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Date: 4月 3rd, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その9)

「これで充分じゃないか」
そう心でつぶやく。

オーディオと格闘してきたながい時間をもつ者も、
まったくオーディオに理解を持たない者も、
「これでじゅうぶんじゃないか」という。

「じゅうぶん」は充分とも書くし十分とも書く。
後者のいう「これでじゅうぶんじゃないか」がどちらなのかはわからない。

音楽が好きで、好きな音楽を少しでもいい音で聴きたい──、
と思い行動するのがオーディオマニアだ、とながいこと思っていた。

でも十年ほど前から、どうも違うようだと感じつつある。
好きな音楽をいい音で聴くための、いわば行き過ぎた行為をする人を、
世間ではオーディオマニアと呼ぶ。

けれどそれだけではオーディオマニアか、どうかは判断できない。
そのことに気づいた。

システムにかけたお金の多寡でもないし、
専用のリスニングルームを建てたかどうかでもない。
そんな視覚的に捉えれることでは何も判断できない。

では出している音なのか。
いい音を出しているからといって、オーディオマニアだろうか。
音楽が好きでいい音で聴きたいと思っている人たちと、
オーディオマニアはどうも違う。

オーディオマニアでない前者の人たちの呼び方を考える時期なのかもしれない。

五味先生が病室で聴かれたシステム。
それで満足されていた、ということを読み、どうおもうかによって、
オーディオに関心と理解があっても、オーディオマニアがどうかがわかる、
いい音を出していても、オーディオマニアではないことがわかる。

むしろその方が幸せなことだと思う。
オーディオマニアではないことが幸せだろう。

この人たちは、五味先生はさいごに「ただの音楽愛好家に戻られた」というであろう。
オーディオマニアでないのだから、出てくることばである。

どうしようもなくオーディオマニアである私は、
「ただの音楽愛好家に戻られた」がひっかかる。

「ただの」がまずひっかかる。
「戻られた」にひっかかる。

オーディオマニアの私は、絶対にこうはいわない。
あえていうのであれば、「真の音楽愛好家になられた」である。

Date: 4月 3rd, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その8)

五味先生は病室で、テクニクスのSL10とSA-C02、
それにAKGのヘッドフォンで、音楽を聴かれていたことは、
当時のステレオサウンドを読んできた者は知っている。

オーディオのことに心を患わすことなく、音楽を聴かれていた──、のであろう。
この時、《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめ》ていたのか。

解釈はひとつではない。
そうともいえるし、そうでもないともいえる。

いい音をひたすら求めて、音とオーディオと格闘されたながい日々が背景にあったからこそ、
テクニクスの小型のアナログプレーヤーとレシーバー、AKGのヘッドフォンというシステムで、
音楽のみを聴かれていたのではないだろうか。

同じ、もしくは同じような体験は、ながくオーディオをやってきている人ならばあるはずだ。
マルチウェイの大型システム、
アンプはセパレートで、さらにはマルチアンプという人もいる。
おおがかりなシステムを丹念に調整してきて、満足のいく音を出せるようになる。

そんなある日、もっと簡潔なシステムで、
たとえばフルレンジと真空管アンプの組合せから鳴ってくる音、
いまではiPhoneに、ちょっと良質のヘッドフォン(イヤフォン)を組み合わせた音、
その音に、「これで充分じゃないか」と思ってしまう一瞬はあろう。

私は何度もある。
オーディオの仲間も、そんなことがあった(ある)といっていた。

でも、それは彼も私も、それまでオーディオと取り組んできた経験が背景にあるからこそ、
そういうシステムで音楽を聴いても「これで充分じゃないか」と思えるわけである。

それまでの経験がなんらかの作用をしての「これで充分じゃないか」のはずだ。
そう考えると、オーディオから離れて……、とはいえない。

私はそう考える。
いまはそう考えている。

Date: 4月 2nd, 2017
Cate: オーディオの「美」

音の悪食(その1)

