Archive for category ディスク/ブック

Date: 8月 19th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ESCAPE

8月19日に日付が変った直後に、
e-onkyoのサイトにアクセスしたら、ジャーニーの“ESCAPE”がジャケットに目に入った。

2022年リマスター、とある。
TIDALでもあるかな、と思って見たが、まだなかった。
どうも時差の関係で少し遅れるようで、今日の午後、TIDALをチェックしたら、あった。

e-onkyoではflacで、48kHz、96kHz、192kHzがあるが、
MQAはなかった。

TIDALはMQA Studioで、192kHzのみである。
音がいい。
聴いていて楽しくなる音のよさである。

“ESCAPE”は1981年のアルバム。
当時の若者は(私もその一人なのだが、リアルタイムでは聴いていない)、
“ESCAPE”を聴いていたわけだ。

別項で「熱っぽく、とは」を書いているけれど、
“ESCAPE”を当時夢中になって聴いていた若者ならば、
買ったアンプをトートバッグに入れて持ち帰ることぐらいなんでもなかったのかもしれない。

そんな、こじつけめいたことも聴き終ってから思っていた。

Date: 8月 15th, 2022
Cate: ディスク/ブック

SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その8)

ギターは小さなオーケストラ、といわれていることは昔から知ってはいた。
知ってはいたけれどそう実感したことはなかったから、
そういうふうにいうんだなぁ、ぐらいだったのが、
“Friday Night in San Francisco”を聴くまでだった。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、
ギターが小さなオーケストラであることを実感できたし、そのことが衝撃でもあった。

そしてギターという小さなオーケストラは、凝縮されたオーケストラでもあった。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”を四十年ほど聴いてきて、
ギターは魂に最も近い楽器だ、と感じるようになってきた。

ここでの魂は、弾き手の魂なのだが、
そこにとどまらず聴き手の魂にも最も近い楽器だと思っている。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”も“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”も、
まさにそうである。
そういう音で鳴ってくる。

Date: 8月 14th, 2022
Cate: ディスク/ブック

SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その7)

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”と“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”。
聴いてどうだったのか。
どちらがいいのか、どちらが人気があるのか。

昨晩、両方ともMQA Studioで聴いていた。
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”を聴いたあとに、
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”を聴いていた。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”が1980年12月5日、
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”が1980年12月6日。
けれど、その録音が発売になったのは、1981年と2022年である。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、これまで数え切れないほど聴いてきている。
最初はLPで聴いて、CDで聴いて、SACD、そしてMQA Studioで聴いている。

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、昨晩が最初である。
MQA Studioでしか聴いていない。

聴いてきた長さ、その他もろもろが違いすぎる。
そして1981年に、“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”も同時に発売になっていたら、
いまとは違う比較をしていただろうし、感じ方も違っていたであろう。

でも、現実は四十年ほどの開きがあって、
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”と“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”である。

しかも“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、
別項でも何度か書いているように、ステレオサウンドの試聴室で、
アクースタットのコンデンサー型スピーカー、Model 3で聴いている。

それゆえの衝撃の大きさ、強さがある。
ほんとうに強烈な体験だった。

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、そうではない。
それに昨晩聴いたばかりだ。

正直、比較する気は私にはまったくない。
どちらも聴くと楽しい。

それでいい、と思っている。

Date: 8月 13th, 2022
Cate: ディスク/ブック

SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その6)

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、すぐに予約した。
二回発売日変更と価格変更のメールが、タワーレコードから届いた。

私が注文したSACDは価格は当初よりもかなり安くなって、
8月19日発売と、いまところなっている。
なので、まだ届いていない。

TIDALでも、まだだった。
いつになるのか、が、もしかすると配信されないのかも……に、変りはじめていた。
けれどやっと配信が始まった。

MQA Studioで、192kHzである。
e-onkyoでも昨日から買えるようになっているが、
こちらはDSF(2.8MHz)とflac(196kHz)のみで、MQAは予想した通りない。

