Archive for category ディスク/ブック

Date: 4月 15th, 2023
Cate: ディスク/ブック

ジョルジュ・プルーデルマッハーのベートーヴェン

フランス人ピアニストのGeorges Pluudermacher。
ワーナーミュージックのサイトによると、
フランス語の名前の読みだと、ジョルジュ・プリュデルマシェなのだそうだが、
本人の希望で、プルーデルマッハーとのこと。

ジョルジュ・プルーデルマッハーは、1944年7月26日生れ。
なのに、いままでプルーデルマッハーの存在を知らなかった。

今日、TIDALを検索していて初めて知ったばかりである。
最初フランクのヴァイオリン・ソナタを聴いた。

それから“L’atelier des pianistes”を聴いた。
日本でのタイトルは、「ピアニストのワークショップ」である。

ここまで聴いて、ベートーヴェンのピアノ・ソナタが目に留った。
32番である。

どんなベートーヴェンなのだろうか、どんな32番なのだろうか。
期待よりも不安の方が大きかったけれど、聴いてよかった。

聴き終って、
菅野先生がイヴ・ナット、ジャン=ベルナール・ポミエのベートーヴェンを高く評価され、
愛聴盤とされていたことを思い出していた。

ナットもポミエもフランスのピアニストだ。
プルーデルマッハーを菅野先生はどう聴かれただろうか。
そんなこともふと想っていた。

Date: 4月 12th, 2023
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その12)

瀬川先生からの宿題としての一枚。
コリン・デイヴィス指揮のストラヴィンスキーの「火の鳥」である。

熊本のオーディオ店。
瀬川先生が鳴らされた音。

JBLの4343、
トーレンスのリファレンス、
マークレビンソンのLNP2、
SUMOのTHE GOLD、
これらのシステムが鳴らした音は、忘れられない音だ。
絶対に忘れられない音の記憶である。

別項で書いているように、この時が、瀬川先生が熊本に来られた最後だった。
いつもならば、試聴会の終りに、リクエストはありませんか、といわれるのに、
その日は、具合がひどく悪そうで、「火の鳥」を片面鳴らされたあと、すぐに引っ込まれた。

体調が悪かったのか……、そんなこともあるよなぁ……、
そんな感じで受け止めていたのだけれど、
そのオーディオ店を出て歩いていたら、駐車場から瀬川先生をのせた車が出てきた。

車内で瀬川先生はぐったりされていた。
そうとうに具合が悪いのは、誰にだってわかるほどにだ。

あの時の「火の鳥」の音は、なんだったのか──、と考えることがいまでもある。
高校生のときに聴いた音だから、それ以上の音をそれまで聴いたことがないから、
すごい音と感じたということは否定できないけれど、それ以上の音であったようにも思う。

冷静に聴くことができれば、欠点はいくつか指摘できる音だったのかもしれないが、
あの時の「火の鳥」はそういうことを一瞬にしてどうでもいいことと思わせるほど、
そんなふうな音だった──、といまでもおもっている。

Date: 4月 10th, 2023
Cate: ディスク/ブック

音痴のためのレコード鑑賞法(その1)

「音痴のためのレコード鑑賞法」。

五味先生の「いい音いい音楽」に、それは収められている。
     *
 偉大な芸術家ほど、様式は変わっても作品の奥からきこえてくる声はつねに一つであり、生涯をかけて、その作家独自の声で(魂で)何かをもとめつづけ、描きつづけ、うたいつづけながら死んでいる。幾つかの作品に共通な、その独自の声を聴きとることができれば、一応、その作者——つまり彼の〈芸術〉を理解したといえるだろう。

 バッハの場合もこれは変わらない。一千を超えるおびただしい作品群も、注意して聴いてみれば同じ発声と、様式と、語法で——つまり発想で出来上がっている。使用される楽器はちがってもバッハの芸境はひとつだ。
 たいへん深遠で、偉大なそれは境地だから、ちょっと聴いたぐらいではうかがい知れないし、この点、聴く人には耳の訓練と音楽的教養ともいうべきものが、ある程度は必要になる。でもその教養は、教師や教科書が必要なわけではなく、くり返し聴いてさえいればおのずと身につくもので、事実バッハほどになると、はじめは少々退屈でも何度か聴いているうちに、えも言えぬしらべの美しさ、澄みとおった心境、宗教的感動、敬虔な祈りに参加するに似た喜びを感じとれるし、さらには力づよく正しく生きようという意欲がわいてくる。バッハの偉大なゆえんだろうとおもう。
     *
五味先生は「音痴のためのレコード鑑賞法」で、
バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンについて語られている。

