Archive for category ディスク/ブック

Date: 9月 9th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ヘルマン・プライの「冬の旅」(その2)

(その1)を読んで、ヘルマン・プライの「冬の旅」を聴かれた方から、
facebookにコメントがあった。

その方はパパゲーノの印象が強すぎて、
プライの「冬の旅」を敬遠されていたようだ。

「冬の旅」といえば、フッシャー=ディスカウだけでなく、
ホッターの「冬の旅」も世評は高い。
いまはどうなのか知らないが、1980年代はそうだった。

「冬の旅」について詳しいことは省くが、
いわば「冬の旅」は、青年が旅する歌であり、「青春」の歌でもある。

そこのところで、ホッターの歌唱はもう青年とは感じられない。
中年をこえて年老いた人のようにも感じられる。

フッシャー=ディスカウの歌唱は年老いているわけではない。
でも、プライの歌唱から感じられる「青春」は、
フッシャー=ディスカウの歌唱からは、私はやや感じとりにくい、というか、
そういうこととは違うところでの歌唱のように感じられる。

コメントの方は、プライの「冬の旅」は、
肩の力の抜けた、というか、穏やかな、何かほっとするような演奏と書かれている。

意外に、ヘルマン・プライの「冬の旅」は聴かれていないのかもしれない。
とにかく、私が書いたのを読んで、プライの「冬の旅」を聴かれた人が、
少なくとも一人はおられたわけで、このことは単純に嬉しい。

Date: 9月 9th, 2022
Cate: Wilhelm Furtwängler, ディスク/ブック

Brahmus: Symphony No.1(Last Movement, Berlin 23.01.1945)

五味先生の「レコードと指揮者」からの引用だ。
     *
 もっとも、こういうことはあるのだ、ベルリンが日夜、空襲され、それでも人々は、生きるために欠くことのできぬ「力の源泉」としてフルトヴェングラーの音楽を切望していた時代——くわしくは一九四五年一月二十三日に、それは起った。カルラ・ヘッカーのその日を偲ぶ回想文を薗田宗人氏の名訳のままに引用してみる——
「フルトヴェングラーの幾多の演奏会の中でも、最後の演奏会くらい強烈に、恐ろしいほど強烈に、記憶に焼きついているものはない。それは一九四五年一月二十三日——かつての豪華劇場で、赤いビロードを敷きつめたアドミラル館で行なわれた。毎晩空襲があったので、演奏会は午後三時に始まった。始まってまもなく、モーツァルトの変ホ長調交響曲の第二楽章の最中、はっと息をのむようなことが起った。突如明りが消えたのである。ただ数個の非常ランプだけが、弱い青っぽい光を音楽家たちと静かに指揮しつづけるフルトヴェングラーの上に投げていた。音楽家たちは弾き続けた。二小節、四小節、六小節、そして響はしだいに抜けていった。ただ第一ヴァイオリンだけが、なお少し先まで弾けた。痛ましげに、先をさぐりながら、とうとう優しいヴァイオリンの旋律も絶え果てた。フルトヴェングラーは振り向いた。彼のまなざしは聴衆と沈黙したオーケストラの上を迷った。そしてゆっくりと指揮棒をおろした。戦争、この血なまぐさい現実が、今やはっきりと精神的なものを打ち負かしたのだ。団員がためらいながらステージを降りた。フルトヴェングラーが続いた。しばらくしてからやっと案内があって、不慮の停電が起りいつまで続くか不明とのことであった。ところが、この曖昧な見込みのない通知を聞いても、聴衆はただの一人も帰ろうとはしなかった。凍えながら人びとは、薄暗い廊下や、やりきれない陰気な中庭に立って、タバコを吸ったり、小声で話し合ったりしていた。舞台の裏では、団員たちが控えていた。彼らも、いつものようにはちりぢりにならず、奇妙な形の舞台道具のあいだに固まっていた。まるでこうしていっしょにいることが、彼らに何か安全さか保護か、あるいは少なくとも慰めを与えてくれるかのように。フルトヴェングラーは、毅然と彼らのあいだに立っていた。顔には深い憂慮が現われていた。これが最後の演奏会であることは、もうはっきりしていた。こんな事態の行きつく先は明瞭だった。もうこれ以上演奏会がないとすれば、いったいオーケストラはどうなるというのだ。」
 このあと一時間ほどで、待ちかねた演奏会は再開される。ふつう演奏が中断されると、その曲の最初からくりかえし始められるのがしきたりだが、フルトヴェングラーはプログラムの最後に予定されたブラームスの交響曲から始めた、それを誰ひとり不思議とは思わなかった。あのモーツァルトの「清らかな喜びに満ちて」優美な音楽は、もうこの都市では無縁のものになったから、とカルラ・ヘッカーは書きついでいるが、何と感動的な光景だろうか。おそらく百年に一度、かぎられた人だけが立会えた感動場面だったと思う。こればかりはレコードでは味わえぬものである。脱帽だ。
     *
この「レコードと指揮者」を読んだ頃、
フルトヴェングラーのブラームスの一番といえば、
1951年、ベルリン・フィルハーモニーとのライヴ録音の世評は高かった。

