Author Archive

Date: 1月 28th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その8)

オーディオラボでの録音で菅野先生が使われていたテープデッキは、
スカリーの280Bである。

オーディオラボのレコードジャケット裏には、使用録音器材についての記載があった。
そこにもスカリーは書いてあったし、
ステレオサウンド 41号の特集「世界の一流品」で、菅野先生は280Bについて書かれている。

38号、60号で菅野先生のリスニングルームが載っている。
そのどちらにも280Bはある。

スカリーのテープデッキについては、菅野先生から聞いていることがあった。
スカリーのデッキで録音したテープは、
スカリーのデッキで再生しないと冴えない音になってしまうそうだ。

他社製のテープデッキでも、多少そういうところはあるが、
スカリーは特に顕著で、他社のテープデッキで再生したら、がっかりする、らしい。

そのことを江崎友淑氏も、オーディオラボの復刻にあたっての苦労話のひとつとして話された。
まずマスターテープを探すことから始まった。
保管場所は判明したものの、
今度はそこに辿りつくまでがほんとうに苦労した、とのこと。

そのへんの詳細は、3月発売のステレオサウンドの記事でも紹介されるのではないだろうか。
やっと手にしたマスターテープであったものの、聴いてみると、冴えない音で、
これでは復刻は無理だ、と思わざるをえなかった、と。

そのことを菅野先生に話したところ、
「それはそうだよ、スカリーのデッキで録音したのだから、スカリーで再生しないと」
といわれ、それからスカリーのテープデッキ探しが始まる。

日本のレコード会社ではスチューダーやアンペックスの方がよく使われていた。
スカリーは、この二社ほどは有名な存在ではない。
最終的にはキングレコードの倉庫に眠っていた、とのこと。

長らく使われていなかったスカリーの整備に数ヵ月。
そうやって再生できたマスターテープの音は、
先週録音したばかり、といわれても、そう信じてしまうくらいに、新鮮な音が鳴ってきた、と。

Date: 1月 27th, 2018
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(つくる・その21)

ステレオサウンド 5号は1967年12月に発売されている。
ダイレクトドライヴのアナログプレーヤーは、まだ登場していなかったし、
このころのアナログプレーヤーは、ゴロやハムに悩まされるモノが、
けっこうあった、ときいている。

いまデジタルをプログラムソースとして聴けば、
そんなゴロやハムはまったく出ないし、スクラッチノイズもない。

50年後のいま、ボザークのB4000のスコーカー(B80)だけを、
フルレンジとして鳴らしたら、どういう印象を受けるか。

おそらく瀬川先生が50年前にうけられた印象と同じだろう。
《清々しく美しかった》はずだ。

(その20)で引用した文章に続いて、瀬川先生はこう書かれている。
     *
 しかしその一方に、音楽から全く離れたオーディオというものが存在することも認めないわけにはゆかない。それは機械をいじるという楽しみである。たとえば3ウェイ、4ウェイの大型スピーカーをマルチ・アンプでドライブするような再生装置は、まさにいじる楽しみの極地であろう。わたくし自身ここに溺れた時期があるだけに、こういう形のオーディオの楽しみかたを否定する気には少しもなれない。精巧なメカニズムを自在にコントロールする行為には、一種の麻薬的快感すら潜んでいる。
 音色を、特性を、自由にコントロールできる装置は、たしかに楽しい。だが、そういう装置ほど、実は〈音楽〉をだんだんに遠ざける作用を持つのではないかと、わたくしは考えはじめた。これは、音質の良し悪しとは関係がない。たとえば、レコードを聞いているいま、トゥイーターのレベルをもう少し上げてみようとか、トーンコントロールをいじってみたいとか、いや、単にアンプのボリュームをさえ、調節しようという意識がほんの僅かでも働いたとき、音楽はもうわれわれの手をすり抜けて、どこか遠くへ逃げてしまう。装置をいじり再生音の変化を聴き分けようと意識したとき、身はすでに音楽を聴いてはいない。人間の耳とはそういうものだということに、やっとこのごろ気がつくようになった。しかもなお、わたくし自身はもっと良い音で音楽を聴いてみたいと装置をいじり、いじった結果を耳で確かめようとくりかえしている。五味康祐氏はこれをマニアの業だと述べていたが、言葉を換えればそれは、オーディオマニアとしての自分とレコードファンとしての自分との、自己分裂の戦いともいえるだろう。
     *
4ウェイのマルチアンプドライヴは《いじる楽しみの極地》だ。

