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Date: 9月 27th, 2017
Cate: 再生音

実写映画を望む気持と再生音(GHOST IN THE SHELLとあるスピーカーの音)

古くからの友人でありオーディオ仲間のKさんから、
SNSでのメッセージが来た。

そこには、いま聴いているスピーカーのことが書いてあった。
短いけれど、彼が昂奮しているのが伝わってくるものだった。

どのスピーカーなのかは、いまは書かない。
私はまだ聴いていないスピーカーのことだから。

Kさんのメッセージのなかに、テクスチュアという単語があった。
そうだろうな、やっぱりな、と思いつつ、
Kさんが昂奮しているのは、私が春に「GHOST IN THE SHELL」を、
IMAXで観ての昂奮と、実のところ同じなのかもしれない、とも考えていた。

Kさんは、それを耳で聴き、私は目で観た。
ふたりとも、(おそらく)同じ昂奮を味わった(のだろう)。

Date: 9月 27th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

あえて無題

 ラックスのオーディオ・サルーンという催しが、一部の愛好家のあいだで知られている。毎土曜日の午後と、それに毎月一回夜間に開催されるこのサルーンのメーカー色が全然無く、ラックスの悪口を平気で言え、またその悪口を平気で聞き入れてもらえる気安さがあるのでわたくしも楽しくつきあっているが、ここ二年あまり、ほとんど毎月一回ずつ担当している集まりで、いままで、自分のほんとうに気に入った音を鳴らした記憶が無い。催しのほとんどはアルテックのA5で鳴らすのだが、そしてわたくしの担当のときはスピーカーのバランスをいじり配置を変えトーンコントロールを大幅に調整して、係のT氏に言わせればふだんのA5とは似ても似つかない音に変えてしまうのだそうだが、そこまで調整してみても所詮アルテックはアルテック、わたしの出したい音とは別の音でしか、鳴ってくれない。しかもここで鳴らすことのできる音は、ほかの多くの、おもに地方で開催されるオーディオの集いで聴いて頂くことのできる音よりは、それでもまだ別格といいたいくらい良い方、なのである。しかし本質的に自分の鳴らしたい音とは違う音を、せっかく集まってくださる愛好家に聴いて頂くというのは、なんともつらく、もどかしく、歯がゆいものなのだ。
 で、ついに意を決して、9月のある夜の集いに、自宅のJBL375と、パワーアンプ二台(SE400S、460)と、特注マルチアンプ用チャンネル・フィルターを持ち出して、オールJBLによるマルチ・ドライブを試みることにした。ちょうどその日、ラックスの試聴室に、知友I氏のJBL520と460、それにオリムパスがあったためでもある。つまりオリムパスのウーファーだけ流用して、その上に375(537-500ホーン)と075を乗せ、JBLの三台のパワーアンプで3チャンネルのマルチ・アンプを構成しようという意図だ。自宅でもこれに似た試みはほぼ一年前からやっているものの、トゥイーターだけはほかのアンプだから、オールJBLというのはこれが最初で、また、ふだんの自宅でのクロスオーバーやレベルセットに対して、広いリスニングルームではどう対処したらよいか、それを実験したいし、音はどういうふうに変るのか、それを知りたいという興味もあった。
(中略)
 そこで白状すれば、わが家の375(537-500ホーン)は、ほぼ一年あまり前から、マルチ・アンプ・ドライブでのヒアリングの結果からクロスオーバーを700Hzに上げて、いちおう満足していた。500Hzではどうしてもホーン臭さを除ききれず、しかし700Hzより上げたのではウーファーの方が追従しきれないという、まあ妥協の結果ではあったが。
 ところでラックスのサルーンでの話に戻る。ふだん鳴らしている8畳にくらべると、広い試聴室だけにパワーも大きく入る。すると375が700Hz(12dBオクターブ)ではまだ苦しいことがわかり、クロスオーバーを1kHzまで上げた。しかしこうすると、ウーファー(LE15A)の中音域がどうしても物足りない。といってクロスオーバーを下げてホーン臭い音を少しでも感じるよりはまあましだ。075とのクロスオーバーは8kHz。これでどうやら、ホーン臭さの無い、耳を圧迫しない、やわらかくさわやかで繊細な、しかし底力のある迫力で鳴らすことに、一応は成功したと思う。まあ70点ぐらいは行ったつもりである。
 むろんこれは自宅で鳴っている音ともまた違う。けれど、わたくしがJBLの鳴らし方と指定とした音には近い鳴り方だし、言うまでもなくこれまでアルテックA5をなだめすかして鳴らした音とはバランスのとりかたから全然ちがう。ここ2年あまりのこの集まりの中で、いちばん楽しい夜だった。
 と、ここからやっと、ほんとうに言いたいことに話題を移すことができそうだ。
 このサルーンは人数も制限していて、ほとんどが常連。まあ気ごころしれた仲間うちのような人たちばかりが集まってきて、「例のあれ」で話が通じるような雰囲気ができ上っている。そうした人たちと二年顔を合わせていれば、わたくしの好みの音も、意図している音も、話の上で理解して頂いているつもりで、少なくともそう信じていた。ところが当夜JBLを鳴らした後で、常連のひとりの愛好家に、なるほどこの音を聴いてはじめてあなたの言いたいこと、出したい音がほんとうにわかった、と言われて、そこで改めて、その音を鳴らさないかぎり、いくら言葉を費やしても、結局話は通じないのだという事実に内心愕然としたのである。説明するときの言葉の足りなさ、口下手はこの際言ってもはじまらない。たとえばトゥイーター・レベルの3dBの変化、それにともなうトーン・コントロールの微調整、そして音量の設定、それらを、そのときのレコード、その場の雰囲気に合わせて微細に調整してゆくプロセスは、結局、その場で自分がコントロールし、その結果を聴いて頂けないかぎり、絶対に理解されない性質のものなのではないかという疑問が、それからあと、ずっと尾を引いて、しかもその後全国の各地で、その場で用意された装置で持参したレコードを鳴らしてみたときの、自分の解説と実際にその場で鳴る音との違和感との差は、ますます大きく感じられるのである。自分の部屋のいつも坐る場所でさえ、まだ理想の半分の音も出ていないのに、公開の場で鳴る音では、毎日自宅で聴くその音に似た音さえ出せないといういら立たしさ、いったいどうしたらいいのだろうか。音は結局聴かなくてはわからないし、しかしまた、どんな音でも聴かないよりはましなどとはとうてい思えない。むしろ鳴らない方がましだと思う音の方が多すぎる。
     *
瀬川先生が、ステレオサウンド 25号に書かれた「良い音とは、良いスピーカーとは?」からの引用だ。
今回、タイトルをあえてつけなかったのは、
この瀬川先生の文章は、「音を表現するということ(間違っている音)」に関係してくるだけでなく、
「ショウ雑感」にも私のなかではむすびついていく。
それにaudio wednesdayで、音を鳴らすようになったから、私自身にも関係してくるからだ。

