編集者の悪意とは(その17)
沢村とおる氏、
それから74号でマーク・レヴィンソンにインタヴューした人が、
結果として誌面に掲載された記事を見て、どう思ったのかは、全く知らない。
沢村とおる氏とは一度も会っていない。
74号の人とは、その後も顔を合せ話もしているが、
74号のことについて何かいわれたことはない。
ただ、どちらの記事にしても、私が担当編集者だったわけではないから、
担当編集者には、なんらか反応があったのかもしれないが、
担当編集者から、そのことをきかされてもいない。
二人とも、私がやったことを、編集者の悪意と捉えているのかどうか。
どうでもいいことである。
私にしてみれば、こんなつまらない原稿を、平気な顔して編集者に渡してしまえる方が、
そこには悪意に近いものがある、と思う。
この人たちは、どこを向いて原稿を書いているのだろうか。
少なくとも読者を向いているとは思えない。
思えなかったからこそ、私は、ここに書いてきたことをやった。
ただそれだけのことである。
編集者も読者なのである。
いまならばインターネットで原稿は、パッと送信できるし、
すぐにコピーもできるから、原稿が届けば、
複数の編集者が読むこともできる。
でも私がいた時代は、原稿を取りに行っていた時代だ。
原稿を受けとって、会社に向う電車のなかで読む。
最初の読者なわけだ。
これこそ編集者の特権ともいえるわけだが、
ここでは編集者としてよりも、ステレオサウンドの読者、
オーディオマニアとしての読者として読んでいた。