Archive for category ディスク/ブック

Date: 2月 12th, 2023
Cate: ディスク/ブック

ルネ・レイボヴィッツ

René Leibowitz(ルネ・レイボヴィッツ)。
1913年3月17日生れのポーランドの指揮者である。

つい先日まで、ルネ・レイボヴィッツの名前すら記憶になかった。
どこかで目にしたり耳にしたりはしていたのかもしれないが、
記憶にはない。

先日、「手塚治虫 その愛した音楽」というCDを手にとっていた。
ライナーノートに、ルネ・レイボヴィッツの名前が出ているし、
このCDにもルネ・レイボヴィッツのベートーヴェンが収められている。

このCDは聴いてはいないが、ルネ・レイボヴィッツの名前はその場でTIDALで検索した。
それほど数は多くないが、ベートーヴェンもあるし、他の作曲家の演奏もある。

リーダーズ・ダイジェスト・レコーディングスに録音していた指揮者とのこと。
必聴の指揮者、とまではいわないけれど、
ルネ・レイボヴィッツのベートーヴェンは一度聴いておこうよ、というふうに呼びかけたい。

最初は地味と思えた演奏は、聴いていっていると、なかなかいい感じというふうに変っていく。

菅野先生は、
イヴ・ナットに師事していたフランスのピアニスト、ジャン=ベルナール・ポミエの全集について、
ステレオサウンド別冊「音の世紀」で書かれている。
     *
ドイツ系の演奏も嫌いではないが、ベートーヴェンの音楽に共感するフランス系の演奏家とのケミカライズが好きなのだ。ベートーヴェンの音楽に内在する美しさが浮き彫りになり、重厚な構成感に、流麗さと爽快さが加わる魅力とでも言えばよいか?
     *
ルネ・レイボヴィッツはフランス系の指揮者ではないが、
ルネ・レイボヴィッツのベートーヴェンにも、なんらかのケミカライズがあるように感じる。

別項「最後の晩餐に選ぶモノの意味(その9)」で、
私にとってドイツの響きといえば、二人の指揮者である。
フルトヴェングラーとエーリヒ・クライバーである、と書いている。

まさにそのとおりなのだが、ルネ・レイボヴィッツのベートーヴェンは、
そういうベートーヴェンとは違う。

違うからダメとかいいとかではなく、
違うことの魅力が《ベートーヴェンの音楽に内在する美しさが浮き彫り》してくれるのだろう。

Date: 1月 12th, 2023
Cate: ディスク/ブック

回想の野口晴哉 ─朴歯の下駄(その2)

「回想の野口晴哉 ─朴歯の下駄」がさきほど届いた。
届いたばかりだから、ほとんど読んでいない。

読みはじめたとはいえないのだが、とりあえずひらいてみた。
パッとひらいて、オーディオについてなにか書かれているところに当ったら──、
そんなふうにしてみてみたら、ちょうどそうだった。
     *
 先生が亡くなる年の正月のこと……。
 夜、一人の見知らぬ男の人が訪ねて来た。
「スピーカーを買ってくれないか」ということだった。
 全く不思議なのは、そのスピーカーこそ、ウェスタン・エレクトリック594と、ランシングの先代が作ったという戦前のもの──先生が長い長い間、欲しくて手に入らなかったものだった。
「これで欲しいものが全部揃った。もう何も欲しいものがない」
 そういって、先生は微笑(みしょう)した。
 それは三十年間共に暮らして、一度も見たことのない微笑だった。
     *
野口晴哉氏が、どういう人だったのか。
これ以上ないくらいに伝わってくる。

Date: 1月 11th, 2023
Cate: ディスク/ブック

回想の野口晴哉 ─朴歯の下駄(その1)

