Archive for category ディスク/ブック

Date: 10月 8th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Sel

ついさきほど昨晩のaudio wednesdayでのプレイリストを公開した。
19時開始で、23時まで、途中21時ごろ短い休憩を入れたが、
ずっと野上さんと赤塚さんの選曲を聴いていた。

RoonとTIDALを使ってだから、
CDのかけかえによる曲と曲との空きはなく、
切れることなく音楽が鳴っているから、みな黙って聴いていた。

それでも赤塚さん選曲のSmadj(スマジ)の「Sel」が鳴ったあとは、
みな驚いていた。驚きの声があがった。

私も聴いていて驚いていた。
選曲した赤塚さんも、その鳴ってきた音に驚いていたぐらいだから、
みんな驚いて当然なのだろう。

Smadjはチュニジアのミュージシャン。
このブログを読まれている人で、Smadjを知っている、聴いているという人は、
どれだけいるのだろうか。
私はまったく知らなかった。

聴いている人は、少ないだろう。
だから、昨晩聴いたなかで、Smadjの「Sel」をイチオシしたい。

Date: 10月 3rd, 2020
Cate: ディスク/ブック

クラウス・テンシュテットのマーラー

別項「タンノイはいぶし銀か」で、
東欧のオーケストラの音についてのコメントがあり、
そのことで思い出したことを少しばかり書いた。

書いてしばらくして、そういえばと、
テンシュテットも東ドイツ出身の指揮者だったことを思い出す。

黒田先生だったと記憶しているが、
テンシュテットの録音がEMIが出始めたころに、
テンシュテットを大きな氷山に喩えられていた。

氷山の一角といわれるように海面にあらわれているのは、ほんの一部で、
海中にはその何倍もの大きさが隠れている。

テンシュテットが、そのころ見せ始めたのは、まさしく氷山の一角で、
これからその全貌を、われわれにみせて(聴かせて)くれるであろう、と。
そんなことを読んだ記憶がある。

なるほどなぁ、と思いながら読んでいた。
私が買った(聴いた)テンシュテットの最初のレコードは、マーラーだった。
六番が最初だった。

そのころステレオサウンドの試聴室で何度となく聴いていたレーグナーのマーラーの六番。
テンシュテットの場合は、亡命して西欧のオーケストラを振ってもので、
そのころは、そのへんのことをあれこれ考えながら(比較しながら)、
聴くことはしていなかったし、考えてもいなかった。

テンシュテットのマーラーは、その後もいくつか聴いている。
けれどマーラーばかり、テンシュテットばかり聴いているわけでもないから、
テンシュテットのマーラーをすべて聴くことはなかった。

テンシュテットの名声は、私がそうやって聴いていたころも、
あとになって非常に高くなっていた。
でも、そのころはテンシュテットから遠ざかっていた。

二年ほど前だったか、タワーレコードに、
テンシュテットのマーラー全集のCDボックスが、三千円を切る価格で売っていた。
ひさしぶりにテンシュテットのマーラーを聴こうかな、と思いつつ、
手にとっては見たものの、他に優先したいディスクがけっこうあり、
わずか三千円ほどであっても、レジまで持っていくことはなかった。

そのあとも、何度か店頭でみかけている。
いつこのあいだもみかけた。
それでも他のディスクを優先してしまった。

先日、タワーレコードのサイトを眺めていたら、
テンシュテットのマーラーの一番、五番、九番、十番(一楽章)、
テンシュテットのマーラーでアナログ録音だったものが、
SACDになっているのを知った。

何年か前に出ていたのに気づいていなかった。
今回は違う。ひさしふりにテンシュテットのマーラーである。

Date: 10月 2nd, 2020
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その5)

これも、レコード(録音物)の落穂拾いか、と自覚しつつも、
ハイフェッツのバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを買った。

LPで昔聴いていた。
それでもあまり印象に残っていない。

私にとってハイフェッツといえば、
ブルッフのヴァイオリン協奏曲がまっさきに思い浮ぶヴァイオリニストである。

五味先生もハイフェッツのブルッフは聴かれていた、ときいている。
ブルッフの印象は思い出すことはあったが、
バッハに関しては、ほとんど残っていない。

ただシゲティ、シェリングとは違う演奏であることぐらいは憶えている。
エネスコ、シゲティ、シェリング。
これだけあれば、私は満たされている。

これだけしか持っていないわけではない。
他にも持っている(聴いている)。
最近の録音でも、いくつか聴きたいのはある。

なのに、それらの録音ではなく、
いまさら、またハイフェッツのバッハが気になってきたし、
ハイフェッツを優先してしまっている。

Date: 10月 2nd, 2020
Cate: ディスク/ブック

Hotel California(その7)

