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Date: 2月 27th, 2017
Cate: 新製品

新製品(TANNOY Legacy Series・その1)

私がオーディオの世界に入った1976年は、
タンノイからArden、Berkeley、Cheviot、Devon、Eatonが登場した。
いわゆるABCシリーズ、アルファベットシリーズと呼ばれるスピーカー五機種である。

すべてイギリスの地名からとられている。
Arden、Berkeleyが15インチのHPD385A、
Cheviot、Devonが12インチのHPD315A、
Eatonが10インチのHPD295Aを搭載していた。

当時の価格はArdenが220,000円、Berkeleyが180,000円、Cheviotが140,000円、
Devonが120,000円、Eatonが80,000円(いずれも一本の価格)。

タンノイのスピーカーとしては求めやすくなっていたこともあり、
けっこう数が売れたときいている。
売れたからこそ、中古市場にもモノがあるわけだ。

この時代のタンノイはハーマンインターナショナル傘下だった。
口の悪い人は、タンノイの暗黒時代ともいう。
けれど、ハーマンインターナショナル傘下に入っていなければ、
1974年に工場の火災という危機を迎えていたのだから、どうなっていたのかはわからない。

瀬川先生は、このシリーズはよく出来ている、といわれていた。
ステレオサウンド 41号では、次のように書かれている。
     *
 新シリーズはニックネームの頭文字をAからEまで揃えたことに現れるように、明確なひとつの個性で統一されて、旧作のような出来不出来が少ない。そのことは結局、このシリーズを企画しプロデュースした人間の耳と腕の確かさを思わせる。媚のないすっきりした、しかし手応えのある味わいは、本ものの辛口の酒の口あたりに似ている。
     *
私が聴いたのはArdenとEatonだけである。
あとの三機種も揃えて聴いてみたかった、と思うけれど、その機会はなかった。
瀬川先生は、このシリーズのネーミングもうまい、といわれていた。

アーデン、バークレイ、チェビオット、デボン、イートン、
それぞれの語感から受ける印象と音の印象は近い、そうだ。

確かにアーデンは、悠揚たる味わいがあった。

このABCシリーズを、タンノイがもう一度やる。
五機種ではなく、Arden、Cheviot、Eatonの三機種で、Legacy Seriesと名づけられている。

すでにタンノイはハーマンインターナショナル傘下から離れているけれど、
その時代を代表するスピーカーを、Legacyと呼ぶのか、と感慨深いものがないわけではない。

Date: 2月 26th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その19)

ある人が思い切ってスピーカーを買い換えた。
かなり大型で高価なスピーカーシステムである。

買ってすぐに、彼は海外赴任が決った。
彼は、新品のそのスピーカーシステムを、友人に預けた。

ふたりともオーディオマニアで、
スピーカーを買った彼は、友人のオーディオへの取り組みに一目置いていた。
その友人のことを信頼していた。

だから新品のスピーカーの「鳴らし込み」を友人にまかせることにした。
その友人は私の知人であり、
この話を知人からも、スピーカーを買った本人からも何度か聞いている。