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”をMQAで聴きたいのであれば、
いまのところTIDALのみである。

そして、もうひとつ嬉しいことがあった。
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の配信が、
これまでMQA Studio(44.1kHz)からMQA Studio(176.4kHz)に変更になっている。

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”にあわせてなのだろう。

こういうことがあると、いまはほんとうにいい時代になったなぁ、と思う。
素敵な時代になったとも思う。

Date: 7月 28th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(その10)

ケント・ナガノと児玉麻里によるベートーヴェンのピアノ協奏曲、
その素晴らしさに驚いていたころに、
ある人から「児玉麻里のベートーヴェンのソナタは素晴らしい」といわれたことがある。

私よりも一世代ちょっと上の人である。
その人とは初対面だったけれど、たまたま児玉麻里の話になった。

聴いてみよう、とは思いながらも、
心のどこかに、機会があったら──、という気持があった。
そのため積極的に聴こうとはしなかった。

そうすると意外にも、聴くまでの時間がかなりかかったりする。
結局、児玉麻里のベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴いたのは、
TIDALを使うようになってからだ。

《ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタが女性に弾けるわけはない》、
五味先生が、そう書かれていた。

別項でも書いているが、そうだ、と私も思うところがある。
作品一一一の第二楽章を聴いていると、
五味先生が書かれていることを実感する。

そうでありながらも、
内田光子、アニー・フィッシャーのベートーヴェンの後期のソナタに感動している。
この二人が、私にとっては例外の存在といってもしまってもいいのだが、
児玉麻里が三人目として、ここに加わるのかといえば、決してそうじゃなかった。

ケント・ナガノにしても、児玉麻里にしても、
二人でのピアノ協奏曲は、あれほど素晴らしかったのに、
それぞれの演奏、交響曲とピアノ・ソナタにおいて、
そこまでのレベルに達していないのは、
つまりは内田光子のいうところのベートーヴェンの音楽における苦闘、
肉体的、精神的、感情的な意味での苦闘であり、彼自身との苦闘であること。

その中でも、彼自身との苦闘。ここにつきる、としかいいようがない。
内田光子は《自分がピアノを弾いている時に、オーケストラに自分を攻撃させられないから》
といい、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の弾き振りはしない。

交響曲ならば、指揮者はオーケストラに自分を攻撃させる、
ピアニストは、ピアノによって自分を攻撃させる、
この境地に到ってこそのベートーヴェンの演奏だとすれば、
ケント・ナガノによる交響曲、児玉麻里によるピアノ・ソナタに、
何か欠けたように感じてしまうのは、そこにおいてなのだろう。

何も、このことはケント・ナガノ、児玉麻里に限ってのことではない。
他の指揮者、他のピアニストにもいえることだ。

なのに、ここでケント・ナガノ、児玉麻里の名を挙げているのは、
くり返すが、ピアノ協奏曲はほんとうに素晴らしいからである。

Date: 7月 24th, 2022
Cate: ディスク/ブック

岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門(とビートサウンド・その2)

「岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門」、
どんな仕上がりになっているのか、
面白ければ買おうかな、と思いながら書店に手にしたけれど、結局は買わなかった。

この記事が面白ければ──、と思っていた「ココがヘンだよ!? オーディオ評論」。
音楽之友社のウェブサイトでは、このタイトルだったけれど、
実際の誌面ではタイトルが変更になっていた。

岩田由記夫氏と土方久明氏の対談なのだが、
朝沼予史宏氏の名前が出ていた。

ただし朝沼予史宏氏ではなく、浅沼予史宏氏だった。
何度か出てくるけれど、すべて浅沼予史宏氏だった。

なんなんだろうなぁ……、とおもうしかなかった。

Date: 7月 21st, 2022
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(その9)

