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Date: 4月 21st, 2018
Cate: 戻っていく感覚

好きな音、好きだった音(その6)

この項のカテゴリーは「戻っていく感覚」である。

カテゴリーについては、はっきりと最初から決って書き始めることもあれば、
書いている途中でカテゴリーを決めることもあるし、
書き終ってから、ということもある。

そうやって決めるわけだが、スパッと決められるときもあれば、
どれにしようと迷うこともある。
新しいカテゴリーは、これ以上増やしたくない、とも思っているから、
できるだけこれまでのカテゴリーからあてはまりそうなものを選びもする。

この項のカテゴリーは、あえて選ぶならば、これかな、ぐらいの気持だった。
でも書いていくうちに、「戻っていく感覚」にしておいてよかった、と感じはじめている。

その感は強くなっていくとともに、
五味先生の「五味オーディオ巡礼」の一回目を思い出す。
ステレオサウンド 15号に掲載されている。

野口晴哉氏と岡鹿之介氏が登場されている。
「ふるさとの音」とつけられている。
「音のふるさと」とも書かれている。

最初に好きになった音は、そうなのか。
好きだった音は、そうなのか。
そんなことを反芻している。

Date: 4月 21st, 2018
Cate: JBL

JBLのユニットのこと(続々2397の匂い)

四年前に「JBLのユニットのこと(2397の匂い)」のことを書いている。

今年も、ここ数日2397から、JBL特有の匂いがしてきている。
けれど四年前は六月くらいからだった。
今年は、まだ四月。

例年よりも早くから暖かくなってきていることを、
鼻でも実感している。

Date: 4月 20th, 2018
Cate: 使いこなし

丁寧な使いこなし(その4)

オーディオの使いこなしにおいて、
もっとも頭を悩ませるのは、スピーカーのセッティング位置ではないだろうか。

部屋の大きさとスピーカーの大きさによっては、
ほぼこの位置にしか置けない、という場合もある。
そういう場合は、その位置でやっていくわけだが、
部屋のどこでもスピーカーを置ける、という場合もある。

そうなると、いったいどこが、そのスピーカーにとってのベストポジションなのか。
それを探り出すためにはどうすればいいのか。

フロアー型で、しかも床に直接、何も介さずに置いている場合であれば、
スピーカーを移動して音を聴いて、どこがベストなのかを探っていけばいい。

けれど、フロアー型でもスピーカーと床とのあいだにいろんなアクセサリーが挟まっていたり、
なんらかのブロックやベースの上に置かれていることだってある。
そうなるとスピーカーの移動は、とたんに難しく、面倒になってくる。

いま、いい感じで鳴っている。
スピーカーをとくに動かす必要はないようにも感じている。
それでもオーディオマニアはならば、もっといい位置があるのではないだろうか……、
そう思ってしまう。

そんなことまったく思わないという人は、少なくともオーディオマニアではない。

そう思っても、スピーカーを実際に動かすのは、大変なことだ。
ひとりでやるのは、特に大変である。

だからといってオーディオ仲間数人に来てもらって、というのも、
そう何度も何度も来てもらうわけにはいかないし、
ひとりでじっくりとやっていきたい、と思う人だっている。

20代のころ、スピーカーのセッティング位置をどうすれば探り出せるのか。
平台車にスピーカーを乗せて、部屋のあちこちに移動してみるということを考えたことがある。
そうやって音を聴いて、よさそうに思えた位置にスピーカーを置いて、
じっくりとセッティングを見直し、チューニングしていく。

これといった問題はない──、思いついた時にそう考えていた。
けれど実際はそうではなかったことに、すぐに気づいた。

Date: 4月 20th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その16)