バッハならば、
 マタイ受難曲
 オルガンによる「前奏曲(もしくは幻想曲・トッカータ)とフーガ」三十曲余の中のどれか。
 平均律クラヴィーア第一部(第一曲)
 ブランデンブルク協奏曲
 無伴奏チェロ・ソナタ
 フーガの技法
 インベンション
を挙げられている。

ヘンデルはメサイアだ。
ハイドンは、交響曲第四九番と第九五番を挙げられている。

モーツァルトは、
《「魔笛」と「フィガロの結婚」である。大胆な言い方をゆるされるなら、この二曲と、死の直前に書かれた「レクイエム」(モーツァルトの自筆としては未完だが)それに「交響曲第四〇番」(ト短調)を聴けば、モーツァルトの天才のすべてがわかる。》とされている。

ベートーヴェンは、
《作品一〇六「ハンマークラヴィア」、作品一〇九(イ短調)、作品一一一(ハ短調)の三曲がそれで、ピアノでつづられた新約聖書とよばれるほど、これらは古今無双の名品だ》とされているし、
《ベートーヴェンの全作品から、一般向けにただ一つを挙げるなら、「第九交響曲」である。これはもう議論の余地はない》とも書かれている。

何にでも物分りのい人間でありたい人は、
なんて極端な意見だ、とあきれることだろう。

極端といえばそういえなくもない。
けれど、ながくクラシックを聴いてきていれば、五味先生が選ばれている曲に頷くはずだ。

五味先生は作曲家の作品を「音痴のためレコード鑑賞法」として挙げられている。
いま、「音痴のためのレコード鑑賞法」について書いているのは、
クラシックの演奏家におきかえても同じことができる、ということである。

Date: 4月 5th, 2023
Cate: ディスク/ブック

THE DARK SIDE OF THE MOON(Dolby Atmos Mix・その5)

今回の「狂気」Dolby Atmos Mixのイベントが開催されることを知ったのは、
3月20日だった。
映画「BLUE GIANT」を、そろそろ観に行こうかな、と思っていたころだった。

「BLUE GIANT」は世界一のジャズプレーヤーを目指すテナーサックス奏者が主人公である。
だからDolby Atmosでの上映もある。

「BLUE GIANT」はDolby Atmosで観るつもりだったから、先延ばしにした。
「狂気」Dolby Atmos Mixを聴いたあと、
映画館で「BLUE GIANT」をDolby Atmosで観る(聴く)ことで、
確認したいと考えた。

そういうことで今日(4月5日)で、
TOHOシネマズ日比谷でDolby Atmosで観てきた。

都内のDolby Atmos対応の映画館すべてに行ったわけではない。
行ったなかでは、日比谷のTOHOシネマズは好ましいと感じている。

Dolby Atmosで観て良かった、とも感じている。

Date: 4月 2nd, 2023
Cate: ディスク/ブック

THE DARK SIDE OF THE MOON(Dolby Atmos Mix・その4)

会場となったRITTOR BASEの正面はスクリーンがあり、
そこには「狂気」のジャケットが映し出されている。
地下にあるため照明が落とされると、スクリーンの光量だけで、暗い。

目を閉じて聴いていると、
「狂気」の冒頭の心臓の音、それから続くいくつかの効果音──、
不気味な映画を目を閉じて聴いている感覚でもあった。

「狂気」50周年ボックスのチラシには、
先に引用した國﨑 晋氏の文章の他に、武田昭彦氏の文章もある。
     *
 ピンク・フロイドは2003年、『狂気』の30周年記念盤となるSACD/CDハイブリッド盤で、ジェームス・ガスリーによる5.1チャンネル仕様のサラウンド音声を発表している。今回のBlu-Rayにもその5.1チャンネル・ミックスは収められているが、新たに制作された7.1.4チャンネルのドルビーアトモス・ミックスは従来のそれとは別物で音の定位や広がり、細部の音の処理などが異なっている。本作はバンド・サウンドに加え、SEが効果的に駆使されているのが大きな特徴だが、ヘリコプターや時計の音、各種アナウンスなどがサイド・スピーカー2本と頭上4本のスピーカーに振り分けられたことで、音の包囲感が高まり聞き手の想像力をいっそう刺激してくれる。
 従来の5.1チャンネル・ミックスがリスナーのリビングルームやプライヴェートな空間を想定した音作りだとすれば、今回のドルビーアトモス・ミックスは映画館ないしコンサート会場を想定したようなスケールの大きさを感じさせる。
     *
今回は5.1チャンネルの音は再生されなかったし、もちろん2チャンネルの音もなしである。
聴いたのはDolby Atmos Mixの音だけである。

