宿題としての一枚(その3)
宿題としての一枚、ときいても、
すぐには何も思い浮ばない人もいることだろう。
すべてこなしてしまった、と断言できる人なのだろう、きっとそういう人は。
それはそれでいい、と思う。
関係のない私がなにかいうことでもない。
宿題としての一枚、ときいても、
すぐには何も思い浮ばない人もいることだろう。
すべてこなしてしまった、と断言できる人なのだろう、きっとそういう人は。
それはそれでいい、と思う。
関係のない私がなにかいうことでもない。
オーディオ関係のムックを、先月手にとった。
昨年末ぐらいに出たムックのはずだ。
ムックのタイトルは書かない。
おもしろいムックなのかそうでないのかは、読んだ人が判断すればいいことだから。
ただ思ったのは、このムックは自費出版じゃないのか、ということだった。
ある出版社から出ている。
自費出版を主とする会社ではない。
でも手にとって眺めてみると、
タイトルのつけ方といい、全体の構成といい、自費出版としか思えなかった。
自費出版なのだ、と私はほぼ確信しているが、そうでないかもしれない。
どちらでもいい。
自費出版にしか思えないムックを出すのか──、ということに少なからぬ衝撃を感じている。
ここまで、この出版社は切羽詰っているのか。
自費出版、もしくはそれに近いかたちでの出版にしろ、
もう少し工夫のしようはあったはずだ。
なのに、こんなかたちで出してしまっている。
そうとうに厳しい状況なのか。
明日(5日)のaudio wednesdayには、
“André Cluytens – Complete Mono Orchestral Recordings, 1943-1958”も持っていく。
持っていく、と書いてしまったが、
CDと違って物理的に持っていくわけではない。
すでにiPhoneにダウンロードしているのだから、
iPhoneを持っていく・イコール・クリュイタンスのフォーレも持っていくことになる。
audio wednesdayで、これまでレクィエムと呼ばれる作品は、かけてこなかった。
一度だけ、クルレンツィスのモーツァルトは鳴らしている。
特に理由はなかったともいえるが、
アルテックのスピーカーで、レクィエムと呼ばれる作品を聴きたい、とおもう気持になれなかった。
今回はそのへんが少し変ってきている。
鳴らすのかどうかは、当日の音の鳴り方次第なのだが、
クリュイタンスのフォーレを鳴らすかもしれない。
鳴らすとしても、会の終りごろに鳴るだろう。
システム全体がいい感じで鳴ってくれるようになったときに、かけるかどうかを判断する。
MQAのエヴァンジェリストとして、鳴らしてみたい、という気持になりたいし、
来られた方が、聴いてみたい、という気持になってくれれば、と思う。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
クリュイタンスのステレオ録音では、
ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレスが歌っている。
ロス・アンヘレスは好きな歌い手の一人だ。
ビゼーのカルメンならば、マリア・カラス(プレートル指揮)、
それからアグネス・パルツァ(カラヤン指揮)、
それぞれの役どころのカルメンに惹かれるとともに、
ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス(ビーチャム指揮)も好ましい、と思っている。
ファリャの三角帽子。
名盤といわれるのはアンセルメ/ベルガンサのそれだが、
私としてはフリューベック・デ・ブルゴス/ロス・アンヘレスのほうが、ずっと好ましい。
ロス・アンヘレスは歌曲シェエラザードも忘れてはならない一枚である。
ロス・アンヘレスを熱心に聴き続けてきたとは胸を張ってはいえないけれど、
ずっと好ましい歌手だと思っている。
そのロス・アンヘレスがクリュイタンスのステレオ録音では歌っている。
でも、モノーラル録音のマルタ・アンジェリシの歌唱を聴いたあとでは、
黒田先生がいわれていた、音楽の身振りが大きくなっていることを感じてしまう。
特にMQAで聴くマルタ・アンジェリシの歌唱のあとでは、より強く感じてしまう。
クリュイタンスのモノーラルのほうを、
フォーレのレクィエムの名盤中の名盤というつもりはない。
私が聴いているフォーレのレクィエムはそう多くない。
私よりも、ずっと多くのフォーレのレクィエムを聴いている人は多くいることだろう。
そういう人は、もっとよい演奏をご存じかもしれない。
