Archive for category ディスク/ブック

Date: 6月 28th, 2022
Cate: ディスク/ブック

The Island of Christianity: ARMENIA & ARTSAKH

“The Island of Christianity: ARMENIA & ARTSAKH”。
モンセラート・カバリエの2013年のアルバム。

このアルバムの存在を、知らなかった。
日曜日(6月26日)に知ったばかりである。

TIDALで、モンセラート・カバリエを好きな演奏家として登録しているけれど、
それほどカバリエのアルバムを聴いているわけではない。

日曜日にしても、モニク・ハースのピアノを聴きたくて、TIDALを開いた。
モンセラート・カバリエは、私のリストではモニク・ハースの次に表示される。

それで、たまには聴こうかな、ぐらいの感じだった。
モンセラート・カバリエの、このアルバムが聴きたい、と思ったわけではなく、
なんとなくモンセラート・カバリエを聴こうかな、ぐらいなのだから、
TIDALが表示するアルバムを眺めながら、MQAになっているものを聴こう──、
そんな感じでスクロールしながら眺めていた。

“The Island of Christianity: ARMENIA & ARTSAKH”には、
MQAの表示があった。MQA Studio(44.1kHz)である。

もしMQAでなかったら、聴かずに、他のアルバムを聴いていただろう。
聴きはじめてすぐに、MQAの表示があってよかった、と思った。
なかったら、ずっと、この素敵なアルバムを聴かずじまいだったか、
もしくは、ずっと先まで聴かなかっただろうから。

Date: 6月 26th, 2022
Cate: ディスク/ブック

You’re Under Arrest

ステレオサウンド 76号をひっぱり出してきたのは、
表紙がJBLのDD55000だからである。

このころのステレオサウンドには、黒田先生の連載「ぼくのディスク日記」がある。
「ぼくのディスク日記」は黒田先生の発案だった。

76号で取り上げられているディスクのなかに、
マイルス・デイヴィスの“You’re Under Arrest”がある。

黒田先生は、こんなことを書かれている。
     *
 感覚は、甘やかしていると、鈍ってくる。鈍った感覚は、自分が鈍っているとは気づかない。ききとして、まず恐れるべきは、そのことである。感覚が鈍ると、あたりの景色も硬化する。こうあらねばならない、あああらねばならない、といったような教条主義的な発言は、いずれにしろ、鈍った感覚から発せられる。自分の感覚の健康診断がしたくなったときに、ぼくはマイルス・デイビスのレコードをきくことが多い。そういえばと、ふりかえってみて、最近、しばしばこの新しいマイルス・デイビスのレコードをきいているような気がするけれど、はたしてこれはいいことかどうか。
     *
マイルス・デイヴィスも黒田先生も、もうこの世にはおられない。
もし黒田先生がいまも存命だったら、マイルス・デイヴィスのかわりに、
誰のレコード(録音物)で、感覚の健康診断をされたのだろうか。

Date: 6月 25th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ストラヴィンスキー「火の鳥」

1910年6月25日、ストラヴィンスキーの「火の鳥」がパリで初演された。
いまではほとんど聴かなくなったけれど、一時期はよく聴いていた。

コリン・デイヴィスによる「火の鳥」と「春の祭典」を、
あきずに何度も聴いていたのは、
そのころ、この二枚のフィリップス録音は、優秀録音として名高かったからだ。

瀬川先生も、ステレオサウンドなどの試聴にも使われていたし、
熊本のオーディオ店に来られた時も持参されていた。

コリン・デイヴィスの「火の鳥」、「春の祭典」は、1970年代おわりごろの録音だから、
もう四十年以上前のことだし、
いまではもっと優秀録音と評価されている録音は、いくつもある。

それでも私にとって、初めてきいた「火の鳥」と「春の祭典」は、
コリン・デイヴィス指揮によるものだったし、
瀬川先生が、熊本に最後に来られた時、
トーレンスのリファレンスで最後にかけられたディスクが、
コリン・デイヴィスの「火の鳥」ということが、いまもずっと心の奥底にしっかりとある。