ケント・ナガノとモントリオール交響楽団によるベートーヴェン。
交響曲とピアノ協奏曲(ピアニストは児玉麻里)がある。

ピアノ協奏曲の一番と二番は、ここでくり返し書いているように、
ほんとうに素晴らしい演奏である。
しかも録音も素晴らしい。

菅野先生が「まさしくベートーヴェンなんだよ」いわれていた。
けれど残念なことに、
「まさしくベートーヴェンなんだよ」というレベルで鳴っている音に、
いまだ聴けずにいる。

菅野先生の音だけがそうだった。

その8)で触れたように、
ケント・ナガノのベートーヴェンの交響曲には、
児玉麻里とのピアノ協奏曲で聴けた何かが欠けている気がする。

今年初めだったか、
内田光子がベートーヴェンの音楽について語っている動画を見た。

そこで内田光子は、ベートーヴェンの音楽は苦闘だと語っていた。
肉体的、精神的、感情的な意味での苦闘であり、彼自身との苦闘である、と。

だからベートーヴェンのピアノ協奏曲の弾き振りは難しい。
自分がピアノを弾いている時に、オーケストラに自分を攻撃させられないからだ、と。

指揮者が、オーケストラとピアニストの両者を対立させる必要があるのが、
ベートーヴェンのピアノ協奏曲であり、
その点、モーツァルトの場合は、対話が重要になる。

たしかに、こんなふうに語っていたはずなのだが、
男の子が「ねえ、ちょっと」と言い、それに対して女の子が「嫌よ」という感じで応える。

だからピアノ協奏曲の弾き振りはできる。

そんな趣旨のことを語っていた。

ケント・ナガノと児玉麻里は、ご存知のように夫婦である。
その二人だからこその、信頼が基盤にあっての対立が、
ベートーヴェンのピアノ協奏曲にあるのだろう。

Date: 7月 18th, 2022
Cate: ディスク/ブック

岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門(とビートサウンド・その1)

ビートサウンドのことを思い出していたところだ。

ビートサウンドはステレオサウンドが出していた。
ステレオサウンドで取り上げられるディスクが、クラシックが主で、
あとはジャズがあるくらいの状況に異を唱えた(とはいいすぎかもしれないが)のが、
ビートサウンドである。

休刊にはなっていないようだし、不定期刊行物扱いのようである。
このビートサウンドの最初は、朝沼予史宏氏が編集長としてのムックだった、と記憶している。
2002年に出た(はずだ)。

ビートサウンドから二十年が経つ。
岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門が出る。

Date: 7月 18th, 2022
Cate: ディスク/ブック

岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門(コメントを読んで)

facebookにコメントがあった。
私より一世代若い方からのコメントで、
海外のオーディオ関係のサイトやソーシャルメディアをみると、
クラシックはほとんどなくジャズが少しあって、
メインはロック(プログレッシヴ、パンク、ニューウェーヴなどを含む)、
ポップス、クラブミュージックが圧倒的に多い、とあった。

この点が日本とは大きく異っていると思っている──、とも書いてあった。

この方ほど、海外のサイトやソーシャルメディアを見てまわっているわけではないが、
同じことは感じていた。
クラシックの割合は少ない。

でも、同じことを私は、日本のオーディオ雑誌を読んでいて感じている。
日本のオーディオ雑誌に、試聴ディスクとしてクラシックが登場しないことは、まずない。
それでも、その割合は、私が熱心にオーディオ雑誌を読んでいたころ、
ステレオサウンド編集部で働いていたころからすれば、ずいぶん減ってきている。

減ってきていることを嘆きたいわけではなく、
無理してクラシックを試聴ディスクとして使っているのでは……、という印象が、
少しずつではあるが強くなってきていることに関して、
そんなふうにしてまで使わなくてもいいのでは──、
そう思うようになってきている。

別の、そのことが悪いとか批判したいわけではないが、
時代は変ってきているし、ステレオサウンドに限っても、
メインのオーディオ評論家と呼ばれている人たちのなかで、
この人の耳(クラシックを聴いての耳)は信頼できると、私が思う人は、もういない。