Date: 9月 26th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

文行一致(その3)

(その1)と(その2)でいいたいことは書いた。
これ以上書くのは蛇足だと、私は思っている。

けれど、(その1)と(その2)だけでは、
説明不足なのかはわかっている。

わかっているけれど、
あれだけでわかってくれる人もいるはずだ、と思っている。

それでも(その3)、(その4)と書いていかなければならないのが、
現在(いま)の世の中なのも、わかっているつもりだ。

Date: 9月 26th, 2017
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その8)

間違っている音を出していた男は、はっきりとナルシシストである。

本人にその自覚があるように感じるときもあれば、
そうでないように感じるときもあったから、
本人が自覚していたのかどうかははっきりしないが、
少なくとも私だけでなく、間違っている音を出していた男とつきあいのあった人の多くが、
ナルシシストだといっているから、
私だけのひとりよがりではないのだろう。

別にナルシシストであってもいい。
けれど、それがことオーディオ、音に関係してくると、
どうしても何か言いたくなるのが、私の性格だ。

間違っている音を出していた男は、
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」と私を誘った。
七年前のことだ。

その6)でも書いているように、
彼は瀬川先生に会ったことはない。
あったことがないのだから、瀬川先生の音を聴いてもいない。

にも関らずナルシシストの彼は、
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」と恥ずかしげもなくいう。
そのとき、たいしたナルシシストだ、と思っていた。

