Date: 7月 27th, 2013
Cate: チューナー・デザイン

チューナー・デザイン考(パイオニア Exclusive F3・その6)

真空管ならばマランツのModel 10B、
ソリッドステートならはセクエラのModel 1がチューナーとしては別格だとは思っている。

使い切れないほどの資産がもしあったとしたら、どちらかは手もとに置いときたい、ぐらいには思うけれど、
現実にはそんな資産などないから、
それにそこまでチューナーに対する情熱もない私にとっては、
ヤマハのCT7000が、GKデザインによるヤマハの製品の傑作だと思うから、欲しい気持はある。

あと欲しいチューナーとして思いつくのは、ウーヘルのEG740という小型のモデルだ。
CR240というポータブルのカセットデッキがあった。
EG740はCR240と同寸法のラインナップとして、1980年代に発売になった。
いわゆる小型コンポーネントである。

電源部は外付けだから、実質的にはCR240よりも大きくはなるものの、
正面からみればフロントパネルはCR240とぴったりくる。

理想をいえばEG740の大きさで、セクエラに匹敵する音が出てくれればいいのだが、
技術の進歩がどれだけあっても、それは無理というものだろう。

そういえばと思い出すことがある。
黒田先生のリスニングルームである。

アポジーのDiva、チェロのEncoreにPerformanceの組合せ、
アナログプレーヤーはパイオニアのExclusive P3という、
小型のオーディオ機器とはいえないものの中に、
チューナーだけがテクニクスのコンサイスコンポのチューナー、ST-C01が置いてあった。

最初気がついたときは、あれっ? と思ったけれど、
EG740でいい、と思う私は、なんなとなく黒田先生の気持がわからないわけでもない。

そんな私だから、フルサイズのチューナーを二台、目の前に置きたいわけではない。
それでも、いまExclusive F3のとなりにアキュフェーズのT104を並べたいのは、
T104が瀬川先生のチューナーのデザインに対する答でもあるし、
Exclusive F3のデザインへの要望でもあるとおもえるからである。

Date: 7月 27th, 2013
Cate: チューナー・デザイン

チューナー・デザイン考(パイオニア Exclusive F3・その5)

瀬川先生が、パイオニアのExclusive F3の音が気に入られていることは、
ステレオサウンドを読んできた者としてわかっていた。

アキュフェーズのコントロールアンプ、C240が瀬川先生のデザインだときいたとき、
パワーアンプのP400もチューナーのT104も、そうなのだと思っていた。

でもこのふたつのことが私のなかで結びつくことはなかったまま、いままで来てしまった。

岩崎先生が使われていたExclusive F3が私のところに来て一週間。
こうやって毎日ブログを書いているとき、視線を少し上に向けると、
1mちょっと先に置いているExclusive F3が目に入る。

毎日しげしげと見ているわけではないが、
ふと次のフレーズを考えているとき、指が止ってしまったとき、
Macのディスプレイから目をそらしたときに見ているのは、この一週間は、Exclusive F3だった。

瀬川先生は、Exclusive F3のデザインのどこが不満だったのか、をおもっていた。

Exclusive F3だけ1975年の発売で、Exclusive C3、M4などは1974年である。
開発が始まったのは同時期なのかもしれない。
Exclusive F3だけが完成が遅れた、と考えることもできる。
とにかく発売時期の違いは、デザイナーの違いにもなったのかもしれない。

とはいえ同じExclusiveシリーズとして、
パイオニアとしてはデザインでの統一感を出そうとはしなかったのだろうか。
その結果がExclusive F3のデザインなのだろうか。

こんなことばかり思って、Exclusive F3を眺めていたわけではない。
ウッドケースの艶がなくなっているから、手入れをしなければ……。
どうやって手入れしよう……とか、まだパネルのあそこをクリーニングしなければ……、
そんなことも思っている。

そして、できればExclusive F3の横にアキュフェーズのT104を置いて、
しばらく眺めてみたいな、とも思っている。

Date: 7月 27th, 2013
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その6)