五味先生の「五味オーディオ巡礼」の一回目(ステレオサウンド 15号)、
野口晴哉氏と岡鹿之介氏が登場されている。
     *
 野口邸へは安岡章太郎が案内してくれた。門をはいると、玄関わきのギャレージに愛車のロールス・ロイス。野口さんに会うのはコーナー・リボン以来だから、十七年ぶりになる。しばらく当時の想い出ばなしをした。
 リスニング・ルームは四十畳に余る広さ。じつに天井が高い。これだけの広さに音を響かせるには当然、ふつうの家屋では考えられぬ高い天井を必要とする。そのため別棟で防音と遮音と室内残響を考慮した大屋根の御殿みたいなホールが建てられ、まだそれが工築中で写真に撮れないのが残念である。
 装置は、ジョボのプレヤーにマランツ#7に接続し、ビクターのCF200のチャンネルフィルターを経てマッキントッシュMC275二台で、ホーンにおさめられたウェスターン・エレクトリックのスピーカー群を駆動するようになっている。EMT(930st)のプレヤーをイコライザーからマランツ8Bに直結してウェストレックスを鳴らすものもある。ほかに、もう一つ、ウェスターン・エレクトリック594Aでモノーラルを聴けるようにもなっていた。このウェスターン594Aは今では古い映画館でトーキー用に使用していたのを、見つけ出す以外に入手の方法はない。この入手にどれほど腐心したかを野口さんは語られた。またEMTのプレヤーはこの三月渡欧のおりに、私も一台購めてみたが、すでに各オーディオ誌で紹介済みのそのカートリッジの優秀性は、プレヤーに内蔵されたイコライザーとの併用によりNAB、RIAAカーブへの偏差、ともにゼロという驚嘆すべきものである。
 でも、そんなことはどうでもいいのだ。私ははじめにペーター・リバーのヴァイオリンでヴィオッティの協奏曲を、ついでルビンシュタインのショパンを、ブリッテンのカルュー・リバー(?)を聴いた。
 ちっとも変らなかった。十七年前、ジーメンスやコーナーリボンできかせてもらった音色とクォリティそのものはかわっていない。私はそのことに感動した。高域がどうの、低音がどうのと言うのは些細なことだ。鳴っているのは野口晴哉というひとりの人の、強烈な個性が選択し抽き出している音である。つまり野口さんの個性が音楽に鳴っている。この十七年、われわれとは比較にならぬ装置への検討と改良と、尨大な出費をついやしてけっきょく、ただ一つの音色しか鳴らされないというこれは、考えれば驚くべきことだ。でもそれが芸術というものだろう。画家は、どんな絵具を使っても自分の色でしか絵は描くまい。同じピアノを弾きながらピアニストがかわれば別の音がひびく。演奏とはそういうものである。わかりきったことを、一番うとんじているのがオーディオ界ではなかろうか。アンプをかえて音が変ると騒ぎすぎはしないか。
     *
野口晴哉氏がオーディオマニアだったこと、
それもほんとうにすごいオーディオマニアだったことを知っている人は、
いまではどのくらいいるのだろうか。

ちくま文庫から「回想の野口晴哉 ─朴歯の下駄」が出ている。

この本のことを、今日初めて会った人から教えてもらった。
野口整体のことだけではなく、オーディオのことも出てくる、と聞いた。
ウェスターン・エレクトリックのスピーカーを手に入れられた時のことも描写されている、とのこと。

さっそく注文した。
明日、届く。

Date: 1月 6th, 2023
Cate: ディスク/ブック

Panopticom (Bright Side Mix)

ピーター・ガブリエルのニューアルバム“i/o”からのファーストシングル、
“Panopticom (Bright Side Mix)”が、1月6日(満月)に公開になった。

Apple Music、YouTube、Spotifyなどさまざまなストリーミングサービスで聴くことができる。
e-onkyoでも配信されている。

TIDALももちろんだ。
MQA Studioで96kHzで聴ける。

詳細はまだ発表になっていないが、満月にあわせて新曲を公開していくとのこと。

ピーター・ガブリエルのfacebookには、こう書いてある。
     *
Today, on the first full moon of 2023, Peter releases the first new song from his forthcoming album i/o. Written and produced by Peter, Panopticom was recorded at Real World Studios in Wiltshire and The Beehive in London.