もちろん彼の音が、瀬川先生の音を彷彿とさせるなんて、
まったく期待していなかった。
それでも、彼なりの、ナルシシストとしての美意識が反映された音であるならば、
聴いてみたいという好奇心はあった。

けれど、そこで鳴っていたのは、
残念なことに美的ナルシシズムではなく、醜的ナルシシズムとしかいいようのない音だった。

美少年も歳をとる。
皺が増え、皮膚も弛んでくる、
体形も変ってくる、腰まわりには脂肪がついてくるし、
髪の毛だって白髪になったり、抜け毛も増えてこよう。

ナルキッソスはそうなっても、己の姿を水に映してうっとりするのだろうか。
もっともナルキッソスは、その前に死んでいるのだが。

だが現実のナルシシストは、みな老いていく。

Date: 9月 26th, 2017
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その6)

逸脱気味,逸脱しているといえるヘッドフォン・イヤフォンが増えている──、
そう仮定したとして、その理由にはどんなことが考えられるか。

それはひとつだ、と思う。
スピーカーで音楽を聴く人が減ってきて、
ヘッドフォン・イヤフォンのみで音楽を聴く人が増えてきたからではないのか。

昔もヘッドフォンのみ、という人はいた。
オーディオ雑誌に執筆されていた人でも、名前ははっきりと思い出せないが、
ひとりおられた。
たしかフォンテックリサーチのコンデンサー型ヘッドフォンを愛用されていた。

オーディオマニアのなかにも、ヘッドフォンでしか音楽を聴かない、という人はいたと思う。
けれど、割合としては、いまよりはずっと少なかったはずだ。

だからこそスピーカーにはスピーカーの役割、
ヘッドフォンにはヘッドフォンとしての役割が、
共通認識として、ひとつあった、と思っている。

けれど、いまはスピーカーを持たない人がいる。
増えているようだ。
そうなってくると、
ヘッドフォンのヘッドフォンとしての役割にも変化が生じてきて当然である。

Date: 9月 26th, 2017
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その5)

たしかにいまはヘッドフォン・イヤフォンはブームである。
定着している、とさえ思うほどに、
ヘッドフォン・イヤフォンのムックは出版されるし、専門店もある。

ブランドの数もかなり増えている。
製品数も増えたし、価格のレンジも広がっている。

まさに百花繚乱、といいたいけれど、そこはためらう。
ためらうとともに、
優れたヘッドフォンは、感覚の逸脱のブレーキ、と表現されたのは菅野先生。

そのとおりだと思っているから、この項を書いているわけだが、
どうも最近のヘッドフォン・イヤフォンのなかには、
逸脱気味の製品が増えはじめているのではないか、と思えてきた。

過去にもそういう製品はあったであろうが、
最近のほうが目立ってきているように感じることがある。

具体的にどの製品が、とは書かない。
ヘッドフォン・イヤフォンを同条件で比較試聴しているわけではないし、
私が聴いてるのは全体の製品数の一部にすぎない。

私が思っている以上に、
逸脱気味、さらには逸脱しているヘッドフォン・イヤフォンがある可能性も考えられる。
だから、いまのところ私が逸脱気味、逸脱していると感じている製品について、
具体的なことは書かないが、そういう製品であっても、
意外に(そう感じるのは私だけなのか)高評価であったりする。

そういう製品を全否定はしないけれど、
この項を書き続けるにあたっては、優れた製品、
つまり感覚の逸脱のブレーキ役にもなってくれるヘッドフォン、イヤフォンを、
自分の耳で探していかなければならないし、
そういう製品に関しては具体的に書いていく必要も出てきた。

それにしても、製品数のなんと多いことか。

Date: 9月 25th, 2017
Cate: 107, KEF

KEFがやって来た(その15)

KEFのModel 105とModel 107の違いは、
LS3/5A的といえるHEAD ASSEMBLYと、
低域の拡充をはかるとともに、その関係性において、である。