その演奏と、私はもうであわないであろう。
それを残念だな、とは思わないし、
これから先、これまで聴いてこなかったフォーレのレクィエムの多くを聴いていこうとも思っていない。
堕落した聴き手といわれればそうである。
それでもクリュイタンスのモノーラルでの第四曲の美しさを、
MQAでほんとうに聴けた、といまはそうおもえている。
このことこそが勘違いなのかもしれない。
それでもいい──、
そういいたくなるほど、美しいのだから。
e-onkyoで、
“André Cluytens – Complete Mono Orchestral Recordings, 1943-1958”の配信は、
2018年に開始になっている。
でも、そのころはMQAのことは知ってはいても、まだ聴いていなかった。
e-onkyoの存在は知っていても、アクセスすることはなかった。
2019年秋に、メリディアンのULTRA DACを聴く機会があった。
このとき、はじめてMQAの音を聴いた。
このときのことは別項で書いているので、ここではくり返さないが、
そのときの昂奮はいまも続いている。
ULTRA DACの日からほぼ一年後に、218で自宅でもMQAの音を聴けるようになった。
そうなるとe-onkyoへのアクセスが、日課のようになってきた。
いまではほぼ日課といってもいいぐらいだ。
クリュイタンスのモノーラル録音のCDボックスがMQAで配信されているのに気づいたのは、
昨年の終りちかくだった。
フォーレのレクィエムのモノーラル録音が、MQA(96kHz、24ビット)で聴ける。
このことの嬉しさを、どれだけの人がわかってくれようか。
そうおもいつつも、一人でも多くの人が、クリュイタンスのレクィエムのモノーラルのほうを、
MQAで聴いてくれるようになったら、ともおもう。
第四曲 ピエ・イェズ(Pie Jesu)だけでもいい。
オーケストラがソプラノ独唱によりそうように奏でる三分ほどの、
この短い曲を、MQAで聴いてみるといい。
マルタ・アンジェリシというソプラノ歌手を、
クリュイタンスのモノーラルのレクィエムで知った、というよりも、はじめて意識した。
フォーレの作品にかぎったことではないが、
レクィエムと呼ばれる作品は、あれこれ聴き比べするようなものではないと感じている。
よりよい演奏を求めて、発売される録音をできるかぎり集めて聴いていく──、
クラシックの聴き手としての、その楽しみは十分わかっているつもりだ。
それでもレクィエムだけは、であえた録音(演奏)だけでいいのではないだろうか、
最近はとくにそうおもうようになってきた。
フォーレのレクィエムは、これまでクリュイタンスのモノーラルとステレオ、
それからジュリーニの三枚だけしか買っていない。
これら以外の録音(演奏)はもちろん聴いている。
友人・知人のところで聴いている。
それでもいままで聴いたフォーレのレクィエムは、十指に満たないかそのぐらいでしかない。
ほとんど聴いていないに等しいではないか、といわれれば、そうである、と認めるしかない。
でも、それでいい、と正直なところおもっている。
これら三枚のディスク、
もっといえばクリュイタンスのモノーラルのほうとジュリーニがあれば、ともおもう。
クリュイタンスのステレオ録音のほうはSACDにもなっている。
エソテリックとEMIから出ていた。
モノーラル録音のほうは、テスタメントによる復刻もあるが、通常のCDでしかなかった。
二、三年前にクリュイタンスのモノーラル録音のボックスCDが、65枚組で出た。
オリジナルのマスターテープから96kHz、24ビットでマスタリングがなされた、とあった。
そのころから期待はしていた。
2月5日のaudio wednesdayは、
CDプレーヤーを使わずに、iPhoneとメリディアンの218を使う。
私はiPhoneを持っていくが、
ほかの方がandroidのスマートフォン、Raspberry Pi、
ノート型パソコンなど、CDプレーヤーを必要としない音出しが可能なモノの持ち込みは自由である。
iPhoneは音楽再生専用機ではない。
ポータブル型ということにこだわっても、専用再生機を選んだ方が、
音はよくなる可能性があるのはわかっている。
それでも、あえてiPhoneにこだわっているのは、
アンチテーゼとしての「音」なのかもしれない。
冒瀆ということでいえば、
私がメリディアンの218に手を加えてくることも「冒瀆だ」といいたい人はきっといよう。
以前も書いていることのくり返しになるが、
