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Date: 4月 7th, 2012
Cate: 6041, ALTEC, ワイドレンジ

ワイドレンジ考(その75)

4ウェイのスピーカーシステムにおいて、ウーファーとミッドバスの口径比が成功のカギになっている、
と実例から確信しているものの、なぜ黄金比に近い口径比がうまくいくのか、
その技術的な理由付けについては、いまのところ書いていけない。
ただ、そうだとしか、いまのところはいえない。

この観点からすると、アルテックの6041のウーファーは小さいということになってしまう。
ミッドバスとミッドハイを15インチ口径の604-8Hで受け持たせているわけだから、
ここにサブウーファーとして同口径のウーファーをもってきたとして、うまくいく可能性は低かろう。

もちろん604-8Hの低域をネットワークでカットすることなく、
追加したウーファーの高域のみカットして低域に関しては、
604-8Hのウーファー部とサブウーファーの416SWを並列にして鳴らす、という手段でなければ、
うまくいきそうにないと思えてくる。

そうなると15インチ口径のウーファーを2本おさめた形になるわけだから、
6041のエンクロージュア・サイズでは小さい、ということになってしまう。
6041のサイズで中核となるユニットに604-8Hを使うかぎりは、結局のところうまくいきっこない。

タンノイには同軸型ユニットに以前から現在まで3サイズある。
10インチ、12インチ、15インチがあるところが、同じ同軸型ユニットのアルテックと少し異る点である。
アルテックにも以前は12インチ口径の同軸型ユニットが存在していた。
けれど6041が登場するころには15インチの604のみになっていた。

12インチの601シリーズは、604の原型である601と型番は同じだが、
604の原型である601は604と同じ15インチだが、1950年代なかばに登場した601A以降は、
601シリーズは12インチ口径となっている。

601シリーズは、601A、601B、601C、601D、601-8D、601-8Eと変遷をとげ終ってしまっているが、
この後も続いて、601-8Gとか601-8Hといったモデルがもしも存在していたら、
6041はユニット構成は604ではなく601になっていた可能性もあっただろう。
そうだったら6041という型番ではなく、6011となっていた(?)。

Date: 4月 7th, 2012
Cate: audio wednesday, 岩崎千明

第16回 audio sharing 例会のお知らせ

次回のaudio sharing例会は、5月2日(水曜日)です。

テーマは、3月の例会に予定していた「岩崎千明氏について語る」です。
いまfacebookで、岩崎先生のページ「オーディオ彷徨」を公開しています。
そちらに3月の例会の告知をしたところ、
岩崎先生の娘さんの岩崎綾さんからのコメントがあって、
5月の例会に来てくださることになりました。息子さんも来られる予定です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 4月 6th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続×五・使いこなしについて話してきたこと)

マンガだから、荒唐無稽な話ではない。
「シャカリキ!」で8歳の野々村輝が一番坂への挑戦は、結局は失敗に終る。
坂の中ほどでいちど足をついているくらい体力を消耗しているだから、
坂を下っているあいだに多少は体力は回復したとしても、8歳の少年。
ふたたび登りはじめたけれど、やはり途中で精根尽き果てて倒れてしまう。

一度目の足をついてしまったことと、二度目の倒れてしまったことの意味あいは同じではない。
一度目は限界への挑戦(それも失敗)であって、二度目は限界を超えてしまった、といえる。

オーディオはスポーツではない。
体力の限界を越えてやるようなものではない、のだが、
それでも、オーディオの「限界」とは、なんだろうか、と考えてしまう。

ひとつにはオーディオ機器の限界がある。
とはいえ、この限界は一般的に思われているよりもずっと高いものだという認識を私は持っている。
そして、使う人の限界がある。

人の限界はつねに同じというわけではない。
その人次第で、その限界は変動・変化していく。
今日の限界は、必ずしも明日の限界というわけではない。

けれど、人の限界には、そういう限界とは違う、もうひとつの「限界」があるような気がしてならない。
オーディオにおいても、それがある、と思っている。
その「限界」を超えて、その「限界」をより高くしていくには、
オーディオにおいても、野々村輝と同じやり方をやっていくしかない、と信じていたい。