オーディオマニアは、AとBとに分けられる。
こんなことをたまにみかける。

オーディオマニアに限らず使われているのだから、
またか、と思う。
そう思うくらいなので、個人的にはあまり使いたくないのだが、
身体が憶えている音に関しては、これを使いたい。

身体が憶えている音を持っているオーディオマニアと、
持っていないオーディオマニアがいる──、とに分けられるとはいえそうに感じている。

以前はそんなこと感じなかったし、考えてもいなかった。
けれど、二年前のOTOTENのハーマンインターナショナルのブースで、
“Hotel California”が、当時発売されたアナログディスクで鳴らされた。

スタッフの個人所有のディスクだった。
その人は、ずっと、そのディスクで“Hotel California”を聴いていたはずだ。
もちろんアナログディスクだけではなく、CDでも聴いていたであろう。

でも“Hotel California”が発売されたころからのアナログディスクである。
それを最新のシステムで再生して、その人は満足していた様子だった。

それはそれでいい。
ケチをつけることではないのだが、
このスタッフの人は、当時どんな音で“Hotel California”を聴いていたのだろうか、
と考えてしまった。

私は“Hotel California”のディスクを買うことはなかったけれど、
JBLの4343で聴いた音が、いまも残っている。
身体が憶えている音として、残っている。

だからこそ二年前のOTOTENでの“Hotel California”の音には、
こんな音……、と思うところがあったし、
そのころ聴く機会が続いたいくつかのリマスター盤での“Hotel California”にも、
こんな音……と思っていた。

そんなことがあったから、
身体が憶えている音を持っているオーディオマニアと、
持っていないオーディオマニアとがいるように、ここにきて考えるようになった。

身体が憶えている音を持つ持たないについて、
項を改めて書きたい。

Date: 10月 1st, 2020
Cate: ディスク/ブック

Hotel California(その6)

昨晩、友人のAさんとひさしぶり飲んでいた。
割と頻繁に会うのだけれど、今年はコロナ禍のせいで、八ヵ月ほど会うことはなかった。

二人とも1963年生れである。
音楽とオーディオが好き。
聴いてきた音楽は、けっこうな違いがあるけれど、
共通する音楽もあって、昨晩は“Hotel California”のことについて話していた。

発売当時、アナログディスクで聴いた音の印象と、
いま入手できるリマスター盤(CD、アナログディスクなど)の音の印象が違う──、
とAさんも私も感じている。

Aさんも私も“Hotel California”は、JBLの4343て聴いた音こそが、
このディスクのいわばリファレンス(基準)の音となっている。

“Hotel California”をカリフォルニア生れのスピーカーで聴く、
つまりカリフォルニアの空を思わせるような音で聴く、
これこそが“Hotel California”のほんとうの音だ、というのは、
いわばこじつけであって、もちろんJBL以外のスピーカーで聴いたっていい。

そうはいいながらも、Aさんも私も、“Hotel California”のあのころの音は、
もっと乾いていた、という記憶がある。

“Hotel California”と4343の組合せ。
その音がいまも記憶に残っている。
その音を基準にして、リマスター盤の音について語っている。

若い人たちからすれば、おじさん二人のノスタルジーな会話なのかもしれないが、
それでも二人で確認していたのは、
“Hotel California”と4343の組合せの音は、身体(からだ)が憶えている音なのだ。

Date: 9月 24th, 2020
Cate: ディスク/ブック

SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その2)

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”には期待している。
期待は“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”に対してだけではなく、
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”に対しても持っている。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”はSACDも出ている。
その意味での期待ではなく、“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の完全版が、
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の発売にあわせて出てくるのではないか、という期待だ。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の実際のライヴは、もっと長かったはずだ。
それをすべて聴きたい、とずっとおもってきた。

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”との組合せで、
いくつかのヴァージョンが出るではないだろうか。

そういうやり方を好まないけれど、
今回はそのことに期待している。

Date: 9月 22nd, 2020
Cate: ディスク/ブック

SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その1)

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の間違いではなく、
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”で合っている。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”に収められている日だけでなく、
翌日の土曜日も演奏が行われていて、録音が残されていることを知ったのは、
三年ほど前のことだ。