すべての音を比較試聴できればさらにおもしろいのだが、
今回のイベントは、そういう試聴会ではなく、
「狂気」Dolby Atmos Mixの鑑賞会といったほうがいいのだから、それを求めてもしかたない。

目を閉じて聴いていると、上に書いたような感覚だったのだから、
武田昭彦氏の文章にあるように、5.1チャンネル仕様の音よりも、スケールアップしたものなのだろう。

けれど《聞き手の想像力をいっそう刺激してくれる》のかは、疑問でもある。
おそらくなのだが、國﨑 晋氏も武田昭彦氏も、
「狂気」をそれこそ数え切れないぐらい聴いてきているのだろう。
そして、これから先も、何度も何度も聴いていく人たちなのだろう。

そうでない聴き手も、一方にいる。
「狂気」発表の1973年、十歳だった男は、同時代に聴いているわけではない。
もちろん世の中は広いから、十歳くらいで「狂気」を聴いて、狂喜した人もいるだろう。

「狂気」の存在を知ったのは、五年後くらいだったか、
その時でも「狂気」を聴いたわけではなかった。
「狂気」を聴いたのは、東京で暮らすようになってからで、さらに五年以上経っていた。

しかも自分で購入し、自身のシステムで、というわけではなく、
知人宅で聴いたのが最初である。

そういう男と、國﨑 晋氏、武田昭彦氏とでは「狂気」への思い入れがまるで違うはず。

Date: 4月 1st, 2023
Cate: ディスク/ブック

THE DARK SIDE OF THE MOON(Dolby Atmos Mix・その3)

だからといって、2チャンネルのみに固執しているわけではない。
ステレオサウンドにいたころは、菅野先生のリスニングルームでSSS方式を何度か聴いている。

多チャンネルの再生方式に関心がまったくないわけではない。
それに2013年、船橋のTOHOシネマズが、
日本で初めてDolby Atmosを導入した時に、スタートレックを観にいっていることは、
別項に書いているとおりである。

このときの驚きは、そうとうに大きかった。
だからDolby Atmosへの期待を書いているし、
Dolby Atmosで観られる映画はできるだけ観るようにしていた。

Dolby Atmosの登場がきっかけとなって、
映画館で映画を観る回数が増えていった。

このころから映画館が輝きを取り戻したようにも感じたから、である。

そのDolby Atmosが音楽再生にも採用されるようになったのは数年前からだ。
関心はあるものの、だからといって積極的に自分で対応機器を購入してまで聴きたい──、
そこまでの積極性は持っていない。

そうであっても、よりよい条件でDolby Atmosで音楽を再生すると、
どういう感じ方になるのかは、一度体験しておきたい。
ここ一、二年はそう思うことが増えてきたからこそ、
今回の「狂気」のDolby Atmos Mixは聴き逃せなかった。

「狂気」のDolby Atmos Mixの試聴会は、さわりだけの試聴会ではない。
アルバムの最初から終りまで聴かせてくれた。

最初に簡単な挨拶があっただけで、すぐに「狂気」がDolby Atmos Mixで鳴ってきた。

Date: 4月 1st, 2023
Cate: ディスク/ブック

THE DARK SIDE OF THE MOON(Dolby Atmos Mix・その2)

