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Date: 3月 26th, 2023
Cate: 再生音

続・再生音とは……(生演奏とのすり替え実験・その7)

ビクターが五十年ほど前に数回行った生演奏とのすり替え実験。
いまの技術でもう一度やってみたら、どういうことになるのだろうか──、
オーディオマニアならば、そんなことを想像する人も少なくないだろう。

とはいえ、いま、そんな公開実験を行なうメーカーはない、とずっと以前からあきらめていた。
実際、生演奏とのすり替え実験はずっと行われていない。

先月、ソーシャルメディアを眺めていたら、
無人オーケストラコンサートの告知が表示された。

なんだろう? と思って詳細をみたら、
文字通りの無人オーケストラによるコンサートである。

ホールのステージには、椅子がある。
そこに演奏者が座っているのではなく、スピーカーが置かれている。

一度録音して、それをスピーカーから再生するというコンサートで、
スピーカーの数はオーケストラの演奏者の数と同じである。

これはなにがなんでも聴いておかなければ──、と思った。
それからfacebookでシェアした。
オーディオマニアならば関心をもつ人が多いはず、と思ったけれど、
予想に反し、いいねをつけてくれた人は二人だけだった。

そんなものなのか……、と思っていた。
昨日(3月25日)、横浜みなとみらいホールに行ってきた。

無人オーケストラコンサートを聴くためである。

Date: 10月 13th, 2022
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その36)

このブログを始めたばかりの頃、
2008年9月に、
「生の音(原音)は存在、再生音は現象」と考えていきたい、
と書いている。

再生音は現象だからこそ、おもしろいし、
オーディオを長く続けているのだ、といまひとりで納得している。

ステレオサウンド 38号に、
黒田先生が八人のオーディオ評論家のリスニングルームを訪問された特集がある。

そこで「憧れが響く」という文章を書かれている。
そのなかに、こうある。
     *
 目的地は不動であってほしいという願望が、たしかに、ぼくにもある。目的地が不動であればそこにたどりつきやすいと思うからだ。あらためていうまでもなく、目的地は、いきつくためにある。その目的地が、猫の目のようにころころかわってしまうと、せっかくその目的地にいくためにかった切符が無効になってしまう。せっかくの切符を無駄にしてはつまらないと思う、けちでしけた考えがなくもないからだろう。山登りをしていて、さんざんまちがった山道を歩いた後、そのまちがいに気づいて、そんしたなと思うのと、それは似ていなくもないだろう。目的地が不動ならいいと思うのは、多分、そのためだ。ひとことでいえば、そんをしたくないからだ。
 目的地はやはり、航海に出た船乗りが見上げる北極星のようであってほしいと思う。昨日と今日とで、北極星の位置がかわってしまうと、旅は、おそらく不可能といっていいほど、大変なものになってしまう。
 ただ、そこでふりかえってみて気づくことがある。すくなくともぼくにあっては、昨日の憧れが、今日の憧れたりえてはいない。ぼくは、他の人以上に、特にきわだって移り気だとは思わないが、それでも、十年前にほしがっていた音を、今もなおほしがっているとはいえない。きく音楽も、その間に、微妙にかわってきている。むろん十年前にきき、今もなおきいているレコードも沢山ある。かならずしも新しいものばかりおいかけているわけではない。しかし十年前にはきかなかった、いや、きこうと思ってもきけなかったレコードも、今は、沢山きく。そういうレコードによってきかされる音楽、ないしは音によって、ぼくの音に対しての、美意識なんていえるほどのものではないかもしれない、つまり好みも、変質を余儀なくされている。
 主体であるこっちがかわって、目的地が不変というのは、おかしいし、やはり自然でない。どこかに無理が生じるはずだ。そこで憧れは、たてまえの憧れとなり、それ本来の精気を失うのではないか。
 したがってぼくは、目的地変動説をとる。さらにいえば、目的地は、あるのではなく、つくられるもの、刻一刻とかわるその変化の中でつくられつづけるものと思う。昨日の憧れを今日の憧れと思いこむのは、一種の横着のあらわれといえるだろうし、そう思いこめるのは仕合せというべきだが、今日の音楽、ないしは今日の音と、正面切ってむかいあっていないからではないか。
     *
この黒田先生の文章と再生音は現象ということが、
いまの私のなかではすんなり結びついている。