Panopticom references an idea that Peter has been working on to initiate the creation of an infinitely expandable accessible data globe. The aim is to “allow the world to see itself better and understand more of what’s really going on”.
     *
後半の部分をどう、聴き手は受けとるのか。

パッケージメディアにこだわるのはいいが、
パッケージメディアだけにこだわり続けていると、
ピーター・ガブリエルの試みを受けとることすらできない。

Date: 1月 1st, 2023
Cate: ディスク/ブック

i/o

20年ぶりのピーター・ガブリエルのニューアルバム“i/o”が、
今年もっとも待ち遠しい一枚である。

詳細はまだ発表になっていないが、昨年6月の時点では2022年発売だったのが、
11月になって2023年に変更になっていた。

5月からはi/o The Tourが始まるので、その前には発売になるのだろう。
勝手に2月13日(ピーター・ガブリエルの誕生日)あたりじゃないか、と期待している。

MQAで聴けるはず、とも期待している。

Date: 1月 1st, 2023
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その6)

大晦日の夜おそくに、グールドの平均律クラヴィーア曲集を聴いていた。
第一集を、TIDALでMQA Studioで聴いた。

今日の朝、やはりグールドを聴いた。
第二集ではなく、モーツァルトのピアノ・ソナタを聴いていた。
Vol.1、2、4を聴いた。
もちろんTIDALでMQA Studioだ。

最新のピアノ録音を聴きなれた耳には、
グールドの残した録音は、どれも古く聴こえる。

バッハとモーツァルトはアナログ録音だし、もう五十年ほど前のことだ。
聴いていると、そんなに経つのか──、とおもうこともある。

たしかに音は古さを感じさせるところがある。
けれど、それは音だけであって、しばらく聴いていると、そのことさえさほど気にならなくなる。

「録音は未来だ」ということだ。

Date: 12月 26th, 2022
Cate: ディスク/ブック

Sibelius: Complete Symphonies, Paavo Järvi | Orchestre de Paris

シベリウスの熱心な聴き手とはいえない。
聴いていないわけではないけれど、
ある一時期、集中してシベリウスばかり聴いていた、ということが私にはない。

そんな私が昨晩は、シベリウスの交響曲を三曲続けて聴いていた。
パーヴォ・ヤルヴィ/パリ管弦楽団によるシベリウスの交響曲全集である。

2018年にSACDで発売になっている。
2012年録音の第一番からはじまって、2016年録音の第四番で終っているから、
最新録音というわけでもない。

シベリウスの熱心な聴き手とはいえない私は、いまごろ聴いて驚いていた。
これもTIDALにあったからだ。
96kHz、24ビットのMQA Studioで聴ける。

音の生々しさとあいまって、シベリウスの交響曲を聴いて昂奮していた。
リンク先には、《パーヴォ・ヤルヴィ渾身の》とある。
そのとおりだと感じていた。

Date: 12月 23rd, 2022
Cate: ディスク/ブック

緑の歌(補足)

緑の歌」を読めば、
グレン・グールドの「感覚として、録音は未来で、演奏会の舞台は過去だった」の、
「録音は未来」の意味するところが感じられるはずだ。

Date: 12月 23rd, 2022
Cate: ディスク/ブック

緑の歌

ジャケ買い。
この本「緑の歌」はジャケ買いだった。

最寄りの書店に平積みされていた。
その表紙をみて、ためらわずレジに持っていった。

表紙の絵だけではない。
帯には、松本隆氏の推薦文がある。
     *
ねえ「細野」さん、
ぼくらの歌が
異国の少女の
「イヤフォン」を通して、
繊細な「孤独」を
抱きしめたら。
それって
「素敵」だよね?
     *
表紙に惹かれない人でも、これを読めば手にとる人もいるはずだ。

Date: 12月 15th, 2022
Cate: ディスク/ブック

バッハ ヴァイオリン協奏曲

この数日、集中して聴いていたのは、バッハのヴァイオリン協奏曲である。
古い録音から最新録音まで、TIDALで検索してめぼしいと感じた録音をかなり聴いた。

聴いて気づいたことは、私だけのことなのかもしれないが、
他の曲(バッハにかぎらず、他の作曲家の作品)では、
演奏が素晴らしければ、録音の古さはそれほど気にしなかったりするのだが、
バッハのヴァイオリン協奏曲に関してだけは、録音の出来がひどく気になってた。