Date: 6月 23rd, 2022
Cate: ディスク/ブック

ERIK SATIE: 7 gnossiennes

エリック・サティの新譜が頻繁にレコード会社から出た時期があった。
いつごろだったろうか。
私が20代のころだったか。

サティの音楽に深い関心がなくても、
どこかで聴く機会が何度かあった。
それでも、自分でサティのディスクを買おう、という気にはならなかった。

嫌いなわけではない。
でも積極的に聴きたい、とは思うことなく、ずっと過ごしてきた。

オリヴィア・ベッリ(Olivia Belli)という作曲家、ピアニストがいる。
何かで知って、TIDALで聴くようになった。

昨晩、オリヴィア・ベッリがサティを弾いているディスクがあるのに気づいた。
たまにはサティの曲もいいかも、という軽い気持で聴きはじめた。

トータルで21分の短い収録だが、以前なら、
そして別のピアニストの演奏なら、それでも最後まで聴かなかったはずだ。

でもオリヴィア・ベッリのサティはよかった。

Date: 5月 19th, 2022
Cate: Kate Bush, ディスク/ブック

So(その2)

ピーター・ガブリエルの“Don’t Give Up”。
これがケイト・ブッシュではなく、誰か別の女性歌手だったら、
これほど聴いてきただろうか。

ライヴ盤ではケイト・ブッシュではない。
だからといって曲の評価が変るわけではないが、
それでも私はケイト・ブッシュとによる“Don’t Give Up”を聴きたい。

“Don’t Give Up”を聴いたのは23歳のときだった。
1986年、いったい何回“Don’t Give Up”を聴いただろうか。

自分のシステムでも数え切れないほど聴いていたし、
ステレオサウンドの試聴室でも、試聴の準備の時、
試聴が終ってからも聴いていたりした。

そうとうにいろいろな音で、“Don’t Give Up”を聴いている。
それでも飽きずに、いい曲(歌)だな、と感じながら聴いていた。

ケイト・ブッシュが“Don’t Give Up”と歌う。
聴き手のこちらに語りかけるように歌う。

ケイト・ブッシュによる“Don’t Give Up”、この言葉は心に沁みる。
けれど、それは“Don’t Give Up”と誰かに言ってほしかったわけではなかったからだった。

六十年近く生きていれば、
“Don’t Give Up”と言ってほしいときがあった。

そういう時に“Don’t Give Up”を聴いている。
初めて聴いた時よりも、より心に沁みたかといえば、まったく違っていた。

他の人はどうなのかは知らないし、どうでもいい。
私は、そういう時に聴いた“Don’t Give Up”は、最後まで聴けなかった。

Date: 5月 18th, 2022
Cate: ディスク/ブック

モントゥーのフランク 交響曲二短調

中庸ということについて考えるとき、
菅野先生がお好きだった演奏家の録音を聴くようにしている。

昨晩、ピエール・モントゥーの演奏を聴こう、と思い立ったのも、そういう理由からだった。
菅野先生はモントゥーをお好きだった以上に尊敬されていた。

モントゥーのディスクは、それほど持っていないというよりも、かなり少ない。
でもTIDALには、かなりの数のアルバムがラインナップされている。

どのアルバムを聴こうか。
まずはMQAで聴けるアルバムから聴こう、と思いながら眺めていると、
フランクの交響曲二短調が目に留った。

シカゴ交響楽団を指揮してのもので、TIDALではMQA Studio(176.4kHz)で聴ける。
MQA Studioであっても44.1kHzもある。

モントゥーのフランクは、昨晩初めて聴いた。
こんなにもすごい演奏なのか、と驚いていた。

フランクの交響曲二短調を聴いたのも久しぶりだった。
いままで聴いてこなかったわけではないが、
この曲の熱心な聴き手ではなかった。

それでも好きな指揮者が録音すれば買って聴いてきた。
けれど、この交響曲に胸を打たれることはなかった。
なのに昨晩は違っていた。

世の中には、私がまだ出逢っていない素晴らしい演奏がある。
けっこうな数ある、といっていいだろう。

さほど期待せずに聴きはじめただけに、
モントゥーのフランクには圧倒された。

Date: 5月 12th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ファトマ・サイードの“Imagine”