柳沢功力氏がいるではないか、そう反論されるだろうが、
個人的に柳沢功力氏の試聴記を読んでも、
私がオーディオ評論家(職能家)と呼ぶ人たちのそれからすれば、
ずいぶんと違う、と感じてしまうし、ものたりなさもある。

このことについてここで触れるには長くなってしまうテーマであるし、
個人攻撃のようにもなってしまうだろうから、このへんにしておく。

ずっと昔のステレオサウンドを熱心に読んできた人のなかには、
私と同じような印象を柳沢功力氏にもつ人がいる。

そのことを批判したいのではなく、時代は変っているし、
ステレオサウンドも、編集部も筆者も変ってきている。
それがいいたいだけ、である。

完全にクラシックが試聴ディスクとして使われなくなる日は来ないだろう。
それでも減っていくのは確かだろうし、
数としてそれほどの変化はなくとも、
試聴ディスク全体でのウェイトは低くなっていく、と思っている。

Date: 7月 18th, 2022
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その4)

アレクシス・ワイセンベルクも、ゴールドベルグ変奏曲を二回録音している。
しかも二回目はグレン・グールドと同じ1981年である。

グールドの1981年録音のゴールドベルグ変奏曲は、1982年秋に出た。
ワイセンベルクのゴールドベルグ変奏曲は、いつ出たのだろうか。
記憶にない、というのではなく、まったく気づいていなかった。

私がワイセンベルクのゴールドベルグ変奏曲を聴いたのは、
別項「アレクシス・ワイセンベルク」で書いているように昨夏から、
TIDALに、ワイセンベルクのアルバムがかなりの数あるからだ。

グールドがワイセンベルクのことを高く評価していたのは知っていた。
それでもこれまでほとんどといってくらいにワイセンベルクを聴いてこなかった。
それがいまでは聴くようになった。

グールドのゴールドベルグ変奏曲の未発表レコーディング・セッション・全テイク、
これが出るというニュースをきいてからもワイセンベルクのゴールドベルグ変奏曲を聴いた。

聴いていて、ワイセンベルクはグールドに似ている、というよりも、
グールドに近い、と感じていた。
そしてグールドの未発表のテイクのなかには、
ワイセンベルクの演奏に近い変奏曲があっても不思議ではない──、
そんなことをおもうようにもなっていた。

近い演奏がまったくない、と思っていない。
といっても、まだ聴いていないのだから、なんともいえない。
まったくないのかも知れない。

あと二ヵ月ちょっと経てば、グールドの未発表テイクは発売になる。
その時またワイセンベルクのゴールドベルグ変奏曲を聴いている。

Date: 7月 17th, 2022
Cate: ディスク/ブック

シフのベートーヴェン(その13)

こんなことを書き続けていると、
ふとしたひょうしに、坂村真民氏の有名な詩の一節が浮んでくる。

《鳥は飛ばねばならぬ
 人は生きねばならぬ》

「ねばならぬ」というところに、
抵抗、反感、拒否など、そういったことを感じる人がいるのはわかっている。
それでも、私はオーディオマニアは? と考えてしまう。

オーディオマニアは問い続けねばならぬ。
そう思うのだ。

Date: 7月 17th, 2022
Cate: ディスク/ブック
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シフのベートーヴェン(その12)

五味先生はポリーニの旧録音に激怒されていた。
     *
ポリーニは売れっ子のショパン弾きで、ショパンはまずまずだったし、来日リサイタルで彼の弾いたベートーヴェンをどこかの新聞批評で褒めていたのを読んだ記憶があり、それで買ったものらしいが、聴いて怒髪天を衝くイキドオリを覚えたねえ。近ごろこんなに腹の立った演奏はない。作品一一一は、いうまでもなくベートーヴェン最後のピアノ・ソナタで、もうピアノで語るべきことは語りつくした。ベートーヴェンはそういわんばかりに以後、バガテルのような小品や変奏曲しか書いていない。作品一〇六からこの一一一にいたるソナタ四曲を、バッハの平均律クラヴィーア曲が旧約聖書なら、これはまさに新約聖書だと絶賛した人がいるほどの名品。それをポリーニはまことに気障っぽく、いやらしいソナタにしている。たいがい下手くそな日本人ピアニストの作品一一一も私は聴いてきたが、このポリーニほど精神の堕落した演奏には出合ったことがない。ショパンをいかに無難に弾きこなそうと、断言する、ベートーヴェンをこんなに汚してしまうようではマウリッツォ・ポリーニは、駄目だ。こんなベートーヴェンを褒める批評家がよくいたものだ。
(「いい音いい音楽」より)
     *
激怒することはなかったけれど、
ひどいベートーヴェンだ、と感じた演奏はある。
決して少なくはない。

