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Date: 5月 3rd, 2017
Cate: オーディオマニア

最後のオーディオマニア(その1)

あれこれ考えてしまうから、このブログを書いているといえるけれど、
毎日ブログを書くためにあれこれ考えているともいえるところもある。
だからなのか、このブログを書きはじめる前には考えたことのない範囲まで、あれこれ考えるようになったのか。

ふと思いつくことがある。
「最後のオーディオマニア」ということもふと思いついた。

私はオーディオマニアだ、と自認している。私の周りにもオーディオマニアがいる。
私が生きている間は、最後のオーディオマニアということは起りえないであろうが、
いつの日か、そういう日が来ないとはいえないのではないか。

オーディオマニアが減りはじめる。
言いかえれば、若い世代からオーディオマニアが誕生しなくなる日が来て、
それまで生きてきたオーディオマニアがいなくなっていけば、
最後のオーディオマニアといわれる人が出てこよう。

オーディオマニアが誕生しなくなった日から、
最後のオーディオマニアまでのカウントダウンが始まる。

Date: 5月 2nd, 2017
Cate: アナログディスク再生

ダイレクトドライヴとカートリッジのコンプライアンス(その2)

昔のラジオ技術を読み返していると、ハッと気づかされることがいくつもある。
1961年7月号「ベテラン8氏にきく現用再生装置」で、
瀬川先生はガラード301のことを、
《目下のところ自家用としてベルト・ドライブの必要を感じないほど》
と書かれている。

これが1965年1月号「ステレオ再生装置の総合設計」の中では、次のように変っている。
     *
 わたくし自身は、モノ時代から長いこと、ガラードのプロフェッショナル・ターンテーブル〝301〟を愛用してきて、とくに不満を感じなかった。ところが、ハイ・コンプライアンス・カートリッジの採用にともなってSMEのライト・シェル・タイプなどに切りかえてみると、急にゴーゴーというウナリが気になりはじめて、ついにもっと優れたターンテーブルに交換する必要をせまられるほど、プレーアの問題は大きくなるいっぽうである。
 結論からいえば、ターンテーブルはベルト(あるいは糸)ドライブ以外は使いものにならない。しかし具体的にはどうするかということになると、やはり問題が多い。
     *
まだこのころはEMTの930stを使われていないし、
ダイレクトドライヴ型も登場していない。

アイドラードライヴ、ベルトドライヴ、ダイレクトドライヴ、
というふうに順をおって体験してきたわけではない世代の者にとっては、
そうか、そうなのか、と思うわけだ。

ダイレクトドライヴ型が登場したころは、
1965年当時よりも、もっとハイコンプライアンス化されている。
MC型カートリッジよりも、MM型、MI型カートリッジがかなり使われていた時代でもある。

カートリッジがますますハイコンプライアンス化(軽針圧化)していく時代に添うように、
ダイレクトドライヴ型は登場した、ともいえる。

Date: 5月 2nd, 2017
Cate: アナログディスク再生

ダイレクトドライヴとカートリッジのコンプライアンス(その1)

私がオーディオに興味を持ち始めた1976年は、
国産のアナログプレーヤーはほぼすべてダイレクトドライヴ型といえた。

海外製品でもアイドラードライヴは、EMTの930stと927Dst、
ガラードの401にマイクロトラックのModel 740、デュアルの1225、BSRくらい、
ベルトドライヴも少なかった。
リンのLP12、トーレンスのTD125、エンパイアの698、EMTの928、
これらの他にデュアル、シネコ、B&Oなどがあった。

ベルトドライヴを出していた海外メーカーも、
翌年、翌々年にはダイレクトドライヴに移行していた。

にも関わらず1970年代が終ろうとしていたあたりから、
ダイレクトドライヴ型プレーヤーの音質への疑問がいわれるようになってきた。
このことは別項「ダイレクトドライヴへの疑問」でも書いている。

ダイレクトドライヴ型があっというまに席捲し、
数年後には疑問がもたれたことには、
カートリッジのコンプライアンスも関係しているように思われる。

MC型カートリッジのブームが1970年代の終りにやってきた。
ステレオサウンド別冊として、
長島先生による「図説・MC型カートリッジの研究」が1978年秋に出ている。

MM型、MI型カートリッジに比べれば、
このころ新しく登場したMC型カートリッジであっても、針圧は重めである。
つまりローコンプライアンスである。

もしMC型カートリッジのブームが訪れなかったなら、
ダイレクトドライヴ型への疑問は生れなかったか、
もしくはもっと後のことになっていたかもしれない。

Date: 5月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その36)