(その14)で引用した保柳健氏の発言に、
菅野先生はこう返されている。
     *
菅野 自信というか、自信を意識しない、自分なりにこうありたいという、むしろ願望でしょう。
保柳 私は主観を怖れるというか、いや、片寄りを怖れるんですね。
菅野 客観、主観の問題ですけれど、これは今までに古今東西で論じられていますが、私の考えでは、一人の人間が、自分以外の宇宙になり切れない。客観というものは主観に比べると弱いもので、それこそ存在理由が弱い。主観というのは悪い意味で使われることが多いんです。主観を主張するときは、ある普遍性を持った主観であるかないかが問題になるわけで、結果的には一番重要な問題になってきます。立派な作品が残っている作家は、皆、強烈な主観を持つが故に強烈な個性を持つといえます。それがまた、洋の東西を問わず普遍性を持っています。主観というのは、ある優れたレベルに達したときは、必ず普遍性を持つものでしょう。
保柳 ある意味では、あなたは非常に非常に衝動的に動けるんです。だから、作るものが短期間にできる。ところが、こちらは、ネッチリ型で、録音すると、その瞬間こわくて出せないときがある。これには客観的なものがないわけです。
菅野 それでいて、人が録音すると、それはいい、あまり考えないでやった方がなんておっしゃる。今でも覚えているのでずか、清水高師のヴァイオリンのレコード。どうも私は気になって仕方がなかった。あの時、あなたは、そんなことないといってね。
保柳 それは私の中にないものが、あなたの中にあって、それが燃えるのは、私にとって全く素晴らしいことなのです。
菅野 だから私の中にもいやだとおもうことはあるのです。つまり、そこまで無我夢中というわけでもないんですよ、私は。
保柳 でもね、私にとっては、菅野さんみたいな行き方は羨しいと思いますよ。飛行機のレコードのことになりますが、あんなにたくさん出たわけです。一番最初に何を見たか、録音日を見ました。全部最近になって、一日か二日で録音しているんです。これはね、感性豊かな人間がパッとやるんなら認めるんです。そうじゃなくて思いつきが行動と短絡している。これは大事なことだと思うんですが、あなたの場合、時に瞬間的にやられるにしても、バックが長いんですよ。ピアノなら、ピアノに対するバックが長いわけです。
菅野 仕事というものは、そういうものですね。それが一分の仕事であっても、四十何才と何ヵ月の一分ですから。
     *
このあとに(その11)で引用した対話に続いていくわけだが、
「そこで聴いた音」とは、「そこで聴きたい音」でもある。
そして(その10)での青山ホールについてのことにつながっていく。

「そこで鳴っている音」を録ろうとした青山ホールでの録音は、だから失敗している、といえよう。
「そこで聴いた音」、「そこで聴きたい音」を録るのであれば、
青山ホールでの録音はうまくいくのであろう。

Date: 4月 19th, 2018
Cate: 「本」

雑誌の楽しみ方(書店の楽しみ・その2)

2月に、渋谷の山下書店にのことを書いた。
田舎で馴れ親しんだ書店らしい書店だと感じていた。

ステレオサウンドは、私がいたころは六本木にあった。
青山ブックセンターも六本木にあった。

ステレオサウンドで働くことで、青山ブックセンターを知った、といってもいい。
これが東京の書店なのか、と、
三省堂や紀伊國屋書店に初めて入ったときとは、また違う感想をもったものだった。

山下書店と青山ブックセンターは、ずいぶん違う。
あのころ青山ブックセンターは深夜まで営業していた。
山下書店の渋谷店も、一時期まで24時間営業だった。

あるときから青山ブックセンターのコピーのような書店が、東京に増えてきた。
そのすべてとはいわないが、スカした書店が増えてきた。
スカした書店は、スカした品揃えで、スカした客が集まる。

優れた本でも、スカした書店で、スカした品揃えのように並べられると、
スカした客の手に渡る。

こうしたスカした書店は、エロ本は当然のことながら、置いてない。
エロ本がないからスカした書店なわけではない(念のため)。

スカした客が集まる書店では、
いったい誰が買うんだろう……、という本もある。
私が何度か目にした範囲では、スカした客が手にしていた。

話は飛躍するが、こうしたスカした人たちが、
デザインのパクリを平然とやっているように見えるのだ。

渋谷の山下書店は、4月26日で閉店する。
このあたりは渋谷の再開発に含まれるのだろうか。

渋谷から山下書店がなくなる。
こういう書店は減っていくだけなのか。

Date: 4月 19th, 2018
Cate: オーディオマニア

ドン・ジョヴァンニとマントヴァ侯爵(その2)

ドン・ジョヴァンニとマントヴァ侯爵。

真にドン・ジョヴァンニといえる人を、私は知らない。
マントヴァ侯爵といえる人ならば、よく知っている。

その人は、女性との出逢いは受動的ではなく、つねに能動的でありたい、といっていた。
自分の好みにぴったりとあう人を見つけるために、その人はさまざまな努力をしていた。
その人は、自慢気にその努力について、その成果について話してくれた。