こういものを読むと、聴きたくなる。
1945年のドイツでの演奏会の録音が残されているとは、当時は思わなかった。

けれど残っているものである。
最終楽章のみ録音が残っている。

私が聴いたのは、Music & ArtsのCDだった。
フルトヴェングラーのブラームスの演奏を集めた四枚組ぐらいのCDだった。

そこに1945年1月23日のブラームスの一番の最終楽章があった。
1990年ごろだったはずだ。

五味先生の文章を読んで十年ほど経っていた。
いまはTIDALでも聴くことができる。

なので先日、久しぶりに聴いた。
前回きいた時から、二十年近く経っていた。

Date: 9月 7th, 2022
Cate: ディスク/ブック

BINDER QUINTET: Featuring John Tchicai

今日は第一回audio wednesday (next decade)で、
ジャズ喫茶めぐりをしていた。

最後に行った店は、新宿のナルシス。
ここだけは、最後に行こう、と最初から決めていた。

18時ごろに入店。
ドアを開けて入ったら、目の覚めるような音が鳴っていた。

かかっていたのが、ビンダー・クインテットの“Featuring John Tchicai”だった。
私は熱心なジャズの聴き手ではないから、聴いて、すぐにそれが誰の演奏なのかはわからない。

クラシックだって、これまで聴いたディスク(録音)よりも、
聴いていないディスク(録音)のほうが多いのだから、
ジャズに関しては、聴いているディスク(録音)はわずかでしかない。

ビンダー・クインテットの名も、初めて知った。
最近では、こういう場で気に入った曲がかかっていると、
店の人に訊ねる前に、iPhoneにインストールしているアプリShazamで検索する。

多くの人が、Shazamを使っていることだろう。
便利なアプリである。
けれど、Shazamでも、ビンダー・クインテットの“Featuring John Tchicai”は表示されなかった。

なのでジャケットにある“BINDER QUINTET”の文字を手入力しての検索。
すぐに、どのディスクなのか判明したが、
TIDALで聴けるだろう、と思い検索してみると、
ビンダー・クインテットは一曲のみ表示されるだけ。
アルバムの検索結果はゼロだった。

いまのところ、CDも入手はできないようだ。
とはいえ、ビンダー・クインテットの“Featuring John Tchicai”は手に入れたい、
自分の音で聴いてみたい。

今日は、このディスクとの出逢いがあった。

Date: 9月 7th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ヘルマン・プライの「冬の旅」(その1)