その《いじる楽しみの極地》の出発点が、フルレンジであるということの意味。
それを忘れなければ、《レコードファンとしての自分》を見失うことはないはずた。

Date: 1月 27th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(一回目・その5)

すべてに寿命がある、といっていいのだろう。
人にもモノにも寿命がある。

オーディオ機器もそうだ。
どんなに高価で信頼性を重視、故障しないよう設計製作されたモノであっても、
乱暴な使い方をしていれば、故障を招くし、
どんなに丁寧に使ってきたとしても、いつの日か、どこかに不調をきたす。

そこを修理する。
しばらくは動作していても、またどこかが不調になる。
前回と同じ箇所のこともあるし、別の箇所のこともある。
また修理。直ってくる。

それでまたしばらく使っていると……。
そのくり返しが続くことがある。

そういう例をSNSで何例か見かけたことがある。
使っている人にとっては、そのオーディオ機器は愛機なのだろう。
これまで使ってきたことによる思い入れは、他人には理解できない。

それでもモノには寿命がある。
どんなにしっかりと修理をしてくれる人(ところ)に頼んで、
きちんとした修理がなされたとしても、そのオーディオ機器は、もう老人なのである。

寿命を延ばしたい気持。
それがPPK(ピンピンコロリ)を遠ざけてしまうような気もする。

人とモノ(オーディオ機器)とは違うのはわかっているが、
けれど、果してそれほど違うのだろうか……、とも思う。

その4)に書いた仕事関係の人のおじさん。
彼が定期的に病院で健康診断を受けていれば、癌は早い時期に発見されていた可能性はある。
その段階で手術を受けていれば、もっと長く生きていられたかもしれないが、
果して、元気であっただろうか、とも思うし、どちらがPPKなのか、とも思う。

久坂部羊氏はいくつかの例を話された。
そのことについては、ここでは書かない。誤解を招くかもしれないからだ。
生体検査について話された。
そういう可能性がある、ということだった。

だから思うのだ。
PPKには諦観が求められている、と。

Date: 1月 27th, 2018
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(つくる・その20)

フルレンジの音で確認できる──、
そう書いていて思い出したのは、ステレオサウンド 5号に載っている瀬川先生の文章だ。

「スピーカーシステムの選び方 まとめ方」の冒頭に書かれていることだ。
     *
 N−氏の広壮なリスニングルームでの体験からお話しよう。
 その日わたくしたちは、ボザークB−4000“Symphony No.1”をマルチアンプでドライブしているN氏の装置を囲んで、位相を変えたりレベル合わせをし直したり、カートリッジを交換したりして、他愛のない議論に興じていた。そのうち、誰かが、ボザークの中音だけをフルレンジで鳴らしてみないかと発案した。ご承知かもしれないが、“Symphony No.1”の中音というのはB−800という8インチ(20センチ型)のシングルコーン・スピーカーで、元来はフル・レインジ用として設計されたユニットである。
 その音が鳴ったとき、わたくしは思わずあっと息を飲んだ。突然、リスニングルームの中から一切の雑音が消えてしまったかのように、それは実にひっそりと控えめで、しかし充足した響きであった。まるで部屋の空気が一変したような、清々しい音であった。わたくしたちは一瞬驚いて顔を見合わせ、そこではじめて、音の悪夢から目ざめたように、ローラ・ボベスコとジャック・ジャンティのヘンデルのソナタに、しばし聴き入ったのであった。
 考えようによっては、それは、大型のウーファーから再生されながら耳にはそれと感じられないモーターのごく低い回転音やハムの類が、また、トゥイーターから再生されていたスクラッチやテープ・ヒスなどの雑音がそれぞれ消えて、だから静かな音になったのだと、説明がつかないことはないだろう。また、もしも音域のもっと広いオーケストラや現代音楽のレコードをかけたとしたら、シングルコーンでは我慢ができない音だと反論されるかもしれない。しかし、そのときの音は、そんなもっともらしい説明では納得のゆかないほど、清々しく美しかった。
 この美しさはなんだろうとわたくしは考える。2ウェイ、3ウェイとスピーカーシステムの構成を大きくしたとき、なんとなく騒々しい感じがつきまとう気がするのは、レンジが広がれば雑音まで一緒に聴こえてくるからだというような単純な理由だけなのだろうか。シングルコーン一発のあの音が、初々しいとでも言いたいほど素朴で飾り気のないあの音が、音楽がありありとそこにあるという実在感のようなものがなぜ多くの大型スピーカーシステムからは消えてしまうのだろうか。あの素朴さをなんとか損わずに、音のレンジやスケールを拡大できないものだろうか……。これが、いまのわたくしの大型スピーカーに対する基本的な姿勢である。
     *
ボザークのスピーカーの持主のN氏とは、おそらくトリオの会長であった中野英男氏であろう。
トリオは昔ボザークの輸入元でもあった。