長岡鉄男氏の、トータルバランスが重要という視点には、
多く欠けているものがあると、私は感じている。

それはデザインである。
オーディオにおけるトータルバランスを語る上でも、
どのジャンルにおいてもトータルバランスを語るのであれば、
デザインを除いて語ることはできない。

長岡鉄男氏の文章を当時読んでいたときには、このことは感じなかったが、
いまいくつか読み返してみると、
そして曖昧な記憶ではあるが思い出してみると、
デザインという視点を欠いたままトータルバランスであったことに気づく。

このことについて書いていくと、
ここでのテーマ、598のスピーカーから離れていくのは明らかだから、
ここではこのへんに留めておく。
別項で、書いていく。

Date: 5月 1st, 2017
Cate: ケーブル

ケーブル考(その6)

ケーブルを、関節だと考えるようになったきっかけは、
別項で、骨格のしっかりした音について書いている時だった。

骨格のしっかりした音を出していく上で、
まず重要なのはスピーカーであるわけだが、ここでケーブルによる音の変化について考えていて、
それは関節にあたるのではないか、と気づいた。

骨格のしっかりした音とは、
骨格のバランスがとれている音でもあるはず。
そう考えると、関節があるべきところにある音ともいえる。

たとえば腕の長さが同じでも、
手首と肘の間隔、肘と肩の間隔の比率が大きく違っていたら、
それは骨格のしっかりした音、骨格のバランスのとれている音とはいえない。

言葉にとらわれすぎてケーブルについて考えていることはわかっていても、
機能的にみれば、オーディオを内部からとらえてみればケーブルは神経であり血管であるが、
そこから出てくる音からとらえていけば、ケーブルは関節でもあるし、
オーディオ機器を配置することからみても、ケーブルは関節といえる。

とはいえ、骨格のしっかりした音について書いていたときも、
この「骨格のしっかりした音」についての説明が難しい、と感じていた。

音を表現する言葉はすべてそうなのだが、その中でも「骨格のしっかりした音」については、
人によって捉え方、というか理解が大きく違うように感じているから、
ケーブルは関節である、と説明しても、同意してくれる人もいるはずだが、
どんなに説明しても理解してくれない人もいよう。

それでも書いているのは、ケーブルを一度「関節」という視点でとらえてほしいからだ。

Date: 4月 30th, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その5)

ポリーニは平均律クラヴィーア曲集の録音は、2008年9月、2009年2月となっている。
ポリーニは1942年1月5日生れだから、66歳、67歳の録音ということになる。

70を目の前にしてのバッハの演奏ということでは、
内田光子も、70でバッハを、とインタヴューで語っている。

内田光子は1948年12月20日生れ。
来年の12月で70になる。

ここ数年のコンサートで、断片的ではあるがバッハを弾いているのは知っていた。
自宅ではよくバッハを弾いている、とも別のインタヴューで答えている。
ピアノでバッハを弾くことは好きだし、問題ないと思っている、とも。

「考える人」2005年春号では、こんなことを語っている。
     *
 音楽にとって心と体は本当に大事。曲によっては演奏する私の体の使い方も違ってきます。ベートーヴェンのように私とは根本的に肉体の種類が違う人の曲をのめり込んで弾いていくと、私の体がどんどん変わって行くのがわかります。体が変わっていかないと、また逆に弾けない。変わったほうがましになるとは限らないんだけど、弾いているほうとしては変わっていくのは面白いです。
     *
一人の作曲家の曲をのめり込んで弾いていくことでも体は変っていくし、
齢とともに体は変る。

内田光子の、70でバッハを、にはそんなことも意味しているのだろうか。
そう遠くないうちに、内田光子のバッハは聴けるようになるであろう。

けれど人はいつ死ぬのか、わからない。
まだまだ生き続けるつもりの私だって、いつくたばるのかはわからない。
まだまだ先のことと油断していると……、となるかもしれないが、
この人の平均律クラヴィーアを私は聴きたいし、
聴けるようになるまではしっかり(しぶとく)生きのびたい。

Date: 4月 29th, 2017
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その19)

ここで改めて、なぜグレン・グールドはコンサートをドロップアウトしたのか、
その理由について考えてみる。

こうだ! というはっきりとした大きな理由がひとつだけではないと思う。
いくつもの理由があって、それらがつながっていった瞬間に、
何かがグレン・グールドには見えてきてのコンサート・ドロップアウトなのかもしれない。

