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Date: 11月 17th, 2011
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その5)

シャルランのことば、
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」は、
あくまでも、この本「音楽 オーディオ 人々」の著者、中野氏が書かれたことばである。

つまりシャルランが直接言ったことそのままではない。
シャルランはフランス人だし、とうぜんそこではフランス語で話したであろうし、
中野氏はその現場にはおられず、若林氏から伝え聞かれたことを、中野氏のことばで日本語にされているわけだから、
この「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」という表現を、
細部にとりあげて論じることは、逆にシャルランの意図を曲解してしまうことにもなると思う。

「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」

このことばが伝えたがっていることは、直感で受けとめるしかない、と思う。
そしてこのことばは、ききてにとっても、そのまま投げかけられることだとも思っている。

シャルランが、レコードを再生することをどう捉えていたのかは、はっきりとはわからない。
レコード演奏という観念は、シャルランにあったのかなかったのかは、わからない。
それは、まあどうでもいい。

オーディオを介して音楽を聴く行為を、レコード演奏として捉えている人にとっては、
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」は
重いことばとなってのしかかってくる。

レコード演奏という観念をもたずに、
オーディオにも関心をもたずにレコードから流れてくる音楽を鑑賞するという立場にとどまっている分には、
シャルランのことばは、関係がない、といえる。

けれど、より積極的に、能動的にレコードにおさめられている音楽を聴く行為を臨むのであれば、
シャルランの真意をはっきりと感じとる必要がある。

Date: 11月 16th, 2011
Cate: 組合せ

妄想組合せの楽しみ(番外・その12)

この組合せで、コントロールアンプの第一候補に考えていたのは、
ゴールドムンドのユニバーサル・プリアンプと呼ばれている、
いわゆるデジタル入出力を備えるコントロールアンプだった。

ただ、こういう商品の性格上、聴く機会がまったくなかった。
ステレオサウンドをはじめオーディオ雑誌でもあまり積極的に採り上げられなかったようで、
信頼できる人による試聴記を読んだ記憶がない。

いったいどんな音をするのか。
それにゴールドムンドのサイトには、新型の情報が公開されていた。
日本にもこれがもうすぐ入ってくるのか、
入ってきたらインターナショナルオーディオショウで聴けるかもしれない……と思っていたら、
今年、ショウ初日に耳にしたことは、
ステラヴォックスジャパンがゴールドムンドの取扱いをやめる、ということとその理由について、だった。

そういわれてみると、ステラヴォックスジャパンのブースに、
ゴールドムンドの製品はMETISシリーズだけが飾られていただけだった。

なので、この組合せは少し変更しなければならなくなった。

どこか他の輸入商社が取り扱うようになるかもしれないが、
そうなったとしても、ゴールドムンドのデジタル・コントロールアンプを聴く機会は、ほとんどないかもしれない。

ゴールドムンドの製品の中で、私がいちばん聴いてみたいと発表されたときから思っていたのが、
デジタル・コントロールアンプの2機種だった。
たしかに特殊な製品といえばそういうことになるだろうが、
果して、ほんとうに特殊な製品なのだろうか、とも思う。

いまデジタル信号処理による音場補整イコライザーの興味深い製品がいくつか登場してきている。
これらを積極的に活用するとなると、デジタル・コントロールアンプの存在はひじょうに魅力的にくる。
D/A変換は、パワーアンプの直前で行なえばいい。
ゴールドムンドのパワーアンプはD/Aコンバーターを内蔵していたり、
搭載できたりできる仕様なのは当然としても、
一般的な従来のパワーアンプでも、D/Aコンバーターをパワーアンプの間近に置けばいい。

いまは、こういう性格のアンプを組み込もうとしたら、まだまだ過渡期ということになって、
それがまだまだ過渡期のまま続いていくような気がしないでもない。

Date: 11月 16th, 2011
Cate: 挑発

挑発するディスク(余談・その2)

期待はしていた。
だから、すこしどきどきしながらCDをCDプレーヤーのトレイにセットして、
プレイ・ボタンを押したことを思い出している。。

それが1年半以上前のこと。
マタイ受難曲という音楽の性格からして、そう何度も何度もくり返す聴くことはないのだが、
それでもこのあいだに、数回通してくり返して聴いてきた。

シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によるマタイ受難曲は、
これはこれで挑発的なディスクとなっていた。

