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Date: 8月 8th, 2019
Cate: audio wednesday, 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(audio wednesdayのこと・その1)

昨晩のaudio wednesdayは、ちょっとしたトラブルから始まった。
毎回、スピーカーをふくめて、アンプ、CDプレーヤーすべての機器のセッティングを、
すべてやるわけだが、
アンプ、CDプレーヤーをラックからひっぱり出すために、裏にまわって驚いた。
ラインケーブルのコネクターが、一箇所、引きちぎられていた。

実は前回も、ラインケーブルに、何か硬い角のあるモノを落したような打痕があった。
喫茶茶会記では、いろんな催しが行われている。

定期的に演劇を行っている人たちは、
オーディオ機器を動かしている、という話は以前から聞いていた。
その扱いが゛そうとうに乱暴なことは、これまでにも気づいていた。

それでもCDプレーヤーとアンプを接続するケーブルまでは、
演劇の人たちによる被害を受けるとは、まったく思っていなかった。

オーディオにまったく関心ない人たちのオーディオ機器の扱いは、
人にもよるのはわかっているけれど、ひどいことがある。

もっともオーディオマニアを自称している人でも、
そんな持ち方をするのか……、と呆れるというか驚かされることはある。

二ヵ月続いて、ラインケーブルがけっこうな被害を受けている。
しかもaudio wednesdayの当日に判明するなのだから、
昨晩は、ケーブルの補修をやらなければならなかった。

しかも、必要な部品を用意していたわけではないから、応急措置でしかない。

打痕がついたケーブルは、4月から導入したもので、
打痕があったため、先月引き上げた。
なので、それ以前のケーブルを先月から接続していたのだが、それをダメにされた。

実をいうと、今回、ラインケーブルを自作して持ってくるつもりだった。
コネクターも買って、必要な加工もしていた。
でも、暑さに負けて、そこで止ってしまった。

Date: 8月 8th, 2019
Cate: Jazz Spirit

ジャズ喫茶が生むもの

5月に「ジャズ喫茶が生んだもの(Tokyo Jazz Joints)」を書いた。

ドイツに、日本のジャズ喫茶から着想をえたというジャズ喫茶が誕生した、という記事を紹介した。
その後も、同じような記事を数本目にした。

ドイツだけではなく、アメリカにもイギリスにも誕生している、とのこと。
日本でも、四ツ谷のいーぐるでは、外国人の客が増えている、という記事も目にした。

昨晩のaudio wedneadayには、三人の、初めての方が来られた。
新しい人が来てくれると、嬉しい。

一人の方が、二年後にジャズ喫茶を開店する予定だ、ときいた。
横浜のちぐさで六年間働いていたという人だから、単なる夢では終らないはずだ。

駅までの短い帰り道、Sさんと話していて、
もしかすると古くからのジャズ喫茶、これから誕生するジャズ喫茶を含めて、
もし再びオーディオブームが訪れるとしたら、それはジャズ喫茶が生むものかもしれない、
そうおもった次第。

Date: 8月 7th, 2019
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(Dittonというスピーカー・その10)

その9)で書いた女の子。
このような子供たちは大勢いるのだろうか。

大勢いるとして、大きくなっても、同じことをいうのだろうか。
「映画館って、映画観るだけでしょ。何が楽しいの。観る以外何もないでしょ」と。

ライヴには行っても、CDは買わないという人たちが増えている、ということは、
数年前から耳にするようになった。

「CDを買っても、音楽が聴けるだけでしょ。何が楽しいの。聴く以外何もないでしょ」
こんなことを思っているのか。

握手券がついているCDは、聴くだけではない。
好きなアイドルに会いに行ける、握手ができるという楽しみ・特典がついている。
もうすでに、上記の女の子のような人は、すでに大人の中にもいるのだろう。