「五味オーディオ教室」を出発点とする者にとって、
五味先生のこの文章は強烈な真理として刻まれている。
     *
 そういうものだろう。スピーカーは沈黙を意志するから美しい。こういう沈黙の美しさがきこえる耳の所有者なら、だからステレオで二つもスピーカーが沈黙を鳴らすのは余計だというだろう。4チャンネルなど、そもそも何を聴くに必要か、と。四つもの沈黙を君は聴くに耐えるほど無神経な耳で、音楽を聴く気か、と。
 たしかに一時期、4チャンネルは、モノがステレオになったときにも比すべき〝音の革命〟をもたらすとメーカーは宣伝し、尻馬に乗った低級なオーディオ評論家と称する輩が「君の部屋がコンサート・ホールのひろがりをもつ」などと提灯もちをしたことがあった。本当に部屋がコンサート・ホールの感じになるなら、女房を質においても私はその装置を自分のものにしていたろう。神もって、これだけは断言できる。私はそうしなかった。これは現在の4チャンネル・テープがプログラム・ソースとしてまだ他愛のないものだということとは、別の話である。他愛がなくたって音がいいなら私は黙ってそうしている。間違いなしに、私はそういう音キチである。
 ——でも、一度は考えた。私の聴いて来た4チャンネルはすべて、わが家のエンクロージァによったものではない。ソニーの工場やビクターやサンスイ本社の研究室で、それぞれに試作・発売しているスピーカー・システムによるものだった。わが家のエンクロージァでならという一縷の望みは、だから持てるのである。幸い、拙宅にはテレフンケンS8型のスピーカーシステムがあり、ときおりタンノイ・オートグラフと聴き比べているが、これがまんざらでもない。どうかすればオートグラフよりピアノの音など艶っぽく響く。この二つを組んで、一度、聴いてみることにしたわけだ。
 ただ、前にも書いたがサンスイ式は疑似4チャンネルで、いやである。プリ・レコーデッド・テープもデッキの性能がまだよくないからいやである。となれば、ダイナコ方式(スピーカーの結合で位相差をひき出す)の疑似4チャンネルによるほかはない。完璧な4チャンネルは望むべくもないことはわかっているが、試しに鳴らしてみることにしたのだ。

2チャンネルは、断じて4チャンネルより高級
 いろいろなレコードを、自家製テープやら市販テープを、私は聴いた。ずいぶん聴いた。そして大変なことを発見した。疑似でも交響曲は予想以上に音に厚みを増して鳴った。逆に濁ったり、ぼけてきこえるオーケストラもあったが、ピアノは2チャンネルのときより一層グランド・ピアノの音色を響かせたように思う。バイロイトの録音テープなども2チャンネルの場合より明らかに聴衆のざわめきをリアルに聞かせる。でも、肝心のステージのジークフリートやミーメの声は張りを失う。
 試みに、ふたたびオートグラフだけに戻した。私は、いきをのんだ。その音声の清澄さ、輝き、音そのものが持つ気品、陰影の深さ。まるで比較にならない。なんというオートグラフの(2チャンネルの)素晴らしさだろう。
 私は茫然とし、あらためてピアノやオーケストラを2チャンネルで聴き直して、悟ったのである。4チャンネルの騒々しさや音の厚みとは、ふと音が歇んだときの静寂の深さが違うことを。言うなら、無音の清澄感にそれはまさっているし、音の鳴らない静けさに気品がある。
 ふつう、無音から鳴り出す音の大きさの比を、SN比であらわすそうだが、言えばSN比が違うのだ。そして高級な装置ほどこのSN比は大となる。再生装置をグレード・アップすればするほど、鳴る音より音の歇んだ沈黙が美しい。この意味でも明らかに2チャンネルは、4チャンネルより高級らしい。
 私は知った。これまで音をよくするために金をかけたつもりでいたが、なんのことはない、音の歇んだ沈黙をより大事にするために、音の出る器械をせっせと買っていた、と。一千万円をかけて私が求めたのは、結局はこの沈黙のほうだった。お恥ずかしい話だが、そう悟ったとき突然、涙がこぼれた。私は間違っていないだろう。終尾楽章の顫音で次第に音が消えた跡の、優れた装置のもつ沈黙の気高さ! 沈黙は余韻を曳き、いつまでも私のまわりに残っている。レコードを鳴らさずとも、生活のまわりに残っている。そういう沈黙だけが、たとえばマーラーの『交響曲第四番』第二楽章の独奏ヴァイオリンを悪魔的に響かせる。それがきこえてくるのは楽器からではなく沈黙のほうからだ。家庭における音楽鑑賞は、そして、ここから始まるだろう。
     *
1976年のころの話だから、このころの4チャンネルはアナログ信号処理による。
現在の多チャンネルは、いうまでもなくデジタル信号処理による。