ファトマ・サイードが“Imagine”を歌っている。
今日、歌っていることを知って、聴いていたところだ。

一曲のみだから、ストリーミングでのみ聴くことができる。
私はTIDALで聴いた。
MQA Studio(44.1kHz)で聴いた。

CD、SACDといったパッケージメディアにこだわりたい、という気持は、
マニアならば誰にでもあることだろう。

それをディスク愛と表現して、特集のテーマとすることもできよう。

でも、そこにこだわりすぎてしまっては、
ストリーミングで音楽を聴くなんて──、と拒否したままでは、
聴けない曲が出てくることになってしまう。

それでもいい、というのか。
そこまでこだわるのか。
こだわるべき対象はパッケージメディアなのか、音楽なのか。

ファトマ・サイードの“Imagine”を聴いて、そのことをおもっていた。

Date: 5月 6th, 2022
Cate: ディスク/ブック

マーラーの交響曲第一番(一楽章のみ・その1)

ここ数日、ふと思い立って集中的に聴いていたのが、
マーラーの交響曲第一番の一楽章である。

TIDALのおかげで、いろんな指揮者の一楽章のみを聴いていた。
こんなことをやって確認できたのは、
私にとって、この曲の第一楽章のリファレンスとなっているのは、
アバドとシカゴ交響楽団とによる1981年の録音である。

1982年夏にステレオサウンド別冊として出た「サウンドコニサー(Sound Connoisseur)」の取材で、
アバド/シカゴ交響楽団の、このディスク(まだCD登場前だったからLP)をはじめて聴いた。

第一楽章出だしの緊張感、カッコウの鳴き声の象徴といわれているクラリネットが鳴りはじめるまでの、
ピーンと張りつめた、すこしひんやりした朝の清々しい空気の描写は、
アバドという指揮者の生真面目さがはっきりと伝わってきたし、
その後、いろんなマーラーの一番を聴いたのちに感じたのは、
オーケストラがヨーロッパではなく、シカゴ交響楽団だったからこそ、
いっそう、そのことが際立っていたのだろう、ということだった。

ほんとうに、アバドによる一番の一楽章は、
息がつまりそうな感じに陥ったものだった。

この時の他の試聴ディスクは、クライバーのブラームスの四番もあった。
アバドのマーラーだけで試聴が進んでいったら、ほんとうにしんどかったことだろう。

そうこともあって、マーラーの一番に関しては、
アバド/シカゴ交響楽団の演奏がしっかりと刻み込まれてしまった。
ゆえにどうしても、他の指揮者、他のオーケストラによる演奏を聴いていると、
アバド/シカゴ交響楽団にくらべて──、といった聴き方をしていることに気づく。

このことがいいことなのかどうなのかはなんともいえないが、
こうやって一楽章のみを聴いてあらためておもったのは、
アバド/シカゴ交響楽団の一楽章は素晴らしい、ということだ。

Date: 4月 30th, 2022
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その9)