107では、低域の拡充を実現しながらも、
音源の大きさとしてはHEAD ASSEMBLYの大きさが、そうといえるわけだ。

105では、HEAD ASSEMBLYの下に30cm口径のウーファーがあるから、
音源の面積としては、大きい。

107がダクトをエンクロージュア正面もしくは底部に設けていたら、
音源の面積は小さくまとめられなかった。

エンクロージュア上部にダクトをもってきたということは、
低域の拡充とともに音源をできるだけ小さくまとめるためであったと思う。

LS3/5A(特に15Ω仕様)は、神経質なところをやや感じさせながらも、
インティメートな存在であった。
それは至近距離で聴くということと無関係ではない。

ところが低域の拡充のため、
30cm口径クラスのウーファーをもってくると、
そんな至近距離で聴くことは難しくなる。
少なくとも、LS3/5A単体よりも離れて聴くことになり、
低域の拡充を得られた反面、インティメートな雰囲気は薄れてしまう。

Model 107を見ていると、LS3/5Aのそういった聴き方も可能なように思えてくる。
LS3/5A単体を聴くのと同じくらいの至近距離で聴いても、
107は、通常のウーファー方式採用のスピーカーシステムのようなことにはならないはずだ。
(実はまだModel 107は鳴らしていない)

もちろん107クラスの大きさの、他のスピーカーと同じように、
ある程度の距離をとっての聴き方もできる。
むしろ、こちらの聴き方のほうがKEF推奨の聴き方なのだろうが、
107には、もうひとつの聴き方が隠されているようにも感じる。

そのことに気づいた鳴らし手だけが味わえる世界が、107には用意されている。

Date: 9月 25th, 2017
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その6)

(その4)で、スピーカーが出してくる音とのコミュニケーション、とか、
(その5)で、スピーカーの本能、とか、
読む人によっては、わけのわからないことを書き始めたと思われようが、
コミュニケーションのとれるモノととれないモノは、はっきりとあると思っている。

オーディオのなかでは、特にスピーカー。
コミュニケーションのとれるスピーカーと、
コミュニケーションを拒絶しているかのようなスピーカーがある。

コミュニケーションがとれるとれないは、
スピーカーの性能、価格といったこととはあまり関係がない。

世評の高いスピーカーであっても、
私にはコミュニケーションがとれない、と感じるモノが、いまのところある。
その数は、少しずつ増えていっているようにも感じる。

そういうスピーカーは精度の高い音を出す。
そのことはたいしたことである。
ここまで出る(出せる)ようになったのか、と感心しながら聴きながらも、
欲しい、と感じさせないのは、
価格のことではなく、コミュニケーションの不在があるように感じるからだ。

少しでもいい音で聴きたい、いい音を鳴らしたい、とおもうからこそ、
あれこれこまかなセッティングやチューニングをやっていく。
そうすることで、音は少しずつ良くなっていく。
音は裏切らないからだ。

コミュニケーションがとれると感じるスピーカーでも、
とれないと感じてしまうスピーカーでも、そのことに関しては同じだ。

セッティングやチューニングに応えてくれているからこそ、音は良くなっていくわけだ。
ならば、応えてくれるということこそコミュニケーションではないのか、と考えもするが、
そういうことではない、と即座に否定する。

Date: 9月 25th, 2017
Cate: ディスク/ブック

オーヴェルニュの歌

カントルーブの「オーヴェルニュの歌」といえば、
ネタニア・ダヴラツの歌唱が有名であっても、
私が最初に聴いたのは、キリ・テ・カナワとフレデリカ・フォン・シュターデのどちらかだった。

ダヴラツの「オーヴェルニュの歌」を聴いたのは、CDになってからだった。
そのCDも、もう手元にはない。

聴きたくなることはある。
岡先生によるダヴラツの「オーヴェルニュの歌」のCDの紹介記事を読んでいたから、
無性に聴きたくなっていた。
その数日後、タワーレコードからのニュースで、
ダヴラツの「オーヴェルニュの歌」のリマスター盤が出ることを知った。

