMCD350に218を追加することで、MQA-CDの再生が可能になる。
このことのメリットは、はっきりと大きかった。
これまで書いてきているように、私はMQA-CDの音は、ULTRA DACでしか聴いてこなかった。
MQA-CDに感じた良さは、218でも感じられるのか、
感じられるとして、どこまでのレベルなのか。
期待もあり、不安もあった。
最初にかけたMQA-CDは、グラシェラ・スサーナである。
前奏が鳴ってきた瞬間に、MQA-CDだな、と思ったし、
スサーナの歌が始まると、やっぱりMQA-CDはいい、
それも人の声がほんとうにいい、と改めて認識していた。
よくいわれるように、空気が変る──、
まさにそういう感じになる。
つまり聴き惚れる。
メリディアン 218を聴いた(その7)
218の天板に重しを載せるかのせないか。
載せるにしても、どんな材質で、どのくらいの重さのモノにするかによっても、
音は、当然だが変ってくる。
今回は、とりあえず喫茶茶会記にあった重しになりそうなものを使ったまでのことで、
今回の重しが最適とは思っていない。
重しは、結局最後まで載せたままで聴いている。
けれど、かけるディスクによっては載せない方がいいときだってあるし、
置き台と脚との関係性でも、そのへんは違ってくるから、
こうしたほうがいい、という絶対的なことにはならないし、
そんなことは書けないものである。
実際、重しの最後のほうで少し変えてみた。
そこでかけたディスクには、位置を変えたほうがよかった。
218を接いで、脚を何もつけずに鳴らした状態の音からすると、
最後の方で鳴っていた音は、どちらも218の音ではあっても、
違うといえば、違う音になっている。
これらのことをやっていくことで音は必ず変化する。
その変化量とどの方向への変化なのかを聴きながら、
それでも変化しないところも必ずある。
音を聴くということは、音を探っていくということでもあり、
音を探っていくということは、今回やったこともその一例である。
今回は重しを載せたけれど、
個人的に218を聴くのであれば、私は載せない。
載せずに、脚の位置をもうちょっとだけ細かく詰めていく。
音が好ましい方向に変化していくとしても、
天板に重しというのは、好まない。
それでも今回やったのは、音を探っていくためである。
メリディアン 218を聴いた(その6)
メリディアンの218には、脚、電源コード、重しの他にも、もうひとつやっている。
そのもうひとつでの音の変化が、私が予想していた以上に大きかった。
変化量が大きく表れた理由の一つには、
重しを載せていたことも関係してのことだろうと考えた。
だとすれば、と次に考えたのは脚の取り付け位置である。
そう考えたのは、ステレオサウンドにいたころ、
井上先生の試聴で、
スピーカーシステムの下にダイヤトーンのDK5000を使ってチューニングをやってきたからである。
DK5000はカナダ産のカエデを使った、一辺約10cmの角材である。
DS5000用として発売されたが、ステレオサウンドの試聴室ではJBLの4344に常時使っていた。
DK5000による四点支持、三点支持だけでなく、
それぞれのDK5000をどの程度スピーカーシステムの底板に接触させるか、
それによる音の変化、そしてスピーカーシステムの天板の状況との関係性、
それらの経験があったからこそ、218でもまったく同じに捉えたわけだ。
スピーカーシステムのエンクロージュアも、
アンプやD/Aコンバーターのシャーシー、どちらも箱である、六面体である。
六つの面は完全に独立しているわけではない。
天板の振動を抑えようとすると、対面の底板の振動が増える。
振動というエネルギーをどこかでロスさせないかぎり、
片方の面をしっかりとした造りにすれば、どこか弱い面にしわ寄せがいく。
218の天板に重しを載せても、それで天板の制振ができるわけではない。
だから脚の取り付け位置を、脚の直径分内側に寄せた。
たったこれだけでも音は変化する。
その変化の仕方は、スピーカーシステムにおけるDK5000のそれとほぼ同じ傾向を示す。
メリディアン 218を聴いた(その5)
メリディアンの218につけた脚は、
別項「聴感上のS/N比と聴感上のfレンジ(アンプの脚)」で、
マッキントッシュのMA7900、MCD350につけたモノと基本的に同じである。
違うのは大きさだけで、もっとも大きく重量のあるMA7900には大きめのモノを、
MCD350にはそのしたのサイズ、218にはさらにしたのサイズにした。
この脚を、最初はゴム脚を貼り付ける位置に取り付けた。
問題なく取り外しができるように、それ用の両面テープを使った。
ここでの変化も小さからぬものだった。
218の重量は先に書いたように500gである。
この軽さからわかるようにシャーシーに、厚い金属板を使っているわけではない。
とはいえサイズも小さいゆえ、シャーシーの強度が不足している感じはない。
でもオーディオマニアの性(さが)として、
天板の上に重しを置いてみたくなる。
喫茶茶会記には、タオック製の金属の円柱状のモノがある。
218よりも手にとると重い。
とりあえず、これを218の上に、布を介して置く。
こんなふうに約二時間、218で音を聴いていた。
21時ごろに、別項「Hallelujah」で紹介したジェフ・バックリィによる“Hallelujah”をかける。
いい感じで鳴っていた。
最後まで聴き終って、
「今日は、これ(ジェフ・バックリィによる“Hallelujah”)で終りにしてもいい感じですね」
という声があった。
私も同感だった。
締めの一曲がうまく鳴ってくれれば、気持ちよく終れる。
ジェフ・バックリィによる“Hallelujah”は、そのくらいうまく鳴ってくれた。