オーディオの罠(その9)
好きという感情は、オーディオという趣味において最も尊いものなのか。
そのとおりだ、と答える人がどのくらいいるのか。
ソーシャルメディアを眺めていると、こちらのほうが多数派のように感じることもある。
そんなことを以前、別項で書いている。
オーディオの罠について考えていると、このこともそうだと思うだけだ。
その結果、耳に近い音だけを求めてしまうようになるだけなのかも。
好きという感情は、オーディオという趣味において最も尊いものなのか。
そのとおりだ、と答える人がどのくらいいるのか。
ソーシャルメディアを眺めていると、こちらのほうが多数派のように感じることもある。
そんなことを以前、別項で書いている。
オーディオの罠について考えていると、このこともそうだと思うだけだ。
その結果、耳に近い音だけを求めてしまうようになるだけなのかも。
別項で、
覚悟なしな人は、自分のヘソだけを見つめていればいい、と書いた。
心を塞いで、キズつくことを極度に怖れて、自分のヘソだけを見つめている。
これはオーディオの罠なのだろうか。
私は違うと考えている。
他の人はどうおもっているのかは知らないけれども。
「audio wednesday (next decade)のこれから(その3)」で、
2016年8月3日にやった「新月に聴くマーラー」をもう一度やってみたい、と書いている。
やるつもりなのだが、その時に、どのようなシステムが揃うのかは私にもわからない。
それに「新月に聴くマーラー」までに、一度もマーラーをかけないと決めているわけでもない。
先月の第一夜、今月の第二夜のスピーカーシステムはサウンドラボのコンデンサー型だし、
パワーアンプはクレルのKMA200である。
実を言うと、ワーグナーをサウンドラボのスピーカーで聴いてみたかったから、
クレルで鳴らしてみたくなったともいえる。
なので、このシステムで鳴らせると決った時点で、ワーグナーかマーラーを鳴らそうと決めていた。
第一夜にはワーグナーのディスクも持っていっていた。
けれど器材の不具合が生じて、ワーグナーをかける時間はなくなったし、
ワーグナーを鳴らそうという気もなくなっていっていた。
第二夜も基本的には同じシステムで、D/AコンバーターがメディアンのULTRA DACである。
そうなるとワーグナーかマーラー、どちらかをかけるしかない。
私自身、とても聴いてみたい。
八年前の「新月に聴くマーラー」では照明をつけずに聴いてもらった。
今回も同じように、マーラーかワーグナーの時は照明を消してもらうつもりでいる。
2006年、金沢に向う電車の車内広告に、目的地であった21世紀美術館の広告があった。
そこには、artificial heartの文字があった。
artificialのart、heartのartのところにはアンダーラインがあった。
artificial heartは、artで始まりartで終ることを、この時の広告は提示していた。
この時の目的地であった21世紀美術館では川崎先生の個展が開かれようとしていた。
2015年12月に「eとhのあいだにあるもの(その5)」の冒頭に、そう書いている。
artificial heartを見て以来、artで始まりartで終るものには、
他に何があるのかを、あれこれ考えていた。
あるとき、これもartで始まりartで終ると気づいた。
artificial mozart。
アーティフィシャル・モーツァルト。
そのころはただ思いついただけだったけれど、
ここ数年、artificial mozartは私にとって、別の意味ももつようになってきている。
美しく聴く、ということ。
このことを、audio wednesdayに来られた人たちに伝えられているだろうか。
スイッチング電源で試してみたいことの一つが、CR方法である。
CR方法については別項で書いているので省略するが、
リニア電源の電源トランスでは、すでにその効果を確認している。
スイッチング電源にもトランスはある。
リニア電源の周波数、50Hz、60Hzよりもずっと高いためかなり小型のトランスなのだが。
巻線の直流抵抗は、リニア電源の大型のトランスよりもずっと低い。
だからどの程度の効果が得られるのか、なんともいえないが、
音がまったく変化しないということはないはずだ。
2009年1月の(その2)で、羽織ゴロという表現を使った。
それから十五年。
もうそろそろ新しいステレオサウンドが書店に並ぶが、
ひとつ前の229号、その73ページに掲載されている写真を見ていて、
羽織ゴロだな、と思っていた。
誰のことなのか名指しはしない。
私と同じように感じた人もいる。
それはごく少数なのかもしれないが、
昨春、225号をめくっていた一人の女性が、指さしして、