音の美食家だ、と自身のことをおもっている人は、けっこういそうである。
けれど、音の悪食だ、とおもっている人は、どのくらいいるのだろうか。

かくいう私も、音の美食家とはおもっていないが、
だからといって音の悪食ともおもっていなかった。

けれど、いまごろになって、どうだったのだろうか、とふり返っている。
音の悪食といえる聴き方をしてきだろうか、とおもっている。

Date: 4月 2nd, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その7)

ステレオサウンド 39号。
瀬川先生の「天の聲」の書評が読める。
     *
「天の聲」になると、この人のオーディオ観はもはや一種の諦観の調子を帯びてくる。おそらく五味氏は、オーディオの行きつく渕を覗き込んでしまったに違いない。前半にほぼそのことは述べ尽されているが、さらに後半に読み進むにつれて、オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる。しかもこの音楽は何と思いつめた表情で鳴るのだろう。
     *
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
これはあくまでも、「天の聲」を読み進むにつれて──、のことである。

それでも……、と考える。

(その5)で引用したこととの関係だ。
     *
さて今夜はこれを聴こうかと、レコード棚から引き出してジャケットが半分ほどみえると、もう頭の中でその曲が一斉に鳴り出して、しかもその鳴りかたときたら、モーツァルトが頭の中に曲想が浮かぶとまるで一幅の絵のように曲のぜんたいが一目で見渡せる、と言っているのと同じように、一瞬のうちに、曲ぜんたいが、演奏者のくせやちょっとしたミスから──ああ、針音の出るところまで! そっくり頭の中で鳴ってしまう。
     *
そう、ここのところだ。
この時、《そっくり頭の中で鳴ってしまう》音楽は、
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽》ではないはずだ、ということをおもう。

レコード(録音物)で音楽を聴く人すべてがそうとは思っていない。
そのレコードを鳴らしたオーディオとは無関係の音で、
音楽が頭の中で鳴ってしまう人もいるだろうし、
そのレコードを鳴らしたオーディオと深く関係した音で、
音楽が頭の中で鳴ってしまう人もいよう。

後者がオーディオマニアなのだろう。

Date: 4月 2nd, 2017
Cate: 川崎和男

KK適塾が終って……

3月30日で、今年度のKK適塾は終った。
昨年度のKK塾の最後には、来年度はKK適塾をやる、という告知があった。

今回ははっきりとした告知はなかった。
たぶん、あると思っているし、
ぜひやってほしい。

今回のKK適塾は、一回目以外はすべてふたりの講師を招いて、だった。
次がどうやって行われるかはわからないから、
こんなことをやってくれたら……、と勝手におもっていることがある。

川崎先生の趣味の分野の専門家を講師に招いてほしい。
万年筆、文房具の専門家、
車の専門家、書の専門家……、
もちろんオーディオの専門家もだ。

Date: 4月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その34)

ここで何度か、長岡鉄男氏の書かれたものはほとんど読んでない、と書いている。
たしかに「ほとんど」読んでいない、といえる。

けれどまったく読んでいなかったわけではない。
ステレオサウンド編集部には、当時は別冊FM fan、FM fanは送られてきた。
他のFM誌、オーディオ雑誌はどうだったかは、よく憶えていないが、
編集部が書店で購入していたのは無線と実験とラジオ技術くらいだった。
ステレオも届いていたようには記憶している。

編集部に新刊が届けば、やはり読む。
すべての記事をじっくり読むわけではないが、ページを開かない、ということはない。
開けば目を通す。

長岡鉄男氏の文章を、じっくりとは読んでいない。

つまり長岡鉄男氏は、こういうことを書かれていたはずだけど、
どの雑誌の、どの号に書かれていたか、
それらを記憶するほどには読んでいなかった。

その意味で、私は「ほとんど」読んでいない、としている。

そんな読み方しかしてこなかった私の記憶では、
598のスピーカーの重量が増していった一因は、長岡鉄男氏が煽られていたからだ、という印象があった。

とはいえ、そんな読み方しかしてこなかったから、
どこに書かれていたかまでは、どんな書き方をされていたかまでははっきりとしなかった。

facebookに、当時の598のスピーカーの、長岡鉄男氏の紹介記事をアップしてくれた人がいる。
デンオンのSC-R88とパイオニアのS701で、どちらも1986年のFM fanに載っている。

