Date: 4月 4th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(おさなオーディオ・その2)

スピーカーケーブルも1mあたり数千円が高価だとおもえていた頃からすると、
いまどきの高価なケーブルの価格づけには、首を傾げたくなるものがある、といえばある。

高価すぎる、と私が思っていても、
別の人は妥当な価格だと思うことだってあるし、さらには安い、と感じている人だっているとは思う。
それでも1mあたり数十万円もするようなスピーカーケーブルともなると、
アンプの値段とあまり変らなくなってきているし、
価格の面だけからみれば、
スピーカーケーブルも、アンプやスピーカーと同じようなオーディオ・コンポーネントのひとつということになろう。

スピーカーケーブルもアンプやスピーカーと同じような扱いで捉えられている人も少なくない、ともきいている。
でも私はケーブルの類はアクセサリーであり、オーディオ・コンポーネントの「関節」でもあると考えている。

とにかくケーブルをオーディオ・コンポーネントのひとつとしてとらえるならば、
アンプやスピーカーと同じように常に目につくところに置きたい(這わせたい)と思うのが、
むしろ一般的なのかもしれない。

仮に私がそういう高価すぎると思えるスピーカーケーブルを使うことがあるとしても、
スピーカーケーブル、それに電源コードは極力目につかないように隠して這わせるようにする。

このへんは、人によって考え方の違いだろう、といってすませられることだとは思っていない。

Date: 4月 4th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その10)

アン・バートンがアン婆ァトンになってしまうくらいに、
アン・バートンの声が老け込んで鳴ってしまうとき、
バックで演奏されている楽器の音色や鳴り方も、いうまでもなく変ってしまう。

瀬川先生も書かれているように、
アン・バートンの声がアン婆ァトンになってしまったとき、
「ベースはウッドでなくゆるんだゴム・タイヤを殴っている感じ」になり、
「ピアノやドラムスも変に薄っぺらで線が細く、キャラキャラいう」。

アン・バートンがアン婆ァトンに変質してしまうとき、
くり返しておくが、変質はアン・バートンだけにとどまらないということであり、
このことはアン・バートンの声がアン・バートンの本来の声として鳴ってくれれば、
バックのベースやピアノ、ドラムスの音も、
ある程度(かなりともいっていいだろう)それらしく鳴ってくれるということでもある。

これはアン・バートンの声だけにかぎられたことではない。
ほかの歌手についてもいえる。
歌手の声質によっては、アン・バートンがアン婆ァトンになるほど、
極端には老け込まないこともあるにしても、
それでも、人の声の再生はそんなふうに変質してしまいやすい。

変質してしまいやすい、と書いてしまったけれど、
実のところは人の耳は人の声に対して敏感であるため、
わずかな変質も敏感に感じとっているため、変質が容易に聴き取りやすいのかもしれない。

どちらにしても、人の声は、なにひとつ確実なことがなさそうにおもえていた音の判断基準において、
オーディオにとり組みはじめたばかりの若造だった、あの頃の私にとっては、ここから拡げていくことができた。

Date: 4月 3rd, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その3)

私がいまここに書いている例は、
あくまでもオーディオ雑誌に掲載された記事を読んでのものでしかない。

全国のオーディオマニアの方々がどういうシステムかというかを調査したデータがあるわけでもなし、
オーディオ雑誌の記事にしてもすべてに目を通しているわけでもなく、
あくまでも私が読んだ(目を通した)記事の中で、
記憶に残っている全体的なイメージのことでしかないのはわかっている。

それでもアルテックとタンノイのスピーカーを同居させている人は少ないと感じているし、
それ以上にふたつ以上のスピーカーしを同居させている人の多くは、
そのひとつがJBLであることが多いと感じていて、
それがなぜなのかを、考えてしまっている。

Date: 4月 2nd, 2013
Cate: オプティマムレンジ

オプティマムレンジ考(その1)