アル・ディ・メオラがfacebookに、そう書いていた。
なんでも、ある一人が発売に反対している、ともあった。

いつ出るのか。
あまり期待せずに待っていた。

ようやく来年発売になるようだ。
延期になる可能性もあるけれど、とにかくいつかは発売されるであろう。
期待は、ずっと大きくなっている。

Date: 9月 13th, 2020
Cate: ディスク/ブック

BEETHOVEN Complete Piano Sonatas · Diabelli Variations / Barenboim

ダニエル・バレンボイムのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集が、
10月30日、ドイツ・グラモフォンから出る。

バレンボイムのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集は、これで四度目である。
前回はデッカから14年前に出ている。

たしかブレンデルが三回録音していたと記憶しているが、
それでもすごいことだと思っていたが、
バレンボイムはそれをこえている。

今後、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を四回も録音する演奏家は、
登場しないのではないか。

少なくともバレンボイムに匹敵するピアニストということになると、
少なくとも私が生きているうちにはないだろう。

バレンボイムは、今年の11月で78歳になる。
バレンボイムの音楽活動を見ていると、
この人は、あと20年くらい現役のままなのではないか、と思うことがある。

仮にあと20年、バレンボイムが現役のピアニストだったとしたら、
五度目の全集録音が現実となるかもしれない。
というよりも、可能性は、けっこう高いと思っている。

いままでバレンボイムのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集には、さほど興味を持てなかった。
これといった理由があったわけではないが、なんとなく遠ざけてきていた。

三度目の全集だったら、そのまま聴かずにすましていたことだろう。
けれど、四度目となると、なぜ、そこまで、という興味がわいてくる。

それに、MQAでもリリースされるのではないか、という期待もある。
MQAだったら、まちがいなく聴く。

通常のCDであっても、おそらく聴くと思う。
五度目を期待しているから、である。

Date: 8月 18th, 2020
Cate: ディスク/ブック

THE JIMMY GIUFFRE IN QUARTET PERSON

Jimmy Giuffreをどう呼ぶのかも、昨晩まで知らなかった。
“THE JIMMY GIUFFRE IN QUARTET PERSON”というレコードのことも、もちろん知らなかった。

昨晩は、新宿・歌舞伎町にあるジャズ喫茶ナルシスに行ってきた。
10月7日のaudio wednesdayで、DJをやってくれる野上眞宏さんと赤塚りえ子さんの三人で、
夕食のあとの雑談で、ナルシスに行こう、ということになった。

こういう状況下なので、ナルシスが営業しているのかどうかもはっきりしなかった。
最悪の場合、閉店しているかも……、そんなことも心配しながらも、
ナルシスの入っているビルの前につくと、
ブラインドのすきまからぼんやりとあかりが灯っていた。

「やっている!」
喜びの声をあげながら、階段をあがる。
ドアには、いくつかの貼り紙があった。
営業時間も、8月中は22時まで、である。

ドアを開けて入れば、変らぬナルシスである。

世の中は大きく変化していっているけれど、
ここは切り離されているかのような雰囲気さえある。

“THE JIMMY GIUFFRE IN QUARTET PERSON”は、何枚目かにかけてくれたレコードだ。
「今度はちょっと地味なのをかけるね」ということで、
ジミー・ジェフリーのレコードである。

ジミーと地味をかけて、オヤジギャグを言おうか、どうしようか迷っていたら、
野上さんに、先にいわれてしまった。

ナルシスのママが、われわれ三人にジャケットを渡しながら、
写真の真ん中あたりをみてごらん、と。

“THE JIMMY GIUFFRE IN QUARTET PERSON”のジャケット写真は、
ファイブスポットでのライヴ風景である。

ミュージシャンの後の壁には、さまざまなチラシが貼ってある。
そのなかの一枚。
ほら、このへん、といわれながら渡されたから気づいたのだが、
そこには“YAYOI KUSAMA”の文字があった。

“THE JIMMY GIUFFRE IN QUARTET PERSON”は、
“Jimmy Giuffre Live in 1960”というタイトルでCDが出ている。

1960年のライヴ録音であり、その時代のファイブスポットの壁であり、チラシである。

“THE JIMMY GIUFFRE IN QUARTET PERSON”とほかの場所で出会っていても、
そこには気づかないだろう。

ナルシスに行ったからこそ、であえて気づけたわけだ。

Date: 8月 10th, 2020
Cate: ディスク/ブック

J.S. Bach: Six Suites for Viola Solo

コーネッタは、弦の鳴り方がいい。
ヴァイオリンもいいけれど、個人的にはチェロの鳴り方が特に気に入っている。

7月のaudio wednesdayではフルニエをかけた。
8月のaudio wedneadayではデュ=プレのドヴォルザークの協奏曲をかけた。

どちらもチェロらしい響きを聴かせてくれる。
重くならなず、軽やかに鳴ってくれる。

特にデュ=プレのチェロを聴いていると、
イギリス同士で相性がいいのだろうか、と思ってしまうほどだが、
過去にステレオサウンドの試聴室で聴いたいくつものタンノイ、
知人宅で聴いたタンノイでは、特にそういう印象はなかったから、
これはフロントショートホーン付きのタンノイならではの特長のようにも感じている。