Date: 4月 5th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々続々・使いこなしについて話してきたこと)

人によって考えは違う。だから手が止ってしまったとしても、
それが動き出すまで待てばいい。少なくとも、手が止ってしまうというのは、
音があるところまでいっているからでもあり、それならば好きな音楽を楽しむだけ楽しめばいい。
もちろん、これを、以前は私は言っていたことがある。

それでもオーディオをはじめてまだ10年ほどのときに、手が止ってしまうことがあったら、
いまの私は、「もう一度、一からやってみたらどうか」と言う。

システムを解体して再び組むという作業は、ものすごいエネルギーを必要とする。
こんなことは若いときにやっておかなければ、歳をとってからでは、ますます億劫になってしまう。
若いときに一度やっておけば、さらに10年後、20年後にもう一度、これをやれるかもしれないが、
若いときにやったことがなければ、引越しでもないのにシステムを解体しての再構築は、しんどい。

「シャカリキ!」の主人公、野々村輝は8歳のときに一番坂に挑戦して、
この項の最初に書いたように足をついてしまったところから再スタートするのではなく、
坂を下ってまた一から挑戦していく。
「シャカリキ!」の主人公の、この行動は、話が進み高校生になったときの行動でもある。

やっと登ってきた坂をまた引き返して最初から登りなおす、なんていうことは、
マンガというつくり話の中のことであって、それと現実のオーディオにあてはめるなんて……、
と思われる方は、こんなめんどうなことはやらない方がいい。

足をついたところで一旦休憩して体力が回復してまた登りはじめた方がいい、
その方が目的地(頂上)にははやく到着するのだから、と言うだろう。

でもそれで、ほんとうに頂上に辿り着けるのだろうか。
オーディオの目的地は、あるのではなくつくられるものてあるのだから、
その目的地に辿り着くには、強くなければならない、と思う。

オーディオはひとりでやっていくものであるから、強くありたい、と思う。
そうありたいから、足をついたら最初からやり直す。

Date: 4月 5th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々続・使いこなしについて話してきたこと)

実際に、このことを試してみるとわかるのだが、
意外に、とでもいおうか、それとも、やっぱり、とでもいうべきなのか、
システムを解体する前の状態と同じにセッティングしなおしたと思って音を出してみると、
あくまでも感覚量にしかすぎないのだが、解体前の音の50%再現できれば、いい方だと思っている。

50%にも満たない音がすることだって、少なくないと思う。

これをやるときに、解体前の状態を写真に撮ったりメモをとったりせずに、
やろう! と決意したら、即システムをすべて解体して、一旦リスニングルームの外にオーディオ機器を出す、
それもこれはできれば、ほかの人にやってもらった方がいい。
オーディオ機器の扱いで信頼のできる人にまかせてやってもらう。
そうすれば解体するときに、セッティングを記憶することができなくなるからである。

ある期間をかけてこつこつ築いてきた──、とはいっても、そのすべてを意外にも、
それを行ってきた本人が把握し切れていないからであり、注意を向けていないところに関しては、
どうなっていたのかさえ思い出せないこともあるはず。

それに記憶していることでも同じにやったつもりでも、同じようにしかなっていないことも、少なからずある。
アクセサリーを多用している場合だと、そうなりがちだろう。

結局、自分でやってきたことにもかかわらず、思い出せないことは実のところ、
そのことは自分の手法として身についているとはいえないのではないか。

そういうやり方でも、チューニングをやっていってれば音は変化する。
変化する以上は、どちらかを選択して、その時点でいい音と思えた方を当然選択する。
これをずっと続けていれるのであれば、それはそれでいいのかもしれないが、
これに関しても、微妙ではありながらも、大事な問題が絡んできていて、
Aの音とBの音を比較して、よい方を選ぶ、というやり方では目的地を見失うこともある。
これについては、項を改めて書いていくが、
ある期間をオーディオを続けていると、ふと手が止ってしまうことがあっても不思議ではない。

くりかえすが、私が一度システムを解体して、もう一度最初からやってみることを、
ここで書いているのは、そういうときにそういう状況から抜け出るため、
そして抜け出た後に身につくことが最も多いやり方であるためだ。

Date: 4月 4th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々・使いこなしについて話してきたこと)