ワイドレンジについて書いている。
ナロウレンジについても書いている。

書きながら思っていることは、ワイドでもナロウでもないレンジのことであり、
それをいったいどう呼べばいいのだろうか、ということである。

ワイドレンジ(wide range)は広い周波数帯域であり、
ナロウレンジ(narrow range)は狭い周波数帯域ということになっている。

この広い、狭いは、何を基準としているのか。

最新の録音を最新のオーディオ機器を最新の調整によって鳴らされた音を聴いた後で、
同じディスクをずっと以前の、いわゆるナロウレンジと呼ばれるスピーカーシステムで聴けば、
周波数帯域(おもに高域に関して)が狭いと感じる。

けれどそのスピーカーシステムと同時代の録音、さらにはもっと以前の録音のレコードをかければ、
そのスピーカーシステムの周波数帯域を特に狭いとは感じることは、あまりない。

狭いよりも広いほうがいい、と考えがちであるが、
オーディオでは常に広いほうが、結果としての音が心地よいとは必ずしもいえないことがある。
ときとして適度なナロウレンジのほうが、うまく鳴ってくれることが少なくない、と感じるのも事実である。

いまオーディオ機器を取り巻く環境は確実に悪くなっている。
電源事情も、飛び交う電波にしても、音を悪くしていく要因が増え複雑化している、ともいえる状況下では、
比較的影響をワイドレンジの機器よりも受けにくいナロウレンジのオーディオ機器のほうが、
それほど細かな神経を使わずとも、ほどほどにうまく鳴ってくれる。

ワイドレンジであればあるほど、時としてオーディオ機器を取り巻く環境の影響を受けやすくなり、
それなりの注意、使いこなしが要求されることにもなる。

そういうことを厭わず、むしろ喜々として楽しんでいける人ならばいいけれど、
そんな人ばかりではない。
ならばワイドレンジでもない、ナロウレンジでもない、
ちょうどいい按配のレンジを考えていくことも必要なのではないか、と考えている。

Date: 4月 1st, 2013
Cate: 五味康祐

五味康祐氏のこと(「花の乱舞」)

東京では桜が散りはじめている。
今日は4月1日。

五味先生の「花の乱舞」から引用しておきたいところがある。
     *
 花といえば、往昔は梅を意味したが、今では「花はさくら樹、人は武士」のたとえ通り桜を指すようになっている。さくらといえば何はともあれ──私の知る限り──吉野の桜が一番だろう。一樹の、しだれた美しさを愛でるのなら京都近郊(北桑田郡)周山町にある常照皇寺の美観を忘れるわけにゆかないし、案外この寂かな名刹の境内に咲く桜の見事さを知らない人の多いのが残念だが、一般には、やはり吉野山の桜を日本一としていいようにおもう。
 ところで、その吉野の桜だが、満開のそれを漫然と眺めるのでは実は意味がない。衆知の通り吉野山の桜は、中ノ千本、奥ノ千本など、在る場所で咲く時期が多少異なるが、もっとも壮観なのは満開のときではなくて、それの散りぎわである。文字通り万朶のさくらが一陣の烈風にアッという間に散る。散った花の片々は吹雪のごとく渓谷に一たんはなだれ落ちるが、それは、再び龍巻に似た旋風に吹きあげられ、谷間の上空へ無数の花片を散らせて舞いあがる。何とも形容を絶する凄まじい勢いの、落花の群舞である。吉野の桜は「これはこれはとばかり花の吉野山」としか他に表現しようのない、全山コレ桜ばかりと思える時期があるが、そんな満開の花弁が、須臾にして春の強風に散るわけだ。散ったのが舞い落ちずに、龍巻となって山の方へ吹き返される──その壮観、その華麗──くどいようだが、落花のこの桜ふぶきを知らずに吉野山は語れない。さくらの散りぎわのいさぎよいことは観念として知られていようが、何千本という桜が同時に散るのを実際に目撃した人は、そう多くないだろう。──むろん、吉野山でも、こういう見事な花の散り際を眺められるのは年に一度だ。だいたい四月十五日前後に、中ノ千本付近にある旅亭で(それも渓谷に臨んだ部屋の窓ぎわにがん張って)烈風の吹いてくるのを待たねばならない。かなり忍耐力を要する花見になるが、興味のある人は、一度、泊まりがけで吉野に出向いて散る花の群舞をご覧になるとよい。
     *
1972年発行の「ミセス」に載せられた文章だ。
「花の乱舞」はつぎのように締めくくられている。
     *
音楽は、どのように受けとろうと究極のところは〝慰藉〟と〝啓示〟を享受すれば足りるものだから、受け入れやすいもの必ずしも低俗に過ぎるとはかぎるまい、というのが私の持論である。時にはバッハやハインリッヒ・シュッツの受難曲を聴いたあとなど、気分をほぐすつもりでロシア五人組の音楽に耳を傾けることがある。そして五人組ではないが、ハチャトゥリアンの『ガヤーネ』を聴くと、吉野山の桜を想い出す。これ迄、花びらのその龍巻を私は一度しか見ていないが。
     *
五味先生は、もう一度、吉野山の花びらの龍巻を見られたのかどうかは、わからない。
今日4月1日は、五味先生の命日である。