Date: 2月 13th, 2022
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その35)

つぼみのままで終ってしまう音と花を咲かせる音。
どちらを愛でるのか。

つぼみのままで終ってしまう音は、
花を咲かせはしないものの、熟すことのない音ともいえるだろう。

ずっとつぼみのままなのだから。

そういう音を愛でるのが好きな人がいる。
対象が音なのだから、周りがとやかくいうことではない。

けれどつぼみのままで終ってしまう音は、決して実を結ぶことはない。
花を咲かせた音は、いつか花が散ってしまうことだろう。

そうなるくらいならつぼみのままのほうが──、という人にはわからないだろうが、
花が散っていった先には、実が生る。

この音の「実」を意識することなく終るのか、そうでないのか。

Date: 5月 30th, 2021
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その34)

以前書いたことを、ここでもくり返す。

オーディオマニアとして自分を、そして自分の音を大切にすることは、
己を、己の音を甘やかすことではなく、厳しくあることだ。

そうでなければ、繊細な音は、絶対に出せない、と断言できる。

繊細な音を、どうも勘違いしている人が少なからずいる。
キャリアのながい人でも、そういう人がいる。

繊細な音を出すには、音の強さが絶対的に不可欠であることがわかっていない人が、けっこういる。

音のもろさを、繊細な音と勘違いしてはいけない。
力のない、貧弱な音は、はかなげで繊細そうに聴こえても、
あくまでもそう感じてしまうだけであり、そういう音に対して感じてしまう繊細さは、
単にもろくくずれやすい類の音でしかない。

そんな音を、繊細な音と勘違いして愛でたければ、愛でていればいい。
一生勘違いしたままの音を愛でていればいい。

つぼみから花へと変化していくのに必要なのは何なのか。
そのことに気づかぬままでは、いつまでたっても花を咲かすことはできないし、
繊細な音がほんらいはどういう音なのかにも気づかずに終ってしまうことだろう。

Date: 5月 22nd, 2021
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その33)

つぼみのままで終ってしまう音なのか、
花を咲かせてこその音なのか。

自己模倣という純化の沼にはまってしまったら、
永遠に花を咲かすことはできない。

自己模倣という純化の沼がやっかいなのは、
浸かってしまっていることに気づかないことが多いからだ。

オレは大丈夫、スピーカーをよく交換するから、という人がいるかもしれない。
そんなことをいう本人のなかでは、
それまでのスピーカーとはまったく別のタイプのスピーカーにした、という意識があるはずだ。

でも、これは昔からよくいわれていることで、
周りからみたら、また同じタイプのモノにして、ということだったりする。

つきあう女性がころころ変る人がいる。
こういう人も、同じことをいう。

これまでつきあってきた女性とはまったく違うタイプの女性とつきあうことにした、と。
でも、周りからみたら、また同じタイプの女性とつきあっている、ということでしかない。

スピーカーの場合、タイプ的にまったく別のタイプにすることはできる。
それまで大型ホーン・システムを使っていた人が、
コンデンサー型スピーカーに変更することとかがそうである。

タイプ的にも音的にも、まったく別のスピーカーではあっても、
おもしろいもので、自己模倣の泥沼に陥っている人が鳴らすと、
結局、同じ音になってしまう。

このことを肯定的に捉えることがてきる人がいる。
どんなスピーカーであっても、自分の好きな音で鳴らせる、というふうにだ。

Date: 3月 17th, 2021
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その32)