奇妙なものを見つけたみたいな笑いをしていた。
ステレオサウンド・グランプリの選考委員の集合写真である。
笑っていたのは、ポーランドの女性だった。
ほんとうに奇妙な写真に見えたようだった。
そうだろう、と感じるのが、当り前ではないのか。
あえてそう言おう。
なぜ、あのような写真を掲載するのか。
正直、理解できない。
オーディオ業界という狭い社会に向けてのものなのだろうが、
オーディオに関心がない人からすれば……。
そこに気づかないだけならばまだよい。
けれど羽織ゴロっぷりに磨きがかかってきたな、と思わせる写真を、
どうして載せるのだろうか。
あの写真一枚しか撮らなかったわけでもないだろう。
数カット、もっと撮っているのかもしれない。
昔と違い、いまはデジタルカメラなのだから、
フィルム代(枚数)を気にすることなく撮れる。
それで、あの一枚を選ぶのか。
(その1)で書いていることを、もう一度。
ゲオルギー・グルジェフがいっていた。
人間は眠っている人形のようなものだ、と。
正確な引用ではないが、意味としてはこういうことだ。
人間の通常の意識の状態は睡眠のようなもので、
人間としてのほとんどの活動はすべて機械的なものである、と。
眠っている人形から、目覚めている人間になるには、
それこそ山のような意志力が必要になり用いなければならない、と。
ずいぶん昔に、グルジェフがそういった意味あいのことをいっていると知った。
どうすればグルジェフがいっている意味での目覚めることができるのか。
オーディオにかぎっていえば、心に近い音を──、ということのはずだ。
耳に近い音をどれだけ懸命に追求しても、
実のところ、それは機械的な活動にすぎない。
3月6日の第二夜で最初にかけるのは、
第一夜の最後にかけた曲、
アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの“Moanin’”だ。
第一夜では、後半で器材の不具合が生じて、
アキュフェーズのDC330をメリディアンの818に替えることになってしまった。
当日、鳴らす予定はなかった818は、別室で冷えきっていた。
夕方から鳴らしてきて十分にあたたまっていたDC330から、
冷えきった818への交換。
いうまでも人の身体と同じく、オーディオ機器にもウォーミングアップが必要となる。
冷えきった状態では実力の何割か、半分も出せなかったりする。
案の定、交換直後の音は冴えない。こればかりは何をやっても補えない。
鳴らしていく、つまり時間が経つのを待つしかない。できれば二時間から三時間。
けれど終了時間は22時だから、そんな時間の余裕はない。
冷えきって実力を出し切らない音を聴いて、今日は終りになるのか……、
不完全燃焼での終りか──、そう思っていたほどに、
カザルスの無伴奏チェロ組曲は、このチェロはナイロン弦なのか、そう嘆きたくなる鳴り方だった。
けれど最後のほうのメヌエット、ジーグで、カザルスらしい片鱗が聴こえてきた。
22時までにはあと十分以上あった。あと一曲鳴らせる。
アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの“Moanin’”。
818だから、ここはSACDではなくMQA-CDの再生だ。
当日来られていた方たちの耳にはどう響いたのかは私にはわからないが、
私の耳には、この音をもっと聴きたい、さらにいい音で聴きたい、と思っていた。
万全とはいえないまでも、MQAのよさはよく出ていた。
まだまだの音ではあったけれど、あと一時間あれば──、そう思ってもいた。
MQAの音、特にメリディアンで聴くMQAの音の特長のひとつに、
演奏家がふっと力をぬいた瞬間の表現が実に見事なことが挙げられる。
“Moanin’”がそうだった。
だから、次はULTRA DACでぜひとも聴きたい、そう思った。
第二夜では、DC330がULTRA DACにかわるだけである。
だからこそ一曲目は“Moanin’”をかける。
NUC用のDC19Vの電源を自作してみるのはおもしろいと思いながら、
どんな回路構成にするのか、あれこれ考えているところなのだが、
いまのこの時が、実はいちばん楽しかったりする。
リニア電源といっても、シリーズ型にするのかシャント型にするのか。
NUC付属のACアダプターは、19V/4.74A仕様。
同容量の電源をシャント型で作るとなると、発熱量がけっこう大きくなる。
となるとシリーズ型なのか。
でも心情的にはシャント型でやってみたい──、
そんなことを考えているところだ。
実際に作るのかどうか、本人も疑っている。
それでも自作する場合に備えて、一つの基準となる電源が欲しい。
