2022年ショウ雑感(その12)
明日からインターナショナルオーディオショウ。
私の関心の一つは、(その10)で書いているように、マジコのM9が聴けるどうか。
先ほどインターナショナルオーディオショウのウェブサイトを見ていた。
エレクトリのところに、こう書いてあった。
《MAGICO M9は、移動および搬入/搬出が困難なため展示/デモンストレーションはございません。何卒。ご理解の程お願い申し上げます。》
やはり無理なのか、聴けないのか。
しかたない。
明日からインターナショナルオーディオショウ。
私の関心の一つは、(その10)で書いているように、マジコのM9が聴けるどうか。
先ほどインターナショナルオーディオショウのウェブサイトを見ていた。
エレクトリのところに、こう書いてあった。
《MAGICO M9は、移動および搬入/搬出が困難なため展示/デモンストレーションはございません。何卒。ご理解の程お願い申し上げます。》
やはり無理なのか、聴けないのか。
しかたない。
あと何年生きていられるのか、
いいかえれば、あと何年、音楽を聴いていられるのか。
いまのところは健康といえる。
あと二十年くらいは大丈夫かな、と根拠なく、そうおもっているわけだが、
いつぽっくり逝くかもしれない。
何が私にとっての「終のスピーカー」となるのか。
明日、ぽっくり逝ったとしたら、いま鳴らしているタンノイのコーネッタがそうなるわけだ。
それはそれでいい。
コーネッタが終のスピーカーとなったのか……、と死の間際でそうおもうだけだ。
それでも鳴らしてみたいスピーカーが、やはりある。
まだはっきりしたことはあえて書かないが、11月中旬にあるスピーカーがやって来る。
このスピーカーこそが、私にとっての「終のスピーカー」になる。
以前から考えていて試してみたいことのひとつに、
真空管アンプのヒーター用配線を銀線にしたら、どういう音になるのか、がある。
銀線は高い。
信号系もすべて銀線にしたい、ということももちろん考えているけれど、
それ以上に、ヒーターのみ銀線というのは、どうなのか、
銀線ならではの音が、ヒーター用配線であっても、やはり聴こえてくるものなのか。
別項で書いている50CA10の単段シングルアンプでは、
50CA10へのヒーター配線は銀線にする。
明後日には、インターナショナルオーディオショウが開催される。
昨年は行かなかったので、四年ぶりに行くことになる。
行くとなると、今年はどんな音が聴けるのか、
忘れられない音を聴けるだろうか、とやはり期待する。
これまでのインターナショナルオーディオショウで聴いたなかで、
忘れられない音は少ないけれどある。
まず最初にあげたいのは、
タイムロード時代のジャーマン・フィジックスのUnicornの音である。
何時間でも聴いていたい、と思ったし、
一日のうち三回ほどタイムロードのブースに入っていたし、
開催期間中に、もう一度聴きたくなって、また出掛けたほどである。
二番目に思い出すのは、ノアのブースできいたソナス・ファベールのCremonaだ。
アンプは、当時のノアが取り扱っていたVTLの管球式アンプ。
外観的には似合わない組合せなのだが、
Cremonoはこんなにいいスピーカーなのか、
VTLはこんなにいい管球式アンプなのか、
そんなふうに思わせるほどに、その音は見事な相性だった。
オーディオショウなんかで、いい音なんて聴けない──、
そう吹聴する人がけっこういるけれど、確かに少ないことは少ないものの、
時にはハッとする音に出逢うことも確かにある。
毎回そうだとはかぎらないけれど、今年は聴けるだろうか。
今年の2月27日の「毎日書くということ(今日決めたこと)」で、
2023年1月29日をもって、audio identity (designing)を終りにする、と書いた。
終りにするつもりだった。
audio identity (designing)を毎日書くということは、
特に大きな負担というわけではないものの、
今日はまだ書いていない、となると、用事を早めに切り上げることもある。
そういうこともあと三ヵ月で終るなぁ、と思っていた今日の夕方、
メールをチェックしたら、Sさんという方からメールが届いていた。
メールのタイトルを見て、まず、えっ? と思った。
思いながら、本文を読むと、私にとって夢のような申し出が書いてあった。
こんなことが本当に起るの?、
それが最初に読んでおもったことだ。
えっ、ほんとうなの? と思いながら、もう一度読み返す。