いい音、
それも再生音でのいい音とは、どういうことなのか。

いろいろこまかなことを書いていけば、きりがないほどにあるように感じている。
それでも、菅野先生が提唱されたレコード演奏。

この考えに賛同する人もいれば、無関心な人、完全否定する人もいる。
それでも、いい音ということに関していえば、
レコード演奏と呼べる音は、やはり、いい音である。

では、レコード演奏と呼べる音、
再生音でのいい音とは、簡潔にいうならば、
花が咲いた音だと、最近思うようになってきた。

そして、どこかオーディオマニアは、つぼみのままで、あれこれいいすぎたり、
こだわりすぎているようにも感じている。

懸命につぼみを大きくしようとしたり、きれいにしようとしたりする。
花を咲かせてこそ、いい音であり、
それこそレコード演奏と呼べる音だ、といいたい。

つぼみを愛でるのも、趣味といえばそうである。
つぼみのまま楽しむのも、人それぞれだから、そういう趣味もあっていい。

それでも、花を咲かせたい。
そういう音でこそ、好きな音楽を聴きたいものである。

Date: 3月 16th, 2021
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その31)

辞書(大辞林)には、再生のところにこうある。

(1)死にかかっていたもの,死んでいたものが生き返ること。蘇生。
(2)心を改め,くずれた生活からまともな生活に戻ること。更生。「—を誓う」
(3)廃品となったものを再び新しい製品に作りなおすこと。「—した紙」「—品」
(4)録音・録画したものを機械にかけてもとの音・画像を出すこと。「映画の名場面を—する」「—装置」
(5)再びこの世に生まれること。「弘法大師を—せしめ/文明論之概略(諭吉)」
(6)失われた生体の一部が再び作り出されること。下等生物ほど再生能力が強い。
(7)〔心〕 記憶の第三段階で,記銘され保持された経験内容を再現すること。想起。

オーディオで、再生といえば四番目の意味が常識となっている。
だからこそ再生音ともいう。

けれど再生に三番目の意味がある。
再生紙とか再生ゴムとか、そういった意味での再生があるから、
再生音といういいかたを嫌う人がいても不思議ではない。

私は、再生音といういいかたが、むしろ好きである。
それは一番目、二番目の意味での再生音ととらえているところがあるからだ。

EMIのクラシック部門のプロデュサーだったスミ・ラジ・グラップは、
「人は孤独なものである。一人で生まれ、一人で死んでいく。
その孤独な人間にむかって、僕がここにいる、というもの。それが音楽である。」
と語っている。

ここでも何度も触れている。
孤独な人間は、死に向って急ぎはじめているかもしれない。
そんな孤独な人間に、僕がここにいる、と寄り添ってくれる。

ならば、その音楽に身を寄せて死に向い始めていた心が、
再生に向い始めるのを音楽を聴くことで待つこともあるからだ。

オーディオで聴く音とは、音楽である。
だからこそ、私は再生音を使う。

Date: 2月 22nd, 2018
Cate: 再生音

続・再生音とは……(続その12に対して……)

一年と少し前に書いている。

Gaiaの真ん中にはaiがいる。AIだ。
artificial intelligence(人工知能)のAIが、Gaiaの真ん中なのだ。

いわばこじつけなのだが、そう思っている。
でも最近では、AIとは、artificial intelligenceだけではなく、
auto intelligenceなのかもしれない、と思うようにもなってきた。

Date: 2月 4th, 2018
Cate: 再生音

続・再生音とは……(波形再現・その13)

より正確な波形再現を目指して、
スピーカーの前にマイクロフォンを立てての、実際の音楽波形を使っての測定。

マイクロフォンセッティングに関するこまかなこともきちんとやったうえで、
かなり正確といえるレベルまできたとしよう。

アマチュアの場合、無響室などないから、
マイクロフォンの位置はスピーカーから1mも離れていないであろう
近距離、数10cm程度のところで測定しての波形再現である。

もちろんスピーカーは一本での測定での波形再現である。
そうやって製作したスピーカーで音楽を聴くのであれば、
左右のスピーカーは、左右の耳の真横、
それもスピーカーとマイクロフォンの距離と同じだけ離して置くことになる。