シューベルトを集中的に聴いていることは、
別項で聴いているとおりだ。いまもシューベルトを、まず聴くようにしている。

ここ一週間ほどは、シューベルトの歌曲をよく聴いていた。
「美しき水車小屋の娘」、「冬の旅」、「白鳥の歌」も聴いている。

これまで「冬の旅」がとくにそうなのだが、
ディートリッヒ・フッシャー=ディスカウを主に聴いていた。

他の歌手による録音をまったく聴かなかったわけではないが、
それで比率としてはかなり少なかった。

ディートリッヒ・フッシャー=ディスカウだけを聴いていれば、それでよし、とは、
もちろん思っていないけれど、そうなっていた。

実を言うと、今回初めて、ヘルマン・プライの「冬の旅」を聴いた。
1971年の録音、ピアノはサヴァリッシュである。

エンゲルのピアノによるプライの「冬の旅」も聴いていなかった。
私が聴いたことがあるのは、デンオン録音、ビアンコーニによるピアノの「冬の旅」である。

さほど期待していたわけではなかった。
それでも素晴らしい歌唱は、そんなバイアスをきれいに吹き飛ばしてくれる。

Date: 9月 5th, 2022
Cate: ディスク/ブック

音響道中膝栗毛(その2)

(続)音響道中膝栗毛」には、
ステレオサウンドに連載されたものがおさめられている。

伊藤先生の文章とは、伊藤先生のアンプ記事よりも先に出あっている。
中学生のころから読みはじめたステレオサウンドには、伊藤先生の連載があった。

そのころは、伊藤先生がどういう人なのかは全く知らなかったが、
それでも書かれたものを一つでも読めば、
中学生であっても、伊藤先生がどういう人なのかは、直観的につかめていたところがある。

だから、この人の書くものは、きちんと読もう、と思った。
伊藤先生の書かれたものに、最新のオーディオ機器のことは登場しない。

古いオーディオ機器のことが書かれてあるかというと、
こちらもウェスターン・エレクトリックやシーメンスのことがたまに出るくらいで、
そういう文章ではない。

けれど、伊藤先生の文章はオーディオについての文章だった。
伊藤先生の文章を、いつ読むのか。

大人になってから、老いてから読んでもいい。
けれど10代のころに読んでいるのといないのとでは、その後に違いがあるはずだ。

私は運が良かった、とオーディオに関してはそう思う。
オーディオに関心をもつ大きなきっかけが「五味オーディオ教室」だったし、
その後すぐに、伊藤先生の文章を、その時代に読めたからだ。

Date: 9月 4th, 2022
Cate: ディスク/ブック

音響道中膝栗毛(その1)

誠文堂新光社から出ていた伊藤先生の「音響道中膝栗毛」が、
復刊ドットコムから復刊される。

音響道中膝栗毛」と「(続)音響道中膝栗毛」の二冊ともである。

この二冊を熟読しても、伊藤先生のアンプが作れるようになるわけではないし、
真空管アンプを設計できるようになるわけではないが、
ほんとうに熟読すれば、感じるところはそうとう多くある筈だ。

Date: 8月 19th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ESCAPE

8月19日に日付が変った直後に、
e-onkyoのサイトにアクセスしたら、ジャーニーの“ESCAPE”がジャケットに目に入った。

2022年リマスター、とある。
TIDALでもあるかな、と思って見たが、まだなかった。
どうも時差の関係で少し遅れるようで、今日の午後、TIDALをチェックしたら、あった。

e-onkyoではflacで、48kHz、96kHz、192kHzがあるが、
MQAはなかった。

TIDALはMQA Studioで、192kHzのみである。
音がいい。
聴いていて楽しくなる音のよさである。

“ESCAPE”は1981年のアルバム。
当時の若者は(私もその一人なのだが、リアルタイムでは聴いていない)、
“ESCAPE”を聴いていたわけだ。

別項で「熱っぽく、とは」を書いているけれど、
“ESCAPE”を当時夢中になって聴いていた若者ならば、
買ったアンプをトートバッグに入れて持ち帰ることぐらいなんでもなかったのかもしれない。

