毅然として……(その14)
指揮者のリハーサル風景をおさめたディスクがある。
これはドキュメンタリーLP、ドキュメンタリーCDと呼べよう。
その感覚からすると、ヨッフムの、鐘の音から司祭の朗読までおさめたCDを、
ドキュメンタリーCDと呼ぶことにはためらいがある。
このディスクで聴けるのは、他では聴くことのできない、いわばかけがえのない音楽だからである。
今回例としてあげた録音の中で、私がドキュメンタリーだと思っているのは、
ラインスドルフのモーツァルトのレクィエムである。
聴いてもいないディスクのことを、そう言い切ってしまうのもひどく無責任なことではあるが、
このディスクを聴いてこなかった理由は、ここにもある。
音楽のドキュメンタリーを、さして聴きたいとは思わない。
リハーサル風景をおさめたものは、好奇心から聴くけれど、
ラインスドルフの、1964年のモーツァルトのレクィエムに、そういった好奇心は私はもてない。
ケネディの葬儀でのモーツァルトのレクィエムだから、といって、
そこでの演奏が素晴らしく聴こえてくるような、そういった音楽の聴き方はしてこなかったつもりでいる。
にも関わらずヨッフムのモーツァルトのレクィエムに関しては、
鐘の音、司祭の朗読がふくれまている方を選択するのはなぜなのか、と考えるわけだ。
こんなことを考えなくとも音楽は支障なく聴ける。
それがわかっていてもなお、考えている。