Author Archive

Date: 1月 5th, 2015
Cate: audio wednesday

第48回audio sharing例会のお知らせ(同軸型の未来)

今月のaudio sharing例会は、7日(水曜日)です。

昨夜(正確には今日未明)、あるキーワードで検索していたら、
Great Plains Audioから604E SeriesIIなるユニットが出ていることを知った。

Great Plains Audoは、アルテックの製造ラインを引き継いだ会社として知られている。
いまもアルテック時代のスピーカーユニットの製造を行っている。
604シリーズも、フェライト仕様の604-8H-IIIがあるのは知っていた。

これまでにいくつもの604という型番のついたユニットが登場している。
数でいえば、604E、604-8Gがもっとも多く市場に出回っているのではないだろうか。
604-8Gまでがマルチセルラホーンで、604-8Hからマンタレーホーンへと変更された。
この604-8Hがアルニコマグネット仕様の最終モデルだった。

その次の604-8KSはフェライトマグネット仕様であり、
こういうユニットを購入してスピーカーを組む者は、フェライトよりも心情的にアルニコを選ぶ。

私も604に関して、興味があったのは604-8Hまでだった。

それでもアルテックのユニットに精通している人によれば、アルテック時代の最後の604がもっとも音がいい、ということでもある。
つまりフェライトマグネットである。

音はいいのかもしれない。
ただユニット単体として眺めた時に、
フェライトの604は、アルニコの604のプロポーションを見馴れた目には寸足らずに感じられて魅力を感じない。

601の原型となる601は、1941年開発。
そういう時代を感じさせてくれるという意味で、604はアルニコマグネットであってほしい。

604E SeriesIIは、フレームの形状でいえば、604-8G SeriesIIといえる。
写真の印象では、悪くない。
聴いてみたい、とおもわせるものがある。
しかも価格も納得のいくものである。

604E SeriesIIの写真を見ていたら、同軸型ユニットについて、あれこれ思っていた。
それについてひとつひとつ書いていくと長くなるのでばっさり割愛するが、
同軸型ユニットは、他のユニットにはない何かがある。
同軸型ゆえの構造的欠点もある。

そんなこともふくめて、同軸型ユニットのこれからをテーマにしたい。

時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 1月 4th, 2015
Cate: 快感か幸福か

オーディオレコード的という意味でのオーディオ機器(その1)

昔は、はっきりとオーディオマニア向けを謳ったLPがいくつかのレコード会社から出ていた。
一部の例をのぞき、LP、CDをふくめてレコードにおさめられているのは音楽である。
音楽を伝える・届けるためのメディアとしてレコードはあり、
だからこそ音楽が主体のメディアといえた。

けれどオーディオレコードと呼ばれるものは、音楽よりもはっきりと音が主体であった。
だからこそオーディオレコードは、蔑みの意味も込められて使われることが多かった。

とはいえオーディオマニアであれば、音の快感を知っている。
音の快感をまったく知らなくてオーディオマニアとはいえない、ともいえる。

その音の快感のためだけに存在するレコード、
それがオーディオレコードといえた。

ここでのタイトルである「オーディオレコード的という意味でのオーディオ機器」とは、
そういうことである。

オーディオ機器はレコード(録音物)を再生するためのモノである。
音楽を聴くための機器である。
けれど、ここにも音の快感が無視できない存在として、オーディオマニアならば意識する。

そういうオーディオマニアとしての部分をしびれさせる音を特徴とするオーディオ機器がある。
そういうオーディオ機器を、オーディオレコード的と捉えている。

Date: 1月 4th, 2015
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーのアクセサリーのこと(その9)

インターネット・オークションが盛んになり、
個人売買が日常となってくることで、見えてくるものもある。

オーディオ店が買取り、中古として売る場合には、多少の整備がなされる。
少なくとも店側として高く売りたいから外観はキレイにする。
前使用者の手垢を感じさせるものは取り除く。

けれど個人売買だと、必ずしもそうではない。
はっきりと前使用者の手垢を感じさせるものがついてくることがある。

それがカートリッジの場合であれば、
ヘッドシェルに、針圧をメモしたテープが貼ってあったり、
さらにはカートリッジ交換時の調整をはぶくために、
ヘッドシェル込みの重量をすべて一定にするためにウェイトで調整したり、
高さ調整を省くためにヘッドシェルとカートリッジの間にスペーサーを挿んだり、という例もあるときく。

スタティックバランス型のトーンアームであれば、
ヘッドシェル込みの重量を調整すれば、針圧調整すら不要になる。
重量調整の、最初の手間さえ面倒と思わなければ、いいアイディアといえるかもしれない。