オーディオブームはもうこない、ともいえるし、
ホームシアターという趣味にしても、
音だけでなく映像もついているとはいえ、
上記の女の子にとっては、映画と同じだとしたら、
観る以外何もないでしょ、ということになるはずだ。

けれどオーディオが、単なるブームではなく、
その世界の深さと広さがほんとうに広まっていけば、
聴く以外何もないでしょ──、そんなことはいわなくなるはずである。

Date: 8月 6th, 2019
Cate: audio wednesday

第103回audio wednesdayのお知らせ(Walls and GODZILLA KING OF THE MONSTERS)

明日(8月7日)のaudio wednesdayのテーマは、決めずにいく。

前回書いているように、バーブラ・ストライサンドの「Walls」は持っていく。
もう一枚、「GODZILLA KING OF THE MONSTERS」も持っていく。

なんの脈絡もないディスク選定である。

たまにはこういうのもいいのではないか。
(単に暑くて準備するのが面倒なだけ……かも)

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 8月 6th, 2019
Cate: アナログディスク再生

「言葉」にとらわれて(トーンアームのこと・その5)

ファイナル・ブランドといえば、
いまではすっかりイヤフォン・ヘッドフォン専門メーカーという色が濃いが、
以前は違っていた。

私のなかでは、アナログ関連のメーカーという印象が、いまも残っている。
KKC48という、トーンアーム用のアクセサリーがあった。

アームパイプの先端にとりつけるモノで、
いわば綱渡りの際の長い棒のような役割を果たすものだと、私は理解している。

実物を見たことはない。
広告の写真だけである。
オーディオ雑誌の記事で紹介されたのもみた記憶はない。

試してみたい、と思っていたけれど、試さず仕舞いだった。
綱渡りの棒と表現したが、おそらくそうであろう。

綱渡りの経験はないが、あの棒があるとないとでは、
綱を渡っていく人の困難さはずいぶん違うのではないのか。

ここではワンポイントサポートのトーンアームについて書いている。
ワンポイントサポートのトーンアームは、調整をきちんと行えるのであれば、
かなりいい結果も期待できる。

けれど、頭で思っている以上に、調整はそれほど簡単ではない。
理屈を理解して、コツをつかめば、巷でいわれているほど難しいわけではない。

それでも、もうすこし安定性をどうにかできないものかと考える時に、
KKC48のことが浮んでくる。
KKC48こそ、ワンポイントサポートのトーンアーム用アクセサリーといってもいい。

といっても試していないのだから、なんともいかないところは残るけれど、
考え方としては正しいはずだ。

オーディオのプロフェッショナルの条件(その3)

facebookには便利な機能というか、ややおせっかいな機能というか、
過去のこの日、何を投稿したかを知らせてくれる機能がある。

2011年8月5日に書いたことを、facebookが表示してくれた。
こんなことを書いている。
《オーディオのプロのいないオーディオ販売店は、オーディオだけを扱っていたとしても、それは家電量販店と同じこと。》

私のコメントを含めて、20件のコメントがついた。
これだけのコメントがつくことは、私の場合めったにない。
おそらく20件は、これまでの最高のはずだ。

実は、この投稿の前に、
いまのオーディオ店にいるのは、オーディオのプロフェッショナルではなく、
オーディオ機器販売のプロフェッショナルだ、とも書いていた。

ある人と話していて、共通の知人のことに話題がうつった。
共通の知人は、都内のオーディオ店の店員である。
特に親しかったわけではないが、何度か会っているし、何人かで飲み食いもしている。

共通の知人は、私よりもひとまわり以上若い。
それにしても……、と思うことが、会う度にあった。

私が彼と同じ年の頃、あたりまえのこととして知っていたことを、
彼はほとんど知らない。
これで、オーディオ店の店員がつとまるのかと心配になるくらいだが、
きちんと売上げを達成しているようだ。

