Archive for 3月, 2021

Date: 3月 18th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Alice Ader(その1)

2010年、最初に購入したCDの一枚が、
アリス・アデール(Alice Ader)による「フーガの技法」である。

このことは別項「AAとGGに通底するもの」にも書いている。
この「フーガの技法」で、アリス・アデールというフランスのピアニストを知った。

アデールの「フーガの技法」は、友人にもすすめた。
彼も、アデールの「フーガの技法」を聴いて、感動した、という連絡があった。

クラシックをメインに聴いていない友人に、
いつもお世話になっているから誕生日のプレゼントに贈ろう、と、
翌々年くらいに思い、注文しようとしたところ、入手できなかった。

いまはまた入手できるようになっている。
それにしてもアデールのディスクは、そう多くないというか少ない。

2010年1月、「フーガの技法」を聴いてから、
ほかの演奏も聴いてみたいと思ったものの、
タワーレコードもHMVでも、見当たらなかった。

なので、ずっとアリス・アデールに関しては「フーガの技法」だけしか聴いてこなかった。

ここまで書けば、察しのいい方ならば、またTIDALか、と思われるだろう。
そうTIDALである。

昨晩、ふとアリス・アデールはあるのか、と検索したら、
「フーガの技法」だけでなく、モンボウ、モーツァルト、スカルラッティ、ラヴェル、
ムソルグスキー、フランクなどがある。

これらのCDは、日本でも現在入手できるのかと検索してみたら、
数枚は入手できるようだ。
でも半分にも満たなかった。

とにかくTIDALがあれば、アリス・アデールが聴ける。
昨晩は、だからアリス・アデールを二時間ほど聴いていた。

今日、早起きする必要がなかったなら、すべての録音を聴き通したいほどだった。

Date: 3月 17th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その6)

一年前に、
シゲティのバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータのLPが出た。
そのときに、MQAで聴けないものか、と書いた。

昨秋、TIDALに入った。
シゲティのアルバムはTIDALにもある。
けれどMQAでは、いまのところ聴けない。
そんな日が早くきてほしい、とおもっているところに、
SACDが近々発売になる、というメールがタワーレコードの新譜案内のメールに載っていた。

案内には、Vanguard Classic提供のハイビット・ハイサンプリングのマスターをもとに、とある。
期待できそうだ。
と同時に、ならばそのままMQAでTIDALで配信を始めてくれれば、さらに嬉しい。

TIDALもあるから、聴けるバッハの無伴奏の数は多い。
それでもくり返し聴くのは、ここ十年以上そう変っていない。

シゲティをよく聴く。
だからSACDの登場は、待ってました! という心境だ。

Date: 3月 17th, 2021
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その32)

いい音、
それも再生音でのいい音とは、どういうことなのか。

いろいろこまかなことを書いていけば、きりがないほどにあるように感じている。
それでも、菅野先生が提唱されたレコード演奏。

この考えに賛同する人もいれば、無関心な人、完全否定する人もいる。
それでも、いい音ということに関していえば、
レコード演奏と呼べる音は、やはり、いい音である。

では、レコード演奏と呼べる音、
再生音でのいい音とは、簡潔にいうならば、
花が咲いた音だと、最近思うようになってきた。

そして、どこかオーディオマニアは、つぼみのままで、あれこれいいすぎたり、
こだわりすぎているようにも感じている。

懸命につぼみを大きくしようとしたり、きれいにしようとしたりする。
花を咲かせてこそ、いい音であり、
それこそレコード演奏と呼べる音だ、といいたい。

つぼみを愛でるのも、趣味といえばそうである。
つぼみのまま楽しむのも、人それぞれだから、そういう趣味もあっていい。

それでも、花を咲かせたい。
そういう音でこそ、好きな音楽を聴きたいものである。

Date: 3月 16th, 2021
Cate: High Resolution

MQAのこと、TIDALのこと(その2・あと少し補足)

夜おそくなると、iPhone 12 proとHiByのFC3を使ってヘッドフォンで聴いている。
もう少しグレードの高いヘッドフォンにしようかな、とおもうこともあるが、
そうしたら今度はD/Aコンバーター/ヘッドフォンアンプ(FC3)ではもの足りなくなり、
こちらももっとグレードの高いモノにしたいという欲がわいてくるのは必定なので、
全体のバランスを考慮すると、このままのほうがいい。