Date: 4月 1st, 2013
Cate: audio wednesday

第27回audio sharing例会のお知らせ(スピーカーの捉え方について)

今月のaudio sharing例会は、4月3日(水曜日)です。
テーマはスピーカーについて語ろうと考えています。

13歳のときからオーディオに興味をもってからこれまでの30年以上の間に、
スピーカーをどう捉えるかが、ずいぶん変ってきたところがあります。
変っていないところも、またあります。

いまだスピーカーというものが、いったいどういうものなのか、
その全貌をはっきりと掴んでいるとはいえません。
これから先、あと10年、20年、それ以上経とうとも、
スピーカーの正体を完全に把握することは無理なような気もしています。

だから今回のテーマは、あくまでもその途中経過についてふれてみたいと思っているわけです。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 3月 31st, 2013
Cate: 表現する

夜の質感(桜の季節)

まだ咲いていない地域もあるけれど、
私が住む地域ではすでに桜は満開をすぎて花弁が舞い始めている。

駅までの道のり、桜並木を歩いていく。
朝、明るい時間にも歩き、帰りは日によって、まだ夕方の明るい時間のときもあれば、
暗くなって、それでもまだ人通りが多い時間のときもあるし、
もう深夜になって、人通りもほとんどなくなった時間に、桜並木を歩く。

夜おそい時間ともなれば、この道も暗くなる。
その暗さの中に、桜の淡い色が目に入ってくるけれど、
それよりも強い印象を与えてくれるのは、幹・枝である。

暗いから、明るい時間では幹・枝の表皮の質感がはっきりとわかるのが、
この時間ともなれば幹はそういうところまではもちろん見えず、
だからこそ幹の形(枝ぶり)が明るいとき見ているよりも、
そのシルエットが花明りによってはっきりと浮び上っている。

同じ桜の木を、朝と夜とでは反対方向から眺めているわけだが、同じ桜の木を見ていることには変りはない。
なのに明るい時間と深夜遅い、ほんとうに暗くなってからとでは、
桜の木のシルエットの印象がまるで違ってくる。

ひとりで歩いていると、それも誰も歩いていなかったりすると、
桜の木のシルエットに、どきっとする。
明るい時間では感じられなかった、異形さを感じとっているからだ。

というより、異形として私が感じとっている、と書くべきだろう。
明るい時間ではまったく感じなかった怖さがあり、
これもまた「夜の質感」なのだとおもう。

Date: 3月 31st, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい
1 msg

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その2)

JBLとタンノイの、ふたつのフラッグシップモデルを手に入れて鳴らす、ということは、
時代によってパラゴンがスタジオモニター・シリーズの4350(もしくは4343)に変化していく。

タンノイもそれにともない変化していく──、と書きたいところだが、
オートグラフはイギリス本国での生産をやめ輸入元ティアックによるライセンス生産に切り替り、
アーデン、バークレイなどの、いわゆるABCシリーズが主力機種としてラインナップされていた時期があるため、
4350(4343)と同居するタンノイは、やはりオートグラフ(もしくはGRF)だった、ともいえよう。

こんなことを書きながら、ふと思ってしまったのは、
アルテックとJBLを同居させる人も、少なからずいたような気がしている。
ジャズの好きな人が、アメリカの西海岸の、ルーツを辿れば同じところに辿り着くふたつのブランド、
アルテックとJBLのスピーカーシステムを手に入れて鳴らす──、
そんな写真(記事)を読んだような記憶が、私のどこかにある。