こんなふうに鳴ってくれると、今度はヴィオラのソロを聴いてみたくなる。

キム・カシュカシャンがいる。
ECMから“J.S. Bach: Six Suites for Viola Solo”が出ている。

バッハの無伴奏チェロ組曲のヴィオラ版である。
CDで出ているが、やはりここはMQAで聴きたい。

Date: 8月 1st, 2020
Cate: ジャーナリズム, ディスク/ブック

自転車道 総集編 vol.01(その2)

(その2)を書くつもりはなかったけれど、
facebookでのコメントを読んで書くことにした。

コメントには、総集編はブームの終りに出しやすいですね、とあった。
自転車ブームが終りを迎えているのかどうかは、いまのところなんともいえないが、
少なくともピークは過ぎてしまったようには感じている。

私が「自転車道 総集編 vol.01」を高く評価するのは、
オーディオ雑誌というよりも、
ステレオサウンドが出す総集編、選集とは根本的なところで違うからである。

「自転車道 総集編 vol.01」の序文に、こうある。
     *
安井 僕は自転車道の連載の中で、ことあるごとに、しつこいくらいに書いているんです。「この記事を読んでも速くなったり楽になったりペダリングが上達したりはしないぞ」って。今までの自転車雑誌はそういう記事ばっかりでしたよね。「どのホイールが速いのか」とか「こうすれば速くなる」とか「これでラクに走れるようになる」とか。そういうシンプルでイージーな記事ばっかりだった。もちろんそういう記事も必要なんですけど、「自転車という乗り物を深く理解してみよう」という記事はなかった。だから、「速くもラクにもなれないけど、読めばもしかしたら自転車乗りとして内面から進歩できるかもしれない」という記事をずっと作りたいとも思ってました。
吉本 自分はいち自転車好きとして「こういう記事が読みたい」と思ってたんですが、編集者として、雑誌屋として、「こういう記事を作りたい」という想いも強かったですね。ありがちなインプレとかノウハウ記事とは違う、エンターテイメントとして成立する読み物があるべきだとずっと思ってました。
安井 でも最初は怖かったですよ、ホントに。「フレームにかかる力を知る」なんて企画をバーンとやったはいいものの、全員から「そんなことどうだっていいんだよ」っていわれたらどうしようって。
     *
「自転車道」は2014年から始まった記事である。
そのころに、こういう記事をはじめたところが、オーディオ雑誌とは違う。

そして自転車ブームのピークが過ぎ去ったといえるころに、
「自転車道 総集編 vol.01」を出してきた。

「どのホイールが速いのか」とか「こうすれば速くなる」とか「これでラクに走れるようになる」とか、
そういった記事の総集編ではない。

Date: 7月 31st, 2020
Cate: ジャーナリズム, ディスク/ブック

自転車道 総集編 vol.01(その1)

オーディオ好きには自転車好きも多い、と聞いている。
どのくらいいるのかは知らない。

だから昨日(7月30日)に発売になった「自転車道」を手にしている人もいることだろう。
自転車の雑誌といえば、私が読み始めたころから、
いまもそうなのだが、サイクルスポーツとバイシクルクラブがよく知られている。

ほかの自転車関係の雑誌を置いていない書店でも、
この二冊は、ほぼ置いてあるほどに自転車の雑誌といえば、この二冊である。

どちらがおもしろいかは、年代によって違っていた。
ここ数年はサイクルスポーツのほうが断然おもしろく感じていた。

その理由の一つが、2014年から始まった「自転車道」という企画である。
残念なことに、2019年8月号で終ってしまったけれど、この記事を読みながら、
一冊の本にまとめてほしい、と思っていたし、
きっとまとめてくれるだろうな、とも期待していた。