だから、彼のことを私は、オーディオのプロフェッショナルではない、とある人に言ったところ、
その人は、顔を真っ赤にして、彼をかばう。

彼はきちんと売り上げているから、プロフェッショナルだ、とその人はいう。
そして、あなた(私のこと)は、売り上げられないでしょ! とつけ加えた。

その人の基準では、オーディオ店で売上げを達成できる人はオーディオのプロフェッショナルで、
そうでない人は、オーディオのプロフェッショナルではない、ということらしい。

オーディオに関することで、お金を稼ぐことができれば、
オーディオに詳しくなくとも、オーディオのプロフェッショナルといおうとおもえばできる。

どんなにオーディオに詳しくても、
セッティング、チューニングの確かな技術をもっていても、
それでお金を稼いでなければ、オーディオのプロフェッショナルではない──、
これも一つの理屈である。

けれど、20件のコメントを読めば(サンプル数が少ない、という人もいよう)、
世の中のオーディオマニアがどう思っているかは、わかる。

Date: 8月 5th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その17)

沢村とおる氏、
それから74号でマーク・レヴィンソンにインタヴューした人が、
結果として誌面に掲載された記事を見て、どう思ったのかは、全く知らない。

沢村とおる氏とは一度も会っていない。
74号の人とは、その後も顔を合せ話もしているが、
74号のことについて何かいわれたことはない。

ただ、どちらの記事にしても、私が担当編集者だったわけではないから、
担当編集者には、なんらか反応があったのかもしれないが、
担当編集者から、そのことをきかされてもいない。

二人とも、私がやったことを、編集者の悪意と捉えているのかどうか。
どうでもいいことである。

私にしてみれば、こんなつまらない原稿を、平気な顔して編集者に渡してしまえる方が、
そこには悪意に近いものがある、と思う。

この人たちは、どこを向いて原稿を書いているのだろうか。
少なくとも読者を向いているとは思えない。

思えなかったからこそ、私は、ここに書いてきたことをやった。
ただそれだけのことである。

編集者も読者なのである。
いまならばインターネットで原稿は、パッと送信できるし、
すぐにコピーもできるから、原稿が届けば、
複数の編集者が読むこともできる。

でも私がいた時代は、原稿を取りに行っていた時代だ。
原稿を受けとって、会社に向う電車のなかで読む。

最初の読者なわけだ。
これこそ編集者の特権ともいえるわけだが、
ここでは編集者としてよりも、ステレオサウンドの読者、
オーディオマニアとしての読者として読んでいた。

Date: 8月 4th, 2019
Cate: きく

カセットテープとラジカセ、その音と聴き方(余談・その21)

TC800GLと同時代のヤマハの製品は、
プリメインアンプのCA2000をみればわかるように、
そのジャンルの製品として、必要される機能はできるかぎり搭載しようとコンセプトがある。

CA2000は、その後に登場したA1とは違う。
メーターも搭載しているし、トーンコントロールはどちらもあるが、
A1にはターンオーバー周波数切替えはない。
フィルターはA1はローカットのみ、CA2000はハイカットも持つ。

PHONO入力もCA2000は、負荷抵抗の三段切替が可能。
テープモニターは、A1は一系統、CA2000は二系統、
モードセレクターも、A1は二点、CA2000は五点。
ミューティングはA1はなし、CA2000は-20dBである。

そしてCA2000はパワー段のA級/B級動作の切替えもできる。

CA2000にこれ以上の機能を搭載しようとすれば、
フロントパネルの面積がもっと必要になるほどに、
使い手が望む機能は、ほぼ備えている、といえる。

それはコントロールアンプのCIにもいえる。
そしてパワーアンプのBIもそうである。

CIはフロントパネルを視れば、それがどれだけ多機能なコントロールアンプなのかは、
誰の目にも明らかなのに対し、BIはちょっと違う。
別売のコントロールユニットUC-Iを取り付けていないBIは、
シンプルなパワーアンプにしかみえない。