Date: 1月 26th, 2018
Cate: アナログディスク再生

DAM45(DSD 11.2MHz)

DAM45について書いたのは二年前。
今日の川崎先生のブログ「最高の音響を楽しんでください」は、
このDAM45が、ユニバーサルミュージックからDSD、
それも11.2MHzで配信が始まったことを知らせてくれる内容だった。

9タイトルが発売(配信)されている。
その9タイトルの中に、グラシェラ・スサーナが含まれている。

とにかく嬉しい。
まだDSD 11.2MHzの再生環境をもっていなから、
聴くことはすぐにはできないが、それでも嬉しいことにかわりはない。

9タイトルの詳細、
配信にいたるまでの経緯などは下記のリンク先を参照のこと。

DAMオリジナル録音DSD11.2配信9タイトル一覧

Date: 1月 26th, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その3)

トロフィーとはなにかの賞を受けた時に記念として贈られるモノだ。
名誉ある賞もあれば、地域のスポーツ大会の賞ということもある。

どちらにしても、賞を主宰している側から贈られるのがトロフィーである。

自分で、自分に贈るのがトロフィーであるわけがない。
よく頑張った自分! といって、自分にトロフィーを──、と考えるのだろうか。

「功成り名遂げた人に相応しいオーディオ」、
自分で自分に贈るトロフィーとしては、向いていると思えるところもある。

オーディオはコンポーネントである。
スピーカーシステム、コントロールアンプ、パワーアンプ、
それにプレーヤーが必要になり、
さらにケーブル、ラックなども要る。

デジタル信号処理のプロセッサーもつけ加えれば、
システムのヴァリエーションも、ほぼ無限にあるといっていい。

つまり「人と違うの僕」用のトロフィーが組める。
世界にひとつしかないトロフィーができあがる。

そういう視点でオーディオを商売にしているのであれば、
共感はまったくできないが、なかなかうまい商売だな、と思わないわけではない。

つまり、その店は、オーディオ店ではないのだ。
トロフィー屋なのだ。

功成り名遂げた人が、自分に自分で贈るトロフィーを、
あれこれセレクトして、世界にひとつだけのシステム(トロフィー)をつくってくれる。
しかも、他の人よりも、もっと高価なシステム(トロフィー)を提案してくれる。

「人と違うの僕」は、「人よりも高いの僕」へところんでしまう。

Date: 1月 25th, 2018
Cate: 快感か幸福か
1 msg

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その2)

その1)に、facebookにコメントがあった。

そのコメントにも、固有名詞はなかった。
私も(その1)でも固有名詞は出してないから、
コメントにあった人と私が書いた人とが同一人物なのか──。

いま秋葉原にオーディオ店はそれほど多くないし、
それほど高額なシステムを売っているところとなると、限定されてしまう。
同じ人であろう。

コメントには、
「功成り名遂げた人に相応しいオーディオ」といういいかたを、
非常に高額なシステムを売る人はしていたそうだ。

やっぱりそうだろうな、と思った。
そういう在り方のオーディオもありなんだなぁ……、と思う。

けれど「五味オーディオ教室」から始まった私のオーディオ、
そしてオーディオ観とはまったく別のことだ。

コメントには続きがある。
その高額なシステムを聴いていた人は幸せそうだった、と。
客を幸せにできるのだから、男冥利につきる仕事なんだろうと、思う、とあった。

聴いていた人は幸せそうだった、ようだ。
今回鳴っていた一億円近いステムまでいかなくとも、
数千万円のシステムであっても、その店の客として聴いている人にとっては、
トロフィーのようなものであり、
もっといえばトロフィーオーディオであり、
それはほんとうに幸せなのか、それとも快感をそう思っているだけなのか。