10cmのところで測定していたのであれば、
耳から10cmのところにスピーカーを置く。
向い合った二本のスピーカーのあいだに聴き手は座って聴くかっこうになる。

私がSNSでみかけた波形再現を追求したという人は、
通常のセッティングで聴いていた。
それでは、ほんとうに波形再現を目指していた、といえるのか。

その人の測定の方法からすれば、耳の真横に置くことになる。
さらにいえば、左右のスピーカーの音が混じりあわないように、
中央に仕切り板も必要となる。

つまり仕切り板で、聴き手の右耳と左耳とを分離しなければならない。
それがその人がやっていた波形再現の理屈である。

そうなってくると、巨大なヘッドフォン(イヤースピーカー)といえる。
そしてそれはステレオフォニック再生ではなく、バイノーラル再生である。

Date: 2月 4th, 2018
Cate: 再生音

続・再生音とは……(波形再現・その12)

マイクロフォンを使ってスピーカーの測定には、つねに曖昧さといっていいものがつきまとう。
正弦波を使っての、もっとも基本的な測定であっても、
スピーカーからの距離が変れば、高域の特性は変化する。

スピーカーから1mでの周波数特性と2m、3m……と離れていった場合の特性は、
高域の減衰量が違ってくる。
同じ距離であっても、マイクロフォンの高さが違えば、また変ってくる。

それから微妙なことだが、マイクロフォンがきちんと正面を向いているかどうか。
少し斜め上になっていたり、左右どちらかに少しズレていたりしたら、
それだけでも測定結果は変ってくる。

距離も高さも同じでも、湿度が違えば、また違ってくる。
空気も粘性をもっているのだから、考えれば当然のことである。

そこにマイクロフォンのことが絡んでくる。
測定用のマイクロフォンなのかどうかである。
測定用であっても、きちんと校正されているのかどうか。

いまではスマートフォンとアプリがあれば、簡単な測定は可能である。
外部マイクロフォンをもってくれば、もう少し正確な測定ができるようになる。
測定が手軽に身近になっているのは、いいことだと思う。

それだけに、いま自分が何を測定しているのかは、常に意識しておく必要がある。
特にスピーカーからの音をマイクロフォンで拾い、
その波形とCDプレーヤーからの出力波形とを比較して、
どれだけの再現率があるのかをみるのに、どんなことが要求されているのか、
ほんとうに理解しての波形の比較なのだろうか。

しかもスピーカーは、ステレオ再生の場合、二本必要である。
モノーラルが二つあれば、
それでステレオ(正確にはステレオフォニック)となる──、
そう考えているのだとしたら、正しくはない。

Date: 11月 11th, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(波形再現・その11)

ある個人が、完璧な波形再現を目指してスピーカーの開発に取りかかったとしよう。
波形再現を目指しているのだから、耳で聴いての結果よりも、
まずマイクロフォンを使っての測定、そして波形の比較となる。

個人で無響室をもっている人は、まずいない。
個人の場合、自身のリスニングルームが測定の場となろう。
その時、部屋の音響特性の影響から少しでも逃れるために、
マイクロフォンをスピーカーのごく近くに置く。

1mでも、部屋の影響を無視できるわけではない。
もっと近づけて測定することになろう。
50cmか30cm、それとももっと近く10cmくらいのところにマイクロフォンを立てるかもしれない。

部屋が広ければ、そしてデッドであれば、
マイクロフォンの距離はそこまで近づけなくてもすむだろうが、
部屋が小さくなれば、それだけスピーカーとマイクロフォンの距離は近づく。

そうなってくると、Near Fieldと呼ばれるところにマイクロフォンが来ることだってある。
さすがにVery Near Fieldまでマイクロフォンを近づけることはないと思うが、
それだってまったくない、とはいえない。

Very Near Field、Near Field、Far Fieldの違い、
そこでの音のふるまいを十分に理解したうえで、マイクロフォンを立てての測定なのだろうか。

測定の難しさは、ここにある。
測定をしている本人が測定していると思っている現象ではなく、
違う現象を測定していることだってある。

Date: 11月 11th, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(波形再現・その10)

スピーカーから出た音をマイクロフォンで拾い、その波形を測定する。
この時、メーカーならば、無響室にスピーカーを置き、
スピーカーの正面1mの距離にマイクロフォンを立てて測定する。