発売日は来月である。
少し待たねばならないが、このくらいならしんぼうできる。

Date: 9月 25th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

375+537-500

375+537-500、
こんなふうに書いておくと、
若い人は、何のことだろう……、と首をかしげるかもしれない。

小学生の算数の問題ではない。
JBLのコンプレッションドライバーとホーンの組合せの型番である。

537-500は、のちのHL88である。
日本では蜂の巣とも呼ばれているホーンである。

HL88、蜂の巣ホーンといったほうがとおりがいいのは分っている。
それでも、この数式のような型番(375+537-500)が、
このドライバーとホーンの組合せにしっくりくると感じるのは、憧れからだろうか。

私がオーディオに興味をもちはじめたころには、
537-500という型番は消えていた。HL88である。
Hはホーン(horn)、Lはレンズ(lens)をあらわしている。

無線と実験の1966年12月臨時増刊に、瀬川先生が書かれている。
     *
 中心をなすものはJ.B.Lansingの375ドライバー・ユニットに537-500ホーンに組み合わせたスコーカーで、中音に関しては目下のところ非常に満足している。375ユニットは、ボイスコイル径が4インチ(約10cm)、磁束密度20000ガウス以上という、漬物石の如き超大型のユニットで、ホーンをつけると一人では持ち上げるのに骨がおれる。
 JBLのスピーカーについては、鋭いとか、パンチがきいたとか、鮮明とか、およそ柔らかさ繊細さとは縁の無いような形容詞が定評で、そのJBLの最大級のユニットを、6畳の和室に持ちこんだ例を他に知らないから、友人たちの意見を聞いたりもしてずいぶんためらったのだが、これより少し先に購入したLE175DLHの良さを信じて思い切って大枚を投じてみた。サンスイにオーダーしてからも暑いさ中を家に運んで鳴らすまでのいきさつはここではふれないが、ともかく小生にとって最大の買い物であり、失敗したら元も子もありはしない。音が出るまでの気持といったらなかった。
 荒い音になりはしないか、どぎつく、鋭い音だったらどうしようなどという心配も杞憂に過ぎて、豊麗で繊細で、しかも強靭な底力を感じさせて、音の形がえもいわれず見事である。弦がどうの声がどうのというような点はもはや全く問題でないが、一例をあげるなら、ピアノの激しい打鍵音でいくら音量を上げても、くっきりと何の雑音もともなわずに再現する。内外を通じて、いままでにこれほど満足したスピーカーは他に無い。……まあ惚れた人間のほうことだから話半分に聞いて頂きたいが、今日まで当家でお聴き頂いた友人知人諸氏がみな、JBLがこんなに柔らかで繊細に鳴るのをはじめて聴いたと、口を揃えて言われるところをみると、あながち小生のひとりよがりでもなさそうに思う。
     *
1966年8月に、瀬川先生の六畳間のリスニングルームに、
375+537-500はおさまっている。

山水電気扱いで、日本で最初に375+537-500を購入されたのは、瀬川先生である。
六畳間に、このホーンとドライバーを置くと、2441+2397とは違う存在感がある。
実際に、いま目の前に375+537-500がある

私のモノではなく、預かりものなのだが、
ハークネスの上に置いて眺めている。

375+537-500の下には、175DLHがある。
375+537-500の横には、馬蹄型の金具がついた075がある(これも預かりもの)。
それからスロートアダプターの2329ものっけている。
LE85のダイアフラムが木箱に入っているのもある。
Ampex-Lansingの800Hzのネットワークも、
エレクトロボイスの1828Cも置いている。

ハークネスの手前には、2441+2397がある。

瀬川先生が1966年ごろ、毎日眺められていた光景に近くなってきた。

Date: 9月 25th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

文行一致(その2)

ステレオサウンドは62号、63号で、
「音を描く詩人の死」を掲載している。

そのなかで、ずっとひっかかっていたことがある。
     *
 その先輩の一人、金井稔氏が追悼文のなかでいみじくも書かれたように
〝彼は自分の感性に当惑していたのであろう。〟
     *
金井稔氏による追悼文とは、おそらくラジオ技術に掲載されたものだろう。