ふたりは友情の証しとして、ふたりの信頼関係のひとつの例として話してくれるわけだ。
それでも、私はこの話を、どこか気持悪さを感じながら聞いていた。

他の人はどうかは知らない。
いい話だな、と思いながら聞くのだろうか。

私は、この話を聞く数年前に、(その17)で引用した瀬川先生の文章を読んでいる。
もう一度、このことに関係するところを引用しておく。
     *
 スピーカーの「鳴らしこみ」というのが強調されている。このことについても、改めてくわしく書かなくては意が尽くせないが、簡単にいえば、前述のように毎日ふつうに自分の好きなレコードをふつうに鳴らして、二年も経てば、結果として「鳴らし込まれて」いるものなので、わざわざ「鳴らし込み」しようというのは、スピーカーをダメにするようなものだ。
 下世話な例え話のほうが理解しやすいかもしれない。
 ある男、今どき珍しい正真正銘の処女(おぼこ)をめとった。さる人ねたんでいわく、
「おぼこもよいが、ほんとうの女の味が出るまでには、ずいぶんと男に馴染まさねば」
 男、これを聞き早速、わが妻を吉原(トルコ)に住み込ませ、女の味とやらの出るのをひとりじっと待っていた……とサ。
 教訓、封を切ったスピーカーは、最初から自分の流儀で無理なく自然に鳴らすべし。同様の理由から、スピーカーばかりは中古品(セコハン)買うべからず。
     *
スピーカーを買った本人であっても、
わざわざ「鳴らし込み」をしようというのは、スピーカーをダメにするようなものだ、
と書かれている。

それなのに、いくら仲がよくて信頼できる友人であっても、
「鳴らし込み」をまかせてしまうというのは、下世話な例え話では、そういうことになる。

彼は海外赴任から戻ってきた。
友人による「鳴らし込み」に満足していた、と聞いている。
その友人も、自分の「鳴らし込み」に満足していた。

私には、どうしても気持悪いこととして感じられる行為に、
当人たちはうっとりしていた。

Date: 2月 26th, 2017
Cate: Jazz Spirit

喫茶茶会記のこと(その4)

喫茶茶会記は、2007年5月26日にオープンしている。
あと三ヵ月で開店十年を迎える。

喫茶茶会記のある場所は、以前、音の隠れ家というオーディオ店があった。
店主の福地さんが、そのスペースを引き継ぐ形での喫茶茶会記の開店であった。

最初の頃は、喫茶スペースだけだった。
毎月第一水曜日にaudio wednesdayを行っているイベントスペースは、まだだった。

福地さんと私のつきあいは、喫茶茶会記の開店よりも少し長い。
2003年春から、audio sharingのメーリングリストを開始した。
福地さんはすぐに参加してくれた一人である。

福地さんからジャズ喫茶を開店するという話を聞いた時は、
開店までも大変だろうけど、続けていくのはもっと大変だろうな、と思っていた。

喫茶茶会記は、四ツ谷駅ではなく四谷三丁目駅の近くである。
しかも大通りから路地に入り、さらにもう一本奥まったところにあるから、
一見の人はあまり入ってこないロケーションともいえる。

それゆえの苦労はあっただろうし、いまもあるのだろうが、
それゆえの良さが、喫茶茶会記の雰囲気を生み出しているともいえる。

喫茶茶会記の雰囲気を気に入る人もいればそうでない人もいよう。
万人向けの雰囲気とは違う。

そんな喫茶茶会記が十年続いている。
たいしたものだ、と思う。

十周年イベントを行う予定だときいている。
audio wednesdayも少しは役に立てれば、と思っている。

Date: 2月 25th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(技術用語の乱れ・その3)

その2)で反知性と書いた。
書きながら、KK適塾での川崎先生が話されたことを思い出していた。

反・半・範(はん)について語られた。
ならば反知性、半知性、範知性となる。

本来、オーディオ雑誌の編集長は範知性であるべき。
なのに半知性であったりすれば、
その雑誌は範知性であることは絶対にない。

せいぜいが半知性、うっかりすれば反知性へと転ぶ。

反・半・範の他にも、「はん」の漢字はいくつもある。
販、汎、判、煩、犯などがある。
他にもまだまだある。

それらの漢字を知性の前につけていく。
販知性、汎知性……。

販知性。なるほど雑誌は知性で商売をすることといえよう。
「はん」の漢字を知性につけていくことで、気づくことがあった。

Date: 2月 25th, 2017
Cate: 新製品

新製品(新性能のCDトランスポート・その2)

友人のAさんはPSオーディオのD/Aコンバーターを、非常に高く評価している。
音を聴いているわけではないので、私自身の評価はできないが、
少なくとも優秀なD/Aコンバーターなのだろう、と思っている。