再生用アプリはAmarra Playである。
アプリ内課金によって、MQA再生(コアデコード)とTIDALが聴けるようになる。

抜群にいい音とはいわないけれど、
TIDALで気に入ったアルバムを見つけると、つい聴き入ってしまうことが増えてきた。

次の日の起床時間を考えるとそろそろ寝ないと……、と思いつつも、
ついついあとすこし、もう一曲と聴いてしまう。

だから気に入っているシステム(というほど大袈裟な構成ではない)だ。
けれどAmarra Playは、曲順が、本来のあり方と違ってしまうことが意外と多い。

アルバムの収録曲数が多いほど、順番が入れ替わる傾向がある。
きちんとなっているアルバムもある。

なのでクラシックでオペラや全集ものなどは、楽章ごとに違う曲になることだってある。
以前から指摘されていることなのに、いまだ修整されていない。

この点が残念なのだが、それでも代りのアプリが見つからなければ、
まだまだ使い続けていくであろう。

Date: 3月 16th, 2021
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その31)

辞書(大辞林)には、再生のところにこうある。

(1)死にかかっていたもの,死んでいたものが生き返ること。蘇生。
(2)心を改め,くずれた生活からまともな生活に戻ること。更生。「—を誓う」
(3)廃品となったものを再び新しい製品に作りなおすこと。「—した紙」「—品」
(4)録音・録画したものを機械にかけてもとの音・画像を出すこと。「映画の名場面を—する」「—装置」
(5)再びこの世に生まれること。「弘法大師を—せしめ/文明論之概略(諭吉)」
(6)失われた生体の一部が再び作り出されること。下等生物ほど再生能力が強い。
(7)〔心〕 記憶の第三段階で,記銘され保持された経験内容を再現すること。想起。

オーディオで、再生といえば四番目の意味が常識となっている。
だからこそ再生音ともいう。

けれど再生に三番目の意味がある。
再生紙とか再生ゴムとか、そういった意味での再生があるから、
再生音といういいかたを嫌う人がいても不思議ではない。

私は、再生音といういいかたが、むしろ好きである。
それは一番目、二番目の意味での再生音ととらえているところがあるからだ。

EMIのクラシック部門のプロデュサーだったスミ・ラジ・グラップは、
「人は孤独なものである。一人で生まれ、一人で死んでいく。
その孤独な人間にむかって、僕がここにいる、というもの。それが音楽である。」
と語っている。

ここでも何度も触れている。
孤独な人間は、死に向って急いぎはじめているかもしれない。
そんな孤独な人間に、僕がここにいる、と寄り添ってくれる。

ならば、その音楽に身を寄せて死に向い始めていた心が、
再生に向い始めるのを音楽を聴くことで待つこともあるからだ。

オーディオで聴く音とは、音楽である。
だからこそ、私は再生音を使う。

Date: 3月 16th, 2021
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その10)

ステレオサウンド 218号の特集に黛 健司氏が登場されてないことを嘆いたところで、
瀬川冬樹なんて過去の人でしょ、
瀬川冬樹の音の聴き方を知りたい人なんて、ごくごく少数だろうから、
そんなことステレオサウンド編集部は考えもしない──、
おそらくそうなのだろう。

けれど、ほんとうに瀬川冬樹に、ステレオサウンドの読者の大半は無関心といえるのか。

いま書店に並んでいる瀬川先生の著作集「良い音とは 良いスピーカーとは?」、
その奥付をみると、2020年9月(だったはずだ)で四刷となっている。

2013年に出た「良い音とは 良いスピーカーとは?」が、
七年経っても売れ続けているわけだ。

このことを知っているはずである、ステレオサウンドの編集部は。

そして今年は2021年である。
瀬川冬樹没後40年である。

一年前のステレオサウンド 214号には、
五月女 実氏の「五味康祐先生 没後40年に寄せて」という記事が載った。

今年は「瀬川冬樹 没後40年に寄せて」が載るのだろうか。

Date: 3月 15th, 2021
Cate: 五味康祐
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「三島由紀夫の死」から50年(その2)

2020年は、三島由紀夫 没後50年だった。
そのことに関する記事はいくつか読んだ。

記事はもっとあっただろう。
それに書籍も出ていたのだろう。

今日、書店で「三島由紀夫 VS 音楽」を見つけた。
帯には、「誰も書かなかった三島論」とある。
著者は、宇神幸男氏。現代書館から昨秋に出ている。

買ってきたばかり、読み終ったわけではない。
第三章の「ワグネリアン伝説」を読んだだけである。

読み終えてから書けば──、と自分でも思っている。
それでもとにかく、今日書いておきたい、と思ったのは、
いわゆるあとがきを読んだからだ。

その最後のほうに、こうある。
     *
妄想と嗤われるかもしれないが、「三島由紀夫を殺したのは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」である。ワーグナーが三島を殺した」と戯言を言ってみたい気もする。
 ニーチェは「音楽のない人生は誤謬となるであろう」と語った。三島の人生にも音楽はあった。三島は同時代の作家のなかでは音楽をよく聴いていた。その人生が誤謬であったかどうかはともかく、「音楽をもっと聴いていてくれたら、あんなに死にいそぎはしなかった」という五味康祐の慨嘆は虚しい。創作の限界を超え、自己の人生を作品化した三島の死に対して、五味康祐が言うような意味において、音楽はまったく無力だった。
     *
こういう捉え方もあるのか、と思った。
それでも宇神幸男氏がいわれるように《音楽はまったく無力だった》のか。