パブロ・カザルス指揮のモーツァルトはよく聴く。
モーツァルトの交響曲を誰の指揮で、いちばん多く聴いたか。

正確に数えたわけではないが、カザルスのモーツァルトをもっとも数多く聴いている。
カザルスのモーツァルトが好きである。

だからといって、カザルスのモーツァルトばかり聴いているわけではなく、
ベンジャミン・ブリテン指揮のモーツァルトもカザルスについでよく聴いている。

カルロ・マリア・ジュリーニのモーツァルトもよく聴くし、
他にも同じくらいよく聴く指揮者は何人もいる。

こんなふうに書いていくと、節操ないように思われるだろうが、
聴きたいとおもったモーツァルトは、けっして一つ二つではない。

それと同じくらい、もうこの人(指揮者)のモーツァルトはもう十分だ──、
そんなふうに思ってしまっている指揮者もいる。

昨晩、ユッカ=ペッカ・サラステのモーツァルトの交響曲集を聴いていた。
2011年に発売になっているけれど、私は昨晩初めて聴いた。

サラステという指揮者を、私は過小評価していたことに気づかされるほどに、
清新な印象のモーツァルトである。

カザルスのモーツァルトとは、かなり違う。
それでも、どちらのモーツァルトも活き活きとしている。

そつなく演奏(指揮)しているけれど……、といった感じのモーツァルトではない。
モーツァルトの魅力を、こちらの心にあらたに残る感じで、
モーツァルトの聴きなれた交響曲が鳴ってくる。

私が寡聞にして知らないだけで、
サラステのモーツァルトは高い評価を得ているのだろうか。
どうなのだろう。

Date: 4月 20th, 2022
Cate: ディスク/ブック

新版 名曲この一枚(その7)

今日発売のレコード芸術 5月号で、
「新時代の名曲名盤500」はシベリウスからイザイまでをカバーして、
ひとまず終りである。

また数年後、同じ企画は始まるし、
今回の企画を一冊にまとめたムックも出るように思っている。

今回で最後なので、ワーグナーも登場している。
意外だったのは、「ニーベルングの指環」で一位になっているのは、
いずれもショルティの録音だったことだ。

今回の「新時代の名曲名盤500」をじっくり読んできたわけではない。
Kindle Unlimitedでなんとなく眺めていただけなのだが、
それにしても1980年代、私が熱心に読んでいたころ(そのころは300だった)とは、
ずいぶん選ばれている録音が違う曲が、けっこう多くあった。

そんなことがあったのでワーグナーは、ショルティが一位なのがちょっと意外だった。

いまワンダ・ランドフスカの演奏(録音)は、どうなのだろうか。
Kindle Unlimitedではレコード芸術に関しては、数ヵ月前のバックナンバーまでしか読めない。
バッハをとりあげた号は、いまでは読めない。

ランドフスカはどうだったのか。
選ばれていないのではないだろうか。

1980年代後半の「名曲名盤300」でも、
すでにランドフスカは忘れられていたという印象を受けた。

そのランドフスカを、私はいまになって、ようやくいい演奏だと感じている。
このことは、若いころといまとでは認知距離(ディタッチメント)が変ってきた──、
ということなのか。

そんなことを考えていたら、ランドフスカの演奏は「花」なのかも、と思えてきた。
20代のころ、ランドフスカの演奏をそれほどよいとは思えなかったころ、
花にほとんど関心はなかった。

いまだって、それほど強くあるわけではないが、
それでもそのころよりもずっと花をみて美しい、と感ずることが増えている。

だからランドフスカは私にとって「花」なのだろうか。

Date: 4月 19th, 2022
Cate: ディスク/ブック

新版 名曲この一枚(その6)