こちらの勝手な思いこみで、
シャイーに対する興味をまったくといっていいほど失ってしまっていたことを後悔している。
なぜ、こんな思いこみをしてしまったのか、いまでは思い出せないのだが、
それでも、ありがたいのは録音は、いまでも手に入れることができる。

シャイーのこれまでの軌跡をいまさらながらではなるが、追いかけてみたい、と思いつつも、
シャイーは、今年また、聴ける日が待ち遠しく感じられたディスクを出した。
やはりゲヴァントハウス管弦楽団を指揮してのもので、ベートーヴェンの交響曲全集である。

録音は2007年からはじまり2009年に終っているものが、今年全集として登場した。
5枚組の、このディスクは、いわゆる他の5枚組とはつくりが違う。
一冊の本のように仕上げられていて、その中に5枚のCDがおさめられている。

シャイーに関心を失っていたから気がつかなかったけれど、
シャイーにとってこの全集がはじめてのベートーヴェンの録音だという。

こういうのを満を持して、というのだろうか……。
そんなことを思ったりするようなディスク全体のつくりである。

昨年春、シャイーのマタイ受難曲を聴こうとしていたときよりも、
今回の方が期待は大きくなっていた。

Date: 11月 16th, 2011
Cate: iPod

ある写真とおもったこと(その3)

スティーブ・ジョブズがアクースタットのModel 3の前に
どんなスピーカーシステムを使っていたのかはまったくわからない。
ジョブズがいつごろからオーディオに興味をもっていたのかも知らない。

それでもジョブズが最初に使っていたスピーカーシステムは、
おそらくは一般的なエンクロージュアにおさめられたモノであっただろう。

アクースタットのModel 3は、
通常のエンクロージュア・タイプのスピーカーシステムを「箱のスピーカー」とすれば、
「板のスピーカー」ということになる。

「そう、板なんだ」とおもった。
次におもったのは、
この「板のスピーカー」がそれまでの「箱のスピーカー」とは違う音の世界を展いたように、
「板のコンピューター」が新しい世界を展いていくことを、ジョブズは予感していたのかもしれない……、
そんななんら根拠のない妄想に近いこと。

それでもジョブズがアクースタットのModel 3を使っていたことと、
その20年数後にiPadやiPhoneを生み出したことは、そこにまったく関連性がないとは思えない。

Date: 11月 15th, 2011
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その16)

ドラムスの収録を例にあげて、そこに分岐がある、と書いた。
けれど収録すべてが分岐というわけではないことも事実である。

ドラムスは「ひとつ」の楽器として見た場合にそこに分岐が生じるわけだが、
ほとんどの音楽の収録では複数の演奏者がいる。
つまりは「集中」させることも生じてくる。

2チャンネルにおいては、
必ずしも再生時の音像定位通りに収録時に演奏者がそのとおりに並んで演奏しているとは限らない。
そこでの音楽の種類や楽器編成の違いなどによってはマイクロフォンを中心に立て、
そのマイクロフォンを囲むように演奏者が位置し演奏が行われることもある。
だからといって、そうやって収録したものを再生したときに、
左右のスピーカーの中心を軸に演奏者が円をつくっているように聴こえるわけではない。

いわば、これはマイクロフォンに向って音を集めているわけだ。

ひとつひとつの音を鮮明に収録するために分岐する一方で、
音をそうやって意識して集めていくのも録音である。

オーケストラにしても小編成のものにしても、マイクロフォンをうまい位置をみつけそこに立てることで、
音を集め録音されたものを、われわれ聴き手は再生時に、それを展げていく。

録音系と再生系には、ネットワークとしてとらえたときに共通する要素がある一方で、
録音(集める)系と再生(展げる)系というところに、矛盾するようではあるが対称性を感じる。

Date: 11月 14th, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(その5)

S/N比が高い、ということは、それが物理的であれ聴感上であれ、
音楽のピアニッシモ、音楽の間における静寂感に秀でている、ということである。
音楽が消えてゆくとき、どこまでもどこまでも、
その消えてゆく音を耳で追いかけていけそうな気にさせてくれる。

このとき、消えてゆく音が、
心の奥底に、心のひだにしみこんでくるように音を聴かせてくれるオーディオ機器がある。
そうでないオーディオ機器もある。
どこまでこまかい音を聴かせながらも、それがこちらの心にまでしみこんでこない場合(機器)がある。

