Archive for 1月, 2022

Date: 1月 22nd, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(若さとは・その11)

Tadanoさんは、《私は、子供でも心に近い音が分かると信じています》
とも書かれている。

そうかもしれないと思いつつも、
反論めいたことを書かせてもらうならば、子供でも心に近い音楽はわかる、である。

それが「音」、それもスピーカーから鳴ってくる音、
もっといえば自分で鳴らす音に関しては、
老成ぶっているだけでは「心に近い音」はわからない、と、
Tadanoさんのコメントを読んだあとでも、ここに関しては変らない。

Tadanoさんのコメントの最後のほうに、
《人生にはそんな回り道が無駄ではないと思うのです》とある。
まったくそのとおりだと思っている。

私が老成ぶっているとみているオーディオマニアは、そこがまったく違う。
自分は回り道などしてこなかった、という顔を、態度をする。

もっとも、このことに関しては、私よりも上の世代で、
こんな顔を、こんな態度を恥ずかしげもなく周りにまきちらしている人もいる。

《立派な人の真似をしながら、批判の精神や中庸さを育んでいくことが人間の本質と考えるから》
とも書かれている。
これもそのとおりだ、と読みながら、
老成ぶっているオーディオマニアは、立派な人の真似をして、
自分も立派な人だ、と周りに認めさせたいだけにしか、私の目には映らなかった。

そんな私だから、《老成ぶる若者を寛容な目で眺める》ことはできない。
背伸びする若者を寛容な目で眺めることはできてもだ。

ここまで書いてきて、以前、書いたことを思い出した。
「複雑な幼稚性」(虎の威を借る狐)』に書いたことだ。

「虎の威を借る狐」はまだましだと書いている。
世の中には、「虎の威を借る狐」、この狐の威を借るなにものかがいるからだ、と。

ここでの狐は、虎の凄さをわかっているだけ、ましである。
けれど「虎の威を借る狐」、この狐の威を借るなにものかは、
虎の凄さもわかっていないのかもしれない。

老成ぶっているオーディオマニアは、複雑な幼稚性のオーディオマニアなのかもしれない。

Date: 1月 22nd, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(若さとは・その10)

その8)に、Tadanoさんからのコメントがあった。
ぜひ、多くの人に読んでもらいたい。

Tadanoさんのコメントの冒頭に、
《具体的に何歳くらいになれば人は老成さを周囲に示してもよいとお考えでしょうか?》
とある。

こう問われてみて、こんなこと考えたことがなかったことに気づいた。
改めて考えて、いくつでもいいと思うし、
老成さは、果たして周囲に示すものなのだろうか、とも思っているところだ。

Tadanoさんは、
《若者が老成ぶることについては、ごく自然な成長の過程を示すものであり、自然なことなのではないか感じています》
と書かれている。

基本的には私も同じ考えなのだが、
あえて書けば、「若者が老成ぶる」ではなく「若者が背伸びする」と、
私だったら、そうする。

若者が背伸びすることは自然なことだし、
私だって、そうだったし、もっといえば私自身、老成しているとはまったく思っていない。

私が、何度か、しつこいように書いているのは、
老成ぶることについて、である。
それもオーディオに関して老成ぶることに、ついてである。

老成している人について、ではなく、
老成しているオーディオマニア、老成ぶっているオーディオマニアについて、である。

老成ぶっているオーディオマニアを知っている。
彼は20代のころから、そんなポーズをとっていたと、私は感じていた。

若者特有の背伸びであれば、
私にもあんな時期があったなぁ〜、とほほえましくみてられるのだけれども、
彼の場合、そうではなかった。
どんなに好意的にとらえようとしても、彼のは背伸びではなく、
老成ぶっていただけだった。

背伸びと老成ぶるの違いは? となるとうまくいえないもどかしさがあるのだが、
背伸びは、追いつきたい、追い越したい、であり、
老成ぶるは、認められたいの違いではないだろうか。

私が知る老成ぶっているオーディオマニアは、そうだった。

Date: 1月 21st, 2022
Cate: ジャーナリズム

ステレオ 2022年2月号

いま書店に並んでいるステレオの2月号の特集は「ECMとオーディオ」である。
ステレオサウンドも、70号にて同じ企画をやっている。
ステレオサウンドではECMだけでなく、ブルーノートも同じようにとりあげている。