そういう人が、まったく手を加えていないのかというと、決してそうでないことが多い。
電源コード一本交換しても、それは手を加えていることである。
でも、それを認めない人が、私がやっていることを「冒瀆だ」というのだから、
あれこれいっても無駄だ、という気もしてくる。
これもくり返しになるが、218に関して、ハンダゴテは一度も使っていない。
元の状態に戻すことは十分程度でできる。
元に戻してしまえば、メリディアンの人が中を見ても、手を加えた痕跡は見つけられないはず。
だからといって、私がやっていることは、全く冒瀆にはならない、とまでは考えていない。
218の開発者が「冒瀆だ」といえば、それはすんなり受け入れよう。
けれど受け入れながらも、
手を加えた218とノーマルの218とを比較試聴してほしい、という。
音を聴いたうえで、冒瀆かどうかを判断してほしいからだ。
そのうえで、やはり「冒瀆だ」といわれれば、冒瀆である。
それを認めたうえで、では218をどうするか、といえば、元に戻して使うわけではない。
手を加えた218で、これから先も聴いていく。
私のなかには、手を加えた218を聴いた後で、
ノーマルの218のままで音楽を聴いていくことこそが、
音楽に対する冒瀆のような感じるところがあるからだ。
TOKYO AUDIO BASE 2020の会場に着いて、
最初に入ったブースはほぼ満席だった。
座れるところは空いてなかったので、後方で立って聴いていた。
座っている人のなかに、気になる人がいた。
音が鳴っているときに、両手を耳に後にあてている。
手の大きさの分だけ外耳が大きくなるのと同じだから、
聴こえもよくなるわけだが、この人は自宅でもそうやって聴いているのか。
だとしたら、腕が疲れないのだろうか。
そんなよけいな心配をしていたのだが、よく見ると、
どうも手で耳をなかば塞いでいるようなのだ。
そのブースでの音量は、こういうオーディオショウでは大きくも小さくもない、と感じるくらいだった。
私は後方にいたし、その人は前列のほうだった。
多少離れていたとはいえ、その位置でも大きな音量とはいえない。
ただ、これはあくまでも私の感じ方であって、
耳を塞ぎ気味で聴いていた(と思われる)人にとっては、それでも大きすぎたのかもしれない。
すべての人にちょうどいい音量の設定は、まず無理である。
人には、それぞれ許容範囲がある。
その範囲内におさまっていれば、不満はほとんど出ないであろう。
それでも許容範囲が広い人もいれば狭い人もいるはずだ。
聴いている人に配慮した音量設定はできない、と考えるものだ。
結局、鳴らす音楽に配慮した音量設定をするしかない。
そうなると、あのブースでの小さすぎる音量での「THE DIALOGUE」は、
誰に対して、何に対しての配慮のもとでの音量設定だったのか。
TOKYO AUDIO BASE 2020でのこと。
来場者の一人が、菅野先生録音の「THE DIALOGUE」を持参して、
各ブースでかけて聴かれていたようだった。
ネットワークジャパンのブースを出る時に、
「このディスク、かけてもらっていいですか」とスタッフに訊ねていた。
私は次のブースに行きたかったので、
そこでの「THE DIALOGUE」がどんなふうに鳴ったのかは聴いていない。
次に入ったブースで二曲ほど聴いたところで、
「THE DIALOGUE」が鳴りはじめた。
さきほどの人が、ここでもリクエストしての「THE DIALOGUE」だった。
それにしても、音量が小さすぎる。
「THE DIALOGUE」を、こんな音量で聴いても……、と心の中でつぶやいていた。
そのブースのスタッフが、「音量は、このくらいでいいですか」と持ってきた人にきいていた。
「もう少しあげてください」との返事。
もう少しだけ、音量はあがったけれど、
それでも私としてはあまりにも「THE DIALOGUE」には小さすぎると感じる。
あまり大音量だと、ほかの来場者の迷惑になるかも、という心配(配慮)もあってかもしれない。
それでも、こういうオーディオショウなのだから、
ふだん自宅では鳴らせないような音量での再現を、
「THE DIALOGUE」を持参された人は望んでいたのかもしれない。
そのへんのことを訊ねたわけではない。
その人は、私が不満に感じた音量に満足されていたかもしれない。
オーディオショウでは不特定多数の人が集まる。
そこでの音量設定は難しいといえばそういえる。
けれど……、とも思う。
TOKYO AUDIO BASE 2020に行った帰りに、秋葉原に寄ってきた。
特に目的はなかった。
ぶらぶらして、ある部品店に入った。