Date: 3月 31st, 2017
Cate: 広告

新製品と広告

いま六本木ヒルズが建っているところに、以前はWAVEがあった。
WAVEの一号店であり、
ビル一棟、すべてWAVEだった。

いちばん上のフロアーがクラシックとジャズの売場だった。
たしか上りのエスカレーターはあったけれど、下りのエスカレーターはなかった。
エレベーターはあったけれど、クラシック売場を後にしたら、
階段で一階まで降りる。

エレベーターを使えば……、と思われるだろうが、
階段で降りる理由があった。

階段の壁面の展示物を見て楽しむためである。
一ヵ月おきぐらいでテーマが変り、展示物が変る。

記憶が朧げなのだが、すべて音楽に関するものだったはずだ。
ゆっくり階段を降りていると、気になるレコードを見つけることもある。
そうすると、そのフロアーで、そのレコードを手にとってみたくなる。

なんともうまい商売だ、と思いつつも、
この階段の展示には、のっかってしまうことが楽しむことである。

黒田先生とWAVEの話になったときに、この階段の展示のことが出た。
黒田先生も同じように、エレベーターを使わずに階段で降りられていた。
そして、おもしろそうなレコードを、そこで見つけると買ってしまう、と。

「うまい商売だとわかっていてもね……」と笑いながら話されていたのを思い出す。

このことを思い出したのは、今週水曜日、
JR中野駅のエスカレーターの壁の広告を見たからだ。

そこの壁に掲示されていた広告は、テクニクスのSL1200GRだった。
木曜日、KK適塾に行く途中、中野駅で乗り換えて写真も撮ってきた。
エスカレーターだから立ち止って撮れなかったけれど、上って下って撮ってきた。

こんなところで、と思わせるところでの、SL1200GRの広告は、十分にインパクトがあった。
中野駅1番線、2番線へのホームへのエスカレーターのところにある。

今日は確かめていないが、まだあるのではないだろうか。

Date: 3月 30th, 2017
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その10)

(その10)を書こうと思いながらも、
他のことを書くことを優先していたら、(その9)から一年半以上経っていた。

この一年半のあいだに、大きく変ったことがある。
「考える人」の休刊が、今年2月15日に発表になった。
4月4日発売の2017年春号で休刊となる。

「考える人」のメールマガジンを読んでいる。
そこに、こうある。
     *
 先日、ばったり顔を合わせた同年代の編集仲間に冷やかされました。「考える人」みたいな雑誌を作ってしまうと、病みつきにならないか? 一度この味を覚えたら、忘れなくなるだろう、というのです。たしかに、そういう面は否定できません。1世紀以上の歴史と伝統を持つ出版社の基盤の上で、高いスキルを持った編集スタッフの力を借りながら、だ一戦の人たちの寄稿を仰ぎ、また創刊以来、単独スポンサーとして支援して下さった株式会社ファーストリテイリングの伴走を得て、思う存分に作ってきた雑誌です。手前みそになりますが、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日本チームを率いて戦うような醍醐味を満喫できたのは、編集者として大変に恵まれたことだったと思います。この後の「考える人」ロスが心配です。
     *
《病みつきにならないか? 一度この味を覚えたら、忘れなくなるだろう》、
ここだけ抜き出せば、なにか麻薬のことをいっているようにも聞こえる。

「考える人」という雑誌は、そのくらい編集者にとっては、
雑誌の編集者にとっては、これ以上は求められないくらいの環境である。

株式会社ファーストリテイリングの単独スポンサーということのウェイトは、大きい。
大きすぎた、ようにも、いまは思う。

創刊15年で、「考える人」は休刊となる。

Date: 3月 30th, 2017
Cate: audio wednesday

第75回audio wednesdayのお知らせ

4月5日のaudio wednesdayは「結線というテーマ」を予定していたが、
喫茶茶会記のアンプ(マッキントッシュのMA2275)が故障してしまい、
来週の水曜日までには修理が間に合わないであろう、ということで、
いまのところテーマは未定である。