もしかすると私の記憶違いなのかもしれない。
でもたしかに見た(読んだ)記憶もある。
(ステレオサウンド 38号の岩崎先生のリスニングルームの記事を除いて、である)

記憶違いだとしても、アルテックとJBLの同居はあってもおかしくはないし、
このふたつのブランドの同居は、JBLとタンノイの同居とはまた違う領域の広がりを見せてくれる。

でもアルテックとタンノイを同居させていた人は、いたんだろうか、と思ってしまう。
JBLとタンノイ、JBLとアルテックがあれば、
アルテックとタンノイの同居があっても不思議ではない。

アルテックでジャズを聴き、タンノイでクラシックを聴く。
アルテックの中から604を搭載したモデルを選択すれば、
アメリカ、イギリスの同軸型ユニットによるスピーカーシステムを同居させることになり、
これはこれで非常に面白い試みとも思えるのだが、
なぜか、アルテックとタンノイの同居という写真を見た記憶がほとんどない。
(こちらは瀬川先生が一時期やられていたことはあるけれど……)。

このへんになるとすこし記憶に自信がもてない。
どこか、都合のよいように記憶違いを自ら起している──、
そんなふうに思いながらも、複数のスピーカーを同居させている例の多くには、
JBLが片方の主役であることが多かったのではなかろうか。

Date: 3月 31st, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その9)

人の声といっても、
これもまたオーディオ機器によって、少なからず変化を受ける。

この項の(その4)でふれているローズマリー・クルーニーのレコード。
個人的にはローズマリー・クルーニーは、とくに好きな歌手というわけではない。
とはいえステレオサウンドの試聴室でくり返し聴いていると、
スピーカーやアンプなどによって、ローズマリー・クルーニーの年齢が変ったようになることがあるのに気づく。

そのレコードを録音したときの年齢にふさわしい鳴り方のときもあれば、
妙に若返って鳴ることもある。
その若返り方も、いろんな若返り方があり、
いかにもローズマリー・クルーニーの若いときは、こんな感じなんだろうな、と納得できる鳴り方もあれば、
この鳴り方はローズマリー・クルーニーではなくて、どこか別の歌手のように若返ってしまった、ということもある。

反対に老け込む鳴り方もある。
声に艶がなくなり、潤いもなくなってしまう。
そういえば、瀬川先生が「ふりかえってみると、ぼくは輸入盤ばかり買ってきた」のなかで、
アン・バートンの日本盤と輸入盤(オランダ盤)の音に違いについて書かれている。
     *
 そうしてアン・バートンにのめり込んでいるのを知って友人が、オランダCBSのオリジナル盤を探してきてくれた。クラシックではマメにカタログをめくったり注文したりする私が、ポピュラーのレコードになると途端に無精になる。友人がオリジナル盤を探してくれなかったら、私はアン・バートンのほんとうの良さを聴けずに過ごしたかもしれない。
 この違いを何と書いたらいいんだろうか。オランダ盤に針を下ろして、聴き馴れたはずの彼女の声が流れ始めた一瞬、これが同じレコード? と耳を疑った。これがアン・バートンなら、いままで聴いていたのはアン婆ァトンじゃないか――。われながらくだらない駄洒落を思いついたものだが、本気でそう言いたいくらい、声の張りと艶が違う。片方はいかにも老け込んだような、疲れて乾いた声に聴こえる。バックのヴァン・ダイク・トリオの演奏も、ベースはウッドでなくゆるんだゴム・タイヤを殴っている感じだし、ピアノやドラムスも変に薄っぺらで線が細く、キャラキャラいう。そのくせどこか古ぼけたような、それとも、演奏者と聴き手のあいだに幕が一枚下りているかのような、鮮度の落ちた音がする。
     *
アン・バートンがアン婆ァトンになってしまうのと同じように、
ローズマリー・クルーニーも、そんなふうに老け込んでしまうことがある。

Date: 3月 30th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その1)