このふたつの違いは、もう物理的な、聴感上のS/N比とはすこし違うところに起因することだと思う。
これを、聴感上のS/N比よりも、さらに心理的なS/N比、とでもいおうか、
それとも心情的なS/N比とでもいおうか、とにかく、聴感上のS/N比という言葉が表すものよりも、
ずっとずっとパーソナルなところでのS/N比の良さ(ここまでくると高低ではないはずだ)、
そういった次元のものが存在しているように思えてくるし、そう思わせてくれるオーディオ機器がある。

そういうオーディオ機器は、昔からあった。
数は少ない。しかもそれは私がそう感じるオーディオ機器が、ほかの人もそう感じるのかはなんともいえないし、
そう感じてきたオーディオ機器が、必ずしも聴感上のS/N比において、
現在の優れたオーディオ機器よりも優れているわけではない。
にもかかわらず、現在の聴感上のS/N比の高いオーディオ機器よりも、
ずっと心理的・心情的なS/N比の良さをもつオーディオ機器が存在してきている。

すこし具体例をあげれば、スピーカーシステムでは、
イギリスのそれもBBCモニター系列のモノがすぐに頭に浮かぶ。
スペンドールのBCII、ロジャースのLS3/5A、PM510、KEFのModel 104などである。

このことがどういったことに関係しているのか、正直、いまのところはよくわからないところがまだまだある。
それでも、聴感上のS/N比ではなく、心理的・心情的、さらに情緒的とでもいったらいいのだろうか、
まだまだどういう表現をするのか決めかねているような段階ではあるけれど、
そういうS/N比の良さは、私にとってオーディオ機器を選択するうえで重要なことである。

Date: 11月 14th, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(その4)

聴感上のS/N比ということを最初に使われたのは、おそらく井上先生だろう、ということは以前書いた。
1980年代、井上先生は、この聴感上のS/N比をよく口にされ、試聴の時にも重視されていた。

10年ぐらい前からだろうか、
聴感上のS/N比は頻繁に目にするし、聞くことが多くなった。
一般的な評価の基準として認められ広まってきたためであろう。
もっとも井上先生が定義されていた聴感上のS/N比とは、ややずれたところで使われているんじゃないか、
と思いたくなることも少なからずあるけれど、
聴感上のS/N比をどう定義するのかは、人によってどうも微妙に異るところがあるようで、
必ずしも物理的なS/N比のように、高低がはっきりするわけでもない面もある。
つまり人によって、聴感上のS/N比が高いと感じる音が別の人には、
それほど高くない、低いということもありうるわけだ。
また2つのオーディオ機器を聴き比べて、Aという機器を聴感上のS/N比が高い、という人もいれば、
いやBの方が高い、ということも起っている。

聴感上のS/N比は数値で示すことのできるものではないし、
何を持って聴感上のS/N比が高いのかは、まだまだ共通認識といえるところまではいっていないようだ。
おそらくこれからさきも、聴感上のS/N比に関しては、人によって違ったままだろう。

それはともかくとして、聴感上のS/N比は向上してきている、といえる。
そうでないオーディオ機器もあるにはあるけれど、全体的な傾向としては向上してきているし、
聴感上のS/N比は高いにこしたことはない。

いま聴感上のS/N比を確保する手法がかなり確立されてきている、といえるし、
聴感上のS/N比を向上させてきているメーカーは、
聴感上のS/N比を、どういうところに着目して聴いて判断すればいいのかを掴んでいるのではないだろうか。
そうなってくると聴感上のS/N比という、いわば感覚量が物理的な量に近づきつつあるような気もしなくもない。
少なくとも、つくり手側のなかには、聴感上のS/N比を、
そんな感じでとりあつかっているところがあるような気もする。

実は、こんなこともADAMのColuman Mk3を聴いた後で思っていた。
そして、聴感上のS/N比よりも、もっと感覚的な、
さらにいえばもっと個人的なS/N比の高さ(というよりも良さ)を感じさせてくれたような気がしている。

Date: 11月 13th, 2011
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その15)

録音系はネットワークである、と私は捉えている。
そしてレコードやミュージックテープなどのパッケージメディアがつくられていく。
それが流通ネットワークにのり、そのパッケージメディアの聴き手であるわれわれのところに届く。