けれどリアパネルをみると、スピーカー端子が五組ある。
これを活かすにはUC-Iが必要となる。

UC-Iを装備したBIは、五系統のスピーカー端子が使えるようになるだけでなく、
それぞれにレベルコントロールが可能にもなる。

そこまでの機能を必要とする使い手がどれだけいるのかといえば、そうはいなかっただろう。
それでも、この時代のヤマハは、それだけ機能を搭載した。

CA2000の機能、CIの機能もそうであろう。
すべての使い手が、すべての機能を使いこなしている、必要とするとは限らないが、
メーカーの都合で、使い手に不自由はさせない──、
そういうコンセプトが感じられる。

それはカセットデッキのTC800GLにもいえる。
だから据置型としても可搬型としても使えるカセットデッキなのである。

Date: 8月 4th, 2019
Cate: 再生音

ゴジラとオーディオ(その5)

コンピューターグラフィックス(CG)というものを知ったのは、
映画「トロン」だった。1982年のことである。

それ以前の映画にも使われていたのかもしれないが、
意識したことはなかった。
とにかく「トロン」で、CGという技術の存在に気づいた。

その次は「アビス」(1989年)だ。
ここで、水が人の顔になったりするシーンで、驚いた。
「ターミネーター2」(1991年)を観て、
「アビス」と同じ監督、ジェームズ・キャメロンだということに気づく。

さらに「ジュラシック・パーク」(1993年)で、
CGの進歩を強く感じた。

数年ごとにはっきりと進歩していくCGの成果を映画を観て実感できるとともに、
いつのころからか「不気味の谷」という表現が、登場したはじめるようになってきた。

不気味の谷について説明する必要はないだろう。
上に挙げた映画では、CGがつくり出したどれも現実に目にすることのないものばかりである。

恐竜は確かにはるか古代に存在していたけれど、
われわれが目にできるのは化石でしかない。
生きている恐竜は、誰も見ていない。

「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」に登場する怪獣も、
想像上の生物であり、そこに不気味の谷は感じない、
もしくは感じとりにくいのだろう。

違和感はなかった。

ただそれでも、人はなぜ不気味の谷を感じとるのかは考えてしまう。
はっきりとした結論ではない、
なんとなくの結論でしかないが、
不気味の谷をこえてしまうということは、
なにかの秩序が毀れてしまうからではないのか。

そんなことが考えとして浮ぶ。

Date: 8月 4th, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その10)

瀬川先生の時代、
ステレオサウンドは、「コンポーネントステレオの世界」という別冊を出していた。

この「コンポーネントステレオの世界」で、
瀬川先生によるKEFのModel 303の組合せはない。

1979年末の「コンポーネントステレオの世界 ’80」に間に合えば間違いなく登場していたであろう。
瀬川先生は予算50万円から100万円、200万円へとステップアップする組合せで、
まずJBLの4301を鳴らす50万円の組合せをつくられている。

この50万円の組合せのスピーカーシステムの候補は、
4301の他に、ロジャースまたはオーディオマスターのLS3/5A、KEFのModel 303があった。

けれど103は製造中止になって、Model 303が発表されたばかりで、
そのニュースが、組合せの試聴に入ってから届いたそうである。

なので、この組合せに303は登場しないが、写真は載っている。
どのくらい303の登場が遅かったのかは正確にはわからないが、
おそらく一〜二週間なのだろう。

「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭、
「80年代のスピーカー界展望」のなかで、
《イギリスKEFは、リファレンスシリーズの最高機種♯105をシリーズIIに改良し、また、小型の101を新たに加えた。103は製造中止になるとのこと。そしてコンシュマー用としては、ローコストの303と304が登場したが、これはなかなかの出来ばえだ》
と瀬川先生が書かれている。