2006年3月号のラジオ技術の五十嵐一郎氏の文章を、もう少し引用しておきたい。
     *
 風間千寿子女史が、プレイエルのランドフスカ・モデルを持参で帰京し、ある年に、上野の文化会館小ホールでハープシコード・リサイタルを行った。わたくしは風間女史宅で何度か実機を聴いていたし、このリサイタルには、めずらしく西条盤鬼が女史の招待に応じて会場にくりだしていた。
 盤鬼は、戦後の演奏会はコルトー以来だといっていた。盤鬼とわたくしは、小ホールの最後部席で聴いた。このとき、高城重躬先生は、最前列のカブリツキで聴いておられた。
 休けい時間のとき、盤鬼は「レコードとおなじいゝ音だ」とわたくしにいった。高城さんは「レコードとずいぶん違う音じゃないか」とわたくしにいった。
 わたくしには、あのとき以来、耳派、感覚派、物理派とかいうような、一言居士の風潮区分けをケイベツするようになった。
 芸術鑑賞にディタッチメントは必至である。そして、だからといって認知距離は、認知の接近度の問題であり、それはスタンスを開けるという以上のことでもあろう。
     *
認知距離(ディタッチメント)という判断。
こういうところが、
西条卓夫氏に《戦後派の選ばれたオーディオとレコード・ファン》といわしめたのではないのか。

Date: 4月 19th, 2022
Cate: ディスク/ブック

新版 名曲この一枚(その5)

ラジオ技術 2006年3月号の連載で、
五十嵐一郎(金井稔)氏が、ランドフスカの復刻CDについて書かれている。

見開きの記事の左ページの半分くらいが囲み記事になっている。
そこは、「M夫人と聖ワンダ・ランドフスカ」とある。

松村様
 ごぶさたしております。

という書き出しで始まるこの文章は、五十嵐一郎氏が松村夫人にあてた私信である。
そこに、こうある。
     *
小生は“復刻CDをきいたら、LPをぜひ聴きたまえ”と書いたのです。
 本当は、“LPでとどまらず、何としてでもランドフスカは78s(SP盤)まで戻りなさい”といいたいのです。
     *
そういうものなのだろう。
私は、まだSP盤でランドフスカを聴いていない。

Date: 4月 18th, 2022
Cate: ディスク/ブック

新版 名曲この一枚(その4)

「新版 名曲この一枚」を読んでいると、
ワンダ・ランドフスカの演奏を聴いてみたくなる。

ランドフスカの演奏(録音)は、もちろん以前から聴いていた。
けれど、そのころは20代前半ということもあってか、
それほど素晴らしい演奏とは感じなかった。

それに録音も古い。そのことが相俟って、古い演奏と感じてしまった。
ランドフスカと同年代に録音された他の演奏家の録音は、
けっこう聴くことがあるのに、なぜだかランドフスカを遠ざけてしまっていた。

といってもまったく聴いてこなかったわけではないが、
数えるほどしか聴いていない。

それでも西条卓夫氏の文章にふれていると、
もう一度ランドフスカを聴いてみよう、という気持がわいてくる。

幸いなことに、TIDALではMQAで聴ける。
それほど多いわけではないが、平均律クラヴィーアの第一集がある。

以前、平均律クラヴィーアは、
グールドとグルダ、リヒテルの三組のレコード(録音物)があるから、
それで満足している、と書いた。

なのに、こうやってランドフスカのチェンバロによる平均律クラヴィーアを聴きはじめたら、
若いころは聴き続けるのにしんどさを感じていたのに、
すんなりとこちらの耳に入ってくる。

なので、ここ数日はランドフスカをまとめて聴いていた。
西条卓夫氏のような境地で聴いているとは思っていないし、
そこまでたどりつけるないだろうけれど、とにかくいまランドフスカを聴いている。

古めかしさを感じることがなくなっていることに気づく。

Date: 4月 17th, 2022
Cate: ディスク/ブック

新版 名曲この一枚(その3・追補)

(その3)で引用している西条卓夫氏の文章に登場するM・Kは、
ラジオ技術の金井稔氏である、とある方から指摘があった。

金井稔氏なのかも、と思っていたけれど確証がなかっただけにありがたい。

Date: 4月 16th, 2022
Cate: ディスク/ブック

新版 名曲この一枚(その3)