Date: 1月 25th, 2018
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(その14)

エンクロージュアが鏡面仕上げになっているスピーカーシステムが、
正直苦手である。

鏡面仕上げが゛そのスピーカーシステムから出てくる音に寄与していることはわかっていても、
それでも苦手と感じてしまうのは、
そのスピーカーシステムを自分のモノとしたときのことを考えるからだ。

ひとりきりで音楽を聴ける空間(聖域)に、そのスピーカーを置く。
音は素晴らしい。
けれど、目をあけた瞬間に、エンクロージュアに惚けて聴いている自分の顔が映る。
こんな顔をして聴いていたのか、と思ってしまうからだ。

ひとりきりで音楽を聴くのは、
瀬川先生と同じで「音楽に感動して涙をながしているところを家族にみられてたまるか」である。

瀬川先生がどうだったのかはわからないが、
私はその姿を自分でもみたくないからである。

余韻に浸るためにも、みたくない。

もっとも人それぞれだから、音楽を聴いているときですら、ポーズをつけている人を知っている。
こういう人は、ひとりきりで聴くときもそうなのだろうか。
そうだとしたら、こういう人は鏡面仕上げのスピーカーに映る自分の顔にうっとりできる人なのだろう。

Date: 1月 24th, 2018
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その1)

先週末秋葉原に行っていた。
せっかく来たのだから、ということで、とあるオーディオ店に行った。

そのオーディオ店の上の階は、そうとうに高価なオーディオ機器ばかりが置いてある。
その時、鳴っていたシステムの総額は、ケーブルも含めて9,800万円を超えていた。

ほぼ一億円である。
スピーカーシステムだけで、四千万円を超えていた。

店主とおぼしき人が、ソファの中央でひとり聴いていた。
他に客はいなかった。

私など客とは思われていない。
それはそれでかまわない。
そんなシステムを買えるだけの財力はないのだから、
店主とおぼしき人の、こちらのふところ具合を見る目は、確かな商売人といえよう。

鳴っていた音について書くのは控える。
書きたいのは、一億円近いシステムの音ではなく、
その音を聴いていた店主とおぼしき人の表情である。

鳴っていたディスクは、店主とおぼしき人の愛聴盤なのか。
それもはっきりしない。
その人がどういう人なのかも、はっきりと知らない。

ただ、その人の表情をみていて、彼が感じていたのは快感だったのか。
そんなことを考えていた。

よく知らない人だから、その人が幸福そうに音楽を聴いている表情がどんなものかも知らない。
知らないけれど、そうは見えなかった。

Date: 1月 23rd, 2018
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(つくる・その19)

聴感上のS/N比の向上が、聴感上のfレンジの向上に結びついているということは、
つまりは聴感上のS/N比の劣化が聴感上のfレンジを狭くしている、ということである。

このことは以前も書いているが、大事なことであるだけに忘れないでほしい。

どうせトゥイーターをつけるんだから、聴感上のfレンジが狭くなっていても、
別にかまわない、と考えないでほしい。

聴感上のfレンジがどの程度なのかによって、
トゥイーターの追加も、どのあたりクロスさせるか、そのへんのパラメーターも変ってくる。
当然だが、トータルのパフォーマンスも違ってくる。

聴感上のS/N比を劣化させないための方法は、
なにもCR方法だけではない。他にもいくつもある。

ひとつひとつは地味なこと、といっていい。
具体的なことは、あえて書かない。
聴感上のS/N比ということが、どういうことなのかがはっきりとわかってくれば、
どういうことをやればいいのかはおのずとはっきりしてくる。

CR方法をやる前は、トゥイーターをつけるにしても、
クロスオーバー周波数は3.5kHzあたりかな、
もし少し上まで使ったとしても6kHzが上限かな……、そんなふうに感じていた。

けれどCR方法で聴感上のfレンジがのびたSICAの音を聴いていると、
いわゆるトゥイーターをコンデンサーひとつだけで接ぐ、もっとも簡単なやり方で、
しかもトゥイーターのカットオフ周波数はぐんと上に持ってきても、
うまくいきそうというか、こっちの方がよさそうに思えてきた。