録音が優れていても演奏が……、というのはいらない。
演奏は優れていても、録音がやや……、というのが、なぜか気になる。

ヒラリー・ハーンがドイツ・グラモフォンに移籍した第一弾となった録音、
ジェフリー・カヘイン指揮ロサンジェルス室内管弦楽団とによる演奏が、
私には、他のどの録音よりも魅力的に感じた。

SACDで出ていたはずだからDSD録音なのか。
TIDALでは88.2kHzのMQAで聴ける。

2003年に出たアルバムを、いまごろ聴いて、うわーっと驚いているしだい。

Date: 12月 13th, 2022
Cate: ディスク/ブック, 映画

MEN 同じ顔の男たち

昨日、映画「MEN 同じ顔の男たち」を観てきた。

予告編をみたときから、ぜひ観たいと思っていた。
予告編以上に不気味というか不快な映画だから、
おもしろい映画だから、観てほしい、とすすめたりはしない。

よく、この内容でR15+で済んだな、と思うようなシーンが終盤にある。
この時代だからこそ可能な映像であるから、よけいに生々しい。

昨晩は帰宅してから、
TIDALで「MEN 同じ顔の男たち」のサウンドトラックをすぐさま検索した。
あった。

映画を観ていない人、観たくない人にも、こちらはおすすめしたい。
音もよい。

Date: 12月 10th, 2022
Cate: ディスク/ブック

Walking In The Dark

“Walking In The Dark”。
ジュリア・ブロックのノンサッチからのアルバムである。

ジュリア・ブロックについては何も知らなかった。
TIDALのニューアルバムのところに表示されていたから、
興味本位で聴いただけなのだが、いいアルバムだけでなく、いい歌手だ。

すでに12月。
オーディオ機器は、年内に素晴らしいモデルが登場する可能性は時間的に少ない。
まずない、といっていい。

けれどレコード(録音物)は違う。
あと三週間ほどで今年は終るけれど、まだまだ素晴らしいアルバムと出合える可能性は、
オーディオ機器よりもずっとずっと高い。

ノンサッチはMQAに積極的である。
44.1kHzのデジタル録音もMQAにしている。
このアルバムももちろんMQA Studio(192kHz)で聴ける。

“Walking In The Dark”はe-onkyoにもある。
けれど、こちらはflacのみで、96kHzだけである。

ジュリア・ブロックの声は、MQAで聴いてもらいたい。

Date: 11月 19th, 2022
Cate: ディスク/ブック

Beethoven · Schumann · Franck / Renaud Capuçon · Martha Argerich

“Beethoven · Schumann · Franck / Renaud Capuçon · Martha Argerich”、
ヴァイオリニストのルノー・カプソンとピアニストのマルタ・アルゲリッチによるライヴ録音。
TIDALで、MQA(48kHz)で聴いた。

2022年4月23日の録音だから、アルゲリッチは80歳。
でも演奏を聴いていると、とうていそんな高齢とはまったく思えない。
この人は、いったい何歳なのか、とおもってしまう。

みずみずしい。
アルゲリッチには、もっともっと長生きしてほしい。
90歳の演奏、100歳になっての演奏。それらを聴いていきたい。

Date: 11月 12th, 2022
Cate: ディスク/ブック

Vitali: Chaconne in G Minor

TIDALのおかげで、今年も聴きたいとおもった録音の多くを聴くことができた。
聴きたいと思ってすぐに聴ける。

このありがたさを、私と同じ世代、上の世代の人たちは実感すると思う。
若い頃、聴きたいと思っても、そうそうすぐには聴けなかった。

学生だったころは、聴きたいと思っても、レコードをすぐには買えなかった。
しかもFM局は、私が住んでいた田舎はNHKだけ。

聴きたいレコードはあっても、そのうちのどれだけを買って聴けたのか。
環境によって大きく違ってくることだけに、そんなことはなかったという人もいれば、
確かにそうだった──、と頷く人もいる。