放送局ではパッケージメディアを音源として音楽を放送することが多いけれど、
放送局独自でコンサートを収録して放送することもある。
ライヴ放送だと、電波というネットワークを通じて、音楽の聴き手があるわれわれのところに届く。

これらの、収録された音楽を届けるネットワークもまた、ある種のフィルターともいえる。
アナログディスクにしてもCDにしても、
マスターテープに収録されているものすべてをそこに収録できるわけではない。
何かが抜け落ち、何かが附加される。
何かがなくなることは、そのパッケージメディアそのものがフィルターということになる。

マスターテープから直に一対一でダビングしたとしても、
それもマスターデッキと同じデッキを使って慎重に行ったとしても、
テープ間のダビングは、アナログであれば必ず劣化が生じる。
マスターテープと同じ形態、環境を揃えたとしても劣化は生じ、これもまたフィルターといえる。
FM放送もまた然りである。

ではデジタルで収録されたものをデジタルでコピーすれば、
そこに、ここでいっているフィルターは存在しなくなるのかといえば、そうでもない。
デジタル録音といってもサンプリング周波数、ビット数がパッケージメディアと違うことがある。
同じことも多い。
CDと同じ44.1kHz、16ビットで録音されたマスターであれば、それをそのままCDにコピーできるといえばできる。
データとしては同じものがCDにコピーされる。
でもマスターはテープという形態、CDはディスクという形態。
この形態の違いによる条件の違いが、結果としては音の違いを生むことになる。

そういう一種のフィルター的なパッケージメディアにおさめられている音楽を受け取るには、
アナログディスクにはアナログディスクプレーヤーが、
CDにはCDプレーヤーが、ミュージックテープであればカセットデッキ、オープンリールデッキ、
FM放送にはチューナー、というそれぞれ専用に設計製造されたハードウェアが必要となる。

これらの入力機器もけっして完全・完璧なモノは存在しないから、
ここでもそれぞれの機器がフィルターということになる。

これらの入力機器がつながれる先が、再生系においてはコントロールアンプということになる。
録音系の現場におけるミキサーと同じように、
再生系ではコントロールアンプが、そのネットワークの要的存在といえよう。

Date: 11月 12th, 2011
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その14)

ドラムスという複数形の名称が示しているように、ドラムスは数種類の打楽器の集合体であり、
これをひとつの楽器としてみた場合、その収録にもっともマイクロフォンの数が多く使われる楽器でもある。

楽器としての規模はグランドピアノのほうがドラムスよりも大きくても、
ピアノの録音に使われるマイクロフォンの数は、それがオンマイクで収録される場合でも、
ドラムスの収録に使われる数には及ばないだろう。

そしてドラムスの録音ではオンマイクでの収録も多い。
マイクロフォンの数が多いのだから、
逆にオフマイクで収録してはマイクロフォンの数を増やした意味も薄れるので、
マイクロフォンの数が増えるということは必然的にオンマイクになっていく傾向はある。

マイクロフォンの数が多く、距離も近い(オンマイクである)ということは、
マイクロフォンをフィルターとしてとらえれば、その遮断特性がより急峻なものとして使い方といえる。

たとえばシンバルを鮮明に録りたいから、シンバル用にマイクロフォンを選択し、設置する。
そのマイクロフォンにはできるだけシンバルの音だけをいれたい。
他の楽器の音は極力いれたくないわけだから、
これはマイクロフォンをシンバル用のフィルターをかけたような使い方ともいえる。

これは分岐とフィルターであり、
この分岐とフィルターの設定をうまくやらなければドラムスの音をうまく録ることはできないはず。

ドラムスという楽器のために複数のマイクロフォンが立てられる。
つまりそのマイクロフォンの数だけ分岐点とフィルターが存在している、ということでもある。
これをどう録音するのか。
マルチマイクロフォン・マルチトラック録音であるならば、
マイクロフォン1本に対し、テープレコーダーの1トラックを割り当てることができる。
いきなり2チャンネルのステレオ録音にするのであれば、ミキサーを通すことになる。
もちろんマルチマイクロフォン・マルチトラック録音でも、
最終的に2チャンネルにするためにミキサーを通す。

ドラムスの収録に10本のマイクロフォンに仮に使用したとすれば、
ミキサーを通すことで2チャンネルに統合されることになる。

ひとつの楽器を録音するのに、複数の分岐点とフィルターを設定して、
分岐点の数だけのラインがあり、それをミキサーによって2チャンネルに統合する。
これを図に描けば、ネットワークそのものである。