目は、見るための器官であるから、
本を目で読むことは、身体的に負担があることにはならない。
老眼になってくると本を離して読む必要があるとか、
加齢によって読みづらくなることはあるけれど、
目で本を読むことは、負担の少ない「読む」である。

点字を指先でなぞっていくことは、
指先への集中が要求されることだと思う。
最近ではエレベーターの階数表示、開く、閉じるのボタンなど、
点字にふれることが多い。日常風景になっている、ともいえる。

ときどき、そういう点字を指で判読しよう、と、
目をつむりゆっくり触ってみる。
エレベーターの中にある点字だから、数字である。
1とか2とか、一桁の数字であっても、いきなり点字を視覚情報なしに判読しようとすると、
こんなにも神経を集中させる必要があるのか、と思うし、
たったひとつの数字の判読だけでこれだけ大変だということは、
本を一冊、点字で読むことの大変さに、もしそうなったときに、果して読み通せるだろうか……、と。

馴れれば少しは違うのかもしれない。
でも点字を指先で読みとっていくことは、そうとうにしんどいことのはずだ。
長時間、いくつもの点字を指先でなぞっていく体験はまだない。
指先は、これだけの点字を一度になぞっていけるのだろうか。

指先で本を読むことは、目よりも負担の多い「読む」である。

舌読となると、その大変さは想像できない。
一冊の点字の本を読むのに、どれだけの時間がかかるのも私は知らない。
目で読むよりも時間がかかるだろうぐらいしか想像できない。

本を一冊読み終るまでの時間、指先以上に舌は耐えられるのだろうか。
舌読では舌から血が出ることもある、と知った。
それでも本を読み続ける、ということも。

どれだけ負担の多い「読む」なのだろうか。

Date: 7月 26th, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その27)

頭をかすめることが多くなってきたことは、
オーディオについて、あれこれ思索することの楽しみを放棄している人が増えている気がする、ということだ。

これは世代には関係あるようで、実はないようにも思えてきた。
私と同じ時代、それよりも前の時代のステレオサウンドを読んできた人でも、
いつのまにか思索する楽しみから離れてきているのではないのか。

先日もそう感じたことがあった。
直接的なことではなかった。
あることについて訊ねられて、それについて答えた。
そして、なぜそうなのかについて説明しようとしたら、
それについてはまったく耳を貸そうとされない。

ただ答だけが、その人は欲しかったわけである。

なぜそうなるのかについては、多少とはいえ技術的なことを話さざるを得ない。
訊ねてきた人にとっては、そんな技術的な細かなことはどうでもよくて、
ただ答がわかれば、それで用事は済むわけだ。

それが効率的といえば効率的という考え方はできる。
とはいえ、答だけを知っていても……、と私は思う。

何がいいのか、何が正しいのか、
その答だけを知りたいから、お金を出して本を買う。
そういわれてしまうと、私が読みたいと思っているオーディオの本、
私がつくりたいと思っているオーディオの本は、面白くない、ということになっても不思議ではない。

答がすべて、答がすべてに優先する。
正しい、確実な答をはっきりと提示してほしい、という読者が多数になれば、
編集者はそういう本をつくっていくしかないのだろうか。

むしろ逆かもしれない。
そういう読者を増やしていく方が、本づくりは楽になる。

Date: 7月 26th, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その26)

ステレオサウンド 43号の「私はベストバイをこう考える」から読みとれる菅野先生と井上先生の、
ベストバイ(Best Buy)、この誰にでも意味が理解できると思えることについて考え方の違い、
そして重なるところ、このへんについて書いていくと本題から外れていくので、このへんにしておくが、
とにかく、この時代のステレオサウンドは、読者に考えさせる編集だった。

それが意図していたものなのか、それともたまたまだったのかははっきりとはしない。
けれど読者にとっては、内部のそんな事情はどうでもいい、といえる。
面白く、そしてオーディオについて、オーディオに関係するさまざまなことについて、
考えさせてくれる、考えるきっかけ、機会を与えてくれる本であれば、なにも文句はいわない。