スピーカーの音圧は、距離の二乗に反比例することは知られている。
しかも、この現象は、音源から、ある一定以上離れたところから起る現象である。

音源に近いところでは、音圧がまったく変らないわけではないが、
変化はゆるやかで、しかも必ずしも低下するわけでもない。

音響学では、距離の二乗に反比例して音圧が低下する領域を、Far Field、
音源に近く、音圧の変化がゆるやかな領域を、Near Fieldと呼ぶ。
Near Fieldのことを、近傍音響ともいう。

さらにもっと音源に近づいた領域、
この領域の空気は、慣性をもったマスのような性質をもっている、とある。
この領域をVery Near Fieldと呼ぶ。

このことについて、私はこれ以上の知識をもたないが、
スピーカーにごく接近した領域と離れた領域とでは、
音圧ひとつとっても違う変化を見せる、ということは知っておいた方がいい。

それから1mぐらいの距離で測定する場合、
低音に関しては、ほんとうのところはわからない、とは昔からいわれている。
低音の波長は長いからであって、
スピーカーから1mの距離は、音速を340m/secとするならば、340Hzの波長である。
つまり1mの距離があれば、340Hzの音は一波長分確保されている。

けれどそれ以下の音に関しては、1mは一波長の中に、マイクロフォンがあるわけだ。
34Hzで10mの波長。20Hzならば17mの波長。
これだけの距離をとって測定することは、
そうとうに大きな無響室か、
広いグラウンドにスピーカーを植えに向けて埋めて、
グラウンド面を巨大なバッフルとして、上空高くにマイクロフォンを置いて、ということになる。

何がいいたいかというと、
スピーカーに接するかのようにマイクロフォンを置いて測定することの難しさというか、
不確実さがある、ということだ。

Date: 8月 29th, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(波形再現・その9)

トリオのプリメインアンプKA9300の広告には、
差信号をスペクトラムアナライザーで周波数分析したオシロスコープの表示も載っている。

これだけの違いを見せられると、
ACアンプよりもDCアンプの優秀性を、鵜呑みにしたくもなる。

KA9300の、この広告には、こんなことも書いてあった。
     *
20Hzのパイプオルガンと10Hzのドラムが同時に演奏されると、パイプオルガンがさきに聴こえる……そんなバカな、音速は周波数にかかわらず一定じゃないか、という声もきかれそうですが、位相回転により時間差が生じた結果なのです。そしてこの位相回転による歪が、いま問題となっている位相差歪です。
     *
こういう書き出しで広告の本文は始まり、
ACアンプとDCアンプの、実際の特性の違いを再生波形の違いで見せる。
説得力はある。

DCアンプの優位性は、確かにある。
ゆえに間違っている、とはいえない。

だが、この理屈でいくならば、真空管アンプは、聴くに耐えない音、
そこまでいうのがいいすぎならば、かなり不正確な音ということになる。

真空管アンプの場合、パワーアンプでも最低でも時定数が二つ以上存在するわけだから、
KA9300の広告にある測定を行なったら、その波形をみたら、
こんなにも……とびっくりするような結果になるはずだ。

ならば真空管アンプはダメということになるかといえば、
むしろ逆に、音楽性豊かな音といわれることがあるのも事実である。

ここでも、別項で引用した菅野先生のマッキントッシュ論を手にとってみたい。
     *
 彼は、こんな実験をしたという。それは、最近よく問題にされるスルーレートに関するものである。「方形波を入れて、それがアウトプットでどういう形になるか。それがアンプの特性を示す一つの目安になることは確かだ」と彼も言う。しかし同時に「現在のような形でスルーレートを取り上げるジャーナリズムのあり方には、大きな問題がある」と言うわけだ。
 彼は、一般のユーザーを集め、方形波のかなり悪いシステムと、かなり良いシステムを比較させ、音楽を聴く上でそれがどれだけの影響を持つかを確めている。彼は言う「たとえばテープレコーダーは方形波がきわめて悪い。磁気ヘッドは本質的に位相特性が非常に悪いから、方形波はめちゃめちゃに崩れてしまう。でも、そういうテープレコーダーで、はたして音楽は音楽でなくなってしまうか。あの波形を見ると、確かにびっくりするほどの波形だが、音楽はちゃんと音楽らしく鳴っているではないか」
 もちろん彼は、エンジニアにとって方形波が非常に重要なものである事は認めている。ただ、現在のジャーナリズムの取り上げ方は本当にアンプの物理的なことを理解していないコンシューマーに対して、「方形波がこうなるということは、あたかも音楽がそういう形になるかのようなすりかえで、アピールしている」これは大変に危険なことだ、と言うのである。
 私はこの考え方を、オーディオの認識のトータルの姿として重要だと思う。これを、単なるガウ氏のデモンストレーションとして受け取ったら、それは浅い。彼自身の意図は、エンジニアリングの立場だけを、一般の人にアピールしたのでは、一般の人たちが神経質になってしまい、オーディオを楽しめなくなってしまう、という事なのだ。それは、ガウ氏が単なるエンジニアではなく、彼自身が音楽好きで、しかもオーディオマニアであるからだろう。もし単なるエンジニアだけだったら、方形波は悪くとも音楽は聴けるではないか、というような事はなかなか言えるものではないと思うのである。
     *
KA9300の広告もゴードン・ガウの言葉にあるよう一種のすりかえに近いことで、
大変に危険な面もはらんでいる。