そういうときオーディオマニアは、
もしかすると自分の音はかなりいいところまでいっているんじゃないか、と思うこともある。
自分の音に対して懐疑的な人であっても、そんな気持になるときはあるはず。
そうでなければ、オーディオはながく続けてはこれない、とも思うからだ。

この1年間、オーディオとひたすら取り組んできた。
最初は、ほんとうにひどい鳴り方しかしなかった音が、音楽が楽しめる鳴り方になってきた。
と同時に、これから先、どういうふうに取り組んでいけばいいのかが、
自分の中から湧いてこない状態にもなってしまったかのようでもある……、
「だから、一度音を聴きに来てほしい」という連絡があり、4月1日に行ってきた。

話を聞いて、音を聴かせてもらい、また話をしていた。
午後1時にその方をお宅を訪れて、9時半ごろまでいた。
本人だけでなく、奥さんもいっしょに私の話をきいてくれていた。
いくつか具体的なチューニングについて話してきたものの、
これだけの時間話してきても、まだまだ話したりないことのほうが多い。
それでも、ひとつだけくり返し言ってきたのは、
一度、いまのセッティング、これまでチューニングしてきたことをすべて崩して、
リスニングルームからすべてのオーディオ機器(ラックや置き台を含めて)すべてを一旦出して、
つまり部屋を空っぽにした状態で、もう一度、最初からセッティング、チューニングしてみることをすすめてきた。

これをやるのは、ほんとうに大変なことである。
ながい時間をかけて築いてきた音を、すべて解体してしまう。
そして「もう一度、一からやってみたらどうか」と私は言ってきた。

Date: 4月 4th, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(続・使いこなしについて話してきたこと)

オーディオマニアだったら、何度も目にしたり耳にしたりしていることだが、
オーディオは高価な機種を買い揃えるだけで、
いい音、もくしは求める(理想とする音)が簡単に手に入るものではない。
(いい音と理想とする音は、人によっては必ずしもまったく同じとはいえないところもあるが、
このことに関しては、今回はあえてふれない。)

購入したオーディオ機器は、リスニングルームとなる自分の部屋に、まず設置する。
そして音を出していく。
最初から、偶然がうまく重なってうまいとこ鳴ってくれることもある。
充分な配慮のもとにセッティングしていけば、オーディオ機器が素性の優れたものであれば、
そうひどい音はしないこともある。
それでも、そこで満足できるものではなく、たとえ最初からかなり満足のいく音が鳴ってきたとしても、
どこかをチューニングしていきたくなる。
まして、部屋の状態によっては、望んでいた音、求めていた音とはずいぶん違う音が鳴ってくることだってある。
となると、チューニングをこつこつとやっていくことになる。

最初からいい音で鳴ったとしてもそうでなかったとしても、チューニングをしていく。
中には、そんな細かいことをせずに、いきなりスピーカーシステムやアンプを買い換える人もいるだろう。
でも、オーディオマニアと呼ばれる人は、チューニングを施していく。

思いつく限り、あれこれ試していく。
自分で思いつかなくなったら、オーディオ雑誌やインターネットを参考にして、
チューニングの手法を手に入れ、それらを試していく。
オーディオの仲間がいれば、彼らの知恵を借りること(そして、貸すこと)もある。

そうやってやっていけば、ごく短期間での上下変動はあるものの、
音は少しずつ(ときにはぐんと)良くなっていくものである。
だから、オーディオは続けられていくし、続いていく。

それでも、ふと、いまの自分の音について確認作業を行ないたくなるときが訪れることもある。
チューニングをひたすらやってきて満足のいく音が出始めてきたとき、
そういうときは不思議と、チューニングの次のステップが思いつかないときでもあろう。

Date: 4月 3rd, 2012
Cate: 表現する

音を表現するということ(使いこなしについて話してきたこと)

もう20年も経っているのか……、と今日書こうと思っていたことについて、
その年代をふりかえってみたらちょうど20年だった。

1992年に「シャカリキ!」というマンガの連載が始まった。
自転車のマンガである。いまでこそ東京の街中をロードレースで走っていく人は多い。
いまは自転車関係の雑誌も数も増えているし、
書店に置かれる冊数もはっきりと増えている。それに自転車店も増えた。