それから四十年。
ステレオが2月号で「ECMとオーディオ」を特集していることは、昨年末に知っていた。
どういう感じでやるのか、楽しみでもあった。

今日、書店でパラパラと立読みしてきた。
はっきりいって、ステレオサウンドの四十年前の同じ企画よりも、おもしろい。

音楽之友社だからできる記事だな、とも思っていた。
とにかく特集のボリュウムとしても、
月刊誌ではなかなかここまでできないほどある。

読み応えを感じる特集である。
残念なことに、いまのステレオサウンドには期待できない、とも思った。

今年も11月が過ぎると「2022年をふりかえって」というテーマで書くだろうが、
そこでも今回のステレオの「ECMとオーディオ」については触れることになろう。

まだ1月なのはわかっているが、
それでも今年一年、それぞれのオーディオ雑誌でいろんな記事が載る。
その中で、一番といえる、と思っている。

こういうレベルの記事を、ステレオが年に数回載せてくれれば、
ずいぶん変っていくことだろう、と期待している。

Date: 1月 20th, 2022
Cate: ショウ雑感

2022年ショウ雑感(その1)

十日ほど前から、事前予約が始まったオーディオフェスタ・イン・ナゴヤ。
どうも中止になったようである。

事前予約が始まったころと最近とでは、状況が急激に変ってしまっているのだから。
今回のコロナ禍は、どれだけ続くのだろうか。

デルタ株とは違う、という人もいる。
そうであればOTOTENは、今年は開催できるかもしれないが、
どのくらいで落ち着くのかは、はっきりとわかっているわけではない。

多少なりとも長引けば、OTOTENは今年も開催中止になるかもしれない。

昨年11月開催のインターナショナルオーディオショウは、
ほんとうにいい時期の開催であった、といまさらながら思っているところ。

Date: 1月 20th, 2022
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その15)

その2)で触れている菅野先生の組合せは、
「コンポーネントステレオの世界 ’78」でのものである。

ここでは架空の読者から手紙を受けての組合せであり、
菅野先生の4350の組合せは、
菅野先生録音のオーディオ・ラボのレコードを、
制作者の意図したイメージで聴きたい、というものだった。

そういうこともあって、菅野先生としては、予算はある程度無視しての、
1977年時点での「私なりの理想像をえがいてみる」組合せとなっている。

JBLの4350Aを選択された大きな理由として、
《私自身のレコードの楽しみ方として、きわめてハイ・レベルで聴くという姿勢》があり、
《私自身が制作・録音したジャズのレコードは、実際よりも大きな音量で楽しんで》いるから、
そのためのJBLであり、そのためのJBLのラインナップで最大の4350である。

「コンポーネントステレオの世界 ’78」での菅野先生の4350の組合せは、
記事としては、12ページであり、4350の組合せだけでなく、
予算を考慮した組合せもあっての12ページなのだが、
それでも菅野先生の録音を再生するにあたって、何を大事にすべきなのかが、
きちんと書いてある。
     *
菅野 再生装置というものは、いかなる場合であってもいまあなたがおっしゃった物理的な追求が、音のレベルアップと同時に破壊にもつながっていくことになりうる、そうぼくは思います。だから、このシステムはその心配はないといいきるわけにはいきません。この部屋、つまりステレオサウンド試聴室は、素直な音響特性をもったいい部屋だけど、ここでも簡単にきまるというわけではない。結局、自分自身で、そこから先のことは努力なさっていただくよりしかたがない、としか申し上げられないんですね。そしてそれが、マルチ・チャンネルの、さらにいえばオーディオというものの楽しさであり魅力であると、ぼくは思います。
 少し具体的にいうと、『サイド・バイ・サイド』で使われているベーゼンドルファーというピアノの音は、フェルトハンマーで打弦されたまろやかな音が基調にあり、そのうえに打鍵によって生じる打楽器的な鋭い立ち上りととげのようなハーモニックスがブレンドされたものです。いろいろな再生装置で試聴してみると、しばしばそのどちらかしか聴こえてこないことが多い。つまり、まろやかさだけか鋭いだけか、ということですね。だからぼくが『サイド・バイ・サイド』を使って、再生装置を聴くとき、いちばん注意して聴いているのはそのバランスなんです。そしてそういったニュアンスを出すのには、やはり相当な物理特性が確保されていないと無理なのではないかと思っています。
 たとえばベルリン・フィルとかウィーン・フィルが演奏しているレコードは、割合に小型のスピーカーで、しかも小さな音量で結構楽しめるんですよ。ところがそういった形でこのレコードを聴くと、全く楽しめない。このレコードは、やはりひじょうにハイレベルのリアリティをもった大きな音量で、そして優秀な物理特性の裏づけをもった再生音で聴かないと、十分に楽しんでいただけないとぼくは思います。したがって、いまここに選んだようなシステムにならざるをえないんですね。
     *
別項で以前書いているが、オーディオショウで、
菅野先生録音の「ザ・ダイアログ」をかけているブースがあった。一つではない。

そのどちらも常識的な音量よりも、少し小さな音量での「ザ・ダイアログ」だった。

Date: 1月 19th, 2022
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その77)