「考える人」2005年春号に、内田光子のインタヴュー記事が載っている。
     *
 生の演奏は、どんなに危険が多くても、これほど面白いものはないと思います。レコーディングは手先のものが入ってくることがあるんです。グレン・グールドはさらにその先に行って、切ったり繋げたりしてやっていたわけですけど、私にはその楽しみはいらないんです。私からいわせれば、それほど自分が大事じゃないから。もちろんグールドはそんな細かなことも超えて凄いものがあった人です。だけれども、私はそういう意味では自我はさほど強くない。やっぱり生の演奏で、音楽を分かち合う瞬間がイチバンなんです。
     *
この内田光子のことばには、納得した。
生の演奏を、これほど面白いものはない、と思う内田光子と、
コンサート・ドロップアウトをしたグレン・グールド、
どちらも私はずっと聴き続けている。

内田光子とグレン・グールド、
正反対の二人とも思える。
けれど、二人は冒険というところで同じだ、ということに、内田光子のことばは気づかせてくれた。

Date: 4月 29th, 2017
Cate: 4345, JBL

JBL 4345(4347という妄想・その3)

JBLの4343の前身は4341。
4341という型番を43と41に分けると、どちらも素数である。
4343も同様に43と43に分ければ、当然だけど素数である。
4341、4343は素数ではないけれど。

4345は43と45だから、45は素数ではない。
4345の改良モデルが現実に登場して4347という型番になっていたら、
43と47で、どちらも素数になる。

ただこれだけのことで、4347は、いいスピーカーになりそうな予感を勝手に持っていた。
4347は登場しなかったが、
JBLからは4348という、4343の後継モデルを出した。

43と48だと43だけが素数。
4348も素数ではないが、
この4348が改良されて4349になっていたら、
43と49で49は素数ではないけれど、4349は素数である。

型番の数字など、音とはまったく関係がない──、
確かにそうではあるけれど、何かそこにはひとつの法則があるような気がしている。
昔からずっとそうである。

Date: 4月 28th, 2017
Cate: audio wednesday

第76回audio wednesdayのお知らせ(新アンプで鳴らす)

4月のaudio wednesdayのことは以前書いている。
六本木にあるハーマンインターナショナルのショールームに、
常連のAさんとKさんと一緒に行った後に、夜、audio wednesdayだった。

4月のaudio wednesdayは、Kさん一人だった。
それが理由ではないが、喫茶茶会記の通常のセッティングのままの音出しをした。

セッティングをするのが面倒に思えた、というよりも、
音出しが終った後の片付け、つまり通常のセッティングに戻すのが億劫に感じられて、
いつもの音を聴いているKさんだから……、ということに甘えていたところもあった。

音出しを行っていたのは、喫茶茶会記の三つある空間のLルームである。
その奥にSルームがあり、手前に喫茶室がある。

喫茶室には喫茶茶会記のお客さんが来られる。
この日も、来られていた。

Lルームは特別な遮音がなされているわけでなく、
喫茶室の方にも音は漏れる。

鳴っている音楽(音)に興味をもった人が、
ときどき覗かれることもある。
「いいですか」といって少しの間、聴いていかれる人もいる。
4月のaudio wednesdayの時もそうだった。
ちょうどバーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」を鳴らしている時だった。

この時、反省していた。
こういうことがあるのはわかっていた。
だからきちんと鳴らしておくべきだった、と。

4月の音出しは、手抜きだった。
というよりも、何もしていなかった。
その音を聴かせてしまった、と反省している。

きちんとセッティングした音を聴いてもらっていたら、
オーディオを介して音楽を聴くことに興味を持ってもらえたかもしれない。

今後は、人が少なかろうと、
体調不良であろうと、億劫に感じるときでも、
きちんとしたセッティングをこころがける。

5月のaudio wednesdayは3日、夜7時から、
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 4月 28th, 2017
Cate: オーディオ評論, 選択

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その2)

B&Wの800シリーズの評価は、常に高い、といっていいし、
新型が出るたびに評価はあがっていく。
にも関わらず、オーディオ評論家で自家用として鳴らしている人はいない。

ここでいうところのオーディオ評論家とは、
私の場合、主にステレオサウンドに執筆している人ということになる。
他のオーディオ雑誌に執筆されている人に関しては触れないことにしている。