そのPSオーディオから、CDトランスポートの新製品が登場したばかりだ。
DirectStream Momory Playerである。

1月末に発表になったCHORDのBlu MkIIも興味深いCDトランスポートだと思い、
新性能のCDトランスポートの登場とも書いた。

DirectStream Momory Playerも同じと受けとめている。
新性能のCDトランスポートが、PSオーディオからも、同時期に登場である。

セパレート型CDプレーヤーの登場から30年以上が経ち、
昂奮できるCDトランスポートが立て続けに登場してきた。

これまでにも意欲的なCDトランスポートは、確かにいくつかあった。
具体的な製品名は挙げないが、
いま私が感じている昂奮は、そこには感じなかった。

だからといってCDトランスポートとしての「性能」に不足があった、ということではない。
CDトランスポートとしての新性能を感じられなかったからなのかもしれないと、
Blu MkII、DirectStream Momory Playerの登場によって、いまごろ思い返している。

Date: 2月 24th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(技術用語の乱れ・その2)

オーディオ雑誌における技術用語の乱れ、
それも基本的な技術用語の乱れは、オーディオが反知性主義へと向いつつあるのか──、
そんなことを感じてしまう。

そんな大袈裟な、と思われるかもしれないが、
技術用語の乱れは、ここ数年のことではない。
十年以上前から続いていることであり、
乱れが少なくなるのではなく、より多くなりつつある。

昨年暮のキュレーションサイトの問題では、
キュレーションサイトには編集長のいないから的なこともいわれていた。

ほんとうにそうだろうか。
オーディオ雑誌には、どの雑誌にも編集長はいる。
編集長のいないオーディオ雑誌はないにも関わらず、技術用語は乱れていく。

別項で「オーディオは科学だ」と声高に主張し、
ケーブルで音は変らない、と言い張る人たちのことを書いている。
以前は「オーディオの科学」というサイトについても書いた。

だからといって「オーディオは科学ではない」とはまったく考えていない。
オーディオは科学であり、科学がベースになっている。

オーディオには感性が重要だ、と多くの人がいう。
たしかにそうだが、オーディオと科学の関係を否定することは、誰にもできない。
感性を重視するあまり、反知性主義へと傾いていいわけがない。

それがどういう結果を招くことになるのか、
技術用語にいいかげんな編集者たちは想像すらしていないのだろう。

昨秋からKK適塾が開かれている。
川崎先生がコンシリエンスデザイン(Consilience Design)について、語られる。

以前もこのことは書いた。
コンシリエンスデザインについては、川崎先生のブログを読んでいただきたい。

コンシリエンスデザインについて説明される図こそ、
オーディオそのものである。

Date: 2月 23rd, 2017
Cate: audio wednesday

第74回audio wednesdayのお知らせ(雑談をするかのような……)

2017年のaudio wednesdayでやりたいことはいくつかはっきりとある。
準備が必要となり、その準備が私ひとりでできるものもあればできないものもあるので、
すべてが2017年中にやれるわけではない。

3月1日のaudio wednesdayも、ひとつやりたいテーマがあったけれど、
ちょっと準備不足なので、4月以降にやる予定でいる。

なので今回はあえてテーマを決めずに、雑談をするかのような音出しにしようと考えている。
CDでの音出しの予定でいる。
CDに限らず、これを鳴らしてみたいというモノがあったら、持ち込み歓迎。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 2月 23rd, 2017
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(OTOTEN)

いくつものテーマで書いている、このブログだが、
すごく書きたいと思っているテーマのひとつが、「日本のオーディオ、これから」である。

「日本のオーディオ、これまで」も書いている。
書きたいのは「これから」である。

とはいえそれほど書いていない。

今年、音展がOTOTENになった。
会場がインターナショナルオーディオショウと同じ国際フォーラムで開催される。
5月13日(土)、14日(日)の二日間である。

OTOTENの前身はオーディオフェアである。
私にとってオーディオフェアは晴海の見本市会場で行われているものであって、
その後、会場をいくつか変って、名称も変ってきた。
そして足が遠のいた。