音を出すのかどうかも、だからはっきりしていない。
音を出すにしても、テーマは変るかもしれない。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 3月 30th, 2017
Cate: 川崎和男

KK適塾(五回目)

KK適塾五回目の講師は、濱口秀司氏と石黒浩氏。
濱口氏は昨年度のKK塾一回目、石黒氏は三回目の講師をやられている。

このふたりが揃い、川崎先生が加わっての今回のKK適塾だった。
つまらなくなるわけがない。

司会の方がいわれていたように、負けず嫌いの三人である。
濱口氏が刺客といわれた。

教育、特に大学での教育について語られていた時だった。
自ら刺客をつくりだして、その刺客に負けないようにする、と。

きいていて思っていたのは、五味先生の「喪神」である。
何をおもっていたのかまでは書かないが、
もう一度「喪神」を読み返そう、と思っていた。

Date: 3月 29th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ヨッフムのベートーヴェン「第九」

日本語版はなくなった月刊PLAYBOYだが、
創刊号からしばらくはオーディオを取り上げていた。
瀬川先生も執筆されていた。

1981年1月号では、『第九』ベスト・レコード研究というタイトルの記事があり、
瀬川先生はオーディオ的な見地から、での選択である。
     *
 数多くの〝名盤〟の中から、まず第1に推したいのは
■ヨッフム指揮/ロンドン交響楽団
 録音は1978年3月。そのせいもあってか、音が実にみずみずしい。各楽器の音色の微妙な色あいが十分に美しくとらえられ、しかもそれらが互いによく溶けあい、奥行きの深さをともなって聴こえてくる。まさに『第九』かくあるべしとでもいいたいレコーディングであり、しかも演奏もまた最上級だ。イギリスEMIの録音は、昔から美しい艶のある音に定評があったが、反面、録音の時期によっては、ややひ弱な音に感じられるときもあった。しかし、このヨッフム盤は、音に充実感とコクがあって、重厚だが決して重く粘ったりしない。それはもちろん、ヨッフムの演奏の、円熟の中にある意外な若々しさに負うところが大きい。
 ヨッフムは以前にもフィリップス・レーベルで同曲を入れている。演奏は69年の録音で、EMI録音とのあいだに約10年のへだたりがあるにしても、録音はむろんのこと演奏自体の出来栄えも、問題なく新盤の方が良い。試聴盤を返却したあと、即日レコード屋に飛んで行って買ってきた。
 録音の良さ、という面からは、次に、
■カラヤン指揮/ベルリン・フィルハーモニー・オーケストラ
 録音は1977年。ヨッフムより少し早い。カラヤン盤は『第九』だけでも数種類出ているが、録音も演奏も、この77年盤が最高といえる。ドイツ・グラモフォンの録音は、本質的に響きがやや硬い。そのことは、EMIやフィリップスの音と比較してみるとよくわかる。しかし、このカラヤン盤に関する限り、音の硬さは最小限にとどめられて、各パートの繊細な動きとその表情の精妙さを、十分によくとらえている。数あるベートーヴェンの交響曲の録音の中でも、やはり上位に置かれるべき録音であろう。ただ、それはオーケストラ・パートに限っての話、であって、第4楽章に入り、テノールの〝おお友よ〟のレシタチーフが始まったとたんに、オーケストラ・パートの音量に比較して、声の音量が、いささかバランスをくずして大きすぎる点に、奇異な感じを抱かされる。
 このレコードは、発売直後に入手して、何度か聴いているにもかかわらず、いまだにこの部分にくると、どうにもなじめない。なぜか4人の独唱者の声をクローズアップしすぎていて、とても不自然だ。合唱に入ってからのコーラスの音量とオーケストラの音量のバランスは、そんなにおかしくないものだから、よけいに独唱パートの音の不自然な拡大が耳につく。その点を除きさえすれば、という条件つき、というのも妙なものだが、やはり録音という面では注目盤、ということになる。
 ところで、これ以外には、中途半端に「新しい」録音よりも、3枚の、少々古い、しかしすばらしいレコードをあげておきたい。それは、
■セル指揮/クリーヴランド交響楽団
■クリュイタンス指揮/ベルリン・フィルハーモニー・オーケストラ
■S=イッセルシュテット指揮/ウィーン・フィルハーモニー・オーケストラ
 いずれも、今日的な繊細、鮮明かつダイナミックなという録音ではなく、少々古めかしく聴こえるが、しかし音楽的なバランスがすばらしく、それぞれに、つい聴きほれさせる。むろん、それは演奏自体のすばらしさでもある。
 これらのレコードを聴いていると、録音の良さとは、必ずしも新しさがすべてでないことが、よくわかる。
 ただ、セル盤とクリュイタンス盤は、一枚におさめてあるため、どちらも、あの陶酔的な第3楽章が、A面とB面に分割されている。
 とくにセル盤の跡切れかたが、やや唐突で、感興をそがれるのは残念である。
 ただし、セル盤もクリュイタンス盤も1300円と格安だ。
     *
オイゲン・ヨッフムの「第九」のことは、ステレオサウンド 57号、
プリメインアンプの総テストでの試聴レコードのところでも書かれている。
     *
ベートーヴェン/交響曲第九番「合唱」──たまたま、某誌でのベートーヴェンの第九聴き比べという企画で発見した名録音レコード。個人的には第九の録音のベスト1としてあげたい素晴らしい録音。音のひろがりと奥行き、そして特に第4楽章のテノールのソロから合唱、そしてオーケストラの盛り上がりにかけての部分は、音のバランスのチェックに最適。しかも、このレコード独特の奥行きの深い、しかもひろがりの豊かなニュアンスというのは、なかなか再生しにくい。
     *
このヨッフムのベートーヴェンがSACDで復刻される。
タワーレコードから発売予定である。