さらに巻末の「’80特選コンポーネント・ショーウインドー」では、
井上先生が303について、
《柔かく伸びやかな低音と透明な高音だ》と書かれている。

巻末には、さらに行方洋一氏と安原顕氏による
「ローコスト・ベストコンポ徹底研究」があり、
そこに303は登場している。

メインの組合せの試聴には間に合わなかったが、1979年中にモノは到着しており、
試聴も行われていたことがわかる。

Date: 8月 3rd, 2019
Cate: 再生音

ゴジラとオーディオ(その4)

(その3)で、ほぼ理想的なゴジラ映画だった、と
「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」について書いた。

実をいうと、そう書きながらも、
ゴジラはどうやってギドラを倒したのかを思い出そうとしていたけれど、
肝心の決着のシーンを思い出せなかった。

自分でも、驚いていた。
なぜ、そこのところだけ記憶にないのか。
そこまでのシーンは、けっこう憶えていたし、
思い出そうとすれば、断続的だったシーンが時系列通りにつながっていくのに、
肝心のシーン、むしろそこだけ憶えていれば──、と思うシーンがすっぽり抜けている。

その後のシーンも憶えている。
7月のaudio wednesdayで、常連のHさんと「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」について話していた。
Hさんも、この手の映画に関しては、私と趣味がそうとうに近い。
Hさんも、「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」を観ていた。

ゴジラとギドラの決着のつくシーン、憶えてますか、と訊いた。
Hさんも、思い出せない、といっていた。
Hさんも前後のシーンは憶えているのに、肝心のところが記憶から抜けている。

私の周りでは他に観ている人はいないから、これ以上確かめられない。
それにしてもなぜなのか。

ゴジラ、ギドラ、その他の怪獣は、実にリアルである。
着ぐるみでは三本首のギドラは、動きにどうしても制約がかかる。
けれどCGIギドラには、それがない。

これまでにゴジラの映画はほとんど映画館で観てきた。
キングギドラの造形には、子供だったこともあり驚いた。

少し成長すると、着ぐるみなのに、
キングギドラをよく思いついたな、と思うようにもなった。
撮影は大変だっただろうなぁ、と思うからだ。

その意味で、当時の技術では不可能だった映像を、
「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」はつくりだしているし、
日本の映画の予算では無理なところも、
アメリカ映画の予算だと制約もほぼなくなっている。

そうやってつくられた「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」は、
それまでのゴジラ映画を観て、
こんなところがもう少し……、と思ったり感じてたりしていたところが、
すべてこちらの理想通り、というか想像以上に映像化されている。

にも関らず、ゴジラが最強の敵であるギドラをどうやって倒したのか、
その数分程度のシーンを、思い出せないでいる。

Date: 8月 3rd, 2019
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その36)

スピーカーにもプリエコーの発生はある。
デジタルフィルターにもプリエコーの発生がある。

それぞれ逆相か同相かという違いはあるにしても、どちらにもあるわけだ。

にもかかわらずプリエコーが音に影響を与えていることを確認するには、
スピーカーからの音をまたねばならない。
スピーカーからの音を聴いて判断するしかない。

スピーカーは遅れている──、
以前からずっといわれ続けてきている。

瀬川先生の「オーディオABC」には、こんなことが書かれてあった。
     *
 スピーカーの研究では、かつて世界的に最高権威のひとり、といわれた H. F. Olson 博士(「音響工学」をはじめとして音響学に貢献する研究書をたくさん書いています)が日本を訪れたとき、日本のオーディオ関係者のひとりが、冗談めかしてこうたずねました。
「オルソン先生、ここ数年の間に、レコードやテープの録音・再生やアンプに関しては飛躍的な発展をしているのに、スピーカーばかりは、数十年来、目立った進歩をしていませんが、何か画期的なアイデアはないもんでしょうか」
 するとオルソン博士、澄ましてこう言ったのです。
「しかし、あなたの言われる〝たいしたことない〟スピーカーを使って、アンプやレコードの良し悪しが、はっきり聴き分けられるじゃありませんか?」
 これには、質問した人も大笑いでカブトを脱いだ、という話です。
 むろん、この返事はアメリカ人一流のジョークで包まれています。けれど、なるほど、オルソン博士の言うように、私たちは、現在の不完全なスピーカーを使ってさえ、ごく高級な二台のアンプの微妙な音色の差を確実に聴き分けています。スピーカーがどんなに安ものでも、アンプをグレードアップすれば、すれだけ良い音質で鳴ります。
 けれど右の話はあくまで半分はジョークなのです。スピーカーはやっぱり遅れているのです。
     *
スピーカーの歪率は、アンプのそれよりも大きい。
桁が違うほどに大きいけれど、アンプの微妙な差を、そのスピーカーで聴き分けている。
というより、聴き分けるしかない。