つまり、録音の現場にも、分岐点(dividing)と統合点(combining)、それにフィルターがある、というわけだ。

Date: 11月 11th, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(続々続々・余談)

現在市販されている、
そしてこれまでに市販されてきたスピーカーのほぼすべてはピストニックモーションによっている、といえる。
それはホーン型であろうとコーン型、ドーム型であろうと、さらにリボン型、コンデンサー型であっても、
ピストニックモーションによって音を出している。
つまり振動板が前後にできるだけ正確に、余分な動きをせずに振動することである。
その実現のためにコンデンサー型やリボン型は振動板全体に駆動力がかかるようにしているし、
振動板全体に駆動力がかからないコーン型やドーム型では、
振動板の素材に、できるだけ軽く硬く、内部音速が速いものを採用している。

けれどスピーカーの動作としてピストニックモーションだけがすべてではなく、
何度か書いているようにドイツではかなり以前からベンディングウェーヴによるスピーカーがつくられてきている。
私はAMT型はピストニックモーションでないことは明らかだし、
その意味でベンディングウェーヴの一種だと認識している。

AMT型ではリボン・フィルムをひだ(プリーツ)状にしている。
この振動板が前後に振動して音を出しているのであれば、AMT型もリボン型の変形・一種といえることになるが、
ADAM社のサイトにある説明図をみても、
それにスピーカーの技術書に載っているハイル・ドライバーの説明図をみてもわかるように、
プリーツ状の振動板が前後に動いて音を出しているわけではない。
ピストニックモーションはしていない。

ここで理解しにくいところなのかもしれない。
私もハイル・ドライバーの説明図を最初みたとき(10代なかばのころ)、
世の中にはピストニックモーションしかないと思っていたため、
すぐにはなぜ音が出るのかすぐには理解できなかった。
ピストニックモーションのほかにベンディングウェーヴがあるということがわかっていれば、
すぐに理解はできたのかもしれないが、
でもおそらく、そのころはベンディングウェーヴを理解することが難しかっただろうかから、
結局は同じことで、すぐには理解できなかったかもしれない。

私がハイル・ドライバーの動作を理解できたのは、入浴中のときだった。
なにげなく左右の手を組んで水鉄砲をやっていて気がついた。
ハイル・ドライバー、つまりAMT型はプリーツ状の振動板をアコーディオンのように伸縮させることで、
プリーツの間にある空気を押し出す。
それは両手の間にある水を押し出すのと同じことである。
これに対してピストニックモーションは手のひらを広げて前に押し出すようなもの。

これは正確な例えではないけれど、AMT型の動作を理解するに好適な例だと思う。
風呂場やプールで手による水鉄砲をやってみれば、
ADAMがAMt型のユニットにX-ART、Accelaratingとつけた理由が理解できるはずだ。

ADAM社のサイトの説明図には矢印がいくつかある。
そのなかの細い矢印は、フレミング左手の法則の、磁界の方向(赤の矢印)、電流の方向(紫の矢印)、
力の働く方向(緑の矢印)をあらわしている。
ピストニックモーションのスピーカーでは力の働く方向がそのまま音の出ていく方向であるのに対して、
X-ART型はそうなっていない。音の出ていく方向と直交している。

ピストニックモーションとベンディングウェーヴについては、まだまだ書きたいことがあるけれど、
別項で書いていくことになると思うので、ここではこのくらいにしておく。
すこし長くなってしまったが、ADAMのX-ARTはあくまでもAMT型ユニットであり、
リボン型、もしくはその変形、一種ではないことはご理解いただけたのではないだろうか。

Date: 11月 11th, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(続々続・余談)

テクニクスの10TH1000は、リボン型とは、だから厳密には呼べない。
とはいうものの、リボン型の定義をどうするかによっては、リボン型の変形とも考えられる。
リボン型ユニットが存在し、そこに非常に低いインピーダンスになってしまうという実用上の欠点があったからこそ、
その欠点を解消しようとしてリーフ型トゥイーターは生れてきた、といえなくもない。

けれどADAMのX-ARTドライバー、エラックのJETドライバー、ハイル・ドライバーは、
リボン型の変形とは呼べない。
これらはすべて、いまではAir Motion Transformer型と呼ばれる。略してAMT型である。
ここが、リボン型やリーフ型とは決定的に異る点である。