私は、そういう時代のステレオサウンドを最初に読んでいままで来た。
だから、いまもステレオサウンドに、そういうことを求めてしまう……。

けれどそういう時代のステレオサウンドを読んでこなかった読者にとっては、
ステレオサウンドに求めるものが、私とは大きく違ってきても当然である。

私は、いまのステレオサウンドを、そういう意味での面白い、とは思わないけれど、
私とは大きく違うものをステレオサウンドに求めている人にとっては、
いまのステレオサウンドは面白い、ということになり、
私がここで書いていることは、旧い人間がどうでもいいことを言っている、ということになろう。

編集者も旧い人間ばかりがいては……、ということになる。
組織を若返らせるためにも、血を入れ換えるように人を採用する。
その採用された人が、そういう時代のステレオサウンドではなく、
そういう時代の良さを失ってしまった時代のステレオサウンドを読んできた人であれば、
そういう時代のステレオサウンドの良さを読者に届けるのは、もう無理なことかもしれない。

Date: 7月 26th, 2013
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その2)

アンドラーシュ・シフのベートーヴェンのピアノソナタ。
最後の三曲をおさめたVol.8を聴いて、そこに「ないもの」を感じとった。
そのことは、この項の(その1)に書いている。

このシフのベートーヴェンを手に入れてしばらくは集中して聴いていた。
いい演奏だ、と思う。
たしかに「ないもの」があることは、私にとっては事実であるが、
このベートーヴェンが、高く評価されることに否定的であったり、どこかおかしいと思ったりはしない。

それで、いまもシフのベートーヴェンを聴いているかというと、
一年以上聴いていない。
もっともベートーヴェンのピアノソナタの、最後の三曲はそうたびたび聴く性質のものでもないから、
そんなことも関係しているといえばそうなるけれど、
他のピアニストによるベートーヴェンのピアノソナタは聴いているわけで、
シフのディスクに手が伸びることがなくなった、ということになる。

ECMになってからのシフの素晴らしさに気づかせてくれたのは、
ある人からもらったバッハのゴールドベルグ変奏曲のCDだった。

それほど深い付き合いではない人から、
「気に入ると思って」という言葉とともにもらった。

アンドラーシュ・シフだ、懐かしいなぁ、とその時は思っていた。
1980年代、シフがデッカに録音していたころ、
シフの新譜は必ず聴いていた時期があった。

グールドのバッハは素晴らしい、
シフのバッハも、またいいな、と思い、このときもシフのCDを集中的に聴いていた。

あのときも、いつのまにかシフのCDに手が伸びなくなっていた。

Date: 7月 26th, 2013
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その5)

極端なことをいえば、
アナログディスクの溝を目でトレース、もしくは指でなぞっていくことで、
そのレコードに刻まれている音を感じとれたり、
CDの、あの細かなピットを、なんらかの手段で拡大して見ることで、
そのCDに刻まれている音を感じとれたりすることが、仮にできたとしよう。

それが本を目、指、そして時には舌でトレースして読むことと同じといえるだろうか。
オーディオ機器という機械(朗読者)を介することなく、
レコードの内容を知るという意味では、本をトレース(読む)ことと同じといえなくもないわけだが、
私にそんな特殊な能力が備わったとしても、
その特殊な能力を使って、レコードの溝、ピットをトレースして音楽を聴きたい、とは思わないし、
そうやることが、本を読むことと同じとはどうしても思えない。

ならば、そんな極端なことではなく、クラシックなら楽譜を見ればいいではないか、
音符を目でトレースしていくことで、頭の中に音楽を思い浮べる──、
これこそが本をトレースする意味での、音楽をきく、ということになる。
そんなことをいう人もいても不思議ではない。

だが、これも「本を読む」ことに人がそこまでなれる、という意味での行為とは、私には思えない。

だから、なぜ、思えないのかを問うていくしかない。
そして、改めて音楽を「きく」ことの難しさを考えている。

Date: 7月 26th, 2013
Cate: 境界線, 録音

録音評(その3)

ステレオサウンドがある六本木にWAVEができるまでは、
レコードの購入といえば、銀座だった。
コリドー街にあったハルモニアでよく買っていた。
それから山野楽器にもよく行った。