つい「成果」と書いてしまったが、
その人の口調は「成果」と思わせるものだったからでもある。

その人の好みは、こまかい。
うるさ型である。

好みがはっきりしすぎているし、
ダメなタイプも、またそうである。

その人はけっこうモテていた。
けれど、その人はけっしてドン・ジョヴァンニではなかった。

だから地獄に堕ちることはなかった。
何度目かの奥さんとシアワセに暮らしているようである。

黒田先生はステレオサウンド 47号掲載の「さらに聴きとるものとの対話を」、
ここでは「腹ぺこ」というタイトルがついている文章で、
マントヴァ侯爵の方法は、
《条件さえととのえば、そんなにむずかしいことではない》とされている。

その人をみていると、たしかにそうだな、と思う。

ドン・ジョヴァンニの方法は、
《この場合、生き方というべきだろう》とされたうえで、容易ではない、と。

ドン・ジョヴァンニは空腹でありえたのだろう、
マントヴァ侯爵は、空腹だったことはないのだろう、
その人もそうなのかもしれない。

Date: 4月 19th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その15)

菅野先生と保柳健氏との対談、
「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」を読み返しているわけだが、
ほんとうにおもしろい、と思って読んでいるところだ。

40年前の記事である。
当時も、興味深い記事だとは感じていたが、
すんなり理解できていたわけではなかった。

読みながら、いろんなところがひっかかってくるんだけれど、
だから何度か読み返しもした。
それでもすんなりと理解はできなかった。

理解するには時間が必要だ、ということだけはわかった。

40年経つと、よくわかる。
そういうことだったのか、とも頷ける。

こんなことを書くと、また嫌味なことを……、と思われるだろうが、
それでも書いておく。

いまのステレオサウンドに載っている記事で、
40年後(そこまでいかなくてもいいが)に読み返して、
古さを感じさせないどころか、ほんとうにおもしろいと思えるのがあるのか。

もっといえば40年後に読み返す人が、はたしているだろうか。

その意味で、40年後に読み返させて、しかもおもしろいと読み手に思わせる人こそが、
オーディオ評論家(職能家)であり、
それ以外のオーディオ評論家は、オーディオ評論家(商売屋)でしかない。

「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」から、もうすこし引用していきたい。

Date: 4月 18th, 2018
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その1)

「菅野録音の神髄」のためにステレオサウンド 47号を、開いている。
47号の特集はベストバイで、
瀬川先生が「オーディオ・コンポーネントにおけるベストバイの意味あいをさぐる」を書かれている。