以前はスピーカーシステムを二組以上所有・鳴らされている人は割と多かった印象がある。

ひとつのパターンとしてはジャズはJBLのスピーカーシステムで、クラシックはタンノイのスピーカーシステムで、
というスピーカーシステムの使い分けがあり、
これはひとつのスタンダードのようにもなりつつあったように思っている。

一口にJBLとタンノイといってもラインナップはどちらも豊富なほうだから、
いくつかの組合せがある。
JBLのほうはパラゴンやオリンパスといったコンシューマー用モデル、
タンノイはオートグラフやGRFといったモデル。
パラゴンとオートグラフ、この大型スピーカーシステムの両方を所有されている方は、
ある時期の日本では珍しくはなかった、といえた。

オートグラフはコーナー型だから左右の両脇に設置され、
そのあいだにパラゴンが置かれているリスニングルームの写真は、何度か見たことがある。

1970年代、クラシック向きのスピーカー、ジャズ向きのスピーカーという言い方がなされてきた。
JBLのスピーカーはジャズ向きであり、タンノイはクラシック向き、
このふたつのスピーカーメーカーのフラッグシップモデルの両方を手に入れるのは、
それだけで大変なことであり、ひとつの部屋に収めることができるのも、また大変なことである。

その意味では、ひとつの憧れの象徴として、
パラゴンとオートグラフの同居があったのかもしれない。

Date: 3月 29th, 2013
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(その38)

HIGH-TECHNIC SERIESにも長島先生が書かれているように、
出力電圧と負荷インピーダンスはカタログに発表されているわけだから、
それぞれのカートリッジの出力電力を計算して、
どのくらいの電磁変換効率持っているのかを、知っておくのは、
カートリッジの特性を見ていく場合、比較していく場合に必要なことでもある。

スタントン、ピカリングによるローインピーダンスのMM型カートリッジの出力電力はどのくらいになるのか。
0.3mVはシュアー V15/IIIの出力電圧の約1/10以下、
負荷インピーダンスは100Ωだから47kΩよりもずっと小さな値。
出力電圧の二乗を負荷インピーダンスで割ってみると、0.9nWとなる。
V15/IIIの約3.4倍となる。

SPUの41.66nWにはまだまだ及ばないものの、
一般的なMM型カートリッジよりも高い電磁変換効率ということになる。

ならば、これだけでも通常の47kΩ負荷のMM型カートリッジよりも、
ローインピーダンスのMM型カートリッジは技術的にも有利になるかとなると、微妙なところがある。

出力電圧ではなく出力電力の高さをいかすには、
一般的なヘッドアンプやハイゲインのフォノイコライザーでは技術的に無理といえる。

ヘッドアンプ、ハイゲインのフォノイコライザーを使っているかぎり、
優位となるのは出力電圧の高さであり、
出力電力の高さをいかすには昇圧トランスか、
入力抵抗を省いた反転型のヘッドアンプ(つまりI/V変換アンプ)ということになる。

Date: 3月 29th, 2013
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(その37)

ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIESの2号目は長島先生によるMC型カートリッジの研究だった。
この本の60ページに、MC型カートリッジの特性の見方という章がある。
そこではオルトフォンのSPUとMM型カートリッジの代表としてシュアーのV15/IIIとの比較がなされている。

V15/IIIの出力電圧は3.5mV、SPUは0.25mV。
これだけを比較すれば圧倒的にV15/III(つまりMM型カートリッジ)のほうが、
発電効率が高い、と受け取れる。

HIGH-TECHNIC SERIESが出たのは1978年、
このころは私もそう思っていた。
インピーダンスのことは知ってはいても、出力電圧のことしか考えていなかったし、
出力電力については考えが及ばなかった。

だから長島先生によるSPUとV15/IIIの出力電力の比較は新鮮だった。

出力電力には負荷インピーダンスが関わってくる。
SPUは1.5Ω、V15/IIIは47kΩ。
そして出力電力の求め方は出力電圧の二乗を負荷インピーダンスで割った値であり、
オルトフォンSPUの出力電力は41.66nW、V15/IIIの出力電力は0.2606nWと、
出力電圧とは逆転してSPUのほうが大きい値となり、
その差も出力電圧の比較以上に大きなものとなっている。

