Date: 6月 25th, 2014
Cate: 孤独、孤高
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毅然として……(その14)

指揮者のリハーサル風景をおさめたディスクがある。
これはドキュメンタリーLP、ドキュメンタリーCDと呼べよう。

その感覚からすると、ヨッフムの、鐘の音から司祭の朗読までおさめたCDを、
ドキュメンタリーCDと呼ぶことにはためらいがある。
このディスクで聴けるのは、他では聴くことのできない、いわばかけがえのない音楽だからである。

今回例としてあげた録音の中で、私がドキュメンタリーだと思っているのは、
ラインスドルフのモーツァルトのレクィエムである。
聴いてもいないディスクのことを、そう言い切ってしまうのもひどく無責任なことではあるが、
このディスクを聴いてこなかった理由は、ここにもある。

音楽のドキュメンタリーを、さして聴きたいとは思わない。
リハーサル風景をおさめたものは、好奇心から聴くけれど、
ラインスドルフの、1964年のモーツァルトのレクィエムに、そういった好奇心は私はもてない。

ケネディの葬儀でのモーツァルトのレクィエムだから、といって、
そこでの演奏が素晴らしく聴こえてくるような、そういった音楽の聴き方はしてこなかったつもりでいる。

にも関わらずヨッフムのモーツァルトのレクィエムに関しては、
鐘の音、司祭の朗読がふくれまている方を選択するのはなぜなのか、と考えるわけだ。

こんなことを考えなくとも音楽は支障なく聴ける。
それがわかっていてもなお、考えている。

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