800シリーズは、ステレオサウンドでの評価が最も高いといえるし、
ステレオサウンドではリファレンススピーカーとしていること、
それに他のオーディオ雑誌に執筆している人のシステムに私が詳しくないこともある。

こういうことを指摘すると、
たいていは、こんな答が返ってくる。
「仕事用のスピーカーと趣味用のスピーカーは違うから」

これももっともらしい答で、これで納得する人もいるかもしれないが、
そんなお人よしな性格のオーディオマニアは少ないのではないか。

まずオーディオ評論家にとって、
自身のリスニングルームは、ひとりの音楽愛好家として音楽を聴く場であるとともに、
オーディオ評論家としての仕事場でもある。

そこにメーカーや輸入元からアンプやCDプレーヤーその他を持ち込まれて試聴もする。

もちろん、ここでも、こんなことはいえる。
B&Wの800シリーズの音を聴くと、仕事モードの耳になってしまうから、と。

ならば自家用として鳴らしているスピーカーでは、仕事モードの耳にならない、とでもいうのか。
それでは自宅に持ち込まれたオーディオ機器の試聴はできない、という道理になる。

でも実際にはそうではない。

それに仕事モードの耳とは、どういうことなのか。
細かな音の違いを聴き分けようとする耳のはずだ。

これはオーディオを仕事としていない人でも、そういうモードの耳で聴くことは当り前にある。

それとも仕事モードの耳は、もっと違うことなのか。
このメーカーの製品はほめておかなければならない、とか、
そういったことを考えながら聴く耳が、仕事モードの耳とでもいうのか。

Date: 4月 27th, 2017
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その8)

このテーマについて書いていて、ふと思い出したのが、
瀬川先生が以前書かれたものだ。
     *
 オーディオの再生の究極の理想とは、原音の再生だと、いまでも固く信じ込んでいる人が多い。そして、そのためのパーツは工業製品であり電子工学や音響学の、つまり科学の産物なのだから、そこには主観とか好みを入れるべきではない。仮に好みが入るとしても、それ以前に、客観的な良否の基準というものははっきりとあるはずだ……。こういうような考え方は、一見なるほどと思わせ、たいそう説得力に満ちている。
 けれど、オーディオ装置を通じてレコードを(音楽を)楽しむということは、畢竟、現実の製品の中からパーツを選び組合わせて、自分自身が想い描いた原音のイメージにいかに近づくかというひとつの創造行為だと、私は思う。いや、永いオーディオ歴の中でそう思うようになってきた。客観的な原音というものなどしょせん存在しない。原音などという怪しげなしかしもっともらしい言葉にまどわされると、かえって目標を見失う。
(ステレオサウンド別冊「続コンポーネントステレオのすすめ」まえがき より)
     *
1979年においても、「いまでも」とある。
ここからすでに38年が経っているが、この「いまでも」はそのままといえる。

《オーディオの再生の究極の理想とは、原音の再生だと、いまでも固く信じ込んでいる人》、
そういう人が、もしかするとケーブルでは音は変らない、
そんなことで音は変化しない、それらはすべてオカルトだ、
と決めつけている人と重なってしまう。

ケーブルで音は変らない、という人のすべてが
「究極の理想とは、原音の再生」と固く信じ込んでいるわけではないと思うし、
原音再生こそ理想と信じ込んでいる人のすべてが、
ケーブルで音は変らない、といっているわけでもないだろうが、
両者には、客観的な良否の基準、客観的な原音、主観の排除といった、
《一見なるほどと思わせ、たいそう説得力に満ちている》考え方が根底に共通している──、
私にはそう感じられてしまう。

《怪しげなしかしもっともらしい言葉》、
それは時として数字であったりする。

Date: 4月 27th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その7)

本人が、自分は常識人だ、といっているから、そのまま鵜呑みにしているわけではない。

知人に「自己破滅型なんですよ、自分は……」といっていた男がいる。
少し誇らしげに、知人は、そう言っていた。

彼をあまり知らない人は、自己破滅型かも……、と思っていたようだが、
知人をよく知っている人(私も含めて)は、そうは思っていなかった。

誰と話していたのかは書かないが、
その人との会話で、知人のことが出てきた。
その人も私も、知人のことを「自己破滅型に憧れている安定志向型」ということで一致した。

知人の自己破滅型は、いわば演出といえよう。
周りからそう思われたいという願望からの演出だったのかもしれないし、
それは、かなりうまくいっていた、ともいえる。

でも、わかっている人には、そうでないことはバレていた。

私の見当違いの可能性を完全には否定できないが、
少なくとも私と同じに知人のことを見ていた人は、
私よりもずっと先輩で、見識をもつ人である。

そういう知人の例を知っているだけに、
本人が常識人とか自己破滅型といっていたとしても、そのまま信じるわけではないが、
常識人という長岡鉄男氏は、知人の例とは違う、と感じている。