私にこういう発想はなかった。
私は気に入ったカートリッジを見つけたら、そのカートリッジを最適に調整するようにしていたし、
カートリッジをあれこれ交換することはやっていなかった。

ときにはまったく傾向の違うカートリッジで聴きたいという欲求はあったけれど、
それほど強いものではなく、結局交換することはほとんどなかった。

そんな使い手もいれば、LPのジャケットにカートリッジの型番をメモしている人もいる。
このLPにはこのカートリッジ、というふうに交換していく人である。

Date: 1月 4th, 2015
Cate: デザイン

シャーシーからボディへ

chassis(シャーシー、シャシー)、
辞書には、自動車・電車などの車台、ラジオ・テレビなどのセットを取り付ける台と書いてある。
車台とは、車輪の上の,車体を支えている部分、とある。

オーディオでシャーシーといったら、アンプの場合、金属ケース全体のことを指す。
私もそう言ってきた。
けれど厳密には、アンプの場合、シャーシーと呼べるのは、
真空管アンプで、トランスや真空管がとりつけられている土台となる金属ケースのこととなる。

トランジスターアンプのような金属ケースは、厳密な意味でのシャーシーとは呼びにくい。
だからシャーシーと呼ぶのをやめよう、といいたいのではない。

車の場合、シャーシー(車台)があって、金属ボディがある。
アンプの場合、これまで四角い金属ケースばかりだったから、シャーシーと呼ぶことに抵抗はあまりなかった。

けれど、いまアンプの金属ケースは四角いモノばかりではなくなってきている。
金属加工の技術がすすみ、カーヴを描くモノが増えてきている。
高級(高額)なアンプ、CDプレーヤー、D/Aコンバーターでは、
むしろ直線よりも曲線の方が主流になりつつある。

すべてが成功しているとはいわないが、ひとついえるのは、
もうこれらをシャーシーと呼ぶよりも、ボディと呼んだ方がいいのかもしれない、ということだ。

シャーシーからボディへ、
この流れがよりはっきりとしていき、結実していくのか、楽しみである。

Date: 1月 4th, 2015
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その11)

カラヤンは、古楽器について、ひからびた、しなびたといった表現をしている。
これはカラヤンが古楽器を全否定しているから、こういった表現になっているのであり、
古楽器には古楽器ならではの音のよさがあり、古楽器によるすべての演奏がそんな響きだとは思っていない。

それにそんな響きであっても、
人によっては、ストイックな響き、と受けとめる。
一方の、古楽器ではない響きを、堕落した響きと受けとめる人もいても不思議ではない。

古楽器の響きをストイックと受けとめる人は、
古楽器の響きが好きということであり、
オワゾリールやアルヒーフ、このふたつのレーベルの音が好んでいたききても、そうであるといえる。

けれど好きな音と嫌いな音も、また呼応していることを忘れてならない。
オワゾリール、アルヒーフの音を好んでいたききてには、苦手な音・嫌いな音があった。

苦手な音・嫌いな音は、誰にだってある。
私にも、それはある。

どんな音かというと、磁石を砂鉄の中にいれると磁石に砂鉄がけば立つようについていく。
こういう感じの音が、どうしても苦手である。
一部では、こういう音をエッジがはっきりしている音と評価しているようだが、決していい音ではない。

ただ、こういう音は悪い音であるわけだから、苦手・嫌い、というよりも、
こういう音を出してはいけないともいえる。
とすると、いまの私は、はっきりと苦手な音・嫌いな音は、他に思い浮ばないから、ないのかもしれない。

嫌いな音は好きな音と呼応しているのだから、
好きな音がはっきりとしている(そのため狭くなりがちでもある)からこそ、
嫌いな音も、またはっきりと存在している──、のではないだろうか。

オワゾリール、アルヒーフの音を好むききてをみていて感じていたのは、このことである。
彼は好きな音を追い求めていたのだろうか、
それとも嫌いな音を徹底的に排除していたのだろうか。

Date: 1月 4th, 2015
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その17)

オーディオがブームだったころ、店頭効果ということがよくいわれていた。
客がスピーカーの試聴にオーディオ店にくる。

当時はブックシェルフ型であれば各社のスピーカーが所狭しと積み上げられていることが多かった。
そして客は、店員にいくつかのスピーカーを聴きたいとリクエストする。
店員は切替えスイッチで、客が希望するスピーカーを次々と鳴らす。