そんな、こじつけめいたことも聴き終ってから思っていた。

Date: 8月 15th, 2022
Cate: ディスク/ブック

SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その8)

ギターは小さなオーケストラ、といわれていることは昔から知ってはいた。
知ってはいたけれどそう実感したことはなかったから、
そういうふうにいうんだなぁ、ぐらいだったのが、
“Friday Night in San Francisco”を聴くまでだった。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、
ギターが小さなオーケストラであることを実感できたし、そのことが衝撃でもあった。

そしてギターという小さなオーケストラは、凝縮されたオーケストラでもあった。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”を四十年ほど聴いてきて、
ギターは魂に最も近い楽器だ、と感じるようになってきた。

ここでの魂は、弾き手の魂なのだが、
そこにとどまらず聴き手の魂にも最も近い楽器だと思っている。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”も“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”も、
まさにそうである。
そういう音で鳴ってくる。

Date: 8月 14th, 2022
Cate: ディスク/ブック

SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その7)

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”と“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”。
聴いてどうだったのか。
どちらがいいのか、どちらが人気があるのか。

昨晩、両方ともMQA Studioで聴いていた。
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”を聴いたあとに、
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”を聴いていた。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”が1980年12月5日、
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”が1980年12月6日。
けれど、その録音が発売になったのは、1981年と2022年である。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、これまで数え切れないほど聴いてきている。
最初はLPで聴いて、CDで聴いて、SACD、そしてMQA Studioで聴いている。

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、昨晩が最初である。
MQA Studioでしか聴いていない。

聴いてきた長さ、その他もろもろが違いすぎる。
そして1981年に、“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”も同時に発売になっていたら、
いまとは違う比較をしていただろうし、感じ方も違っていたであろう。

でも、現実は四十年ほどの開きがあって、
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”と“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”である。

しかも“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、
別項でも何度か書いているように、ステレオサウンドの試聴室で、
アクースタットのコンデンサー型スピーカー、Model 3で聴いている。

それゆえの衝撃の大きさ、強さがある。
ほんとうに強烈な体験だった。

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、そうではない。
それに昨晩聴いたばかりだ。

正直、比較する気は私にはまったくない。
どちらも聴くと楽しい。

それでいい、と思っている。

Date: 8月 13th, 2022
Cate: ディスク/ブック

SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その6)

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、すぐに予約した。
二回発売日変更と価格変更のメールが、タワーレコードから届いた。

私が注文したSACDは価格は当初よりもかなり安くなって、
8月19日発売と、いまところなっている。
なので、まだ届いていない。

TIDALでも、まだだった。
いつになるのか、が、もしかすると配信されないのかも……に、変りはじめていた。
けれどやっと配信が始まった。

MQA Studioで、192kHzである。
e-onkyoでも昨日から買えるようになっているが、
こちらはDSF(2.8MHz)とflac(196kHz)のみで、MQAは予想した通りない。

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”をMQAで聴きたいのであれば、
いまのところTIDALのみである。

そして、もうひとつ嬉しいことがあった。
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の配信が、
これまでMQA Studio(44.1kHz)からMQA Studio(176.4kHz)に変更になっている。

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”にあわせてなのだろう。

こういうことがあると、いまはほんとうにいい時代になったなぁ、と思う。
素敵な時代になったとも思う。

Date: 7月 28th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(その10)

ケント・ナガノと児玉麻里によるベートーヴェンのピアノ協奏曲、
その素晴らしさに驚いていたころに、
ある人から「児玉麻里のベートーヴェンのソナタは素晴らしい」といわれたことがある。

私よりも一世代ちょっと上の人である。
その人とは初対面だったけれど、たまたま児玉麻里の話になった。

聴いてみよう、とは思いながらも、
心のどこかに、機会があったら──、という気持があった。
そのため積極的に聴こうとはしなかった。

そうすると意外にも、聴くまでの時間がかなりかかったりする。
結局、児玉麻里のベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴いたのは、
TIDALを使うようになってからだ。

《ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタが女性に弾けるわけはない》、
五味先生が、そう書かれていた。

別項でも書いているが、そうだ、と私も思うところがある。
作品一一一の第二楽章を聴いていると、
五味先生が書かれていることを実感する。

そうでありながらも、
内田光子、アニー・フィッシャーのベートーヴェンの後期のソナタに感動している。
この二人が、私にとっては例外の存在といってもしまってもいいのだが、
児玉麻里が三人目として、ここに加わるのかといえば、決してそうじゃなかった。

ケント・ナガノにしても、児玉麻里にしても、
二人でのピアノ協奏曲は、あれほど素晴らしかったのに、
それぞれの演奏、交響曲とピアノ・ソナタにおいて、
そこまでのレベルに達していないのは、
つまりは内田光子のいうところのベートーヴェンの音楽における苦闘、
肉体的、精神的、感情的な意味での苦闘であり、彼自身との苦闘であること。

その中でも、彼自身との苦闘。ここにつきる、としかいいようがない。
内田光子は《自分がピアノを弾いている時に、オーケストラに自分を攻撃させられないから》
といい、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の弾き振りはしない。

交響曲ならば、指揮者はオーケストラに自分を攻撃させる、
ピアニストは、ピアノによって自分を攻撃させる、
この境地に到ってこそのベートーヴェンの演奏だとすれば、
ケント・ナガノによる交響曲、児玉麻里によるピアノ・ソナタに、
何か欠けたように感じてしまうのは、そこにおいてなのだろう。

何も、このことはケント・ナガノ、児玉麻里に限ってのことではない。
他の指揮者、他のピアニストにもいえることだ。

なのに、ここでケント・ナガノ、児玉麻里の名を挙げているのは、
くり返すが、ピアノ協奏曲はほんとうに素晴らしいからである。

Date: 7月 24th, 2022
Cate: ディスク/ブック

岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門(とビートサウンド・その2)

「岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門」、
どんな仕上がりになっているのか、
面白ければ買おうかな、と思いながら書店に手にしたけれど、結局は買わなかった。

この記事が面白ければ──、と思っていた「ココがヘンだよ!? オーディオ評論」。
音楽之友社のウェブサイトでは、このタイトルだったけれど、
実際の誌面ではタイトルが変更になっていた。

岩田由記夫氏と土方久明氏の対談なのだが、
朝沼予史宏氏の名前が出ていた。

ただし朝沼予史宏氏ではなく、浅沼予史宏氏だった。
何度か出てくるけれど、すべて浅沼予史宏氏だった。

なんなんだろうなぁ……、とおもうしかなかった。

Date: 7月 21st, 2022
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(その9)

ケント・ナガノとモントリオール交響楽団によるベートーヴェン。
交響曲とピアノ協奏曲(ピアニストは児玉麻里)がある。

ピアノ協奏曲の一番と二番は、ここでくり返し書いているように、
ほんとうに素晴らしい演奏である。
しかも録音も素晴らしい。

菅野先生が「まさしくベートーヴェンなんだよ」いわれていた。
けれど残念なことに、
「まさしくベートーヴェンなんだよ」というレベルで鳴っている音に、
いまだ聴けずにいる。