でも20年前、自転車はいまとは違い、ブームとは呼べる状況ではなかった。
そんななかで連載が始まった「シャカリキ!」を、夢中になって読んでいた。

主人公は野々村輝という少年。
彼が関西のある町に引越してきたところから始まる。
その町は坂が多いため、ほとんど自転車に乗る人がいない。
そこで自転車好きの主人公を待ちうけていたのは、二番坂と一番坂。

どちらも長い坂道で、一番坂は二番坂よりも2倍ほど長く高い坂という設定。
主人公の野々村輝は二番坂を登り切る。
同級生(小学生)は誰も自転車で登り切ることのできなかった二番坂を、である。

そして一番坂に挑戦する。
坂の中ほど、つまり二番坂と同じくらいのところで力尽き、ペダルから足が離れ、地に足をついてしまう。
このあとに主人公がとった行動は、まったく予測できないものだった。
野々村輝は何も言わずに坂を下ってしまう。
そして、もう一度スタート地点にもどり、一番坂を登りはじめる。

足をついたことぐらいなんでもない、そこで休んだわけでもないし、
そのまままた坂の頂上を目指して登り続けたとしても、誰もなにも言わない。
にもかかわらず、野々村輝は坂のはじまりまで戻っていく。

坂をのぼるのはしんどいけれど、時間をかけて登ってきた坂を下ってしまうのはあっという間である。
その短い時間で体力が回復することはない。
常識的に考えれば、足をついたところからまた登り続けた方が、一番坂を登り切る可能性はまだ高い。
それでもまた最初から挑む。

こんなオーディオと関係のないことを書くのは、2日前(4月1日)に、音を聴きに出かけていたからだ。

Date: 4月 2nd, 2012
Cate: audio wednesday

第15回 audio sharing 例会のお知らせ

今月のaudio sharing例会は、4日(水曜日)です。

テーマを何にしようかと考えていましたが、
今日帰宅してパッと目に飛び込んできたのが、サンスイ(山水電気)倒産のニュースでした。
私自身は、熱心なサンスイ製品のユーザーというわけではなかったものの、
高校生の時、サンスイのAU-D907 Limitedをかなり無理して購入して使っていましたし、
サンスイに勤めておられたNさんとは、いまでもときどきお会いして話をきくことがあり、
それになんといってもJBLの4343の輸入元はサンスイだったわけですから、
今週水曜日のaudio sharing例会のテーマは「サンスイについて語る」にするつもりでいます。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 4月 2nd, 2012
Cate: 言葉

引用する行為について

昨夜のブログで引用した岩崎先生の文章。
この文章だけでなく、ほかにもいくつか、これまで引用してきた文章には、
一回だけでなく岩崎先生の文章のようにくり返して引用している。

同じ文章の引用だから、コピー&ペーストすれば楽だし、
もっと楽な方法としてはドラッグしてくるだけでもできる。
でも、昨夜もそうだけど、毎回キーボードのキーを叩いて入力している。

昨夜も引用した岩崎先生の文章は、2行ほどだから入力にそれほど時間を必要とするわけでもないというものの、
それでもドラッグしてくるだけのほうが圧倒的に速いし、手間もかからない。
にもかかわらず毎回毎回入力していくのは、
書き写すという行為が、どこかしら心地よいところがあるから、
引用のたびに毎回入力していっている。

そして、人は大事なことから忘れていく。
私だって、そうだ。オーディオの大事なこと、音楽の大事なことを忘れないためにも、
つまりは自分のために引用しているというところがあるからこそ、キーを叩いていく。

Date: 4月 1st, 2012
Cate: ワイドレンジ
1 msg

ワイドレンジ考(ジャズにとって、クラシックにとって・その7)

すこし話は前にもどるが、この項を書いていて思い出したことがひとつある。
1988年(だったと記憶している)、
サントリーホールでアルゲリッチとクレーメルのコンサートに行ったときのことだ。
バルトークがプログラムにあった。

サントリーホールには、アルゲリッチ、クレーメルのコンサートの前にも何度も行っていた。
そのあとにも何度も行っているけれど、
アルゲリッチとクレーメルでコンサートでの味わった経験(驚き)は、このときだけである。