こう書くと、ADAMのX-ARTは”eXtended Accelerating Ribbon Technology”の略だから、
リボン型ではないのか、という反論される方もおられるかもしれない。
X-ARTのRはたしかにリボンのRであるが、このことが動作方式を表しているわけではない。
そのことに注意してほしい。

ADAM社のサイトには、X-ARTについてふれたページがある。
ここに表示されているFig. 4と本文を読んでいけば、リボン型でないことはすぐに理解できる。

X-ARTのRibbonは、リボン型を表しているわけではなく、振動板(膜)がリボンであることを表していて、
このユニットの方式は、Ribbonの前にあるAcceleratingが表しているし、
本文には、Dr. Oskar HeilとAir Motion Transformerと書かれている。

リボン型ユニットとAMT型ユニットの決定的な違いは、ピストニックモーションであるかどうか、である。
AMT型をピストニックモーションのスピーカーユニットと捉えることが間違いであり、
そう捉えてしまうからこそ、リボン型の一種、もしくは変形だと誤解してしまうことになる。

Date: 11月 11th, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(続々・余談)

テクニクスの10TH1000、ADAMのX-ARTドライバー、エラックのJETドライバーは、
なぜトランスを必要としないのか。
これらのユニットを、パイオニアのPT-R7と同じリボン型として捉えていては答は見つからない。

10TH1000は振動板(というよりも膜)にポリイミドフィルムを使い、
その表面にエッチング技術によりボイスコイルを形成している。
このことはX-ART型もJET型、ハイル・ドライバーも基本的には同じである。
振動板(膜)にはフィルム系の素材(もちろん非導体)を使い、
その表面にエッチング技術やアルミ箔を貼りつけてボイスコイルをつくっている。

便宜上、ボイスコイルという表現を使ったが、
一般的なスピーカーユニットのボイスコイルにあたるもの、という意味で使ったものであり、
フィルム振動板の上にコイルがつくられているのではなく、電気信号の通り道である。

リボン型では電気の通る道は、上から下(もしくは下から上)となる。
アルミ振動板の中をジグザグに流すことはできない。
アルミ振動板にスリットをいれていけば不可能ではないけれど、
アポジーのリボン型のウーファー以外、実用例を知らない。

一方、リーフ型やハイル・ドライバーでは非導体の振動板上に電気信号の通り道をつくるため、
自由度は比較にならないほど大きい。
その全長もコントロールできる。
つまりインピーダンスが4Ωなり8Ωにでき、インピーダンスマッチング用のトランスを省ける。

10TH1000の振動板に対し電気信号は、リボン型のように上から下(下から上)といった垂直方向だけでなく、
水平方向にも流れている。
X-ART型、JET型(ハイル・ドライバー)も、その点は同じである。
だからインピーダンスマッチング用のトランスは要らない。

Date: 11月 11th, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(続・余談)

リボン型のスピーカーユニットといえば、日本ではパイオニアのトゥイーターPT-R7が、
その代名詞のような存在だった。
PT-R7以前に、イギリスのデッカ(ケリー)からもリボン型トゥイーターは出ていたけれど、
1970年代の日本でリボン型トゥイーターといえば、多くの人の頭にまず浮ぶのはPT-R7だったはず。
私もそうだった。

そのPT-R7より数年おくれて、テクニクスから10TH1000というトゥイーターが登場した。
ステレオサウンドやその他のオーディオの雑誌に紹介された写真をみたとき、
テクニクスが出したリボン型トゥイーターだと思った。
だが、テクニクスは、10TH1000をリボン型とは呼ばず、リーフ型と呼んでいた。

PT-R7の、いわばライバル的存在のトゥイーターだけに、
その対抗心からリボン型と、あえて言わないのか、とそのころの私はへんな勘繰りをしていた。
でもカタログやテクニクスが発表している技術的な内容をきちんと読めば、
テクニクスがなぜリボン型と呼ばずに、リーフ型と名づけたのかが判る。

10TH1000の振動板の前面にヒレに似た形のイコライザーと思えるものがついている。
だがこれは音響的なイコライザーではなく、磁気回路の一部であり、
リボン型と違い、このイコライザーと思えるものを取去ってしまったら10TH1000は動作しなくなる。