それに1976年当時と現在のオーディオ機器とでは、物理的なS/N比も違う。
その意味では、物理的な静寂さはある程度確保されている、といえる。

けれど、五味先生は書かれている、
《ふと音が歇んだときの静寂の深さが違うことを。言うなら、無音の清澄感にそれはまさっているし、音の鳴らない静けさに気品がある》と。

このことに関しては、物理的なS/N比だけの問題ではない。

Date: 4月 1st, 2023
Cate: ディスク/ブック

ロベルト・シュトルツ

ロベルト・シュトルツのCDをまったく持っていないわけではないが、
それらのCDはシュトルツを聴きたくて買った、というよりも、
共演者を聴きたいというのが目的での購入だった。

シュトルツの指揮ぶりをまったく聴いていないわけではないが、
熱心な聴き手ではなかった。

なのにここ数日、シュトルツをわりと聴いているのはTIDALを使っているからだ。
けっこうな数のアルバムが、TIDALで聴ける。
しかもMQAで聴けるアルバムもけっこうある。

急にシュトルツを聴こうと思い立ったのには、特にこれといった理由はない。
TIDALであれこれ検索していっている際に、おすすめのところにRobert Stolzと表示されたからだ。

いまのところRCAの録音とオイロディスクの録音を聴いていた。
どちらもMQAで聴ける。

どちらもなかなか楽しいアルバムなのだが、
録音の傾向はかなり違う。
オイロディスクは、なんとも色濃い録音なのだ。

シュトルツは1975年に亡くなっている。
RCAもオイロディスクも、最新録音ではない。
最新録音でなくてよかったかもしれない、と特にオイロディスクの録音を聴いているとおもう。

こういう録音は、いまではどこもやらないだろう。
MQAで聴いていると、RCAとオイロディスクの録音の傾向の違いも、明瞭となる。

Date: 4月 1st, 2023
Cate: ディスク/ブック

THE DARK SIDE OF THE MOON(Dolby Atmos Mix・その1)

ピンク・フロイドの「狂気」の発売は1973年。
2003年には30周年ということでSACDで出た。
今年は50周年ということで、ボックスセットが発売になっている。

このボックスセットは盛りだくさんな内容で、
Dolby Atmos MixがBlu-rayディスクに収録されている。

2003年のSACDには5.1チャンネル仕様で、今回のDolby Atmos Mixは7.1.4チャンネルである。
SACDの5.1チャンネルは聴く機会はなかった。

今回のDolby Atmos Mixは、RITTOR BASEでのイベントで聴くことができた。

RITTOR BASEはリットーミュージックが御茶ノ水に開設した多目的スペース。
一度は行ってみたい(聴いてみたい)と思っていただけに、
今回のイベントは、「狂気』がDolby Atmos Mixで聴けるのならば、
この機会を逃したら、たぶん聴くことはないだろうから、ということで行ってきた。

RITTOR BASEに着くと、椅子の上に今回の50周年ボックスのチラシが置いてあった。
そこには、RITTOR BASEディレクターの國﨑 晋氏のコメントが載っている。
     *
数え切れないほど聴き、すべての音を把握していたつもりのこの名盤に、さらなる深みがあったことに心底驚いている。ステレオのキャンパスでは収まらなかった、5.1chサラウンドの地平でも望めなかった、ピンク・フロイド『狂気』の真の姿が、Dolby Atmosによってついに解き放たれたとしか思えない。
     *
これを聴く前に読むのだから、期待は大きくなる。

Date: 3月 19th, 2023
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その11)