菅野先生の音だけがそうだった。

その8)で触れたように、
ケント・ナガノのベートーヴェンの交響曲には、
児玉麻里とのピアノ協奏曲で聴けた何かが欠けている気がする。

今年初めだったか、
内田光子がベートーヴェンの音楽について語っている動画を見た。

そこで内田光子は、ベートーヴェンの音楽は苦闘だと語っていた。
肉体的、精神的、感情的な意味での苦闘であり、彼自身との苦闘である、と。

だからベートーヴェンのピアノ協奏曲の弾き振りは難しい。
自分がピアノを弾いている時に、オーケストラに自分を攻撃させられないからだ、と。

指揮者が、オーケストラとピアニストの両者を対立させる必要があるのが、
ベートーヴェンのピアノ協奏曲であり、
その点、モーツァルトの場合は、対話が重要になる。

たしかに、こんなふうに語っていたはずなのだが、
男の子が「ねえ、ちょっと」と言い、それに対して女の子が「嫌よ」という感じで応える。

だからピアノ協奏曲の弾き振りはできる。

そんな趣旨のことを語っていた。

ケント・ナガノと児玉麻里は、ご存知のように夫婦である。
その二人だからこその、信頼が基盤にあっての対立が、
ベートーヴェンのピアノ協奏曲にあるのだろう。

Date: 7月 18th, 2022
Cate: ディスク/ブック

岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門(とビートサウンド・その1)

ビートサウンドのことを思い出していたところだ。

ビートサウンドはステレオサウンドが出していた。
ステレオサウンドで取り上げられるディスクが、クラシックが主で、
あとはジャズがあるくらいの状況に異を唱えた(とはいいすぎかもしれないが)のが、
ビートサウンドである。

休刊にはなっていないようだし、不定期刊行物扱いのようである。
このビートサウンドの最初は、朝沼予史宏氏が編集長としてのムックだった、と記憶している。
2002年に出た(はずだ)。

ビートサウンドから二十年が経つ。
岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門が出る。

Date: 7月 18th, 2022
Cate: ディスク/ブック

岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門(コメントを読んで)

facebookにコメントがあった。
私より一世代若い方からのコメントで、
海外のオーディオ関係のサイトやソーシャルメディアをみると、
クラシックはほとんどなくジャズが少しあって、
メインはロック(プログレッシヴ、パンク、ニューウェーヴなどを含む)、
ポップス、クラブミュージックが圧倒的に多い、とあった。

この点が日本とは大きく異っていると思っている──、とも書いてあった。

この方ほど、海外のサイトやソーシャルメディアを見てまわっているわけではないが、
同じことは感じていた。
クラシックの割合は少ない。

でも、同じことを私は、日本のオーディオ雑誌を読んでいて感じている。
日本のオーディオ雑誌に、試聴ディスクとしてクラシックが登場しないことは、まずない。
それでも、その割合は、私が熱心にオーディオ雑誌を読んでいたころ、
ステレオサウンド編集部で働いていたころからすれば、ずいぶん減ってきている。

減ってきていることを嘆きたいわけではなく、
無理してクラシックを試聴ディスクとして使っているのでは……、という印象が、
少しずつではあるが強くなってきていることに関して、
そんなふうにしてまで使わなくてもいいのでは──、
そう思うようになってきている。

別の、そのことが悪いとか批判したいわけではないが、
時代は変ってきているし、ステレオサウンドに限っても、
メインのオーディオ評論家と呼ばれている人たちのなかで、
この人の耳(クラシックを聴いての耳)は信頼できると、私が思う人は、もういない。

柳沢功力氏がいるではないか、そう反論されるだろうが、
個人的に柳沢功力氏の試聴記を読んでも、
私がオーディオ評論家(職能家)と呼ぶ人たちのそれからすれば、
ずいぶんと違う、と感じてしまうし、ものたりなさもある。

このことについてここで触れるには長くなってしまうテーマであるし、
個人攻撃のようにもなってしまうだろうから、このへんにしておく。

ずっと昔のステレオサウンドを熱心に読んできた人のなかには、
私と同じような印象を柳沢功力氏にもつ人がいる。

そのことを批判したいのではなく、時代は変っているし、
ステレオサウンドも、編集部も筆者も変ってきている。
それがいいたいだけ、である。

完全にクラシックが試聴ディスクとして使われなくなる日は来ないだろう。
それでも減っていくのは確かだろうし、
数としてそれほどの変化はなくとも、
試聴ディスク全体でのウェイトは低くなっていく、と思っている。