長岡鉄男氏は、確かに常識人であり、
常識人であるからこそ、あれだけ多くのファン(読み手)がいたのだと思うのだ。

Date: 4月 27th, 2017
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(その13)

マッキントッシュ(パソコンの方)を使いはじめて一年くらい、
プログラミングに挑戦しようと思った。
まだ漢字Talk7がOSだった時代である。

プログラミングに必要なアプリケーションを買った。
書店に行き、プログラミングを勉強するための本も買った。

意気込みだけはあったけれど、すぐに挫折した。
それから数年後、また挑戦しようとした。
またアプリケーションを買った、そのための本も買った。

この時も挫折した。
それからはプログラミングの本も手にすることはなくなった。
最近のプログラミングの本が、どういう内容なのかは知らない。

20年ほど前のプログラミングの本は、
まずウィンドウに”Hello”の文字を表示させるためのプログラムを書くことから始まっていた。
いまはどうなんだろうか。

これは簡単にできる。
できるとはいえ、アプリケーションの構造が、わかるようになったわけではない。

私が、そのころのプログラミングの本に共通して感じていた不満は、ここにある。
私だったら、こういう構成の本はつくらないのに……、と思っていた。

私だったら、まずアプリケーションの大まかな構造をわかりやすく説明することから入る。
実際のワープロのアプリケーション、グラフィックのアプリケーションがどうなっているのか。
つまり、まず全体像を把握したうえで、それを分解しながら、
全体を構成する個々のパーツ(ディテール)を理解する──、
というやり方もあっていいのではないだろうか。

人にはやり方の向き不向きはある。
プログラミングを仕事としている人にとっては、
従来通りの本のつくり方が合っているのかもしれない。

けれど、いわゆる日曜プログラマーぐらいを目指している者にとっては、
そうではないやり方の方が合っている場合だってあろう。

Date: 4月 26th, 2017
Cate: audio wednesday

第76回audio wednesdayのお知らせ(新アンプで鳴らす)

5月のaudio wednesdayは3日。

喫茶茶会記のアンプが、
マッキントッシュのMA2275からMA7900に替っての一回目となる。

マッキントッシュのアンプというだけで、
一部のオーディオマニアは、どうせマッキントッシュだろう……、
そんなことをいう人がいる。

そういう人は続けて、こんなこともいう。
「代り映えしないだろう」と。

マッキントッシュのアンプは、古いモノも新しいモノも、
マッキントッシュのアンプという括りができるところは確かにある。

音は、聴かなければわからないものである。

同じマッキントッシュのアンプということで、予想がつくところはある。
その予想が大きくは外れていないであろう、ともいえる自信はある。
それでも、音は聴かなければわからないものであるし、
それでも初めて聴くオーディオ機器に接するのに、
斜に構えていて、何が楽しいのだろうか。

発見する楽しみを忘れてしまった聴き方は、不幸な聴き方でもある。

5月のaudio wednesdayは、まずMA7900の音とMA7900というアンプを楽しもう、と思う。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 4月 26th, 2017
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その9)

「手強い」スピーカーは、減ってきているような気もしている。
代りに増えてきたのは、要求の多い、小難しいスピーカーのような気もしている。

「手強い」スピーカーも要求の多いスピーカーではないか、と思われるかもしれないが、
私はそうは思っていない。
「手強い」と要求の多いとは別のことである。

「手強い」スピーカーばかりが減ってきているのだろうか。
「手強い」鳴らし手も、また減ってきているのかもしれない。

「手強い」スピーカーが減ってきたから、
「手強い」鳴らし手も減ってきたともいえるだろうし、
「手強い」鳴らし手が少なくなってきたから、
「手強い」スピーカーも登場しなくなってきた、ともいえよう。

「手強い」ということが、スピーカーだけに限らず、
他のところでも失われつつあるような気がしてならない。

オーディオ雑誌の読み手に関してもそうだ。
「手強い」読み手は、どのくらい減ったのだろうか。