キリル・コンドラシンとコンセルトヘボウ管弦楽団による「シェエラザード」。
これも、瀬川先生が熊本のオーディオ店でかけられた一枚だ。

クラシックでデジタル録音が増えて始めたころで、
記憶違いでなければ、瀬川先生は、フィリップス初のデジタル録音だと話されていた。

けれどアナログ録音のようである。
瀬川先生の勘違いだったのか、
ほんとうにデジタル録音だったのか、同時にアナログ録音も行われていたのか。

瀬川先生は、とにかく音が美しいといわれていた。
ソロ・ヴァイオリンもふくめて、弦楽器の音について触れられていた。

コンドラシンの「シェエラザード」の少し前、
フィリップスの録音について、瀬川先生は高く評価されていた。

ステレオサウンド 56号で、こう書かれている。
     *
 けれど、ここ一〜二年来、その状況が少しばかり変化しかけていた。その原因はレコードの録音の変化である。独グラモフォンの録音が、妙に固いクセのある、レンジの狭い音に堕落しはじめてから、もう数年あまり。ひと頃はグラモフォンばかりがテストレコードだったのに、いつのまにかオランダ・フィリップス盤が主力の座を占めはじめて、最近では、私がテストに使うレコードの大半がフィリップスで占められている。フィリップスの録音が急速に良くなりはじめて、はっきりしてきたことは、周波数レンジおよびダイナミックレンジが素晴らしく拡大されたこと、耳に感じる歪がきわめて少なくなったこと、そしてS/N比の極度の向上、であった。とくにコリン・デイヴィスの「春の祭典」あたりからあとのフィリップス録音。
     *
そのことがコンドラシンの「シェエラザード」で、さらによくなっている──、
そんなことも話されながらかけられた一枚である。

リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」は、あまり聴かない。
ディスクもほとんど持っていない。
たまに聴く時は、コンドラシン指揮の「シェエラザード」である。

あの時聴いた音は、完全に美化されている。
美化されまくっている、といってもいいくらいである。

こうなってしまうと、もう現実の音は追いつけないのかもしれない。

Date: 3月 19th, 2023
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その10)

チャック・マンジョーネの“Children of Sanchez”も、
“THE DIALOGUE”的なところで、
宿題としての一枚ではなく宿題的な一枚である。

“THE DIALOGUE”ほどではないけれど、
“Children of Sanchez”の音には、驚いた。

これもまた瀬川先生が4343がかけられた音を聴いての驚きである。
二年ほど前にも書いているように、マサカリ低音の凄さだった。

切れ味のよい低音という表現があるが、
その切れ味は、どんな刃物によるものなのか、それによってもずいぶんと印象は違ってくる。

かみそりのような切れ味もあれば、
包丁のような切れ味もある。

さらには日本刀、鉞(マサカリ)のような切れ味もある。
鉞を持ったことはないが、重量がしっかりとあることはわかる。

そういう刃物による切れ味は、カミソリによる切れ味とは違って当然である。
4343が現役だったころ、そういう低音で“Children of Sanchez”で鳴ってくれたし、
それだけでは“Children of Sanchez”のディスクは満足のゆく再生とは鳴らない。

“Children of Sanchez”と“THE DIALOGUE”、
この二枚は、どうしても4343での音と切り離すことができない。

それは、あの時代に、そういう音で聴いてきたからであって、
そんなことを体験してこなかった人にとっては、宿題としての一枚にはならないであろう。

Date: 3月 17th, 2023
Cate: ディスク/ブック

本を書く

アニー・ディラードの「本を書く」
昨日、ソーシャルメディアで知ったばかりの一冊だ。

ながらく絶版で古書もかなりの高値がついていたのが、ようやく復刊されたとのこと。
といっても一年前に出ている。

今日、最寄りの書店に行ったけれど、そこにはなかった。
明日にでも、大型書店で購入するつもりなのだが、

本を書く。
このことを改めて意識させられた。

こうやってブログを書いていると、文章を書くということであって、
本を書く、という意識はなかった。

ステレオサウンドにいたころも本をつくるという意識はあったけれど、
そこに載る文章を書いていても、本を書くということを意識していたかといえば、
ほぼなかった。

だから、いま「本を書く」ということを考える。

Date: 3月 14th, 2023
Cate: ディスク/ブック

ルドルフ・フィルクシュニーのこと

ルドルフ・フィルクシュニーというピアニストがいることは知ってはいた。
けれど聴いてはいなかった。

きいたのは、菅野先生が1983年に録音されたディスクが初めてだった。
レーベルは、オーディオ・ラボではなく、スガノ・ディスクだった。
もちろん買って聴いた。

菅野先生がフィルクシュニーについて書かれてたこと、
話されたことは読んでいるし、聞いているけれど、
それでもフィルクシュニーのディスクを聴いて、ピンときたかといえば、そうでもなかった。

なので、このディスクをきっかけにフィルクシュニーの他の録音を聴くということもやらなかった。
TIDALに、フィルクシュニーの録音はある。
それでも、他に聴きたいものが数え切れないほどあるため、
ついそちらを優先して聴いてきたため、TIDALでもフィルクシュニーは聴かずのままだった。

