Date: 4月 29th, 2017
Cate: 孤独、孤高
Tags:

毅然として……(その19)

ここで改めて、なぜグレン・グールドはコンサートをドロップアウトしたのか、
その理由について考えてみる。

こうだ! というはっきりとした大きな理由がひとつだけではないと思う。
いくつもの理由があって、それらがつながっていった瞬間に、
何かがグレン・グールドには見えてきてのコンサート・ドロップアウトなのかもしれない。

「考える人」2005年春号に、内田光子のインタヴュー記事が載っている。
     *
 生の演奏は、どんなに危険が多くても、これほど面白いものはないと思います。レコーディングは手先のものが入ってくることがあるんです。グレン・グールドはさらにその先に行って、切ったり繋げたりしてやっていたわけですけど、私にはその楽しみはいらないんです。私からいわせれば、それほど自分が大事じゃないから。もちろんグールドはそんな細かなことも超えて凄いものがあった人です。だけれども、私はそういう意味では自我はさほど強くない。やっぱり生の演奏で、音楽を分かち合う瞬間がイチバンなんです。
     *
この内田光子のことばには、納得した。
生の演奏を、これほど面白いものはない、と思う内田光子と、
コンサート・ドロップアウトをしたグレン・グールド、
どちらも私はずっと聴き続けている。

内田光子とグレン・グールド、
正反対の二人とも思える。
けれど、二人は冒険というところで同じだ、ということに、内田光子のことばは気づかせてくれた。

Leave a Reply

 Name

 Mail

 Home

[Name and Mail is required. Mail won't be published.]