聴き分けられるということは、アンプの歪とスピーカーの歪は、
歪率という数字で表わしきれない違いがあるからに違いない。

プリエコーに関してもそうなのかもしれない。
電気系が発するプリエコーと機械系・振動系が発するプリエコーが、
現象としては近いものであっても、同じとは考えにくい。

そして、確かな裏づけをなにか持っているわけではないが、
スピーカーの中でも、ホーン型は、プリエコーに関して敏感に反応してしまうのではないか。

Date: 8月 2nd, 2019
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(その10)

自画像といえる歌について考えていくうえで、
どうしても外せない歌手がいる。

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウであり、
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウによる「冬の旅」について、である。

スタジオ録音だけでなく、ライヴ録音を含めると、
十種以上のCDが発売になっている。
そのすべてを聴いているわけではないし、
スタジオ録音に関しても、すべてを聴いているわけではない。

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、
1955年にジェラルド・ムーアのピアノで、EMIに「冬の旅」を録音している。
これが一回目である。

1962年、同じくムーアの伴奏で、ステレオ録音、
1965年に、今度はイェルク・デムスのピアノで、レコード会社もドイツ・グラモフォンになっている。

1971年に、三度、ムーアと、ドイツ・グラモフォンに録音している。

1979年、ダニエル・バレンボイムと五度目の録音、
1985年、アルフレッド・ブレンデルとの六度目、
1990年、マレイ・ペライアとの七度目(最後)の「冬の旅」である。

バレンボイムとの録音から、ピアニストが、伴奏ピアニストの域を超えたところでなされている。
このバレンボイムとの「冬の旅」の評価は高い。

バレンボイムがあまり好きでない私でも、この「冬の旅」は素晴らしいと思っている。

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、1925年5月28日生れである。
一度目の「冬の旅」は、ぎりぎり29歳、
二度目は37歳、三度目は39歳(40歳になる二週間ほど前)、
四度目は46歳、五度目は53歳、六度目は60歳、七度目は65歳である。

黒田先生は、「冬の旅」は青春の歌だ、とどこかに書かれていた。
「青春」を実感できるということで、
ヘルマン・プライ/ヴォルフガング・サヴァリッシュの「冬の旅」も高く評価されていた。

もちろんディートリヒ・フィッシャー=ディースカウとバレンボイムとの「冬の旅」も、
高く評価されていたけれど、
この録音でのディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは60歳である。

Date: 8月 1st, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その9)

カートリッジについては、
《カートリッジは(一例として)デンオンDL103D》となっている。

DL103D以外のカートリッジ、
たとえば、同時代のオルトフォンのMC20MKIIもいいカートリッジだし、
瀬川先生は、ステレオサウンド 55号の特集ベストバイでは、
My Best3として、デンオン DL303(45,000円)、
オルトフォン MC20MKII(53,000円)とMC30(99,000円)を挙げられている。