さらにもう一回読む。
何度読んでも、メールの内容は変らない。
その当り前のことを確かめたかった。
それにしても、どうして? と思いながら読むと、
《いつもaudio identity (designing)を楽しく読んでいますから》
とある。
これを読んで、終りにするわけにはいかない。
そうおもったのだから、
2023年1月29日で、audio identity (designing)の毎日の更新は終る──、
こう変更した。
毎日更新する(書いていく)のはあと三ヵ月ほどで終るが、
2023年1月29日以降は、週一回くらいの頻度で書いていくことにした。
第三回audio wednesday (next decade)は、11月2日。
一回目、二回目同様、
参加する人は少ないだろうから、詳細はfacebookで。
開始時間、場所等は参加人数によって決める予定。
それでも一回目、二回目と同じように、最後は新宿のナルシスに行く予定。
「オーディオ評論をどう読むか」というタイトルをつけている。
この項というより、このブログが、
私が十年以上毎日書いてきたことは、
「オーディオ評論をどう読んできたか」である。
昨晩の(その9)を公開したあとに、
そういえば、と思い出したことがある。
深刻ぶるのが好きな人のところで、いまから三十数年前、
グレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲を聴いた。
全曲は聴かなかった。
アリアといくつかの変奏曲を聴いて、
滑稽なほどグールドが深刻ぶっているふうに聴こえた。
重々しく、たどたどしく、ひどく悩み込みながらの演奏だった。
「音は人なり」と昔からいわれていたけれど、この時も確かにそうだった。
それでも、深刻ぶるのが好きな人にとってグールドのゴールドベルグ変奏曲は、
愛聴盤である──、
《真剣に戯れること》を完全に忘れてしまった、その演奏を聴いて、
その人は何を視ているのだろうか。
そんなことがあったことを思い出していた。
深刻ぶるのが好きな人のことを考えていると、
黒田先生の、この文章が浮んでくる。
*
戯れということになると、ぼくは、どうしても、『ザ・グレン・グールド・シルバー・ジュビリー・アルバム』の二枚目におさめられていた、あの「グレン・グールド・ファンタジー」のことを考えてしまいます。あの奇妙奇天烈(失礼!)なひとり芝居を録音しているときのあなたは、きっと、バッハの大作「ゴルドベルク変奏曲」をレコーディングしたときと同じように、真剣であったし、同時に、楽しんでおいでだったのではなかったでしょうか。もしかすると、あなたは、さまざまな人物を声で演じわけようと、声色をつかうことによって、子供っぽく、むきになっていたのかもしれません。
「グレン・グールド・ファンタジー」は、悪戯っ子グレンならではの作品です。ほんものの悪戯っ子は、「グレン・グールド・ファンタジー」のために変装して写真をとったときのあなたのように、真剣に戯れることができ、おまけに、自分で自分を茶化すことさえやってのけます。あなたには、遊ぶときの真剣さでピアノをひき、ピアノをひくときの戯れ心でひとり芝居を録音する余裕があった、と思います。そこがグレン・グールドならではのところといえるでしょうし、グールドさん、ぼくがあなたを好きなのも、あなたにそうそうところがあるからです。
*
「音楽への礼状」のグールドの章からの引用だ。
深刻ぶる人は、《真剣に戯れること》ができない人なのだろう。
3月10日に、オクサーナ・リーニフのことを書いた時点では、
TIDALにはリーニフ指揮のアルバムはなかった。
先日、検索してみたら、今度はあった。
一枚だけだがある。
ドヴォルザークの交響曲第九番である。
“Dal nuovo mondo”が聴ける。
くり返すが、オクサーナ・リーニフはウクライナ出身だ。
映画「TÁR」(邦題は未定、日本公開は2023年予定)は、
架空の人物、リディア・タールが主人公で、ケイト・ブランシェットが演じている。
“TÁR (Music from and inspired by the motion picture)”は、
サウンドトラック盤ということになるが、素直にそう呼べない面もある。
このサウンドトラック盤には、マーラーの交響曲第五番のリハーサル風景がおさめられている。
この五番、このまま最後まで聴きたい、
ぜひ改めて全曲演奏・録音してほしい、とつよく願うほどに、