オーディオフェアでは、満足のいく音を聴かせられない、ということで、
輸入オーディオショウが開催されるようになって、
輸入オーディオショウがインターナショナルオーディオショウへとなっていった。

前身が輸入オーディオショウということもあって、
日本のメーカーが出展するまでには時間がかかった。
いまではヤマハやテクニクスも出展するようになったが、
晴海でのオーディオフェアを知る者にとっては、
「日本のオーディオ、これから」を書いていきたい者としても、
どこか寂しさのような感じてしまっていた。

音展がそこを満たしていたかというと、そうとはいえなかった。
台場での音展は、うらぶれてしまった感があった。

今年のOTOTENがどういう内容になるのか、詳細はまだはっきりしていないが、
少なくともこれまでよりも期待できるのでは……、と思っている。

Date: 2月 22nd, 2017
Cate: きく

音を聴くということ(体調不良になって・その6)

これも十年前だったか、菅野先生が
「自分が惚けてしまったら、どういう音を出すのか、それを聴いてみたい」といわれたことがあった。

認知症と「音は人なり」。
その時、オーディオマニアはどういう音を鳴らすのか。

もちろん認知症になってしまっているのだから、
冷静にその時の音を聴くことはできないわけだが、
それでも知的好奇心として、その音を聴いてみたいといわれる菅野先生、
いわれてみれば聴けるのであれば、私も自分が惚けてしまった音を聴いてみたい、と思った。

バイアスを取り除いて聴く、ということを考えていて、
このことを思い出した。
バイアスを完全に取り除くとは、惚けてしまった状態なのかもしれない。

バイアスを取り除いて聴く。
身も蓋もない話だが、無理なことなのかもしれない。

オーディオでいくつもの体験をしていく。
それらが経験値として、その人の中でバイアスを形成していく、ともいえる。

オーディオに関する知識を身につける。
これもまたバイアスといえよう。

オーディオマニア、人それぞれ使いこなしのノウハウ的なことを持っているだろう。
それもまたバイアスではないだろうか。

オーディオのシステムは複雑で多岐にわたる。
だからこそバイアスもさまざまな種類がたまっていくのではないか。

オーディオ歴が長いほど、バイアスは溜っていくのだとしたら、
惚けてしまわない限り、バイアスを完全に取り除くことは無理なのかもしれない。

Date: 2月 21st, 2017
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その13)

森本雅樹氏の記事のタイトルは、
「中高音6V6-S 低音カソ・ホロ・ドライブ6BQ5-PPの定電圧電源つき2チャンネル・アンプ」。
     *
 グッドマンのAXIOM 80というのはおそるべきスピーカです。エッジもセンタもベークの板で上手にとめてあって、f0が非常に低くなっています。ボイス・コイルが長いので、コーンの振幅はかなり大きくとれるでしょう。まん中に高音用のコーンがついています。ところが、エッジはベーク板でとめてあるだけなので、まったくダンプされていませんから、中音以上での特性のアバレが当然予想されます。さらにまたエッジをとめるベークをとりつけるフレームがスピーカの前面にあるのですが、それがカーンカーンとよくひびいた音を出して共鳴します。一本で全音域をと考えたスピーカでしょうが、どうしても高域はまったくお話になりません。ただクロスオーバを低くとれば、ウーファーとしては優秀です。
     *
1958年の記事ということもあって、森本雅樹氏のシステムはモノーラルである。
このころ日本でステレオ再生に取り組まれていた人はいたのだろうか。

森本雅樹氏のスピーカーシステムは、
ウーファーがAXIOM 80とナショナルの10PW1(ダブルコーンを外されている)のパラレルで300Hzまで、
スコーカーはパイオニアのPIM6(二発)を300Hzから2500Hzまで、
トゥイーターはスタックスのCS6-1で1500Hz以上を受け持たせるという3ウェイ。