連載終了から約一年、総集編 vol.01である。
この総集編のムックの冒頭には、序文がある。

この序文は、このムックでしか読めない。
「自転車道」では、安井行生と吉本司という二人の自転車ライターによる記事だ。

この二人の、連載をふりかえっての短い対談が、序文になっていて、
そこの見出しには、こうある。
《自転車選びが短絡的になってしまった弦駄句へのアンチテーゼとして》

この序文は、自転車をオーディオに置き換えてもそのまま読める内容だ。

自転車は、つい最近までブームだった。
いまでもブームが続いているとみえるかもしれないが、
都内の自転車店は減少している、ともきいている。

自転車の雑誌、ムックも、以前ほどにはみかけなくなってきている。
そういう時期をむかえているときに、「自転車道」が始まって、総集編が出た。

それにしても、いまのオーディオ雑誌は、こういう記事をどうしてつくれなくなったのだろうか。
つくれるさ、という編集者もいるかもしれない。

続けて、その編集者は、こういうのかもしれない。
「つくれるさ、でも、そんな記事を読者は望んでいない」と。

はたしてそうだろうか。

Date: 7月 24th, 2020
Cate: ディスク/ブック

伝説の歌姫 李香蘭の世界(その2)

「伝説の歌姫 李香蘭の世界」は、録音データが記載されている。
1940年から1954年までの録音がおさめられている。

同時代、もしくはもう古い録音のディスクは何枚も持っている。
いずれもクラシックの録音で、海外の録音である。
これらを聴いてもっていた印象と「伝説の歌姫 李香蘭の世界」の音の印象は、
昔から、海外オーディオメーカーの人たちが、
日本の音(スピーカー)は甲高い、といっていたのに関係しているように感じる。

そう甲高く感じられる。
録音器材のせいなのか、それともあえてこういう音に録っているのだろうか。

1940年代の日本の録音を、「伝説の歌姫 李香蘭の世界」で初めてきちんと聴いた。
他の、この時代の日本の録音がそうだったのかはまではまだ確認していない。

「伝説の歌姫 李香蘭の世界」の一枚目の一曲目、
「紅い睡蓮」が収録されたディスクは、1940年に10月に発売され、
1941年2月末までに28万枚以上製造された、という記録が残っている、とのこと。

当時の28万枚は、そうとうな数字である。
つまり、多くの人が、「紅い睡蓮」を、ああいう音で聴いている、ということでもある。

それとも当時の蓄音器では、これできちんと鳴っていたのだろうか。

Date: 7月 22nd, 2020
Cate: ディスク/ブック

上海バンスキング(その2)

「上海バンスキング」のCDを聴いていた。
吉田日出子の歌を聴いていた。

瀬川先生が「上海バンスキング」で、吉田日出子の唱うブルースにしびれていたころは、
すでに離婚されて中目黒のマンション住いだった。

4345がスピーカーだった。
そのころの瀬川先生のところに行った人によれば、
アキュフェーズのアンプだった、という。
C240とM100の組合せだ、と思う。

アナログプレーヤーはパイオニアのExclusive P3のはず。
カートリッジまでははっきりとしないが、
オルトフォンのMC30、MC20MKII、デンオンのDL303、EMTのXSD15あたりだろう。

そういうシステムで、世田谷・砧のリスニングルームよりずっと狭い空間で聴かれていた。

このことを、吉田日出子の歌を聴いていて思い出していた。
吉田日出子の歌を聴くのは初めてである。
吉田日出子という人の印象も、テレビのない生活がながい私には、ほとんどない。
なんとなく顔が思い出せるくらいだ。

吉田日出子の顔は、なんとなく知っていたし、検索して確認もしていた。
それでも、聴いていて、
瀬川先生が好きだったバルバラ、アン・バートンとはずいぶん違う、と感じた。

なんとなくそんな感じはしていたけれど、そのことは少し意外でもあった。

Date: 7月 18th, 2020
Cate: ディスク/ブック

上海バンスキング(その1)

瀬川先生の「良い音とは何か?」からは、
一昨日も引用しているし、それ以前にも何度かしている。
にもかかわらず、と自分でも不思議に思うしかないのだが、
「良い音とは何か?」に出てくるレコードを、ずっと買っていなかった。

《ついさっき、山本直純の「ピアノふぉる亭」に女優の吉田日出子さんが出るのを知って、TVのスウィッチを入れた。彼女が「上海バンスキング」の中で唱うブルースに私はいましびれているのだ》
とある。

吉田日出子の「上海バンスキング」。
1981年に、「良い音とは何か?」を読んだ時には、
さして興味が持てなかった。

吉田日出子の歌というのに、興味がなかった、ともいえる。
きいたこともなかったのに、そうだった。

ただ、それでも瀬川先生が《いましびれているのだ》と書かれているは、
ずっとどこかにひっかかっていたのも事実である。

それでもここまでの39年間、聴こうとも探そうともしてこなかった。
ここにきて、なにかレコード(録音物)の落穂拾いをやっているな、と自覚している。

それでも、吉田日出子の「上海バンスキング」を、無性に聴きたくなっていた。