松村夫人のことは、瀬川先生も、
ステレオサウンド 7号掲載「音は人なり」の中で触れられている。
     *
「音は人なり」という名言があるが、こと再生装置にかぎらず、精巧な機械になるほど、その持主の心を、あるいはそ置かれる環境を、素直に写し出すもののようである。
 この名言とともに、何かつけて思い出されるのは、福岡にお住まいのM夫人のクレデンザーの音である。
 夫人は、彼を「久礼夫さん」と呼んでおられた。この一事からも、並ならぬ可愛がりかたであったと想像頂けよう。金色のサウンドボックスも、HMV製のあの独特の白い竹針も、最上のコンディションで保存されていた。静かにハンドルをまわし、ピカピカのHMV盤に針を乗せる夫人のうしろ姿は凛として気品があった。それは恰かも、名器に向かう名演奏家の姿であった。
 こういう形で器機に接することのできる人は、女性にはまれなこと、と言ったら失礼な言い方になるかもしれないが、男にだってそうザラに居るわけではない。最初の一音を聴いただけで、クレデンザーが機械蓄音器の最高の名品といわれた所以に合点がいった。
 バイオリンでも、名人が奏きこむに従ってだんだんに音が良くなるそうだ。逆に、せっかく良く鳴っていた楽器でも、素人の手に渡ると一週間で鳴りが悪くなってくるという。M夫人の元で、ティボォ、コルトオ、ランドフスカの、しかも手入れのよいHMV本盤で鳴らしこまれたクレデンザーが、なみの器械の及ばない音で鳴っていたとしても不思議ではない。
 たとえ世界最高といわれた器械でも、たかが手捲蓄音器何ほどのことあるらんと、三極管パラPPのアンプに3ウェイのSPをひっさげて出かけた、十二年前のわたくしの高慢心は、クレデンザーの一音で砕け散った。単に音量感だけとっても、クレデンザーの方が格段に上だった。機械蓄音器から、ああいうたっぷりした音量が流れ出るものであることを、不覚にもそのとき初めて思い知らされた。しかしその後いくつかのクレデンザーを聴いたが、あの音量感、あの音質は別のクレデンザーには無いものだった。やはり奏き手も名人だったのである。今になってわたくしは確信する。あれは紛れもなくM夫人の音だったのだと。
     *
M夫人が、松村夫人である。
《クレデンザーの一音で砕け散った》とある。
この時、瀬川先生が松村夫人の元に持ち込まれたのが、
ラジオ技術 1957年10月号に発表されている
「30年来のレコード愛好家のために、バリスロープ・イコライザつき6F6パラPP・LP再生装置をつくる」
という記事に登場する装置である。

この記事は、こういう書き出しで始まっている。
     *
 本誌のレコード評に毎月健筆をふるっておられる西条卓夫氏から、氏の旧い盤友である松村夫人のために、LP装置を作るようにとのご依頼を受けたのは、まだ北風の残っている季節でした。お話を聴いて、私は少々ためらいました。夫人は遠く福岡にお住いですが、その感覚の鋭さ、耳の良さには、〝盤鬼〟をもって自他ともに許す西条氏でさえ、一目おいておられるのだそうで、LPの貧弱な演奏に耐えきれず未だに戦前のHMVの名盤を、クレデンザーで愛聴しておられるというのです。〝懐古趣味〟と笑ってはいけません。同じレコードを愛する私には、そのお気持が良く判るのでした。
 とにかく、限られた予算と、短かい期日の中で、全力を尽してみようと思いました。
     *
瀬川先生は、松村夫人のクレデンザを聴かれている。
西条卓夫氏はランドフスカの項では、瀬川先生のことも触れられている。
     *
 だが、録音されたランドフスカのクラヴサンの音は、SPの方がより良い味を持っている。最高級のアクースティック蓄音機でイギリス・プレスのSPを聴く際のあえかな美しさは、とても筆舌に尽くし難い。戦後派の選ばれたオーディオとレコード・ファンのM・KやI・Oの両君も、その法外な魅力には脱帽している。
     *
I・Oとは、大村一郎の頭文字で、瀬川先生の本名である。