オーディオの想像力の欠如した者は、上書きしかできないのだろう──、
と少し前に書いたばかりだ。
汚れをじっとみつめることができない者が上書きに流れていくのだろう。

Date: 1月 19th, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(若さとは・その9)

シモーヌ・ヴェイユの「純粋さとは、汚れをじっとみつめる力」を、
心に近い音とは、いったいどういう音なのか、を考えるときに思い出す。

汚れをじっとみつめる力を身につけていなければ、
心に近い音を出すことも、気づくこともできないような気がする。

Date: 1月 18th, 2022
Cate: 新製品

新製品(その22)

パチモン的新製品を否定することばかり書いている。
けれど、それらパチモン的新製品の音は、どれも聴いていない。

音が、とても良かった、としよう。
ならば、パチモン的新製品を欲しい、と思うだろうか。

思う人もいるし、思わない人もいる。
どのくらいの割合になるのかは、まったくわからないが、
パチモン的新製品で、どんなスピーカーを鳴らすのだろうか、と考えてみた。

さきほど「4350の組合せ(その13)」を書いて公開したのは、
パチモン的新製品で、たとえば4350を鳴らす人はいるだろうか、
と想像してみたからでもある。

私の感覚では、絶対に鳴らさない。
どんなにいい音がえられようと、パチモン的新製品で4350を鳴らしたいとは思わないし、
考えもしない。

パチモン的新製品で鳴らすのもいいや──、
そんなふうに思うのは、パチモン的新製品のスピーカーである。

パチモン的新製品のスピーカーシステムを、
パチモン的新製品のアンプで鳴らす。
CDプレーヤーも、ついでにパチモン的新製品である。

こうなってしまう怖れが、いまのところないとはいえない。
可能性として、十分ある、と思っている。

Date: 1月 18th, 2022
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その13)

JBLの4350は、いい貌をしているスピーカーシステムだ、といまでもおもう。
4350の改良型として登場した4355。

基本的には同じスピーカーといえる。
4343が4344になったときのユニット配置の変更、
それにともなうデザインの変更と比較すれば、
4350から4355への変更は、ずっとうまく仕上げられている、というか、
4350のイメージを保っていた。

けれどむしろ保っていたから、4350との比較をどうしてもしてしまいがちになる。
そんなことやらなければいいのに……、と自分でも思う。
でも、やってしまっている。

4355は知人が鳴らしていた。
何度も、その音を聴いている。
うまく鳴っている4355の音は、やはりいい。

いいと感じるから、よけいに4355のアピアランスが気になる。
違いはわずかだ。

バスレフポートの数が減ったこと、
レベルコントロールの違いぐらいである。

大きいのはバスレフポートのほうだ。
4350では、フロントバッフル左右に立てに三つずつあったのが、
一つずつになっている。

搭載ユニットも変更になっているから、
比較試聴したからといって、バスレフポートの数が、どれだけ低音再生に関係しているのか、
4350と4355の違いになっているのかを判断するのは難しい。

それでもおそらく4355のバスレフポートの方がいいのだろう。
そうでなければ、JBLがそうするわけがない。

それでも……、である。
カッコいいと感じるのは、4350なのだ。
たかがバスレフポートの数の違いだけ──、と思えないほどの印象の違いが、
4350と4355にはあって、凄みを感じさせるのは、私にとっては4350なのだ。

Date: 1月 17th, 2022
Cate: 218, MERIDIAN

218はWONDER DACをめざす(2019年製と2021年製)

先日、メリディアンの218に手を加える機会があった。
私が使っているのは2019年製である。
今回、手を加えたのは2021年製である。

型番は218のままで、外観も変化ない。
内部も基本的には同じといっていい。

218の内部を見たことがある、という人でも、気がつかないかもしれない、
そのくらいの変更が2021年製にはあった。

これまで計六台の218に手を加えているから、
2019年製の218と見較べることなく、どこが変更されたのかはすぐに気づく。

2020年製の218にも手を加えているから、変更は2021年製からなのだろう。
変更箇所は二つ。

一つはその通りに変更できるが、もう一箇所はかなり難しい。
この変更箇所によって、どれだけ音が変化しているのか。

じっくり比較試聴してみようか、と思ったけれど、
2021年製が良かったりしたら、マネできない変更があるだけに、
止めとくことにした。

それに、これらの変更箇所がなくとも、
二年以上使っている218と新品の218とでは、本質的な音はかわりなくても、
音の違いはあるものだ。

Date: 1月 17th, 2022
Cate: ロマン

好きという感情の表現(その9)

「好きだから……」と「好きなのに……」。
この二つの狭間で揺れ動いたことがなければ、
好きという感情の表現はできないのかもしれない。

Date: 1月 16th, 2022
Cate: High Resolution

MQAのこと、オーディオのこと(その7)