田舎に住んでいたころ、まわりにあったのは国内盤のLPばかりだった。
輸入盤にお目にかかることはまずなかった。

そんなことがあったからだと自分では思っている、
東京に住むようになり、輸入盤のLPを買うという行為は、
どこか晴れがましい感じがあった。

東京生れ、東京育ちの人の銀座に対する感覚と、
田舎育ちの銀座に対する感覚はずいぶん違うのではなかろうか。

いまの若い人にはそういう違いはないかもしれない。
でも、私のころ(少なくとも私)にはあった。

東京の中でも、銀座は、やはり特別なところだった。
その特別なところにあるレコード店で、それまでの田舎では買えなかった輸入盤を、
それこそお金さえあれば、いくらでも買うことができる。
お金がなくとも、ただ見ているだけ、触れるだけでも、
国内盤のLPのときとは何か違うものを感じていた。

そんな私も、六本木に、大資本によるWAVEができてからは、
銀座にレコードを買いに行くことがめっきり少なくなった。

Date: 7月 25th, 2013
Cate: 黄金の組合せ

黄金の組合せ(その19)

その一方で、そんな理屈は分かっている。けれど物量を投入すれば音は良くなる。
音が良くなる以上、そこに投入される物量は必要量であり、
これ以上、物量を投入しても音は良くならない、
そういう領域がほんとうにあるとすれば、そこまでの物量が必要量ということになる──、
こういう考えも成りたつ。

AGI・511と同時代のコントロールアンプ、GASのThaedraの電源部は余裕のある容量である。
ラインアンプがA級動作で8Ωのスピーカーに対して、数Wの出力を確保できるように設計されているためでもある。
もっともラインアンプでスピーカーを鳴らす必要はないわけだから、
それを必要量とはいえないのではないか、そうもいえよう。

511の数年後に登場したスタックスのコントロールアンプ、CA-Xは511と対照的な電源部をもつ。
スタックス独自のスーパーシャント電源回路を採用した外付けのシャーシーは、
小型のプリメインアンプほどの大きさで、アンプ本体のシャーシーよりもずっと大きかった。

音質を追求し、理想の電源を目差した結果が、CA-Xの電源部の大きさということになるわけだ。

どちらが正しい、と断言できることではない。
設計者が、どの立場にいるのかを考えなければ答を見つけることはできない。

AGIのエンジニアであったスピーゲルも、511の電源トランスをもっと大きくして、
平滑用コンデンサーの容量をもっと増やせば、音質の向上につながることはわかっていたはず。
それはQUADのピーター・ウォーカーも同じであったはず。

405の電源部をもっと大きなものにすれば、どういう音の変化をするのかは、
キャリアの長いだけに、充分にわかっていたうえで、
あえて、あの電源のサイズなのだ、受けとるべきである。

Date: 7月 25th, 2013
Cate: 音の良さ

音の良さとは(その3)

私はオーディオを、完全なコントロール下におきたいわけではない、
支配したいわけではない。

それを心がけている。

ある人に、そのことについて話したことがある。
彼から返ってきたのは、「それじゃ、自分の音じゃないでしょ!」だった。
彼は、私とは違い、スピーカーから出てくる音、どんなにささいな音であっても、
すべての音をコントロールした音でなければならない、そうでなければ自分の音とはいえない、
そういうスタンスの人だということが、そのときわかった。

つづけて彼はいう。
「オーディオは自己表現だから」

自己表現だから、オーディオのシステムの自発性的な要素で鳴ってくる音は自分の音とはいえない。
そういうことだった。

その理屈がわからないわけではない。
彼の考え、つまり「オーディオは自己表現」に立てば、彼のいうことが正しい、といえなくもない。

だが私は「オーディオは自己表現」とは、彼ほど強くは思っていない。
自己表現であらねばならない(彼の口調だとそう感じられる)、そこからスタートした音と、
私の考えによってスタートした音とでは、
「音は人なり」の解釈に、大きな違いが生れてくる。

こんなことを含めての「音は人なり」ということにもなる。

Date: 7月 25th, 2013
Cate: 音の良さ

音の良さとは(その2)