バーンスタインの再録を聴いた時と同じくらいの昂奮を感じていた。
オーケストラはドレスデン・フィルハーモニーなのだが、
指揮者は誰なのか。
ケイト・ブランシェットその人のようである。
ケイト・ブランシェットは才能ある女優だと思っている。
けれど指揮まで、しかもほんとうに彼女が指揮しての、このマーラーの五番ならば、
なんという才能だろうか、と感嘆するしかない。
短い時間だから、可能だった指揮なのか、それとも最後まで指揮できるのか。
“TÁR (Music from and inspired by the motion picture)”のジャケットは、
アバドによる五番のジャケットを想わせる。
オーディオの想像力の欠如した者は、上書きしかできないのだろう──、
とすでに二回書いた。
上書きしかできない者は、耳の記憶の集積ができない人なのだろう。
耳の記憶の集積こそが、オーディオである──、
私はそう考えている人間だから、
オーディオにおける快感か幸福かについても、
耳の記憶の集積によって、大きく左右される、とうけとめている。
マンガ「3月のライオン」の単行本には、
「先崎学のライオン将棋コラム」が載っている。
16巻には「棋士になるのを決めた日」が載っている。
*
すんごくリアルなことを書くと、入会する、そして棋士になるまでのパターンはふたつに分かれます。都会育ちの少年か、地方の少年か、です。
都会に生まれ住むチビッ子天才の場合は、当然ながら家が近く、月二回の奨励会にも通いやすい。師匠だってすでについている、もしくは見つけやすいので、入会しやすい。また都会に住んでいると小学生の大会などが多い。そして、大会に出るということは、必然自分と同じくらいの才能を持った少年と接する機会が多くなり、子供同士も、時には親同士も仲良くなったりして自然とコミュニティが生まれ、この世界へ押し出しやすい環境ができるわけです。
一方、地方の子はそうはいきません。まず、道場があまりない。これはまあ東京や大阪でも少ないので仕方ないのですが、問題は大会の数が都会とは違い、だから自分と同じレベルの小中学生と真剣勝負がしにくいということです。
地方の小さな子供大会に出ると、まず優勝、それもぶっちぎりで勝つ。大人の大会に出ても上位に入る──。当然天才だあ、となります。だがここで壁にぶち当たる。
*
同じだなぁ、と思いながら読んでいた。
東京に生れ、東京で育ち、家族や友人に音楽好きの人が多くいる、という環境、
田舎に生れ、田舎で育ち、家族や友人に音楽好きの人がほとんどいない、という環境。
これは前者が想像する以上に大きな違いである。
一ヵ月ほど前だったか、
ある歌手がストリーミング(サブスクリプション)について批判的なことを、
ソーシャルメディアに厳しい口調で投稿して、少し話題になっていた。
この人の投稿が話題になったときに、
この人は、音楽的にめぐまれた環境に生れ育った人なのか、
そんなことを思っていた。
この人にしても、最初は音楽の聴き手側からのスタートだったはずだ。
TIDALで音楽を聴くようになってから、
クラシックに関して落穂拾い的なことをやっている。
新しい録音を聴くだけでなく、聴いてこなかった古い録音も同じくらい聴いている。
クラシックに関してもそうであるのだから、
クラシック以外の音楽に関しても同じことをやっている。
いま書店に並んでいるステレオ 11月号の特集は「CD再考」。
面白ければ買おうかな、と思い、手にとりパラパラとめくっていた。
えっ、いま変な写真があった、
そう思い、どの写真、どんな写真なのかを確かめた。
特集のページだった。
それは、マッキントッシュのMCD85だった。
CDプレーヤー最新機種一斉試聴ということで、
各社のCDプレーヤーが1ページ1機種で試聴記事が載っている。
そこにMCD85があったわけだが、
書店で、思わず吹き出しそうになった。
昨年2月に、MCD85のことをマッキントッシュのサイトで知った。
いまどき、こんなデザインで新製品を出すのか、
そのマッキントッシュの感覚に疑問を抱かざるをえなかった。
昨年は、インターナショナルオーディオショウには行かなかった。
なのでMCD85の実物は見ていない。
でも、こうやって他社製のCDプレーヤーにまじっての記事をみると、
やはりMCD85のデザインのおかしさがはっきりと浮んでくる。
今年のインターナショナルオーディオショウには行く。
MCD85も展示してあることだろう。
どう感じるのだろうか。