こんなことを書かれている。
     *
 これもまた古い話だが、たしか昭和30年代のはじめ頃、イリノイ工大でデザインを講義するアメリカの工業デザイン界の権威、ジェイ・ダブリン教授を、日本の工業デザイン教育のために通産省が招へいしたことがあった。そのセミナーの模様は、当時の「工芸ニュース」誌に詳細に掲載されたが、その中で私自身最も印象深かった言葉がある。
 ダブリン教授の公開セミナーには、専門の工業デザイナーや学生その他関係者がおおぜい参加して、デザインの実習としてスケッチやモデルを提出した。それら生徒──といっても日本では多くはすでに専門家で通用する人たち──の作品を評したダブリン教授の言葉の中に
「日本にはグッドデザインはあるが、エクセレント・デザインがない」
 というひと言があった。
 20年を経たこんにちでも、この言葉はそのままくりかえす必要がありそうだ。いまや「グッド」デザインは日本じゅうに溢れている。だが「エクセレント」デザイン──単に外観のそればかりでなく、「エクセレントな」品物──は、日本製品の中には非常に少ない。この問題は、アメリカを始めとする欧米諸国の、ことに工業製品を分析する際に、忘れてはならない重要な鍵ではないか。
     *
 ひと頃、アメリカのあるカメラ雑誌を購読していたことがある。毎年一回、その雑誌の特集号で、市販されているカメラとレンズの総合テストリポートの載るのがおもしろかったからだ。そのレンズの評価には、日本ではみられない明快な四段階採点方の一覧表がついている。四段階の評価とは 1. Excellent 2. Very Good 3. Good 4. Acceptable で、この評価のしかたは、何も右のレンズテストに限らず、何かをテストするとき、あるいは何かもののグレイドをあらわすとき、アメリカ人が好んで用いる採点法だ。
 私自身の自戒をこめて言うのだが、ほかの分野はひとまず置くとしてまず諸兄に最も手近なオーディオ誌、レコード誌を開いてごらん頂きたい(もちろん日本の)。その中でもとくに、談話または座談の形で活字になっているオーディオ機器や新譜レコードの紹介または批評──。
 ちょっと注意して読むと、おおかたの人たちが、「非常に」あるいは「たいへん」といった形容詞を頻発していることにお気づきになるはずだ。
 むろん私はここでそのあげ足とりをしようなどという意味で言っているのではなく、いま手近なオーディオ誌……と書いたが少し枠をひろげて何かほかの専門誌でも総合誌あるいは週刊誌や新聞でも、似た内容の記事を探して読めば、あるいは日常会話にもほんの少しの注意を払ってみれば、この「非常に」「たいへん」あるいは4とても」といった、少なくとも文法的には最上級の形容詞が、私たちの日本人の日常の会話の中に、まったく何気なく使われていることが、まさに〝非常に〟多いことに気付く。
 この事実は、単に言葉の用法の不注意というような表面的な問題ではなく、日本という国では、もののグレイドをあらわす形容が、ごく不用意に使われ、そのことはさかのぼって、ものを作る姿勢の中に、そのグレイドの差をつけようという態度のきわめてあいまいな、あるいは本当の意味でのグレイドの差とは何かということがよくわかっていないことを、あらわしていると私は考えている。さきにあげたジェイ・ダブリン教授の言葉も、まさにこの点を突いているのだと解釈すべきではないか。
     *
47号は1978年だから、40年前だ。
《ちょっと注意して読むと、おおかたの人たちが、「非常に」あるいは「たいへん」といった形容詞を頻発していることにお気づきになるはずだ》
とある。

いまはどうだろう。
フツーにうまい、とか、フツーにかわいい、といった表現が頻繁に使われている。

Date: 4月 18th, 2018
Cate: 新製品

新製品(テクニクス SP10Rとラックス)

復活したテクニクス・ブランドのアナログプレーヤーには、
まったくときめくものを感じない。
それでも、こんなタイトルをつけて書いているのは、
わずかな可能性に期待することがあるからだ。

ラックスのアナログプレーヤーといえば、
私と同世代、上の世代の人たちにとっては、PD121こそが真っ先に思い浮べる存在のはずだ。

よく知られているようにPD121に使われているモーターは、
テクニクスのSP10同等品である。
両機種のターンテーブルプラッターを外してみれば、すぐにわかる。

だからこそ、両機種を並べてみるまでもなく、
これだけ違う仕上がりになるのか、とラックスを褒めたくなる。

ラックスからは、現在PD171Aが出ている。
ベルトドライヴになっている。
PD121とはずいぶん違う仕上がりになっている。

PD171には、ときめくものをまったく感じない。
だから、こんなことを考えてしまうのかも……。

SP10Rのモーターを採用したPD121が登場しないものか、と。

Date: 4月 17th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その14)

私は「THE DIALOGUE」での音量の基準はドラムスで決めている。
それもドラムスの実際の音量というよりも、
エネルギーの再現ということでボリュウム位置を決めていることは、
以前「Jazz Spirit Audio(audio wednesdayでの音量と音・その2)」で書いているとおりだ。

私はそれが正しいと思っているし、自信をもってやっている。
けれどベースの音を基準として、音量を考える(設定する)人にとっては、
そうとうに大きな音量と受け止められるであろうし、
大きすぎるというより間違った音量ととらえられるかもしれない。

おそらく「THE DIALOGUE」を鳴らしている人のなかには、
ベースを基準に音量を決めている人もいるはずだ。

再生側の、全体の音量設定ひとつでも、こういう違いがある。
録音では、楽器ごとに音量を変えることも可能だ。
違いは、多岐にわたり大きい。

保柳健氏は、こう発言されている。
     *
保柳 まず、そこにある音が基準となる。あなたがいうように、ベースが実際にはほとんど聴こえない状態だったら、ブーストするでしょう。それは、あくまでもその場の雰囲気を伝えるためのブーストであって、どちらというと従ですね。つまり、主観的にブーストするとなると、音楽に絶対の自信を持っていないとできない。
     *
菅野録音におけるブーストは、だから主観的なブーストである。
ここでの主観的の「主」は、客観的に対しての「主」でもあり、
従に対しての主でもある。