このときスピーカーの音圧が揃うように調整する店員もいたであろうが、
そうでない店員もいた。
そうなると切り替えた時に、前に鳴っていたスピーカーよりもわずかでも音圧が高ければ、
実際のリスニングルームとはかけ離れた試聴条件では、よく聴こえてしまうことがある。

音圧が同じでも地味な音のスピーカーよりも、派手な音のスピーカーのほうが目立つ。
とにかく他社製のスピーカーよりも、自社製のスピーカーを客に強く印象づけるための音づくり、
これを店頭効果と呼んでいた。

いまはそんなものはなくなっていると思うが、
デザインに関しては、どうだろうか、と思っている。

例としてあげたブックシェルフ型スピーカーは、さほど高級(高額)なモノではなかった。
大きさもユニット構成も外観も似ているモノが大半だった。
だからこそ音での店頭効果で目立とうとしていた、といえる。

ここで書こうとしているデザインについては、
そういった普及価格帯のモノではなく、高級(高額)のモノについてであり、
デザインの関係性・関連性と排他性について考えていきたい。

Date: 1月 4th, 2015
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(その3)

2015年は未年(ひつじ年)である。

以前、美という漢字は、羊+大である。
形のよい大きな羊を表している、と書いた。

そういわれても、なかなか実感はわきにくい。
まず、なぜ羊なのか、と思う。

大きな羊は、人間が食べるものとしてではなく、
神に捧げられる生贄を意味している──。

神饌としての無欠の状態を「美」としている、ときけば、
美という字が羊+大であることへの疑問は消えていく。

となれば、美ということに対しての認識も変ってくる。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: 書く

毎日書くということ(思い出す感触・その3)

原稿用紙に手書きする。
それを見ながら、キーボードで入力する。
二度手間といえることを何度かやってみた。

面倒くさいと感じていた。
手書きがすでに面倒なことに感じた。

何かを書く、ということは、今の私には親指シフトキーボードを打つことになってしまっている。
試しにローマ字入力をしてみる。
手書よりも面倒だと感じる。

数えたわけではないが、すでに手書きで書いた量よりも、親指シフトキーボードで書いた量の方が多い。
間違いなく多い。

ステレオサウンドの原稿用紙にステッドラーの芯ホルダーで書いていた時期はそう長くはない。
まとまった量の文章で、この組合せで最後に書いたのは、
ステレオサウンド 72号の「幻のEMT管球式イコライザーアンプを現代につくる」での読者からの手紙である。

栗栖さんという930stユーザーからの手紙から、この企画は始まったことになっている。
この栗栖さんという読者の手紙は私が書いた。

肩に力がはいりすぎたような原稿を書いた。
自分でもそう感じていたから、ダメ出しをもらった。
それで書き直した。

それでOKをもらい、自分の手書きの原稿を、
導入されたばかりの富士通のOASYSで入力していった。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: コペルニクス的

オーディオにおける天動説(その3)

グッドマンのAXIOM80は、このユニットならではの独特の構造をもつ。
一般的なエッジとダンパーは、この9.5インチという、他にあまり例のない口径のフルレンジユニットにはない。
そのため軽量コーンでありながら、f0は20Hzと驚異的といっていいほど低い。

となれば、HIGH-TECHNIC SERIES 4にある佐伯多門氏の解説通りであれば、
AXIOM80の低域特性は20Hzあたりから12dB/oct.で減衰していくはずである。
だが実際のAXIOM80の特性は、というと、200Hzあたりから減衰していく。
それも-12dB/oct.ではなく、-6dB/oct.のカーヴを描いている。

HIGH-TECHNIC SERIES 4には、残念ながら、そのことについての記述がなかった。
ラウザーのPM6も200Hzあたりから減衰していく。
JBLのD130もそうだ。

D130のf0は40Hzと発表されている。
しかし200Hzから下の帯域が6db/oct.で減衰していく。

AXIOM80、PM6、D130に共通しているのは、軽量コーンと強力な磁気回路を組み合わせたユニットであること。
それゆえに能率が100dB/W/m前後となっている。

HIGH-TECHNIC SERIES 4を読んだ時は、ここまでしかわからなかった。
その後わかってきたことは、
AXIOM80、PM6,D130の200Hz以下の帯域は、速度比例による動作である、ということ。
そして6dB/oct.で減衰している、というよりも、6dB/oct.で音圧が上昇しているということである。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: バランス

音のバランス(その2)