その6)で、時間軸領域の特性こそ重要だ、
と主張する人が増えてきていると書いたし、
岩崎先生の文章を引用もしている。

岩崎先生の文章を引用したのは、
感覚的に時間軸の重要性を感じとっていた人がいる、ということを言いたかったからだ。

岩崎先生は、こんなことも書かれている。
     *
アドリブを重視するジャズにおいて、一瞬一瞬の情報量という点で、ジャズほど情報量の多いものはない。一瞬の波形そのものが音楽性を意味し、その一瞬をくまなく再現することこそが、ジャズの再生の決め手となってくる。
     *
これが意味するところを、どう捉えるか。
よほどひどい曲解をしないかぎり、わかってもらえるはずだ。

岩崎先生だけではない。
長島先生も、よくいわれていた。
「音楽はパルスの集合体だ」と。

私は何度も長島先生から、このことを直接聞いている。
私以外にも聞いている人は少なくないはずだ。

少なからぬ人たちが、(私が知るかぎり)1970年代ごろには、
感覚的に、そうだ、と感じとっていたわけだ。

Date: 1月 16th, 2022
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(ジャズ喫茶の描写・その6)

「リバーエンド・カフェ」の、あのシーンで思い出したことは、まだある。
井上先生が書かれていたことだ。

ステレオサウンド別冊「JBLのすべて」に、
各筆者による「私とJBL」が載っている。

井上先生は、こんなことを書かれている。
     *
 奇しくもJBLのC34を聴いたのは、飛行館スタジオに近い当時のコロムビア・大蔵スタジオのモニタールームである。作曲家の古賀先生を拝見したのも記憶に新しいが、そのときの録音は、もっとも嫌いな歌謡曲、それも島倉千代子であった。しかしマイクを通しJBLから聴かれた音は、得も言われぬ見事なもので、嫌いな歌手の声が天の声にも増して素晴らしかったことに驚嘆したのである。
     *
こんなことを思い出すのは、マンガの読み方として邪道なのかもしれない。
それでも、やはり思い出してしまうし、
思い出すからこそ、気づくことがあるものだ。

Date: 1月 16th, 2022
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(ジャズ喫茶の描写・その5)

オーディオのロマン(ふとおもったこと)」は、2018年4月に書いている。

そこに、こんなことを書いている。

JBLで音楽を聴いている人は、ロマンティストなんだ、と。
もちろんJBLで聴いている人すべてがそうだとはいわないし、
現在のJBLのラインナップのすべてを、ここに含める気もさらさらないが、
私がJBLときいてイメージするスピーカーシステムで聴いている人は、
やはりロマンティストだ。

このことを思い出していた。
こんなことを書くと、4343もそうなのか、という声があるはずだ。

マンガ「リバーエンド・カフェ」に登場するのは、実質的にJBLの4343である。
スタジオモニターとしての4343、
つまり検聴用である4343。

その音に、なぜロマンがあるのか、もしくは感じるのか。

録音という仕事用につくられたスピーカーシステムだろ、
その音にロマンがあるはずがない。

そういわれれば、そうである。
私も、そう思わないわけではない。

それでも、JBLで音楽を聴いている人は、ロマンティストであるというし、
そういうスピーカーだからこそ、
「リバーエンド・カフェ」のあのシーンには、4343がよく似合う。

Date: 1月 15th, 2022
Cate: 新製品

新製品(その21)

メーカー(ブランド)の論理とオーディオマニアの論理は同じではないわけだが、
そもそも、この二つの論理は違うものなのか、
両者のあいだに溝があるのか、もしくはズレているだけなのか。

ケース・バイ・ケースなのだろう。
とにかく同じであることは稀なのだろう、というか、
同じであることはないのだろう。

それはそれでいい、と思っている。
この両者の論理のあいだを埋めていく、
もしくは橋をかけていくのが、オーディオ評論家の仕事のはずだ。

それができてこそオーディオ評論家(職能家)だと思っている。

マークレビンソンのML50、マッキントッシュのいくつかのモデル。
これらに共通するパチモン的新製品について考えていると、
こんなことを思うとともに、これらのパチモン的新製品が登場してくるのは、
上書きしかできない人が増えて来つつあるのかもしれない、
上書きしかできない人が開発に携わっているからかも、とも思えてくる。

別項「2021年をふりかえって(その19)」で、
ゲスな人に共通しているのは、上書きしかできないことなのだろう、と書いている。

そうなのかどうかはいまのところなんともいえないが、
ふとそんな気がした。

同時に上書きだけしかできない人が作る新製品も、
上書きだけの製品にしかすぎず、それは新製品とは呼べない何かともいいたくなる。