森本雅樹氏はAXIOM 80を300Hz以下だけに、
しかもナショナルののユニットといっしょに鳴らされている。

高域はお話になりません、と書かれているくらいだし、
ウーファーとしては優秀とも書かれているわけだから、
こういう使い方をされるのかもしれないが、
瀬川先生にとっては、認め難い、というより認められないことだったはず。

一昨晩のOさんのやりとりの中でも出たことだが、
森本雅樹氏も、室蘭工大の三浦助教授も、学者もしくは学者肌の人であり、
エンジニア(それもオーディオエンジニア)とは思えない。

AXIOM 80の実測データについては(その4)で書いている。
高域はあばれているといえる特性である。
それにAXIOM 80の独特な構造上、一般的なスピーカーよりも共振物がコーンの前面にあるのも確かだ。

その意味でAXIOM 80を毒をもつユニットともいえる。
その毒の要素を、どう鳴らすか、鳴らさないようにするか。

森本雅樹氏は鳴らさないようにする手法を選択されている。
瀬川先生とは反対の手法である。

Date: 2月 20th, 2017
Cate: きく

音を聴くということ(体調不良になって・その5)

バイアスを取り除いて聴く、ということは、
虚心坦懐に聴く、ということでもあろう。

ではどうすればバイアスを取り除けるのか。
「頭で聴くな、耳で聴け」はたやすいことではない。

わかりやすそうに思えても、そうでもない。
すぐにそういう聴き方ができる人もいるだろうが、
「頭で聴くな、耳で聴け」を間違った解釈で受けとめたとしか思えない人を知っている。

その結果の音も知っている(聴いている)。

Date: 2月 20th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その12)

AXIOM 80について書きながら、また写経のことを考えていた。

川崎先生が2月5日に『とうとうその時期「写経」で自分の書を晒します』、
2月20日に『書そして運筆なら空海がお手本になる』、
書と写経についてブログに書かれている。

だからことさらにオーディオにおける写経について考えている。
昨晩、友人のOさんから連絡があった。
森本雅樹氏の記事を見つけた、という連絡だった。

森本雅樹氏については、天文学(特に電波天文学)に関心のある方ならご存知のはずである。
私は天文学にはほとんど興味はないが、森本雅樹氏の名前は、瀬川先生の文章に出てきているから、
なんとなくではあるが記憶にある。

ラジオ技術 1961年1月号掲載の「私のリスニング・ルーム」に、
瀬川先生が登場されている。タイトルは「ハイファイざんげ録」。

ここに森本雅樹氏の名前が出てくる。
     *
 それまでの私は、海外のオーディオ・パーツ、特にスピーカにはほとんど関心を示さず、かって、白い眼さえ向けさえ下。それは多分にラ技の影響でもあった。その私を〝改宗〟させたのが、いまだ愛聴しているGoodmansのAXIOM-80である。しかし私は、このAX’-80についてラ技誌上で多くを語ることをためらわずにいられない。かえって58年8月号に、森本雅樹氏がこのスピーカについてふれられた際〝……どうして、高域はまったくお話になりません〟ウンヌンと極言されておられ、さらにまたその年の2月のこの欄では、室蘭工大の三浦助教授が、AX’-80をやめて〝P社の12インチにとりかえた〟と書かれている。私自身はこのスピーカを、〝鳴らす〟ことがきわめてむずかしいスピーカだとつくづく感じているが、森本氏や三浦氏のようなベテランがこのスピーカごときを使い誤るようなことはあり得ようはずがない。とすれば、その〝お話にならない〟高音を、たいへん美しい、生々しさをともなったみごとな音だ、と感じる私の耳は異常なのだろうか、と私はたいそう心細くなるのである。
     *
ラジオ技術 1958年8月号の森本雅樹氏のアンプ製作記事のコピーを、
Oさんは送ってくれた。

Date: 2月 20th, 2017
Cate: きく

音を聴くということ(体調不良になって・その4)