USB A(オス)-USB B(オス)変換コネクターがあるかな、と思ってのことだった。
iPhoneとメリディアンの218を接続するに、
Lightning-USBカメラアダプタとD/Dコンバーターを結ぶUSBケーブルがいる。
いままでは、20cmほどの短いケーブルを使っていた。
ここのケーブルをあれこれ試してみるのは面白いだろう、と思う反面、
ケーブルをなくしたい、と思っていた。
USBの変換コネクターがあるはずだ、と気づく。
amazonで検索してみると、あった。
即注文しようとしたけれど、秋葉原に行ったときにでも、
部品店をのぞいてみよう、と思いなおした。
販売店で買いたいモノをチェックして、amazonで購入という人が増えている、と、
もう十年以上前から耳にするようになった。
amazonのほうが安いことが多いからだろうが、
すべての商品がそういうことではない。
今回のUSB変換コネクターは、amazonの半額以下で秋葉原で売られていた。
安価なモノだから、半額以下といっても差額は数百円である。
たった数百円のために、わざわざ秋葉原まで行くのか。
今回はついでの用事があったし、秋葉原に行けば、目的以外にも楽しめることはけっこうある。
と、ここまでは無駄話である。
USBケーブル(数千円した)から変換コネクターに換える。
予想できたこととはいえ、音の違いは大きかった。
USBケーブルは、オーディオ用ということで、端子は金メッキが施されている。
変換コネクターは安価なモノゆえに、そんなことはなされていない。
安っぽい、といえばそうだ。
でも大事なのは、音である。
それにしてもiPhoneとD/Dコンバーターを結ぶ、わずかなこの部分による音の違いは、
カートリッジのシェルリード線の音の違いによく似ている、と感じる。
TOKYO AUDIO BASE 2020に行ってきた。
ネットワークジャパンのブースで、
ギターのライヴ演奏とMQA-CDを鳴らすという企画に興味があったためだ。
ネットワークジャパンのブースでは、
スピーカーシステムはクアドラルのAURUM TITAN 9、
CDプレーヤー、アンプはラックスで、
MQA-CDの再生のためにメリディアンのULTRA DACが加わる、というラインナップ。
ギターの演奏は、井上仁一郎氏。
T-TOCから出ている「GuitArr」のなかから、一曲目と七曲目が、
井上氏による演奏、CDによる再生、MQA-CDによる再生だった。
短い時間とはいえ、
それにシステムのセッティングが十全とはいえないにもかかわらず、興味深かった。
井上氏は、今回はじめてMQA-CDを聴かれた、とのことだった。
その感想も、演奏する側にとっては、そういうことになるのか、と思った。
厳密な意味での比較ではない。
CDとMQA-CDの音に関しても、そういえるところがあった。
やりようによっては、もっと興味深い内容になるのに、と思うところもあった。
それでも、行って聴いてきたことで得られるものはある。
ミハイル・プレトニョフのピアノ(シューマンの交響的練習曲)。
2005年5月19日、菅野先生のリスニングルームで聴いている。
《いま、空気が無形のピアノを、ヴァイオリンを、フルートを鳴らす。 これこそは真にレコード音楽というものであろう》
これは「五味オーディオ教室」で出合った。
とはいえ、実際に、このような音を聴くことがかなったのは、
菅野先生のリスニングルームで、いまから十五年前のことである。
「五味オーディオ教室」から二十九年経ってのことだ。
この録音のすごさを理解しない人がけっこういる──、
そんなふうに嘆かれていた菅野先生のことも思い出す。
プレトニョフのシューマンの交響的練習曲のCDをすぐに買った──わけではなかった。
このCDはすごい、と会う人にすすめはしたけれど、なぜだか自分では買わなかった。
シューマンがあまり好きでないことが、その理由かもしれない。
自分でも買わなかった理由がよくわからない。
数年経ち、買おうかな、と思ったときには廃盤になっていた。
買っておけばよかった、とは思わなかった。
なにかきっかけがあったわけではない。
なのに、今日、ふとプレトニョフの交響的練習曲のことを思い出した。
あいかわらず、いまも廃盤のままだった。
けれどSACDが出ていたことを、今日知った。
あの日、菅野先生のリスニングルームで聴いたのはCDだったはず。
菅野先生が見せてくれたCDのケースは、SACDのそれではなかった。
こうなると欲しくなってくる。
ヤフオク!にはあるかな、とチェックしていたら、偶然にもあった。