アルゲリッチとクレーメルだから、サントリーホールのステージ上にあるのは、ピアノとヴァイオリンだけである。
なのにそれまでオーケストラを何度も聴いてきたけれど、ホール全体が一瞬揺れたと感じたことはなかった。
オーケストラがトゥッティでどれほど大きな音をだそうとも、
サントリーホールという丈夫な建物が揺れるということは起こり得ない。
ホール内の空気が動くということはあってもホールが揺れるということを感じたことはなかった。

だからアルゲリッチひとりが弾くピアノの音によって、
ホールが揺れた(それは物理的に本当に揺れたのではないのであろうが、なぜかそう断言できない)。
その瞬間、思わず視線はステージからはなれてまわりを見廻してしまうほど、現実感のある揺れだった。

このバルトークでのアルゲリッチの放った一瞬のフォルテッシモが、
いま思い返すと、岩崎先生の、これまでに何度も引用している文章につながっていく。
だから、しつこく、また引用しておく。
     *
アドリブを重視するジャズにおいては、一瞬一瞬の情報量という点で、ジャズほど情報量の多いものはない。一瞬の波形そのものが音楽性を意味し、その一瞬をくまなく再現することこそが、ジャズの再生の決め手となってくる。
     *
サントリーホールが揺れたときアルゲリッチが演奏していたのはバルトークであり、
バルトークは、クラシックに分類される音楽であり、ジャズに分類される音楽ではない。
それでも、アルゲリッチの、あの一瞬のエネルギーの凄まじさは、
引用した文章で、岩崎先生が言われていることそのものであったのかもしれない、と20年以上経ったいま、
そうつよく感じている。

Date: 3月 31st, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(その10)

この項の(その3)に、
レコードの値段を「音楽の値段」とイコールにできない、と書いた。

稀少盤と呼ばれているディスクには、関心のない人にとっては驚くような値段がついてるものがある。
稀少盤といっても、その値段の幅はじつに大きい。
新品で出た時にはほとんど同一価格であったレコードが、10年、20年経っていくと、
中古盤となったときの値段には大きな開きが生じてくる。

このことは、中古盤の値段イコール「音楽の値段」ということになる、といえるのだろうか。

同じ音楽をおさめたレコードでも、
オリジナル盤と呼ばれるものは高い値段がつき、再発盤にはそれほどの値段はつかなかったりするし、
国内盤となると、もっと値がつきにくかったりするわけだが、
あくまでもこれらのレコードに収められている音楽は──そこにクォリティの差はあるとはいえ──同じものである。

ということは、中古盤となったときのレコードの値段は、「音楽の値段」といえるのだろうか。
結局のところ、レコードの値段はどこまでいっても「音楽の器の値段」でしかない、と思う。

Date: 3月 30th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(その19)

プリメインアンプ、コントロールアンプ側にテープ再生のイコライザーがあった時代には、
このテープデッキ(再生ヘッド)には、このコントロールアンプ(もしくはプリメインアンプ)を組み合わせる、
ということが行われていたと思う。

アナログディスク再生のカートリッジとフォノイコライザーアンプとの相性のように、
再生ヘッドとテープ再生用アンプとの相性があって、
そのことがオーディオ雑誌の記事にもなり、マニアのあいだでの話題にもなったであろう。

けれどテープ再生用アンプは、コントロールアンプ(プリメインアンプ)側から、
テープデッキ側に統合されていった。

いまでは想像しにくいことだが、
ずっと昔は秋葉原のパーツ店でヘッドが売られていた、ときいたことがある。
モトローラのヘッドが評判が良かったそうだ。

もし再生用アンプがずっとコントロールアンプ(プリメインアンプ)側にあったままだとしたら、
そしてテープ用のヘッド単体がパーツ店やオーディオ店で、カートリッジのように売られていたとしたら、
テープ関連のアクセサリーの数も、すこしは増えたのかもしれない。
でも、そうはならなかったのは、テープデッキは解体(細分化)の方向ではなく、統合へと向ったからである。