つまりMC型カートリッジは電磁変換効率がMM型カートリッジよりも高い、といえる。
コイルの巻枠に磁性体を採用したSPUは、空芯MC型カートリッジよりもさらに高効率となる。

長島先生は、この電磁変換効率を
「針先変位に対してどのような反応を示すかのバロメーターとなる」と書かれている。

Date: 3月 28th, 2013
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(その36)

ピカリングのローインピーダンスのMM型カートリッジXLZ7500Sは、
ステレオサウンドの試聴室で新製品の取材の時に聴いている。

技術的なメリットは何もないのでは? と思いつつも、
出てきた音は、ローインピーダンス化したことで得られた音なのか、
それとも各部の改良によって得られたものなのか、そのあたりははっきりしないけれども、
たしかにいままで数多く聴いてきたMM型カートリッジとはなにか違う質の良さはあったように記憶している。

でも、その記憶もここまでであって、もっと細かなことを思い出そうとしても思い出せない。
いい音だとは思って聴いていても、その音そのものの印象は強くなかった。
だからなのか確かな記憶として残っていない──、としか思えない。

スタントンにしてもピカリングにしても、ローインピーダンスのMM型カートリッジは、
いわば特殊な製品であって、ならば、ほかの一般的な仕様の製品以上に、
それならではの魅力を私は感じたい、と思うほうなので、よけいに印象が薄い。

通常のMM型カートリッジでも、印象に強く残っているカートリッジはいくつかある。
それらと比較したときに、あえてヘッドアンプやハイゲインのフォノイコライザーアンプを用意してまで、
これらローインピーダンスのMM型カートリッジを使う意味を、私は見出せなかった。

私はそんな受け取り方をしてしまったわけだが、
ピカリングもスタントンもカートリッジの老舗メーカーである。
ただ通常のMM型カートリッジとは違うためだけの製品という理由だけで、
ローインピーダンス仕様を開発したわけではないはず。

ハイゲインのフォノイコライザーアンプならば信号が通過するアンプの数は、
通常仕様のMM型カートリッジと同じとなるが、
ヘッドアンプ使用となると、アンプを1ブロック多く通ることになる。
それによるデメリットが発生してもローインピーダンス化することのメリットを、
スタントン、ピカリングの老舗カートリッジのメーカーは選択したわけである。

Date: 3月 27th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その6)

どのスピーカーシステムでもかまわない。
たとえばある人がJBLのフラッグシップモデルであるDD67000を手に入れたとしよう。

その人にとって、DD67000とイメージできる音がある。
それが、その人にとっての、そのスピーカー(ここではJBLのDD67000)の「顔」ということになる。

このDD67000の「顔」は、人が変れば、共通するところもあるにしても、
違ってくるところもまたある。

そのことは、ここではあまり問題にはならない。
とにかく、ある人にとって、DD67000の「顔」といえる音がある、ということが、
結局のところ「音は変らない」にかかってくることになっている。

そのDD67000の「顔」は、鳴らす人が変らないかぎり、
ずっと同じである、ともいえよう。
アンプを、それまで使っていたモノと正反対の性格のモノに交換したとしても、
その人にとってDD67000の「顔」が、
タンノイのKingdom Royalの「顔」になったり、B&Wの800 Diamondの「顔」になったりはしない。

鳴らす人が変れば、同じスピーカーシステムであっても、
また違う「顔」を見せることもあるにしても、
人が同じであるかぎり、しかもアンプやケーブルで「音は変らない」人が鳴らすのであれば、
よけいに「顔」は変らない、ともいえるのではないか。

だからといって、アンプやケーブルを替えても「音は変らない」──、
そういう音の聴き方をしていて、音楽を聴いていることになるのだろうか、と私はおもってしまう。

アンプやケーブルを替えても「音は変らない」と宣言した時点で、
どこか「仏つくって魂入れず」に近いことを、自分は行っている、と言っていることになるのではないだろうか。

私はスピーカーは役者だと、いまは捉えている。
だから、よけいにそんなふうにおもえてしまう。

Date: 3月 27th, 2013
Cate: audio wednesday

第27回audio sharing例会のお知らせ

次回のaudio sharing例会は、4月3日(水曜日)です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。