Date: 4月 17th, 2018
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(HD Vinylについて)

100kHzまで対応可能なアナログディスクとしてHD Vinylのことが話題になっている。

SNSで、ニュース元をシェアしている人がけっこういる。
その人たちはHD Vinylに期待しているのであろうが、
私は、どちらかというと、期待していない方である。

何度も書いているように、
私はアナログディスクをエネルギー伝送メディアとして捉えている。
そんな私にとっては、カッティングとは、
マス(質量)のあるダイアモンドのカッター針を動かすからこそ得られる特性・特質としての、
エネルギー伝送メディアである。

そんな私だからハーフスピードカッティングにも、どちらかといえば懐疑的だ。

HD VinylにはHD Vinylなりのよさはあるはずだし、
実際に、その音を聴けば、なかなかいいな、と評価するにしても、
それはもうエネルギー伝送メディアから信号伝送メディアへのグラデーションなのだと思う。

Date: 4月 16th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

SNSが顕にする「複雑な幼稚性」(その4)

以前は行列ができる飲食店は、そうそうなかった。
とんかつ屋でいえば、目黒のとんきは、昔から行列はあった。
けれど行列といっても、それほど長くもなかったし、待った、という記憶もない。

30年ちょっとのあいだに行列があちこちに見られるようになったと同時に、
料理の写真もを撮る人も増えた(というより、昔は見かけたことはなかった)。

携帯電話にカメラ機能がつき、
スマートフォンに、より高画質で、その場で編集できる機能さえつくようになった。

そういうハードウェアの変化もあってのことだとはわかっていても、
行列の数と長さ、写真を撮る人の増えかたは関係しているのではないのか。

誰だって美味しい店を知りたいし、そこに行きたい。
私がオーディオの先輩たちから教わったのは、
そういう店を大事にすることである。

自分だけが知っていて、誰にも教えないわけではない。
私に教えてくれたように、私も誰かに教えることになる。

少数の人だけが知っていても、その店が繁盛しなければつぶれてしまうことだってある。
それは困る。
繁盛しすぎて、長い行列ができてしまうのはまだ我慢できても、
味が落ちてしまうのは我慢できない。

だから、その店を大事におもうわけだ。

インスタ映えするように写真を撮って、SNSで公開する。
身内だけの公開ではなく、不特定多数に向けての公開である。
その行為に、店を大事にするという感覚がまったく感じられない。

Date: 4月 15th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その13)

菅野先生がピアニストを目指されたことは、
古くからの読み手であればご存知のはず。
ピアニストへの途を諦められたり理由についても書かれている。

ここに関係してくる発言が、ステレオサウンド 47号にある。
     *
菅野 そうですね。私はできれば一次表現をしたいんですが、自分の仕事は一次表現をする仕事ではない。一次表現をする演奏家が厳然として存在するわけです。そこで録音を通じての橋渡しをする。いってみれば、「録音再生」という二次表現かもしれません。その時、私は聴き手の代表である。
     *
この菅野先生の発言に対して、保柳健氏は「そこが違うんです」と返されている。
「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」を読めばわかることだが、
録音という仕事をされているふたりであっても、その立場、考えかたは、
共通するところもありながらも、大きく違うところもある。

どちらが録音家として優れているのか、
すぐに優劣をつけたがる人がオーディオマニアのなかには少なからずいるが、
そういう次元のことではなく、録音はたんなる記録ではないし、
録音家もたんなる記録係ではない、ということだ。