先週末、秋葉原に行き、コンデンサーを購入。
トゥイーターも先方にすでに届いている。
来週あたりには、トゥイーターをつけることになる。

土曜日には、ウーファーもつけたら……、という話が出た。
そうなるかもしれない……、と思いながら、
瀬川先生が4ウェイの自作システムを、フルレンジからスタートさせる、のは、
そういう意図があったのか、と気づいたことがある。

マルチアンプシステムで、4ウェイのシステムともなれば、
しかもユニットも混成ということになると、ひどくバランスを逸した音になることがある。
バランスを見失ってしまうことがある。

そんなとき、フルレンジからスタートしているわけだから、
いつでもフルレンジ単体の音を確認できる。

Date: 1月 22nd, 2018
Cate: ディスク/ブック

「かくかくしかじか」

かくかくしかじか」というマンガがある。
東村アキコの作品だ。

「かくかくしかじか」」の二話目の最後のページ、
     *
今の私には
分かります。

今さらもう
遅いよね

怒らないでね
先生
     *
というセリフ(独白)がある。
ここで直感した。

「先生」はもう亡くなっているんだ、と。

恩師と呼べる人をもち、
返事がないのはわかっていても、問いかけている人ならば、
すぐに気づくことだ。

三話目の最後のページにも、ある。
     *
そうだよ

最初から
お人好しだったんだよ
先生は

そうじゃなきゃ
バカなんだよ

大バカだよ

ねえ
先生
    *
作者の東村アキコ氏の気持がわかる人は、
恩師がいた人だ。

Date: 1月 22nd, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その7)

そこでの音はともかくとして、江崎友淑氏の話はほんとうにおもしろかった。
そのひとつを、別項「オーディオの楽しみ方(つくる・その17)」で書いた。

江崎友淑氏は菅野録音のことを「かっこいい録音」と表現されていた。
菅野録音はかっこいい音である。
そうである。

バランスがとれていて、洗練されていて──、
その「かっこいい音」を具体的に説明していくとなると、意外に難しい。

私が思うに菅野録音のかっこいいは、野性味にあるように感じている。
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」で、
スレッショルドのStasis 3の音について《もうちょっと野性味みたいなものがほしい》といわれている。
「THE DIALOGUE」を鳴らしての発言である。

野性味があからさまに出てきてしまっては、それはもうかっこいい音とはいえない。
けれど野性味の感じられない音で鳴ってしまった菅野録音からは、かっこいいは感じとりにくくなる。

この野性味も、結局はバランスなのだろう。
バランスではあっても、野性味は本質に関ってくることである。

そういう本質を持っていない人が鳴らせば、菅野録音からは野性味は消えてしまう。
そういう本質を持っていない人が、オーディオラボの菅野録音をマスタリングしていたら、
つまらない音のディスクになっていたはずだ。

現在オクタヴィアレコードから発売されているCD/SACDは、そうではない。

「菅野録音の神髄」が開場する前に、
菅野先生が江崎友淑氏の手をとって、
「君と出逢えてほんとうによかった」といわれたときいている。

Date: 1月 21st, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その6)

その4)、(その5)で引用したMC2500、Stasis 1での「THE DIALOGUE」の音の印象は、
ポジティヴな評価であり、「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」にはそうではない音の印象もある。

100機種ほどのアンプの総テストだけに、そうではない音の印象のほうが多い。
それらをここで引用はしないが、よく鳴ったときの音の印象、そうでないときの音のい印象、
自分「THE DIALOGUE」を真剣に鳴らしてみると、
どちらの意見も「たしかにそうだ」と感じられる。

それは「THE DIALOGUE」のCD/SACDのハイブリッド盤でも、まったく変らない。
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」ではアナログディスク。
つまりは江崎友淑氏によるマスタリングは、
オーディオラボ時代の音の印象そのままが継承されている、ということでもある。

菅野録音の本質を理解されているからこその、出来であることは、
「THE DIALOGUE」の一枚を聴いただけでもはっきりとわかることだ。

今回の「菅野録音の神髄」での音は、その意味で江崎友淑氏の音ではない、といえる。
アキュフェーズのプレーヤーとコントロールアンプとクリーン電源、
B&Oのスピーカーシステム、
それにそれぞれのスタッフ。
杉並区の中央図書館のスタッフ。