付属のACアダプターを基準(リファレンス)としてもいいのだけれど、
なんとなくスイッチング電源であっても、GaN採用のモノにしたい。
19V/5A以上で、GaN採用のACアダプターは、それほど多くない。
それでも選択肢はいくつかある。
どれにするか。
容量的にも一つの基準として捉えたいので、
付属のアダプターよりも大きいモノにしたい。
さきほど注文したところ。
19V/6.3A仕様である。
付属のアダプターとどれぐらい音が違ってくるのか。
可能性の大きさを感じられれば、積極的に手を加えてみたい。
これこそが自分にとっての終のスピーカーだ、といったところで、
そうやって思い込もうとしたところで、
心に近い音を求めない人には、永遠に終のスピーカーは存在しない。
終のスピーカーとは、そういう存在のはずだ。
二年前の春、オクサーナ・リーニフについて少しだけ書いている。
いまのところ、オクサーナ・リーニフ指揮のベートーヴェンの第九は聴けそうにない。
一日でも早く聴ける日(つまり彼女が指揮する日)が訪れることを祈っている。
今日、TIDALで新しく配信されることになった第九がある。
Keri-Lynn- Wlson指揮Ukrainian Freedom Orchestraによる第九である。
ケリ=リン・ウィルソン、ウクライナ・フリーダム・オーケストラについては、
彼女本人のサイトを読んでほしい。
この第九は、ドイツ語による歌唱ではなくウクライナ語によるものだ。
このことについても、彼女のサイトに載っている。
今年は第九の初演から200年である。
いくつもの第九の録音が登場することだろう。
ナチュラルな音、自然な音といった表現を使う人がいる。
言っている本人は、客観的な意味でのナチュラルな音なのだろうが、
それが多くの人にとって、ほんとうの意味でナチュラルな音であるのは、
どのくらいの割合なのだろうか。
低いのか高いのか。
よくわからない、というのが、私の実感だ。
誰かが、ナチュラルな音ですね、と言う。
その誰かが、たとえばオーディオ業界の名の知れた人だったりすると、
それを受けとめた人の多くは、
なるほど、こういう音がナチュラルな音なのか、と思うようになってしまうかもしれない。
まったく名の知れていない人が、ソーシャルメディアで、
この音こそナチュラルな音と力説したとしても、
君はそういう音をナチュラルと思うのか──、
そんな受けとめ方をされるほうが多いのかもしれない。
オーディオ評論家が、オーディオ雑誌で、スピーカーの存在が消える、と書いたとする。
これをどう受けとめるか。
スピーカーの存在が消えるわけだから、
そのスピーカーから鳴ってくる音こそ、ナチュラルな音というふうに受けとめるのか。
2021年の終りに、
「バカの壁」は、養老孟司氏、
「アホの壁」は、筒井康隆氏。
そろそろ、誰か「ゲスの壁」を書いてくれてもよさそうなのに……、
そんなことを何度か感じた一年でもあった、と書いた。
ここでのタイトルの「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」、
確かにゲスである。
(その14)で書いている、
聴いたオーディオ機器の数をあからさまに水増しする当人には、
そういう意識はなかったのかもしれない。
私の考えでは、比較試聴をした場合か、自分でじっくり鳴らしてみたオーディオ機器は、
聴いた、といえるし、聴いたことのあるオーディオ機器として数える。
アンプでもスピーカーでもいいのだが、
スピーカーを二機種、同条件で比較試聴する機会があったとしよう。
この場合は、二機種聴いた、といえるし、誰もが納得するはずだ。
けれどどちらか片方だけのスピーカーを、オーディオ店の店頭でただ聴いただけでは、
どうだろうか。
そのオーディオ店に頻繁に通っていて、
そこで鳴っている音を熟知しているのであれば、
いつもの同じラインナップで、スピーカーだけがいつもの違うモノが鳴っていたとしたら、
これはこれで一機種聴いた、といえる。
けれどそういえないところで、スピーカーを一機種聴いた場合は、
そこで鳴っているシステム・トータルの音を聴いただけであって、
他のスピーカーの音を聴かない限り、スピーカーを一機種聴いたとはいえない。
それでも、聴いた、と主張するオーディオマニアがいるのは事実だ。
この人は、そうやって増えていく(彼が聴いたと主張するオーディオ機器の)数を、
どう捉えているのか。
自分は同年代で、もっとも多くのオーディオ機器を聴いている者だ、と自負したいのか。
さらには、世代をこえて、世界一多くのオーディオ機器を聴いた者として認められたいのか。
その数を増やしていくことが、彼にとってのロマンなのか。
それはギネスブックに掲載されることを目的とする人と近いのだろうか。