菅野先生はつづけてこう発言されている。
     *
菅野 そこで演奏されるものを、自分でこう聴いたということを盛りこんで、たとえば、よくいわれることですけど、ジャズの、大きなホールでの演奏会も盛んになっちゃって、楽器のPAが進んでしまったから、ちょっとピンと来ないかもしれないんですが、ジャズの演奏の場合、本来ならウッドベースの音は非常に小さいわけです。もし、ステージで、ピーターソンでもエバンスでも、ピアノ・トリオの演奏を忠実に捉えるならば、当然そこで鳴っている音量バランスが基準になって、見謹慎具されるわけですね。ところが、私の場合は全くそうではなくて、ピアノ、ベース、ドラムスを対等の音量でとってこないと、もし自分が、ピアニスト、ベーシスト、ドラマーを率いてプロデュースするとしたら、聴衆に聴かせないと思うのが対等の音量で響かせることだから、自分の考える録音表現にならないわけです。
     *
このことは「THE DIALOGUE」もそうだ。
一曲目のドラムスとベースとの対話での、両者の音量は対等だ。
本来ならば、ベースがあれほどの音量で鳴るわけがない。

だからベースで、音出しの音量を決めてしまうと、
かなり低い再生音量になってしまう。

Date: 4月 15th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その12)

実は、この奇妙なピアノの録音については、別項「耳はふたつある(その4)」で触れている。

そこに、マイクロフォンが水平にセッティングされていなかったのかもしれない、と書いた。
(その11)へのコメントが、facebookにあった。
奇妙なピアノの録音も、
その人の判断でマイクロフォンをセッティングしたのだろうから、
その人が「そこで聴いた音」を録音したのであろう、と。

そういう見方もできるが、それだけとは思わない。
奇妙なピアノの録音をした人が、マイクロフォンを水平にしていたのかどうかはわからないが、
生録の現場で水平ではなく、無頓着に斜めにしていた人は、
そこでの音を聴いていない人のはずだ。

つまり機械にまかせっきりにしていた人であり、
そういう録音である。

奇妙なワンポイント録音をした人も、
ワンポイント録音だから、いい音でとれる、という思い込み、
それに使っている器材が優秀なモノだから、という思い込み、
つまりまかせっきりの録音の可能性が高い。

録音の場にいて、録音をしているのに、
聴いていないなんてことはありえない、と思う人もいるだろうが、
たとえば写真や動画でも、撮るのに夢中で見ていなかった、という例はある。

撮っているのだから、見ているはず。
そうであるはずなのに、撮るのに夢中で……という人は、
ほんとうに記憶していない。

記録はしていても記憶はしていない。
奇妙なワンポイント録音をした人も、そうではないのか。
録音という記憶はしていても、記憶していない。
記憶していない、ということは、聴いていない。

そして「そこで鳴っている音」には、
もっと突っ込んだ意味も含まれている。

Date: 4月 15th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その11)

菅野先生は何を録ってられたのか。
これもステレオサウンド 47号からの引用だ。
     *
菅野 最近考えていることの一つなんですが、録音というのは、そこで鳴っているのをとるのと、そこで聴いた音をとるのとあるんですね。
保柳 なるほど。
菅野 非常にオーバーラップしてもいますが、これは違う姿勢である。自分の場合を考えてみると、「そこで聴いた音」をとるわけです。
保柳 ははあ。
菅野 というより、録音する人間は、所詮「そこで聴いた音」しかとれないんだという考えなんですね。「そこで鳴っている音」をとるというのは、非常に物理的でありまして、つまり一時いわれたように、機械が進歩すれば、生の音が再現できるという考え方から生まれてくるのではないかと思います。
保柳 うん。
菅野 録音場と再生音場の差ということがよくいわれるでしょう。まあ、これはコンサートホールにしても、スタジオにしても家庭の部屋とは非常に違う。レコード音楽というものは、原則として過程で聴くものであって、そのような二つの音場を考えたときに、すでにそこには動かし難い録音再生の特質が存在するという事実がありますよね。その点から考えてみても、二つの音場の差をよく知った耳で、技術的には、そこで聴いた音をとると、こういうように考えるわけです。
     *
「そこで聴いた音」と「そこで鳴っている音」。
オーディオマニアには、ワンポイント録音こそ最高の録音手法である、
そう思い込んでいる人がいる。

数年前、あるところで、そういう人が録音したピアノを聴いた。
なんとも奇妙な音がした。

聴かせてくれた人(録音した人ではない)によると、
ワンポイント録音だそうだ。
しかもオーディオマニアによる録音だったし、
録音の結果にも満足している、とのこと。

録音した人のことを知っているわけではない。
だけど、録音されたピアノの奇妙な音を聴いていると、
「そこで鳴っている音」をとろうとしての失敗だったように思うのだ。