いまはトーンコントロールがないアンプがあたりまえになってきたため、
トーンコントロールの使いこなし的な記述もみかけなくなっている。

私がオーディオをはじめたころは、トーン・ディフィートスイッチがつきはじめたころではあったが、
トーンコントロールはたいていのアンプについていた。
そしてオーディオの入門書、入門記事にはトーンコントロールをうまく使うためとして、
まず大胆にツマミをまわしてみること、と書いてあった。

つまり低音調整用のツマミを右に左に、まずいっぱいまで廻す。
右(時計方向)にいっぱいまでまわせば、低音が増強され、
左(反時計方向)にいっぱいにすれば低音は減衰する。
どちらもあきらかにバランスがくずれた音であり、両極端に振った音である。

同じことを高音でもやってみる。
次にツマミを廻す角度を少しずつ減らしていく。
さらにもっと減らしていく。
これをくり返して、最適のバランスと感じられるところをさぐりあてる。

なれていない人ほど、最初はわずかしかツマミを動かさないことが多かった。
ちまちま動かしていたのではわからないことがある。
大胆に両極端に振ることで、中点がはっきりとしてくる。

これはなにも帯域バランスだけではない。
たとえば硬い音、柔らかい音に関してもそうだ。
熱い音・冷たい音、乾いた音・湿った音……。
最初からバランスのいい音を求めるよりも、
ある時期ある時期で、どちらにも極端に振ってみた音を出してみたほうがいい。

バランスをくずすまいと、ちまちま左右に揺れていては、
はっりきしたことは、なにも見つからない。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーのアクセサリーのこと(その8)

私は、針圧とインサイドフォースキャセラー量を、バイアスと捉えている。
針圧は垂直方向、インサイドフォースキャセラーは水平方向のバイアスであることは、以前書いた。

このバイアスは同じカートリッジで最適値を、ある条件のもとでさがし出したら、
常にその値でいい、というものではない。
温度によっても最適バイアス値は変化する。
レコードによっても違ってくるし、
毎日レコードをかけているカートリッジと半年ぶりに使う時と、一年ぶり、
さらにはもっとひさしぶりに使う時とでは、同じバイアス値が最適とはならない。

2.6gの針圧が最適だったとしても、次にかけるときには、
もろもろの条件の変化により、2.65gだったり2.55gだったりすることだってある。
2.6gが1.6gになるような、大きな変化はないけれど、わずかの違いは生じてくる。

私はそう考えているから、針圧計の精度にやたらこだわる人の考えは正直理解できない。
そのとき鳴らすカートリッジの最適バイアス値は、前回の値はあくまでも参考値でしかすぎない。
あとは耳で聴いて、ほんのわずか針圧印加用のウェイトをずらしていくだけであるからだ。

前回の針圧を、0.01gで測ってメモしていたところで、役に立たない。
カートリッジの針圧とインサイドフォースキャセラー量は、固定しておくものではない。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その4)

スヴャトスラフ・リヒテルがいっている。

リヒテルの演奏に「個性的ですね」といわれたときに、
「個性的でも独創的でもなんでもない。作品をよく研究して、その作品の指示通り弾いているだけだ」と。

自己表現などということは、彼の頭のなかにはまったくなかったはず。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その10)

なにもカラヤンをきく人は、古楽器による演奏をきいてはいけない──、
などといいたいわけではない。

ある人は、レーベルでいえばオワゾリールやアルヒーフの音を好んでいた。
このふたつのレーベルのLPやCDを買っては鳴らしていた(きいていた)。
彼自身の音の好みも、このふたつのレーベルに共通したところのあるものだった。
彼が、だからふたつのレーベルを好むのは自然なことだったのかもしれないし、
そういう音に自分のシステムの音を仕上げるのも、また彼にとっては自然な行為だったのであろう。

だが彼は、そういうシステム・音できいて、カラヤンは素晴らしい、という。
彼の音の好みは変ることはなかった。
彼の音も大きく舵を切ることはなかった。

そういう音で彼はきいて、カラヤンのブルックナーは素晴らしい、とまた言う。
カラヤンのブルックナーでの響きと、彼が好む響きは、いわば相容れないようにしか、私には感じられない。

そういえば、おそらく彼は「音楽をきいている」というだろう。
けれどくり返すが、音楽と音は呼応している。
豊かさを拒絶した響き(それを響きといっていいものだろうか……)で、カラヤンのブルックナーをきく。