Date: 8月 27th, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(波形再現・その8)

スピーカーから出た音をマイクロフォンで拾い、
その波形とCDプレーヤーからの出力波形とを比較する。

波形が完全に一致していれば、
それは正しい音といえるのか、
正確な音といえるのか、
さらにはいい音といえるのだろうか。

この波形再現の測定方法には、まずマイクロフォンをどこに設置するのかが、
問題になる。

無響室であれば、スピーカーから1m離れたところにマイクロフォンを置くるのが、
測定のひとつの基準となっている。
だが実際の部屋は残響がある。

ならばスピーカーの直近にマイクロフォンを置けばいいのか、
それともあくまでも聴取位置に置くのか。

直近に置くとしても、ではそのあたりにするのか。
フロントバッフルの中心近くなのか、ウーファーの正面なのか、
トゥイーター、スコーカーの正面なのか。
もっといえば点で考えるのではなく、面で考えなければならないはずだ。

波形再現の測定におけるそういったことはひとまず措くとして、
たとえばアンプにおいて入力波形と出力波形を比較することは、
測定条件としては、そういったこまごまとした問題はあまりない、といえる。

実際にメーカーは入力波形と出力波形の比較を行っていた。
DCアンプがメーカーから登場したはじめたころ、1970年代後半、
国内メーカー各社は、広告やカタログで、DCアンプとそれまでのACアンプの周波数特性、
それに位相特性のグラフを示していた。

トリオもやっていた。
トリオはさらに実際の音楽信号を使い、
DCアンプとACアンプの出力との比較写真も広告に掲載していた。
それだけでなく引き算回路を用いて、30倍に拡大した差信号の写真もあった。
KA9300の広告がそうである。

Date: 8月 27th, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(波形再現・その7)

電圧発生器か電力発生器という、カートリッジの分類は、
スピーカーを聴いていても、同じではないかと感じるところがある。

音圧発生器なのか音力発生器なのか。
そんな違いが、古くからのスピーカーを含めて眺めてみたときに、あると感じる。

ここでも波形再現の精度が高いのは、
音圧発生器といえるタイプのスピーカーシステムであることが多い。

音力──、
電気に電圧と電流があって、電力が、その積として存在するように、
音も、音圧だけでなく、音力といえるものが存在するように、感覚的には直感している。

何度か、アナログディスクはエネルギー伝送、CDは信号伝送、
そういうイメージがあることを書いている。

デジタルのハイレゾリューションの方向は、信号伝送メディアとして間違ってはいない。
でも正しい、とは、素直に書けない(思えない)何かを感じてもいる。

何かが足りないのではないか、という感覚が、いまのところ残る。

それが何なのかは、コンピューターのディスプレイに表示される波形だけをみていては、
いまのところわからないもののはずだ。

スピーカーから発せられる音をマイクロフォンで捉えて、
その波形とCDプレーヤーの出力は系とを比較して、波形再現を目指すのは、
オーディオの再生系を信号伝送系として捉えるのであれば、
ここでも間違ってはいない、といえるけれど……、となる。