アナログプレーヤーとテープデッキは、こういうふうに違う道に分かれてしまった。
これはテープデッキが再生だけの器械ではなく、録音・再生機器という性質が大きく関係してのことだが、
同時にテープデッキの世界では、
他のオーディオ機器よりもプロフェッショナル用のモノが比率として多く存在する。
このことも、テープデッキが解体(細分化)に向わなかった大きな理由ではないだろうか。

たとえばアナログプレーヤーでも、プロフェッショナル機器としてEMTが日本では有名な存在である。
EMTのアナログプレーヤーは、930stも927Dstも928も、
ダイレクトドライヴ式になってからの950や948など、すべてイコライザーアンプを搭載しており、
ラインレベル出力となっていることは、改めて言うまでもないだろう。

Date: 3月 29th, 2012
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(その28)

「五味オーディオ教室」の冒頭の文章は、
ステレオサウンド 16号に掲載された文章とほぼ同じである。

ステレオサウンド 16号にはオーディオ巡礼が載っている。
オーディオ巡礼は15号から始まった企画で、
15号には野口晴哉氏、岡鹿之介氏が登場されている。このオーディオ巡礼には「ふるさとの音」となっている。

16号は「オーディオ評論家の音」であり、山中先生、菅野先生、瀬川先生の音を聴かれている。
「五味オーディオ教室」の冒頭の文章は、
菅野先生の音を聴かれて書かれたものである。

その文章については、別項「ハイ・フィデリティ再考」の(その3)でも一部引用している。
そして、「ハイ・フィデリティ再考」の(その3)でも書いているように、
この文章に関しては、きっちり全文を読んだとしても、解釈がむずかしい面をもっている。
だから、ふたたび(今度はさらに長くなるが)引用しておく。
     *
あなたは「音」を聴きたいのか、「音楽」を聴きたいのか
「オーディオすなわち〝音〟であり、〝音〟をよくすることによって、よりよい〝音楽〟がえられる」——この一見自明である理が、はたしてほんとうに自明のことであるのかどうか、まずその疑問から話を始めたい。
 以前、評論家の菅野沖彦氏を訪れ、その装置を聴いたときのことである。そこで鳴っているのはモニターの鋭敏な聴覚がたえず検討しつづける音であって、音楽ではない。音楽の情緒をむしろ拒否した、楽器の明確な響き、バランス、調和といったものだけを微視的に聴き分ける、そういう態度に適合する音であった。むろん、各楽器が明確な音色で、バランスよく、ハーモニーを醸すなら当然、そこに音楽的情緒とよぶべきものはうまれるはず、と人は言うだろう。
 だが理屈はそうでも、聴いている私の耳には、各楽器はそのエッセンスだけを鳴らして、音楽を響かせようとはしていない、そんなふうにきこえる。たとえて言えば、ステージがないのである。演奏会へ行ったとき、われわれはステージに並ぶ各楽器の響かせる音を聴くので、その音は当然、会場のムードの中できこえてくる。いい演奏者ほど、音そのもののほかに独特のムードを聴かせる。それが演奏である。
 ところがモニターは、楽器が鳴れば当然演奏者のキャラクターはその音ににじんでいるという、まことに理論的に正しい立場で音を捉えるばかりだ。——結果、演奏者の肉体、フィーリングともいうべきものは消え、楽器そのものが勝手に音を出すような面妖な印象をぼくらに与えかねない。つまりメロディはきこえてくるのにステージがない。
 電気で音をとらえ、ふたたび電気を音にして鳴らすなら、厳密には肉体の介在する余地はない。ステージが消えて当然である。しかしそういう電気エネルギーを、スピーカーの紙の振動で音にして聴き馴れたわれわれは、音に肉体の復活を錯覚できる。少なくともステージ上の演奏者を虚像としてではなく、実像として想像できる。これがレコードで音楽を聴くという行為だろう。かんたんにいうなら、そして会場の雰囲気を音そのものと同時に再現しやすい装置ほど、それは、いい再生装置ということになる。
 レコード音楽を家庭で聴くとき、音の歪ない再生を追及するあまり、しばしば無機的な音しかきこえないのは、この肉体のフィーリングを忘れるからなので、少なくとも私は、そういうステージを持たぬ音をいいとは思わない。そしておもしろいことに、肉体が消えてゆくほど装置そのものはハイ・ファイ的に、つまりいい装置のように思えてくる。