それでも激怒することがなかったのは、
あらかじめ、そうなりそうな演奏を聴かなかったから、でもある。

アンドラーシュ・シフのベートーヴェンは、素晴らしい、とは思っている。
けれど、これまで書いてきたように、私にはなくてはならない演奏だとまでは感じていない。

シフのECMへのベートーヴェンの録音を絶賛する人がいるのは知っている。
そのことにケチをつけたいわけではない。
なのに、こうやって書いているのは、自分に問い続けていたいからである。

1980年代、デッカに録音していたころのシフの演奏にも惹かれるものがあった。
だからくり返し聴いていた時期がある。
けれど、ある時からパタッと聴きたいと思わなくなった。
つまり聴かなくなっていた。

(その2)で書いたけれど、
シフをふたたび聴きはじめたのは、ECMでのゴールドベルグ変奏曲のCDを、
「気に入ると思って」という言葉とともに、ある人からもらったことからだった。

その人のことば通りに気に入って、くり返し聴いた。
シフのECMの録音を聴くようになっていった。

それでも、今回もまたパタッと聴かなくなってしまった。
先日、TIDALでシフのゴールドベルグ変奏曲(MQA Studio、44.1kHz)で聴いていた。
最後まで聴けなかった。
途中で、おなかいっぱい、という感じがしてしまったからだ。

あらためて、なぜなんだろう……、とおもう。
だから問い続けていくことになる。

Date: 7月 17th, 2022
Cate: ディスク/ブック

岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門

二日後の7月19日、
音楽之友社からステレオ・ムックとして「岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門」が出る。

岩田由記夫氏のtwitterアカウントはフォローしているので、
このムックが出ることは少し前から知っていたし、期待もしている。

リンク先の音楽之友社のサイトには、主要目次が公開になっている。
私が注目しているのは、Outside of Gateの章である。
岩田由記夫 × 土方久明「ココがヘンだよ!? オーディオ評論」とある。

どういう対談になっているのだろうか。

Date: 7月 16th, 2022
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その3)