しかもあと三十分ほどで終了。誰も入札していなかった。
落札できた。
まだ手元にはない。
SACDだから、といって、
あの日の菅野先生のリスニングルームでの音が再現できるとは思っていない。
それでも、最近、無性に、ピアノのいい録音を聴きたいという気持が高まっている。
私は、同世代の友人と二人で、その吉祥寺の中華屋に行った。
夜からしかやっていない店だった。
二人ともお酒は飲まないから、チャーハンだけを注文した。
(その1)で書いているように、味は最高だった。
店のオヤジは、痩せていて無愛想だった。
でも、そんなことは気になるほどのことではなく、
二人で、チャーハンの美味しさに驚いていた。
店を出てからも、美味しかったな、と話すぐらいだった。
菅野先生が「ひどいめにあったよ、なんだ、あの店(店主)は」といわれたのをきいて、
まず思ったのは、店が汚いからなのか、だった。
(その1)で書いているが、確かに汚い。
カウンターで食べていたけれど、小さなゴキブリが一匹這っていた。
でも、汚い店だということは事前に伝えてあった。
菅野先生は奥さまとお嬢さまと三人で行かれた。
菅野先生もお酒は飲まれない。
家族三人で行って、チャーハンが目的とはいえ、
チャーハンだけというのは失礼だ、と思い、ほかの料理も注文されたそうだ。
にもかかわらずオヤジの機嫌を損ねてしまった、ときいた。
おそらく、われわれがお酒をのまなかったからだろう、と菅野先生はいわれた。
汚い店である。
場末の中華屋という感じの店である。
けれど店主は、きちんとした中華料理店という意識なのだろう、
そこに家族三人で行って、お酒を頼まずに料理だけ、というのが、
機嫌をそこねた理由なのだろう、とのことだった。
それでも料理に手を抜かれたわけではなく、
チャーハンは絶品だった、といわれた。
また食べたいけれど、もう二度と行きたくない、とも。
音元出版のPHILE WEBが、
ハイファイオーディオ 総合ランキングを毎月公開していたのは知っていた。
知っているだけで、パッと見るだけに終っていた。
でも今回、2019年12月のランキングに、見出しを見て最後まで読んだ。
そこには、『アキュフェーズ創立50周年記念超弩級機「E-800」が堂々首位 』とあったからだ。
これまで眺めていただけであったが、それでもなんとなくの傾向は掴んでいた。
だからこそアキュフェーズのE800が、
セパレートアンプ、プリメインアンプの部門で首位というのは意外だった。
E800は980,000円で、税込みだと1,000,000円をこえる。
ランキングに入ってくる機種のほとんどは中級機クラスが多い。
そこにポツンとE800が、初登場で首位である。
売れている、という話はまだきいてなかったけれど、
かなり注目されている、とはきいていた。
別項でE800のプロポーションに関しては、ボロクソに書いている私でも、
E800の音は、かなりの実力だ、と、
じっくり聴いたわけではないが、感じている。
E800の首位を見て、そういえば──、と思い出して、過去のランキングを見てみた。
探していたのは、
デノンのPMA-SX1 LIMITED EDITIONとDCD-SX1 LIMITED EDITIONである。
垂れ流し状態のタイアップ記事の、この二機種はどうなのか。
入っていなかった。
E800が首位になっても、デノンはそうではなかった。
音元出版のハイファイオーディオ 総合ランキングは、
全国すべてのオーディオ店の集計ではないし、
《各商品ジャンルにおける台数別の売れ筋ランキングのデータを、1位5ポイント、2位4ポイント、以下、5位1ポイントの要領で得点化》したものでもある。
これだけですべてを語れるわけではないにしても、参考にはなる。
私はデノンの、この二機種は聴いていない。
どの程度の実力なのかは、まったく知らない。
それに、タイアップ記事垂れ流しの音を聴きたいとも思っていない。
デノンのPMA-SX1 LIMITED EDITIONは、780,000円(税抜き)である。
E800よりも少し安い価格だが、プリメインアンプのなかでは、同クラスといえる。
E800の購入を考えている(いた)人は、デノンとの比較も行っているような気がする。
売れているほうが音がいい──、
そう単純なことではないのだが、E800は首位であり、
PMA-SX1 LIMITED EDITIONは五位までに入っていないことだけは事実であり。
この事実をどう受け止めるかは人それぞれのところもあるだろうが、そうでないところもある。