少しでも良い音を求めて、時にはオーディオ機器を買い替えることもあるし、
細かな調整をやっていくこともある。

スピーカーの位置・向きをわずかに変えてみる、
スピーカーにレベルコントロールがあれば、ほんのわずか動かしてみる、
他にも細かなことはいくつもある。
ここに書き切れないほど、またうまく言葉でいいあらわせないような細かな多くの要素で音は変っていくのだから、
丹念に音を聴き、地道にやっていくことになる。

こんなことを年がら年中やっているわけではない。
やるときは、集中してやる。
いわば、それはオーケストラのリハーサルのような感じでやっている。

指揮者は楽器に直接ふれない演奏家である。
指揮者にとってのオーケストラが、オーディオマニアにとってのオーディオのシステムということになる。
オーディオのシステムの調整は、リハーサルそのものといっていいだろう。

徹底的にリハーサルを行う。
つまり、徹底してオーディオのシステムの調整を行う。
時には、ほかの人が気にしないようなところに執着しながらも、やっていくしかない。

そうやってオーケストラを鍛え上げるように、
オーディオのシステムを鍛え上げる。
そういう感覚が必要なのではなかろうか。

だからといって、本番で求めるのは、去勢された演奏(音)ではない。
高い演奏技術のうえに成り立つ自発性の高いものである。

Date: 7月 24th, 2013
Cate: 音の良さ

音の良さとは(その1)

音を聴く。
どこか誰かのリスニングルームで、その人の「音」を聴かせてもらう。

一枚目のディスクが鳴る。
一枚で終ることは、まずない。
二枚目、三枚目とディスクはつづいていく。

それまでまったく耳にしたことのないジャンルの音楽だとそうはいかないけれど、
よく聴くジャンルの音楽であれば、
それが初めて聴くディスクであったとしても、
三枚目あたりから、このディスクならこんなふうに鳴ってくるだろう、という予測ができるようになる。

三枚目あたりのディスクも初めてであったとしても、
途中まで聴いていれば、クラシックであれば曲そのものは知っているわけだから、
つづく箇所がどう鳴るのかは予測がつくものである。

予測のとおりの音が鳴ってきた。
そうかぁ……、とひとりおもっている。

予測した音が鳴ってくることは、悪いことではない。
ある程度、そのシステムが鳴っていることでもある。
どこかに大きな不備があれば、予測は外れることもあるからだ。

とはいえ予測のとおりの音が鳴ってきたら、それでいいのかといえば、そんなことはない。
むしろ、ここが「出発点」なのだから。

経験によって、予測は少しずつ精確になってくる。
だからといって、その予測が精確なことを自慢したいわけではない。
予測のとおりの音を求めているのでもない。
求めてきたわけでもない。

求めているのは、常に予測をこえる音である。

Date: 7月 24th, 2013
Cate: ケーブル

ケーブル考(その2)

ケーブルを、オーディオのシステムにおける関節とするならば、
ラジカセは、ひとつの筐体にカセットデッキ、チューナー、アンプ、スピーカーがおさめられているから、
外付けのケーブルは必要としない。
その意味では関節のないシステムということになり、
だからこそ1パッケージであり、ひょいと片手で持ち運べるし、
セッティングもどこかに置くだけだ。

もちろん置き場所によって音は変化するけれど、
コンポーネント・オーディオ的なセッティングの気難しさは、そこには存在しない。

つまりセッティングの自由度がほとんどないかわりに、
セッティングの面倒からも解放されているわけだ。

以前は、一体型ステレオと呼ばれるものがあった。
これもラジカセと同じつくりであり、ひとつにまとめられていた。
セパレート型ステレオもあった。
スピーカー部だけが独立している。つまりスピーカーケーブルが必要となる。
ここで関節が一箇所(正確には左右チャンネル必要だから二箇所)加わる。

そのことでスピーカーのセッティングの自由度は大きく増すことになる。
それまでは左右のスピーカーの間隔も固定されていた。
スピーカー部がセパレートされたことで、
スピーカーケーブルの長さ次第では、ふたつのスピーカーの間を大きく離せる。