《彼は自分の感性に当惑していたのであろう》
どこか大きな図書館に行けば、その追悼文全文が読めるのだが、
なぜかしていない。

前後にどういうことが書かれていたのか、はっきりしない。
はっきりしないから、よけいに《彼は自分の感性に当惑していたのであろう》が、
私の心に残り続けている。

ほんとうに瀬川先生は《自分の感性に当惑していた》のだろうか。
金井稔氏と瀬川先生のつきあいは長い。
瀬川先生が高校生だったころからのつきあいである。

だから、そうなのだろう……、と思いつつも、
一方で常にそうなのだろうか……、とも思っていた。

そこに、貝山知弘氏の「文行一致」があった。
貝山知弘氏の書かれたものを、あらためて読んで、
文行一致と《彼は自分の感性に当惑していたのであろう》が結びついた。

そうだったのか、とおもう。
いまになって、やっとそうおもう。

Date: 9月 24th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

文行一致(その1)

サプリーム 144号を、また読んでいる。
何回目だろうか。

最初に読んだのは、ステレオサウンドにいるときだった。
1982年春のことだ。

35年という月日は短くはない。
当時の読み方の浅かったことを、いま感じている。

文行一致、
貝山知弘氏が、そう表現されている。
     *
 氏は、「ステレオサウンド」26号〝いわば偏執狂的なステレオ・コンポーネント論〟のなかで、次のように書いている。
〝ものを創るでも選ぶでも、味わうでもいい。文学でも美術でも、何でもいい。人間の生み育てた文化どれひとつとりあげてみても、ひとつの物事をつきつめて考えたり味わったり選び分けたり創造したりしていくプロセスに真剣であれば、必ず、ある種の狂気に似た感情を経験するので、またそういうところを通り抜けた人にだけ、物は、ほんとうの姿を見せてくれる。長い年月の積重ねと暗中模索と失敗のくりかえしが、それを教えてくれる。本ものを創り、選び、使いこなすのは、そういう体験を経た人に限られると言っても言いすぎではないだろう。しかしそれはいかに努力の要ることか……〟
 これは、オーディオの名器と呼ばれ、趣味、洗練の極みとして生まれた製品についての記述てのだが、注目に価するのは、この一文のなかで、氏は、同時に、自己を語っていることだ。こうした氏の〈物〉に対する根本的な思想──優れた器は人間の精神の所産であるといする思想は、氏が技術誌に投稿していた頃と、全く変わってはいない。
 昭和36年4、5月に、「ラジオ技術」に連載した一文のなかで、氏は、同じテーマを語っている。しかし、その表現は、きわめて簡潔だ。
〝再生装置には、その製作者の思想があらわれてくるものである〟
 このアフォリズムは、その簡潔さ、その明快さ故に力があるが、まだ、氏の人生の影は投影されてはいない。前述の引用文からは、自らを語り、自らの人生を表現と一致させようという強い指向を感じとることができる。
 言行一致という言葉がある。この言葉を借りるなら、氏の指向した世界は、文行一致であると、ぼくは思う。自ら表現した美意識の世界に、自らを一致させようとする指向。それは、文字どおり、狭き道であり、克己心の要る作業である。美意識を生むのもひとつの欲望であるとするならば、それは同時に、自らの現実の欲望をいっぽうで絶たねばならぬという皮相な結果も招きやすい。氏の現実の欲望がなんであったか、うかがい知ることはなかったが、ぼくの仮定が正しいとするなら、美意識の界化と現実のギャップとの間にある氏の相克は、想像を絶するものがあったに相違ない。
     *
貝山氏は、この追悼文を書くにあたって、髭を剃った、と書かれている。
無意識のうちに、である。

畏敬の念がそうさせた、とも。

Date: 9月 24th, 2017
Cate: 107, KEF, 試聴/試聴曲/試聴ディスク

KEFがやって来た(番外・table B)

KEFのModel 107のtable Bであげられているディスクは、
クラシックに関しては作曲家と作品名、それとレーベルとディスク番号のみ。
少し不親切に思えるだろうが、
Model 107の発売された1986年当時であれば、
それだけでどのディスクか、クラシックを聴いていた人ならばすぐにわかるし、
いまはインターネットがあるから、レーベルとディスク番号を入力して検索すれば、
どのディスクで、誰の演奏なのかは、すぐにわかる。

サン・サーンス:ピアノ協奏曲第二番/ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲
ダヴィドヴィチ、ヤルヴィ/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
(Philips 410 052)