今回の音は、誰による音なのか、とおもう。
そういえばステレオサウンドの編集長の染谷氏も来られていた。

染谷氏による今回の音だったのか。
そのへんははっきりとしないが、「THE DIALOGUE」にかぎらず、
他のディスクでも、音に関してはあきらかに足りないものがあった。

曲と曲とのあいだの江崎友淑氏の話は、来てよかった、といえる内容だっただけに、
足りないものが、はっきりとしてくる感じでもあった。

江崎友淑氏は、菅野先生のことばを引用されて、こういわれた。
「録音は、再生に始まり再生に終る」

そうである。
けれど、このことばが、より重みを増すために必要な音、
つまり再生がなされていたとはいえなかった。

Date: 1月 21st, 2018
Cate: 「オーディオ」考

指先オーディオ(その1)

アナログでもっぽら信号処理をしていた時代から、
ツマミを動かすことで、さまざまなことができるようになってきた。

そこにデジタルが登場して、さらに範囲は拡がり、より細かな調整が可能になってきている。

なんらかのプロセッサーが目の前に一台あれば、
以前では簡単に変更できなかったパラメータをもいとも簡単にいじれるようになっている。

技術の進歩が、ツマミを動かすだけでなんでもできるようにしてくれる。
けっこうなことである。

けれど懸念もある。
その懸念が、指先オーディオである。

指先だけでかなりのことが可能になってきた。
便利な時代になってきた、とは思っている。

なのに指先オーディオなんて、ついいいたくなるのは、
何かを見失ってしまった人を知っているからだ。

彼は昔からパラメトリックイコライザー、グラフィックイコライザーが好きだった。
そのころは彼もまだ若かった。
それらのイコライザーに積極的であっても、指先オーディオではなかった。

けれどデジタル信号処理による、プロ用機器ではさまざまなプロセッサーが出てくるようになった。
それらを手にしたころから、彼は指先オーディオへと突き進んでいった。

歳をとったということもあるのだろう。
体を動かすよりも、指先だけで済むのだから(必ずしもそうではないが)、
そういうプロセッサーへの依存は強くなっていくのか。

高度なことをやっていると思い込んでしまっている彼は、
何も生み出せなくなってしまった──、
私はそう感じている。

彼ひとりではない、とも感じている。
指先オーディオは拡がりつつある、と感じている。

Date: 1月 20th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その5)

「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」では、
スレッショルドのパワーアンプは三機種取り上げられている。
Stasis 3、Stasis 2、Stasis 1である。

Stasis 3では、菅野先生はこういわれている。
     *
それから「ダイアローグ」も、全体に落ち着いた、力がないということではないんてずが、おとなしい雰囲気で鳴らしてくれます。
     *
この発言のあとに柳沢、上杉両氏の発言があり、最後のほうでは、こうもいわれている。
     *
 いや、ぼくももうちょっと野性味みたいなものがほしいと思います。「ダイアローグ」でちょっと不満をいったのは、実はその点なんですね。決して物足りないとか、弱々しいというんではないんですが、やはり音の鳴り方が端正なんでしょうね。
     *
Stasis 3は760,000円だった。その上のStasis 2(1,138,000円)となると、
「ダイアローグ」の鳴り方は
《明らかにステイシス3よりも力強くたくましく鳴ってくれました。スリリングという店ではこちらの方がグーッときましたね》
と変化している。

Stasis 1は、モノーラル仕様で3,580,000円していた。
Stasis 2の三倍である。
しかも出力はどちらも200Wである。

けれど菅野先生の「ダイアローグ」について印象は、
Stasis 3、Stasis 2とは別格であることを感じさせてくれた。
     *
「ダイアローグ」はソリッドな音で、ドラムスの音なんていうのはものすごく詰っていて、何かそこから飛び出してくるんではないかと思えるほど緻密な音が聴けました。ブラシでタンバリンを叩いた音が空間にサーッと抜ける情景などは、音が見えるような感じです。
     *
これを読んだときは《何かそこから飛び出してくるんではないかと思えるほど》の音で、
「THE DIALOGUE」を聴いていたわけではなかった。

その感じは、アナログディスクからCD、SACDとなっても、確実に残っている。
うまく鳴ったときは、何かが飛び出してくるような、
それゆえにスリリングな感じがいっそう増してくるところがある。

他にも「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」からは、
「THE DIALOGUE」についてまだまだ引用したいところはあるが、
このくらいにしておこう。