井上先生が何度もいわれていたことを思い出している。
「頭で聴くな、耳で聴け」
そういわれていた。

そして頭で聴くとだまされてしまう、ともいわれていた。
また「頭で聴く人ほど音でだましやすい」とも。

耳は確かに空気の疎密波を受けとめる。
けれど音を「聴いて」いるのは頭である。

そんなことは井上先生はわかったうえで「頭で聴くな」といわれていた。

頭で聴く、ということについて、それ以上は語られなかったけれど、
いまならばバイアスを取り除け、ということだと理解できる。

Date: 2月 20th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その11)

AXIOM 80を鳴らすパワーアンプのことに話を戻そう。
真空管の格からいえば、45よりもウェスターン・エレクトリックの300Bが上である。
300Bのシングルアンプということも考えないわけではないが、
まずは45のシングルアンプである。

満足できる45のシングルアンプを作ったあとでの300Bシングルアンプ。
私にとってはあくまでのこの順番は崩せない。

既製品でも鳴らしてみたいパワーアンプはある。
First WattのSIT1、SIT2は一度鳴らしてみたいし、
別項「シンプルであるために(ミニマルなシステム・その16)」で触れていように、
CHORDのHUGO、もしくはHUGO TTで直接鳴らしてもみたい。

でもその前に、とにかく45のシングルアンプである。
45のシングルアンプにこだわる理由はある。

17年前、audio sharingの公開に向けてあれこれやっていた。
五味先生の文章は1996年から、瀬川先生の文章、岩崎先生の文章をこの時から入力していた。

入力しながら、これは写経のようなことなのだろうか、と自問していた。

手書きで書き写していたわけではない。
親指シフトキーボードでの入力作業は、写経に近いといえるのだろうか。

オーディオにとって写経とは、どういうことだろうか。
オーディオにとっての写経は、意味のあることなのだろうか。
そんなことを考えながら、入力作業を続けていた。

私がAXIOM 80、それに45のシングルアンプにここまでこだわるのは、
写経のように感じているからかもしれない。

Date: 2月 19th, 2017
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(「3月のライオン」を読んでいて・その1)

羽海野チカの「3月のライオン」のことは昨年12月に二回書いている。
その後も「3月のライオン」にハマっている。

単行本を買うのは止しとこう、と思っていたのに、手を出してしまった。
五巻、六巻、七巻は胸に迫るものがあって、立て続けに何度も読み返した。

「3月のライオン」の主人公は高校生のプロの棋士だ。
将棋のことが描かれる。

登場するプロ棋士の自宅には、立派な碁盤と駒があるとかぎらない。

私が小学生のころ、長旅の時間つぶしに持ち運びできる将棋盤と駒があった。
いまならスマートフォンがあるから、この手のモノはなくなってしまっただろう。
でも昔は新幹線のスピードも、いまよりも遅かった。

博多・東京間を何度か新幹線を使ったことがあるが、
ほんとうに時間がかかっていた。

そういう時に、折り畳み式で駒がマグネットで盤から落ちないようになっていたモノが発売されていた。
当時はテレビコマーシャルもよくやっていた。

立派な碁盤と立派な駒であっても、
こんなオモチャのようなモノであっても、将棋は将棋であることに変りはない。

それこそオモチャのようなモノすらなければ、紙にマス目を描いて、
紙を切って駒にしても将棋は将棋である。

それすらなければ、プロ棋士ならば、頭の中だけで対局をやっていくのだろう。

私は将棋は駒の動かし方をかろうじて知っているだけで、
それも小学校の時に親から習って、それからこれまで将棋を指したことはない。

そんな私の考えることだから、大きく違っている可能性もあるだろうが、
プロ棋士にとって、目の前にある碁盤の立派さとは、どれくらい影響するものだろうか。
ほとんど影響しないのではないか。

将棋とオーディオは違う。
そうなのだが「3月のライオン」を見ていると(読んでいると)考える。

そういう視点からピュアオーディオということばを捉え直してみることを。