どのカートリッジにしてもDL103Dよりも高価になる。
それにAU-D607内蔵のヘッドアンプに関して、別冊FM fanの25号で、次のように評価されている。
     *
MCヘッドアンプだが、やはりMC20MKIIまではちょっとこなせない。ゲインは音量をいっぱいにすればかなりの音量は出せるが、その部分では、ハム、その他のノイズがあるので、オルトフォンのような出力の低いカートリッジにはきつい。ただし、MC20MKIIの持っている音の良さというのを意外に出してくれた。ヘッドアンプの音質としてはなかなかいい。もちろんデンオン103Dの場合は問題なく、MCの魅力を十分引き出してくれた。
     *
オルトフォンのような低インピーダンスで、低出力電圧のMC型カートリッジは、
ヘッドアンプには少々荷が重いところがある。
かなり優秀なヘッドアンプでなければ、満足のいく再生音は得にくかったのが、
この時代である。

ならばカートリッジはMM型の選択も考えられる。
それでもMC型のDL103Dである。

DL103シリーズには、DL103、DL103S、DL103Dの三つがあった。
瀬川先生の、熊本のオーディオ店での試聴会で、この三つを聴くことができた。

DL103Dを瀬川先生は高く評価されていた。
聴けば、そのことが納得できた。

56号の組合せにおいて、DL103でなくDL103Sでもないのは、
やっぱりと納得できた。
DL103Dが、この三つのカートリッジのなかでは、音楽を活き活きと聴かせてくれる。
47号で《単なる優等生の枠から脱して音質に十分の魅力も兼ね備えた注目作》とある。

そのとおりである。

にしても、である。
MM型カートリッジも、この時代は多くの選択肢があった。
それでもDL103Dを選択されたのは、
一種の遊び心(型番遊び)ではないのだろうか。

岩崎先生が書かれていたことをおもいだす。
     *
名前が良くて得をするのはなにも人間だけではない。オーディオファンがJBLにあこがれ、プロフェッショナル・シリーズに目をつけ、そのあげく2345という型番、名前のホーンに魅せられるのは少しも変なところはあるまい。マランツ7と並べるべくして、マッキントッシュのMR77というチューナーを買ってみたり、さらにその横にルボックスのA77を置くのを夢みるマニアだっているのだ(実はこれは僕自身なのだが)。理由はその呼び名の快さだけだが、道楽というのは、そうした遊びが入りやすい。
(「ベスト・サウンドを求めて」より)
     *
瀬川先生にも、こういうところがあったのだろう。

Date: 7月 31st, 2019
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(その9)

代表曲、十八番(おはこ)といえる歌をもつ歌手もいる。
たとえばサラ・ブライトマン。

私は、サラ・ブライトマンの名をきくと、
反射的に“Amazing Grace”を思い出す。

サラ・ブライトマンの代表曲は、他にもいくつかあるだろう。
他の曲(歌)でもかまわないが、
“Amazing Grace”が、サラ・ブライトマンの自画像であるとは、まったく思っていない。

それは曲、歌の出来や素晴らしさ、そういったこととは違うところで、
そう思えない。

私がそう思えないだけなのかもしれない。
私以外の人は、サラ・ブライトマンの“Amazing Grace”は、
彼女の自画像そのものといえる曲(歌唱)だということだってあろう。

いやいや、“Amazing Grace”ではなくて……、といって、
他の曲をサラ・ブライトマンの自画像だ、と挙げる人もいるであろう。

サラ・ブライトマンの“Amazing Grace”は、
マリア・カラスの“Casta Diva”よりもずっと多くの人が聴いていることだろう。

マリア・カラスの“Casta Diva”は聴いたことがなくても、
サラ・ブライトマンの“Amazing Grace”は聴いたことがある、
口ずさめる、という人の方が多いはずだ。

ジュディ・ガーランドの“Over The Rainbow”を聴いたことがなくても、
サラ・ブライトマンの“Amazing Grace”は知っている、という人は多いはずだ。

だからこそ、“Amazing Grace”はサラ・ブライトマンの代表曲といえる。
けれど、だからといって自画像とは必ずしもいえない。

結局、世の中には、自画像といえる歌をもつ歌い手とそうでない歌い手とがいる。