PT-R7はリボン型トゥイーターで、振動板は厚さ9ミクロンのアルミ箔であり、
このアルミ振動板に直接音声信号を通している。
つまりリボン型であるためには振動板が導体であることが必要だ。

PT-R7の振動板の長さは約5cmほど。そのためPT-R7のインピーダンスは0.026Ωと極端に低い。
このアルミ振動板をそのままアンプの出力端子に接続すれば、ほぼショートしているのに等しい。
そのためインピーダンスマッチング用にPT-R7はトランスを使い、
通常のスピーカーユニットと同じ8Ωに仕上げている。
デッカのDK30、London Ribbon、ピラミッドのT1もトランスを搭載している。

テクニクスの10TH1000にはトランスは、ない。
ADAMのX-ARTドライバー、エラックのJETドライバーにも、トランスはない。

Date: 11月 10th, 2011
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオ」考(その1)

ワイドレンジ考、現代スピーカー考、ハイ・フィデリティ再考、チューナー・デザイン考、など、
タイトルに「考」をつけたテーマでこれまでいくつか書きつづけてきている。

今日、あることがきっかけで、スピーカーやワイドレンジなどについて考えて書いてきているのに、
「オーディオ」そのものについて書いてきていないことに気がついた。

今夏からfacebookに「オーディオ彷徨」というページをつくった。
タイトルとURL末尾のjazz.audioからもわかるように、岩崎先生についてのfacebookページで、
定期的に、ではないが、不定期ながらわりとまめに更新してきている。

今日、いくつかの写真を公開した。
そのなかに1968年ごろの写真がある。
車(falcon)が写っている。そのトランクに左手をついているサングラスをかけた岩崎先生の写真だ。

この写真について、Twitterで
「オーディオがカッコよくて、オーディオ評論家もカッコよかった時代だなあ。」
というコメントがあった。

うん、うん、とうなずいていた。

また、1971年当時のJAZZ-O-DIOの店内写真を公開した。
これには、別のひとが、「めちゃ良い感じの写真!」というコメントをよせてくれた。

そう、オーディオとは、カッコいいもの、カッコいいことだったはず。
それがいつしか、なぜか、カッコわるいものの代名詞のように語られることが、いまではある。
なぜそうなったのだろうか。

……そんなことを思っていたら、「オーディオ」考について書いていかなきゃ、と思えてきた。

この項で、どんなことを書いていくのか自分でも見当がつかない。
それでも少しずつ書いていこう、と決めたところである。

Date: 11月 9th, 2011
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その20)

瀬川先生のオーディオ評論家としての活動の柱となっているものは4つある。
これは本のタイトルでいったほうがわかりやすい。

「コンポーネントステレオのすすめ」(ステレオサウンド)
「虚構世界の狩人」(共同通信社)
「オーディオABC」(共同通信社)
「オーディオの系譜」(酣燈社)

それぞれのタイトルが本の内容をそのまま表わしている。

「コンポーネントステレオのすすめ」は、
オーディオがプレーヤー、アンプ、スピーカーをそれぞれ自由に選んで組み合わせることが当り前のことになって、
その世界の広さ、深さ、面白さを伝えてくれる。

「虚構世界の狩人」には説明は要らないだろう。

「オーディオABC」はタイトルからいえばオーディオの入門書ということになるが、
瀬川先生の平易な言葉で書かれた文章は、決して表面的な入門書にはとどまらず、
確か岡先生が書評に書かれていたように「オーディオXYZ」的な内容でもある。
オーディオを構成しているものについて学んでいくには最適の本のひとつである。

「オーディオの系譜」は、オーディオの歴史を実際の製品にそって語られている。

もちろんこの4つ以外に、オーディオ雑誌での製品評価、新製品紹介もあるのだが、
これはオーディオ評論家として誰もがやっている柱であるから、あえて加えなかった。

と書くと、組合せに関しても、他のオーディオ評論家もやっているのでは? といわれそうだが、
組合せに関して、瀬川先生ほど積極的に取り組まれていた人はいなかった、と私は感じている。
それに瀬川先生の組合せは、興味深いものが多かった。
それは単に読み物として興味深いだけでなく、
実際に自分で自分にとっての組合せを考えていく上でのヒントにつながっていくものがちりばめられていた。

瀬川先生の組合せのセンスは、他の方々とはあきらかに違う。

だから、この項では、もう少し瀬川先生のつくられた組合せ例をみていくことにする。