「いい音」について考えていくうえでも、聴いておきたい一枚だ。

Date: 3月 29th, 2017
Cate: ディスク/ブック

「楷書の絶唱 柳兼子伝」

品切れで重版未定の本だけど、紹介しておきたいのが「楷書の絶唱 柳兼子伝」。

長らく絶版だったのだか2009年に新装復刊されている。
楷書の絶唱、いいことばだ。

Date: 3月 28th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その33)

598のスピーカーの重量が増していったのは、
それもバランスを崩してまで増していったのには、
長岡鉄男氏の影響があったためだ、と私は受けとめている。

長岡鉄男氏は、ある時期から重量を量られていた。
そのこと自体には、長岡鉄男氏なりの考えが背景にあったためだろうが、
このことが598のスピーカーの重量化をエスカレートさせていったのは間違いない。

いま、1980年代の598のスピーカーのことを書いていて、
やはり気になるのは、長岡鉄男氏が、当時をふり返って何か書かれているのだろうか、である。

私は長岡鉄男氏の文章は、ほとんどといって読んでいない。
本も持っていない。

大きな図書館に行き、昔のFM誌、オーディオ雑誌を丹念に調べていけばいいこなのだが、
どこかめんどうだなと思う気持が強かった。

すこし前に、長岡鉄男氏の文章の一部をコピーして送ってくださった方がいた。
1993年に音楽之友社から出た「長岡鉄男の日本オーディオ史 1950〜82」掲載の一文である。
     *
 80年代に入って59800円のハイCP機が続々登場、世にいう「598戦争」である。当初20kgぐらいからスタートした598スピーカーはやがて重量競争に入り、最終的には鉛や人造石まで入って35kgに達した。鉛や人造石といってもコストはユニット一本ぐらいかかってしまうのでコストアップは免れない。ウーファーも30cmからスタートして、30・5cm、31cm、31・5cm、32cm、33cmと少しずつ大型化、また素材競争で高剛性化が進んだため、コーンの重い大口径ウーファーをドライブするには144φ×20mmもの大型マグネットが必要になり、これを支えるフレームは10mm厚、15mm厚、20mm厚と強力になり、正気の沙汰とは思えない無茶苦茶な競争になった。十万円のものを六万円で売るような激安合戦、新宿のカメラ屋なみである。これで音がよければいうことはなしだが、大口径化、高剛性化でバランスを失い、低音不足、ハイ上がりの硬質な音になってしまった。容積からすると25cmウーファー向きのキャビネットに30cm以上のウーファーを取付けたので理論的にも低音は出にくいのである。コスト面では完全な赤字、音質面ではユーザーの好みから離れ、87年を頂点に多くのメーカーは598スピーカーから手を引く。終わってみれば勝者なき戦いだったのだ。僕はビクターSX−511(¥59800)のユニットを使って大型フロアタイプを作ったことがあるが、ユニットだけ買っても六万円はする程の豪華なものだった。
     *
見出しには、熾烈な「598」戦争、とある。
書き写していて、意外な感じがした。