ブラームス:ピアノ協奏曲第二番
アシュケナージ、ハイティンク/ウィーンフィルハーモニー
(Decca 410 199)

ドビュッシー:前奏曲集
ルヴィエ
(Denon 38C37)

ファリャ:三角帽子
デュトワ/モントリオール交響楽団
(Decca 410 008)

ラフマニノフ:交響的舞曲
アシュケナージ/コンセルトヘボウ管弦楽団
(DECCA 410 124)

カントルーブ:オーヴェルニュの歌
キリ・テ・カナワ
(Decca 410 004)

Mister Heartbreak
ローリー・アンダーソン
(Warner 925 077)

Four
ピーター・ガブリエル
(Charisma 800 091)

Superior sound of Elton John
エルトン・ジョン
(DJM 810 062)

Rickie Lee Jones
リッキー・リー・ジョーンズ
(Warner 256 628)

Body and Soul
ジョー・ジャクソン
(CBS 6500)

The Flat Earth
トーマス・ドルビー
(EMI 85930)

Date: 9月 24th, 2017
Cate: 107, KEF

KEFがやって来た(その14)

Model 107のウーファーは外側からは見えない。
深く、とまではいえないが、沈んでいる、とはいえる。

その開口部は、くり返しになるが、エンクロージュア上部前方に設けられている。
バイロイト祝祭劇場が、オーケストラピットの開口部の後方に舞台がある。
オーケストラピットには奥行きがあるから、舞台はオーケストラピットの後方上部を覆っている。

Model 107のウーファーの開口部とHEAD ASSEMBLYの位置関係をつ横からみれば、
これに近い、といえる。

もちろん107の開口部からは、160Hz以下の音が出てくる。
バイロイト祝祭劇場のオーケストラピットの開口部は、そんなわけはない。
低音楽器の音しか聴こえてこないわけではない。
オーケストラすべての音が、そこから立ち上ってくる。

その違いはわかった上で、バイロイト祝祭劇場とModel 107の相似性を見いだそうとしている。
そういう見方をする必要がどこにあるのたろうか、と疑問に思われる方もいよう。

わたしにだって、そういう気持がまったくないわけではない。
それでもModel 107の実物を前にして、
なぜレイモンド・クックは、ギミックともとられかねない、こういう方式をとったのか、
そのことを考えると、バイロイト祝祭劇場のことがどうしても浮んでしまう。

レイモンド・クックは、ワーグナー聴きだったのだろうか。
MODEL 107のINSTALLATION MANUALには、RECORD SUGGESTIONSという項目がある。
     *
The importance of listening tests in setting up your hi fi system has been emphasised in these instructions. Use records having good tonal balance with good imaging qualities, covering as wide a rang of music and voice as possible. To assist your setting-up, and add to your musical enjoyment, KEF recommend the following records (table B) in either analogue or CD (where available) format.
     *
table Bには、12枚のディスクがあげられている。
クラシックはうち6枚。
そこにはワーグナーのディスクはない。

クックは、ワーグナー聴きだったのだろうか。

Date: 9月 23rd, 2017
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(その9・補足)

その9)で、ステレオサウンドのインピーダンス測定も、
可聴帯域、つまり20kHzどまりだった、と書いた。

書いた後で気づいた、というか憶い出した。
ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIESの三冊目、
トゥイーターの号で、200kHzまでのインピーダンスを測定している。

トゥイーターユニット単体のインピーダンスということもあって、
10kHzあたりからインピーダンスは上昇していく。
200kHzまで上昇していくものがほとんどである。

インピーダンス特性のグラフの縦軸の目盛は32Ωまでしか振ってないが、
目盛はその上まである。

上昇の傾斜が急なものは60Ωを超えて、100Ωくらいまでいくようである。
100kHzあたりが32Ωくらいになるのが多い。

そのなかにあって驚異的なのは、テクニクスの10TH1000である。
50kHzまで8Ωフラット、その上では多少上昇するが、200kHzでも10Ω程度である。
その次に優秀なのがフォステクスのFT5RPである。
200kHzで14Ω程度である。
このふたつのトゥイーターはポリイミドフィルムにボイスコイルパターンをエッチングしている。