つい先日、エリカ・モリーニの十三枚組CDボックスが発売になった。
それにあわせてTIDALで聴けるエリカ・モリーニのアルバムの数も増えた。

フランクのヴァイオリン・ソナタがある。
フィルクシュニーといっしょに写っているジャケットだ。

新たに聴けるようになったモリーニのアルバムは他にもあるが、
フィルクシュニーの姿が目に留ったということ、
フランクのヴァイオリン・ソナタということで、まず、このアルバムから聴いた。

期待したのはモリーニのヴァイオリンだったのだが、
印象に残ったのはフィルクシュニーのピアノだった。

なんと雄弁な演奏なのだろう、と思いながら聴いてきた。
フランクのヴァイオリン・ソナタは好きな曲だから、これまでもいろんな演奏(録音)を聴いてきた。
どれが一番なのか、そういうことではなしに、ピアノがこれほど印象に残るのは、
モリーニとフィルクシュニーによる演奏だけだ。

いまごろになって、もっともっと早くに、この演奏を聴いていたら、
菅野先生とフィルクシュニーについてなにかを話せただろうに……、と後悔している。

Date: 3月 12th, 2023
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その9)

“THE DIALOGUE”。
ならば自分のシステムで、
あの時の瀬川先生が鳴らされた4343での再現をめざせばいいことなのだが、
いちばんの難関は、やはり音量である。

喫茶茶会記でのaudio wednesdayでは、かなりの音量でかけていた。
あれだけの音量で、いまのところで鳴らしたら、即苦情が来るはず。

ちまちました音量でかけたいとは、まったく思っていない。
このへんは人それぞれだから、そうい音量でも“THE DIALOGUE”を聴きたい、という人もいるし、
そうではない、もっともっとと求める人もいる。

以前触れているが、
オーディオショウで“THE DIALOGUE”をかけているところに出会したことが何度かある。
けれど、びっくりするほど小音量なのだ。

“THE DIALOGUE”にとっての小音量という意味なのだが、
こういう音量で“THE DIALOGUE”を聴くの? そう言いたくなるほどの小ささでしかなかった。

4343での“THE DIALOGUE”の音量も、はっきりと憶えている。
それに熊本のオーディオ店には、菅野先生も一度だけ来られた。
その時、4350で、菅野先生は“THE DIALOGUE”をかけられた。
その音量も憶えている。

小音量、もしくは音量をあげないことを知的なことだけ思っている人もいる。
けれど“THE DIALOGUE”を、小音量でかけることは、ほんとうに知的なことなのだろうか。

そういう問いかけも、“THE DIALOGUE”にはある。

Date: 3月 10th, 2023
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その8)

これまで書いてきた児玉麻里/ケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲は、
菅野先生からの宿題としての一枚である。

では瀬川先生からの宿題としての一枚は、なんだろうか。
瀬川先生とは、熊本のオーディオ店でだけの接点しかない。

瀬川先生の音を聴いているわけではない。
その意味では、菅野先生からの宿題と同じ意味では語れないのだけれど、
熊本のオーディオ店で、瀬川先生が鳴らされた一枚ということでは、もちろんある。

菅野先生録音の“THE DIALOGUE”も、そうである。
熊本のオーディオ店で、瀬川先生が鳴らされたのを聴いたのが最初だった。

すごい音だ、と驚いたし、そのころ高校生だったから、
すぐに“THE DIALOGUE”を買えたわけではなかった。
小遣いがたまり、やっと買えた。

けれど瀬川先生が鳴らされたときはJBLの4343だった。
そのころ鳴らしていたのは国産の3ウェイのブックシェルフ型だから、
4343のような音では、まったく鳴ってくれない。

それは鳴らす前からわかっていたことでもあるが、
それでもなんとか、あの時の音を少しでも再現したい、というおもいはつねにあった。

喫茶茶会記でのaudio wednesdayで“THE DIALOGUE”を毎回かけていたのは、
こういうことも関係して、である。

けれど4343と喫茶茶会記のアルテックとでは、低音の鳴り方がかなり違う。
どちらがいい低音かということではなく、
あの時4343で聴いた“THE DIALOGUE”のドラムスの音が、
つねに耳の底で鳴っているのだから、あと少し、あと少し──、というおもいがつねに残っていた。