Parsifal(その2)
先日のaudio wednesdayでは、クナッパーツブッシュの「パルジファル」をかけた。
この音ならば、「パルジファル」がうまく響いてくれるはず、という確信があったからでもある。
それでも、audio wednesdayで「パルジファル」をかけることになろう、とは、
audio wednesdayで音を鳴らすようになってからでも、考えたことはなかった。
ワグナーの楽劇は、以前バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」は二、三度かけている。
それでも「パルジファル」となると、
それがクナッパーツブッシュの演奏ではなく、カラヤンであったり、ショルティだとしても、
なんとなくさけていたところがあった。
もしかけたとしても、それはクナッパーツブッシュの「パルジファル」ではなく、
カラヤンの「パルジファル」か、いやむしろほとんど思い入れのないショルティをかけただろう。
なのに、今回いきなりクナッパーツブッシュの「パルジファル」を鳴らした。
五味先生の「続・オーディオ巡礼」の森忠揮氏(ステレオサウンド 50号)に登場されている。
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森氏は次にもう一枚、クナッパーツブッシュのバイロイト録音の〝パルシファル〟をかけてくれたが、もう私は陶然と聴き惚れるばかりだった。クナッパーツブッシュのワグナーは、フルトヴェングラーとともにワグネリアンには最高のものというのが定説だが、クナッパーツブッシュ最晩年の録音によるこのフィリップス盤はまことに厄介なレコードで、じつのところ拙宅でも余りうまく鳴ってくれない。空前絶後の演奏なのはわかるが、時々、マイクセッティングがわるいとしか思えぬ鳴り方をする個所がある。
しかるに森家の〝オイロダイン〟は、実況録音盤の人の咳払いや衣ずれの音などがバッフルの手前から奥にさざ波のようにひろがり、ひめやかなそんなざわめきの彼方に〝聖餐の動機〟が湧いてくる。好むと否とに関わりなくワグナー畢生の楽劇——バイロイトの舞台が、仄暗い照明で眼前に彷彿する。私は涙がこぼれそうになった。ひとりの青年が、苦心惨憺して、いま本当のワグナーを鳴らしているのだ。おそらく彼は本当に気に入ったワグナーのレコードを、本当の音で聴きたくて〝オイロダイン〟を手に入れ苦労してきたのだろう。敢ていえば苦労はまだ足らぬ点があるかも知れない。それでも、これだけ見事なワグナーを私は他所では聴いたことがない。天井棧敷は、申すならふところのそう豊かでない観衆の行く所だが、一方、その道の通がかよう場所でもある。森氏は後者だろう。むつかしい〝パルシファル〟をこれだけ見事にひびかせ得るのは畢竟、はっきりしたワグナー象を彼は心の裡にもっているからだ。〝オイロダイン〟の響きが如実にそれを語っている。私は感服した。
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この文章を、高校生のときに読んでいる。
このときはまだクナッパーツブッシュの「パルジファル」は聴いていなかった。
クナッパーツブッシュのだけではなく、
ほかの指揮者の「パルジファル」も聴いたことがなかったから、
よけいに「パルジファル」は神聖なものに近いようにも感じていた。
私にとって、クナッパーツブッシュの「パルジファル」はそういう存在だった。
だから、人前でかけることがあるとは、まったく想像できなかったのだ。