ジャズでいえば、ルディ・ヴァン・ゲルターの録音したブルーノートのアルバムを、
ECM的な音できいて、素晴らしい、といっているようなところがある。

ここにちぐはぐさがある。
「風見鶏の示す道を」のなかに、こう書いてある。
     *
残念ながら、その点でちぐはぐな例も、なくはない。最新鋭の装置をつかいながら、今となってはあきらかに古いレコードを、これがぼくの好きなレコードです──といってきいている人がいる。それはそれでかまわないが、その人はおそらく、どこかで正直さがたりないのだろう。
     *
私にも同じことがあった。
好きなレコード(演奏)と好きな音に、どこかちぐはぐなところがあった。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: LNP2, Mark Levinson

Mark Levinson LNP-2(serial No.1001・その4)

ステレオサウンド 42号の音楽欄に、平田良子氏による「時間に挑戦する男 デビッド・ボウイー」が載っている。

David Bowie、いまではカタカナ表記ではデヴィッド・ボウイだけれど、
42号が出た1977年は、デビッド・ボウイーだった。

私がデヴィッド・ボウイのことを知ったのは、この42号の記事だった。
4ページの記事、四枚のモノクロの写真。

世の中には、こういう人がいるんだ、と思いながら記事を読んだ。
記事には、こうある。
     *
ボウイーという人間は、中性的という以上の存在である。彼のなかには、性別や年齢を超越したもうひとりのかれがいて、ボウイーが生み出す方法論をつぎからつぎへとあざやかに実践してみせるのだ。
     *
42号の記事を読んだ時は、音楽記事としてだけ読み、デヴィッド・ボウイのことを知っただけで終った。
この記事を読んだからといって、デヴィッド・ボウイのレコードを買うことはしなかったし、
デヴィッド・ボウイ主演の映画「地球に落ちてきた男」も観ることはなかった。
(最寄りの映画館では上映していなかったように記憶している。)

だからデヴィッド・ボウイの音楽を聴いたのは、もう少し先のことだったし、
聴いたからといって、特にオーディオと結びつくことはなかった。

それからずいぶん経ち、デヴィッド・ボウイのある写真を目にして、4343のことが頭に浮んだ。
その写真は、やはりモノクロで1970年代後半のころのもののようで、いわゆるスナップ写真だった。
日本での写真だった。
背景には電車が写っている。

デヴィッド・ボウイと日本の当時の日常風景との組合せ。
その写真をみて、4343はデヴィッド・ボウイのようなスピーカー(スター)なのかもしれない──、
そんなことがふいに頭に浮んだのだった。

私にとって、4343の存在を知ったのも、デヴィッド・ボウイのことを知ったのも、
ほぼ同時期(三ヵ月違うだけ)であるからこそなのかもしれない。

Date: 1月 2nd, 2015
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その9)

ききたいレコードはわかっていても、目的地がわからなかった旅人には、車掌という存在が必要だったといえる。

聴きたいレコードはわかっている、目的地もわかっている、
だから車掌という存在は必要ない、という人もいる。

彼は旅人といえるのだろうか。

ききたいレコードと目的地は本来は呼応している。
いいかえれば、ききたい音楽と、その音楽をきくための音とは呼応している。

だから黒田先生は書かれている。
     *
 あなたはどういうサウンドが好きですか──という質問は、あなたはどういう音楽が好きですか──という質問と、実は、そんなにかわらない。ここでいう音楽とは、あらためていうまでもないが、演奏を含めての音楽である。青い音が好きで、同時に紅い音楽が好きだということは、本来、ありえない。音と音楽とは、もともと、呼応していてしかるべきだろう。そのことは、なにごとによらずいえるのだろうが、音に対しての好みと音楽に対しての好きがちぐはぐだとしら、それは多分、その人の音に対しての感じ方と音楽のきき方のあいまいさを示すにちがいない。
 それは、多分、演奏家の楽器のえらび方と、似ている。すぐれた演奏家なら誰だって、彼がきかせる演奏にかなった楽器をえらぶ。なるほどこういう演奏をするのだから、こういう楽器をつかうんだなと、思える。それと同じようなことが、ききてと、そのききてがつかう装置についても、いえるにちがいない。
     *
カラヤンがいた。
カラヤンは指揮者だから、直接楽器を選ぶことはない。
彼にとっての楽器は、彼が指揮するオーケストラといえる。

カラヤンは古楽器に対して、全否定といえた。
正確な引用ではないが、
古楽器特有の響きを、ひからびた響き、そういった表現をしていたと記憶している。

カラヤンの演奏をきいてきた者であれば、カラヤンが古楽器を選ぶとは思わない。
けれど、青い音が好きで、紅い音楽が好きだという、
本来ありえないこと(ききて)がいた。