コンポーネント・オーディオとなると、プレーヤー、アンプ、スピーカーと分離される。
また関節が一箇所ふえる。
アンプがセパレート型になれば、また関節が増える。
マルチアンプになれば、関節はまた増える。
今度は一箇所ではなく、パワーアンプの数によって、関節の増設も増えることになる。

オーディオが高性能化(高音質のため)にセパレートされてきたことで、
ケーブルの存在箇所(関節)は増えていった。

さらにレコードだけでなく、ラジオも聴きたい、テープも聴きたい、
CDも聴きたい、ということになると、直列的にではなく、並列的に関節が増えていく。

つまりコントロールアンプの入力端子に接続されるケーブルは、並列的な関節ということになる。

Date: 7月 23rd, 2013
Cate: 黄金の組合せ

黄金の組合せ(その18)

必要量とは、いったいどれぐらいのもの・ことなのだろうか。

昔の高能率のスピーカーユニット、スピーカーシステムは100dB/W/mをこえる出力音圧レベルをもつ。
いまどきの低能率のスピーカーよりも10dB、ときには20dBほどレベルが高い。

ということはアンプの出力もそれほど大きなものは必要としない、といえる。
それに、そのころのスピーカーのインピーダンスは16Ωが一般的だから、
同じ1Wでも、電流の値は8Ωよりも小さくてすむ。

最大音圧時でも、これだけの電流しか流れない、
だからスピーカーの入力端子は、これだけの容量のものでことたりる、という考えができる。
その一方で、音質を追求するのであれば、少しでも音が良くなるのであれば、
より太いスピーカーケーブルをしっかりと接続できる端子が必要ということにもなる。

アンプの出力にしても同じように、ふたつの考え方ができる。

どちらも必要量といえば、そうなる。

コントロールアンプの後に接続されるのはパワーアンプである。
パワーアンプの入力インピーダンスは、コンシューマー機器において高い値になっている。
いまでは10kΩが多いが、AGI・511の時代は47kΩ、50kΩが多かった。
真空管アンプでは100kΩもあった。
低いインピーダンスの代表は、GASのAmpzillaの初期モデルの7.5kΩである。

これらの値の入力インピーダンスの機器に、1Vなり2Vの信号を送り出したときに、
ケーブルに流れる電流を計算してみると、いかに少ないかがわかる。
そんなことを考えれば、コントロールアンプの電源の容量(必要量)はさほど大きくなくてもすむ──、
そういう考えが、まずひとつとしてある。

Date: 7月 23rd, 2013
Cate: 黄金の組合せ

黄金の組合せ(その17)

AGI・511の天板(といっても平らな板ではなく、コの字上になっている)を取り、
内部を見ると、大きなプリント基板が目に入る。
この基板に、フォノイコライザー、ラインアンプ、電源トランス以外の電源部を構成する部品が取り付けられている。
プリント基板はもう一枚使われていて、これはリアパネルの入出力端子が取り付けられていて、
この、少し小さめのプリント基板とメインのプリント基板はフラットケーブルで結ばれている。

リアパネル右側から入力端子が配置されていて、左側にはACアウトレット用のコンセントがある。
この裏側にトランスが、もうしわけなさそうについている。

扱う信号レベルがもっとも低いフォノイコライザーから物理的に遠いところに電源トランスを置く。
平面上でだけ考えればシャーシーの隅となる。
511では平面上だけの遠い距離ではなく、
プリント基板と同一平面上よりも高いところに取り付けることで、
立体上での距離を確保しているわけだ。

511は主要増幅部はOPアンプだから、完全にディスクリートで構成されたアンプよりも、
消費電流は少ないだからそれに見合った容量の電源トランスといえなくもない。
それでも、ほんとうに小さいな、と思ってしまうほどのサイズである。

平滑用のコンデンサーの容量も、大きいといえない。
定電圧回路を採用しているとはいえ、いかにも最小必要限度の電源部だろう。

どちらかといえば物理投入のアンプが多いアメリカにおいて、この電源部である。
単にケチくさいとはいえないようにも思う。
節倹というべきなのかもしれない。