598のスピーカーのアンバランスさを、指摘されていることにだ。
1980年代後半の598のスピーカーのアンバランスぶりは,すごかった(というよりひどかった)。

確かに当時の598のスピーカーにかけられたコストは、もっと上のランクと同等だった。
その意味ではハイコストパフォーマンスとはいえるのかもしれないが、
オーディオ機器は、スピーカーに限らず、音である。

肝心の音までもがアンバランスで、ハイCP機といえるだろうか。

Date: 3月 27th, 2017
Cate: 戻っていく感覚

もうひとつの20年「マンガのDNA」と「3月のライオン」(その3)

マンガ家の原画を見たことが数回ある。
すべてのマンガ家の原画を見たいとは思っていないし、
原画を見たいと思うのは、わずかなマンガ家である。

「3月のライオン」の原画も見たいと思う。

この原画という言葉に相当するのが、
オーディオの世界では原音になるわけだが、
画と音とでは、違う。

原音の「音」に相当するのは、原画ではなく「線」のはずだ。
つまり原音と原線であり、
原画に相当するのは原音ではないことに気づく。

となると原画に相当するのは、オーディオの世界ではなんといったらいいのか。
音ではなく響きか。
そうだとすれば原響なのか。

個々の楽器の音像なのだろうか。
だとすれば原像となるのか。

結局は「場」なのか、とも思う。
ならば原場になるのか。

どれもしっくりこない。
いったい何と呼べばいいのだろうか。

Date: 3月 26th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(中古オーディオ店の存在・その2)

現行製品を扱うオーディオ店も楽しいが、
中古オーディオを扱うオーディオ店には、別の楽しさがある。

それは人によって少し違ってくるかもしれないが、
中古オーディオ店には、かなり古いモノから、
オーディオが日本でブームだったころのモノ、
比較的新しい製品など、年代の幅は、
その時々の品揃えによって変化するとはいえ、かなり広い、といえよう。

この広さこそが、現行製品を扱うオーディオ店にはない楽しさにつながっている。
今回、ハードオフの吉祥寺店を取り上げたのは、そのことを実感したからだ。

東京にも中古オーディオを扱う店舗は他にもある。
そこを取り上げずに、ハードオフについて書いているのは、
ハードオフ吉祥寺の店舗は、1フロアーだということもある。

階がわかれていないことの楽しさを感じていた。
この規模で、1フロアーだけで実現した中古オーディオ店は、
過去にはあっただろうか。

中古オーディオ店は、同世代のオーディオマニア同士で行っても楽しいし、
世代の違う者同士で行っても楽しい。

同世代であっても、憧れていたオーディオ機器は同じモノもあれば、そうでないモノもある。
この人は、これに憧れていたのか、と思い掛けない一面を知るきっかけになることだってあろう。

世代が違えば、相手が年上ならば、実際のオーディオ機器を前にしてこその話が聞けるだろうし、
若い人が相手であれば、世代が違っても共通することが意外にあることに気づかされるかもしれない。

中古オーディオ店はひとりで行くのもいいが、
親しいオーディオ仲間同士で行くのも楽しい。

いままで中古オーディオを扱っているオーディオ店には何度も行っているが、
こういうことを思ったことは初めてだった。