老いとオーディオ(若さとは・その11)
Tadanoさんは、《私は、子供でも心に近い音が分かると信じています》
とも書かれている。
そうかもしれないと思いつつも、
反論めいたことを書かせてもらうならば、子供でも心に近い音楽はわかる、である。
それが「音」、それもスピーカーから鳴ってくる音、
もっといえば自分で鳴らす音に関しては、
老成ぶっているだけでは「心に近い音」はわからない、と、
Tadanoさんのコメントを読んだあとでも、ここに関しては変らない。
Tadanoさんのコメントの最後のほうに、
《人生にはそんな回り道が無駄ではないと思うのです》とある。
まったくそのとおりだと思っている。
私が老成ぶっているとみているオーディオマニアは、そこがまったく違う。
自分は回り道などしてこなかった、という顔を、態度をする。
もっとも、このことに関しては、私よりも上の世代で、
こんな顔を、こんな態度を恥ずかしげもなく周りにまきちらしている人もいる。
《立派な人の真似をしながら、批判の精神や中庸さを育んでいくことが人間の本質と考えるから》
とも書かれている。
これもそのとおりだ、と読みながら、
老成ぶっているオーディオマニアは、立派な人の真似をして、
自分も立派な人だ、と周りに認めさせたいだけにしか、私の目には映らなかった。
そんな私だから、《老成ぶる若者を寛容な目で眺める》ことはできない。
背伸びする若者を寛容な目で眺めることはできてもだ。
ここまで書いてきて、以前、書いたことを思い出した。
『「複雑な幼稚性」(虎の威を借る狐)』に書いたことだ。
「虎の威を借る狐」はまだましだと書いている。
世の中には、「虎の威を借る狐」、この狐の威を借るなにものかがいるからだ、と。
ここでの狐は、虎の凄さをわかっているだけ、ましである。
けれど「虎の威を借る狐」、この狐の威を借るなにものかは、
虎の凄さもわかっていないのかもしれない。
老成ぶっているオーディオマニアは、複雑な幼稚性のオーディオマニアなのかもしれない。