グレン・グールドは、音楽のキット化を提唱していたことがある。
音楽のキット化は、クラシック音楽におけることであって、
ベートーヴェンの第九のことを思い浮べたことがある。
     *
 戦後のLP時代に入って、〝第九〟でもっとも印象にのこるのはトスカニーニ盤だろうか。
 はじめてこれを聴いたとき、そのテンポの速いのに驚いた。これはベートーヴェンを冒涜するものだとそれから腹を立てた。ワインガルトナーしかそれまで知らなかったのだからこの怒りは当然だったと今でもおもう。もともと、ヴェルディの〝レクイエム〟やオペラを指揮した場合を除いて、彼のチャップリン的風貌とともにトスカニーニをあまり私は好きではなかった。戦前の世評の高い、〝第五〟を聴いたときからそうである。のちに、トスカニーニがアメリカへ招聘されるにあたって、〝トリスタンとイゾルデ〟を指揮することを条件に出した話を、マーラー夫人の回想記で読み、トスカニーニにワグナーが振れてたまるかとマーラーと同様、いきどおりをおぼえたが、いずれにせよ、イタ公トスカニーニにベートーヴェンは不向きと私はさめていた。だからその〝第九〟をはじめて聴いたとき、先ずテンポの速さにあきれ、何とアメリカナイズされたベートーヴェンかと心で舌打ちしたのである。
 それが、幾度か、くりかえして聴くうちに速さが気にならなくなったから《馴れる》というのはこわいものだ。むしろその第三楽章アダージォなど、他に比肩するもののない名演と今では思っている。
「何と美しいアダージォだ……」
 トスカニーニー自身が、プレイバックでこの楽章を聴きながら涙を流した話を、後年、彼の秘書をつとめた人の回想録〝ザ・マエストロ〟で読んだときも、だからさもありなんと思ったくらいで、いかなフルトヴェングラーの〝第九〟——第二次大戦後のバイロイト音楽祭復活に際し、そのオープニングに演奏されたもの。ちなみに、フルトヴェングラーは生前この〝第九〟のレコードプレスを許さなかった——でさえ、アダージォはトスカニーニにくらべやや冗長で、緻密な美しさにおとる印象を私はうけた。フルトヴェングラーがこれをプレスさせなかったのも当然とおもえた。それくらい、第三楽章のトスカニーニは完ぺきだった。ベートーヴェンの〝第九〟では古くはビーチャム卿、ピエール・モントゥ、ワルター、カラヤン、クリュイタンス、ベームと聴いてきたが、ついに決定盤ともいうべき演奏・録音に優れたレコードを私は知らない。
     *
五味先生の「《第九交響曲》からの引用だ。
グレン・グールドのいう音楽のキット化は、こういうことである。

《決定盤ともいうべき演奏・録音に優れたレコード》が、
第九にはなかったと感じたらどうするか。

第三楽章はトスカニーニで聴いて、
第一楽章、第二楽章、第四楽章は、
《他に比肩するもののない名演》と感じている指揮者の演奏をそれぞれ選択する。

それをひとつにまとめて聴く、という行為が音楽のキット化だった。
グールドの音楽のキット化を読んだ時、
おもしろいと感じながらも、実際の問題点としてあれこれ思ったものだ。

けれど、今回のゴールドベルグ変奏曲の未発表レコーディング・セッション・全テイクは、
まさにグールドが提唱した音楽のキット化のための理想的な素材ととらえることができる。

そして、一つおもうことがある。
アレクシス・ワイセンベルクのゴールドベルグ変奏曲のことである。

Date: 7月 14th, 2022
Cate: ディスク/ブック

エヴリーヌ・クロシェのフォーレ

五味先生の「いい音いい音楽」のなかに「一枚のレコード」という文章がある。
ここにエブリーヌ・クローシェの名が出てくる。

《演奏しているエブリーヌ・クローシェは、パリ音楽院を出た女流ピアニストとしか私は知らない》
としか書かれていない。

「いい音いい音楽」を読んだころの私は、まだ高校生で田舎暮らしだった。
エブリーヌ・クローシェについて、それ以上なにも知ることができなかった。

ステレオサウンドで働くようになって数年が経ってから、
ふと思い出してレコードを探してみたけれど、運と縁がなかったのか、
出合えなかった。

そしてエブリーヌ・クローシェのことも忘れかけてしまっていた。
なのに、ふと思い出したのは、TIDALで音楽を聴くようになってから、
落穂拾い的なことをやっているからだ。

なにか忘れているような気がして、「いい音いい音楽」を開く。
そうだそうだ、エブリーヌ・クローシェのことを忘れてしまっていた、と気づく。

とはいえエブリーヌ・クローシェで検索しても、
私が求める結果は出てこなかった。
エブリーヌ・クローシェのスペルがわかればさらに検索のしようがあるけれど、
それもはっきりとはわからない。

「一枚のレコード」には、ボックス盤(SVBX5424)とある。
vox svbx5424で検索して、わかった。

いまではエヴリーヌ・クロシェという表記のようだし、
Evelyne Crochetである。
ここまでわかるとTIDALで検索できる。

フォーレのアルバムが見つかった。
それだけでなくバッハの平均律クラヴァーア曲集もあった。

「一枚のレコード」を読んで四十二年。
いまになって聴くことができた。