そういう時代を過してきただけに、
TIDALのありがたさは、増していくばかりだ。

TIDALのおかげで、ジャンルに関係なく、そして録音の古い新しいに関係なく、
聴きたいとおもった音楽を、すぐに聴ける。

もちろんTIDALにない曲もある。
それでも聴ける曲のほうが圧倒的に多い。

そうやって今年聴いたもののなかで、
私のなかでは一、二を争うほど印象が強かったのが、
ハイフェッツによるヴィターリのシャコンヌだ。

ヴィターリのシャコンヌは、ずっと以前に聴いている。
誰の演奏だったのか憶えていない。
ハイフェッツではなかったことだけは確かだ。

つまり、あまり印象に残っていない。
それもあって、ヴィターリのシャコンヌを聴いたのはほんとうに久しぶりのことだった。
ハイフェッツの演奏で聴けるから、聴いた──、
そんな軽い気持から、である。

ハイフェッツによる演奏を聴いたことのある人は、いまごろかよ──、というだろう。
自分でも、そう思う。
いまになって、この演奏をすごさを知ったのだから。

ハイフェッツのことは、歳をとるほどによさを強く感じるようになり、
好きになってきている。

そこにヴィターリのシャコンヌである。
まだ聴いたことがないという人は、だまされたと思って聴いてほしい。

Date: 11月 4th, 2022
Cate: ディスク/ブック

So(その3)

五味先生が「フランク《オルガン六曲集》」に、こう書かれている。
     *
 世の中には、おのれを律することきびしいあまり、世俗の栄達をはなれ(むしろ栄達に見はなされて)不遇の生涯を生きねばならぬ人は幾人もいるにちがいない。そういう人に、なまなかな音楽は虚しいばかりで慰藉とはなるまい。ブラームスには、そういう真に不遇の人をなぐさめるに足る調べがある。だがブラームスの場合、ベートーヴェンという偉大な才能に終に及ばぬ哀れさがどこかで不協和音をかなでている。フランクは少しちがう。彼のオルガン曲は、たとえば〝交響的大曲〟(作品一七)第三楽章のように、ベートーヴェンの『第九交響曲』のフィナーレそっくりな序奏で開始されるふうな、偉大なものに対する完き帰依──それこそは真に敬虔な心情に発するものだろう──がある。模倣ではなくて、帰依に徹する謙虚さが誰のでもないセザール・フランクの音楽をつくり出させたと、私には思える。そのかぎりではフランクをブラームスの上位に置きたい。その上で、漂ってくる神韻縹緲たる佗びしさに私は打たれ、感動した。私にもリルケ的心情で詩を書こうとした時期があった。当然私は世俗的成功から見はなされた所にいたし、正確にいえば某所は上野の地下道だった。私はルンペンであった。私にも妻があれば母もいた。妻子を捨ててというが、生母と妻を食わせることもできず気位ばかり高い無名詩人のそんな流浪時代、飢餓に迫られるといよいよ傲然と胸を張り世をすねた私の内面にどんな痛哭や淋しさや悔いがあったかを、私自身で一番よく知っている。そんなころにS氏に私は拾われS氏邸でフランクのこの〝前奏曲〟を聴いたのだ。胸に沁みとおった。聴きながら母を想い妻をおもい私は泣くような実は弱い人間であることを、素直に自分に認め〝前奏曲〟のストイシズムになぐさめられていた。オレの才能なんて高が知れている、何という自分は甘えん坊だったかを痛感した。この時に私は多分変ったのだろう。
     *
《なまなかな音楽は虚しいばかりで慰藉とはなるまい》、
まったく何もうまくいかない時期なんて、誰にでもあるだろう。
私にもあって、だからといって《不遇の生涯を生きねばならぬ人》と、
自分のことを思っていたわけではないけれど、
《なぐさめに足る調べ》を求めた時期がある。

けれど、そんな時に、“Don’t Give Up”は、最後まで聴けなかった──、
その2)に書いた。ほんとうにそうだった。

“Don’t Give Up”を聴き続けるのがつらかったわけではなく、
どこか虚しく聴こえてしまい、途中で聴くのをやめたことがある。

胸に沁みとおってこなかったことに、自分でも唖然とした。