音を聴き分けられないシロウトでも、音楽の違いはわかる
 この危険な倒錯を、どこでくい止めるかで、音楽愛好家と音キチの区別はつくと私は思ってきた。オーディオの世界に足を踏み入れたものなら一度は持ってみたいと思うスピーカー、ジム・ランシング(JBL)のトーン・クォリティを、以前から、私がしりぞけてきたのはこの理由からである。ジムランが肉体を聴かせてくれたためしはない。むろん、人それぞれに好みがあり、なまじ肉体の臭みのない、純粋な音だけを聴きたいと望む人がいて不思議はない。そしてそういう、純粋に音だけと取組まねばならぬ職業の一人が録音家だ。この意味で菅野さんがジムランを聴くのは当然で、むしろ賢明だと思う。
 しかしあくまでわれわれシロウトは、無機的な音ではなく、音楽を聴くことを望むし、挫折感の慰藉であれ、愛の喪失もしくはその謳歌であれ、憎悪であれ、神への志向であれ、とにかく、人生にかかわるところで音楽を聴く人に、無機的ジムランを私は推称しない。むろんこれは私個人の見解である。
     *
ステレオサウンド 16号に掲載されている文章も、これとほとんど同じである。僅かな違いはあるけれど、
その違いについてふれる必要はない。

実は、菅野先生に、このことについていちど訊いたことがある。

Date: 3月 29th, 2012
Cate: 4343, JBL

4343とB310(その20)

ステレオサウンド 124号の座談会の中から井上先生の発言を抜き書きしてみる。
     *
そもそもスピーカーというものは物理特性が非常に悪いものなんです。ところが上手に鳴らすと巧いこと鳴ってしまう。その意味で、僕は20cmクラスのフルレンジが一番面白いのではないかと思っています。
僕がスピーカーの開発に携わってから30年。レコードを聴きはじめてからは、もう60年。最初好きだったのはローラとかジェンセンの25cmのユニット。英国のフェランティというスピーカーもありましたね。そういったものが家に転がっていたものだから、子供の頃からそれで遊んでいた。もともとシングルコーン派なんですね。
(中略)
要するに、僕はホーンやマルチウェイをイヤというほどやってきたんですね。しかしマルチウェイのクロスオーバーを突き詰めて考えると色々な問題が生じてくる。減衰が18dB/オクターヴでも、24dBでも、12dBでもおかしい。これらの場合は、3ウェイでも2ウェイでも、現実にはユニット同士の位相がすべてバラバラなんです。振幅特性よりも位相特性を考えると、クロスオーバーの減衰は6dBしかないというのが僕の意見。もちろんこれは何を重視するかによって変りますよ。
それでフルレンジをベースとして、ある程度はレンジを広げたい、ということでいま使っているのがボザークのB310。これのネットワークの減衰特性は6dBです。低域は30cmウーファーか4発。中高域は、16cmスコーカーが2発と、二個一組のトゥイーターが4発で、すべてコーン型ユニットで構成され、中域以上はメタルコーンにゴムでダンピングをした振動板を使っている。僕の持論ですが、低音楽器の再生を考えると、本来ならウーファーは30cmなら4発、38cmなら2発必要なんです。そんな理由からボザークを選んで使って30年近くが経ちました。
     *
ステレオサウンド 124号の座談会は出席者が9人と多かったせいもあってか、
それとおそらくは座談会のまとめの段階で誌面のページ数の制約によって、
実際はもっともっといろいろと語られているであろうことが削られているようにも思える。
それは編集上仕方のないことであって、文句を言うことでもない。
だから、井上先生が、フルレンジの良さについて具体的に語られているのは、
124号ではなく、ステレオサウンド別冊の「いまだからフルレンジ 1939-1997」を参照する。

この別冊は、1997年当時の現行フルレンジユニット15機種、
往年の名器と呼ばれるフルレンジユニット12機種の紹介と、
巻頭に「フルレンジの魅力」という井上先生が文章がある。

「いまだからフルレンジ 1939-1997」は井上先生監修の別冊である。