五味先生は《音楽をもって聴いていてくれたら》と書かれている。
「音楽を聴いていてくれたら」ではない。
「もっと」が、そこにある。

この「もっと」の捉え方なのだ、とおもう。

Date: 3月 14th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Elgar: Cello Concerto, Op. 85 & Sea Pictures, Op. 37(その3)

e-onkyoは、つねになんらかのプライスオフをやっている。
いまもいくつかのプライスオフが行われている。

そのひとつに、「ワーナー・ミュージック音源から麻倉怜士が厳選!」がある。
そこにデュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲がある。
通常3,145円が3月18日までは2,515円で購入できる。

けっこうなことのように一見おもえるが、
このデュ=プレのエルガーは44.1kHz、24ビットである。

(その2)で書いているように昨年11月に、
デュ=プレのエルガーは、192kHz、24ビットが配信が始まっている。

44.1kHz、24ビットのほうは、2011年リマスターで、
192kHz、24ビットのほうは、2020年リマスターである。
どちらもMQA Studioがある。

2020年リマスターは192kHzだから、価格も高いのでは? と思いがちだが、
こちらは通常価格が2,515円である。

それにしても、なぜ2020年リマスターではなく、2011年リマスターなのか。
麻倉怜士氏は、あえて2011年リマスターなのか。

そのへんのことは言及されていないので、なんともいえない。

Date: 3月 14th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piazzolla 100 (Milva & Piazzolla Live in Tokyo 1988・その2)

黒田先生の「ぼくだけの音楽」からの引用だ。
     *
 先日、あるテレビの音楽番組を見て、腹をたてた。
 その音楽番組では、テレビス・カメラが、しばしば、うたっている歌い手を下からみあげるアングルでとらえたり、歌い手の顔に過度にちかすぎすぎたりしていた。歌い手をどのようにうつそうと、それはディレクターの勝手といえば勝手である。しかし、すくなくともそのときの映像でみるかぎり、歌い手は、鼻の穴の奥や歯の裏までうつされ、肌の皺もあらわにされて、お世辞にもチャーミングとはいいがたかった。
 対象を愛せない人のおこないは、いつだって、なにごとによらず、説得力に欠ける。
     *
あるテレビの音楽番組のひどさ。
この文書を読まれた方は、民放のどこかの局なのだろうか、と思われるかもしれない。
NHKの音楽番組のことだ。

歌い手はミルバである。
1988年、“Milva & Piazzolla Live in Tokyo 1988”の映像のことである。

このことは黒田先生から直接きいている。
ミルバを赤鬼のようにうつしている、ともいわれていた。

その言葉には、ほんとうに怒りがこめられていた。
その怒りは、対象(ミルバ)を愛するがゆえである。

この文章は、ブライアン・ラージ(Brian Large)についてのものだ。

ブライアン・ラージについて書かれているものの、
《実は、ぼくはブライアン・ラージなる人物がどのような人物なのか、ほとんどなにも知らない》
と書かれている。

1988年当時では、そうだっただろう。
いまは簡単に検索できる。

どれだけの映像作品をてがけているのか、すぐにわかる。
ほんとうに便利になった。

黒田先生は、最後にこう書かれている。
     *
このようなタイプの、対象にたいする並々ならぬ愛情をいだいていて、しかもとびきりすぐれた技と感覚をそなえた男がいるという、そのことがとりもなおさず欧米の音楽界の底力を感じさせるようである。
     *
1988年から三十年以上が経った。
日本の音楽界の底力を感じさせるような作品は、増えてきているだろうか。

Date: 3月 13th, 2021
Cate: 憶音

憶音という、ひとつの仮説(その10)

録音する機能をもたないオーディオ機器。
アナログプレーヤーであったり、アンプであったり、
スピーカーであったりする。

アンプにもスピーカーにも、録音機能はどこにも備わっていない。
つまり再生系のオーディオ機器は、そのほとんどが録音機能をもたない。

録音はできない。記録することはできない。
けれど、音を記憶することはもしかしたらできているのではないだろうか。
そんなふうにおもえること(とき)があった。

一度や二度ではない。
だから、オーディオ機器は音を記憶しているのかもしれない、と。

Date: 3月 13th, 2021
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その15)

「必要とされる音」について書いている。

いまの時代に必要とされる音であったり、
いつの時代においても必要とされる音でもある。
そのことについて考えているわけだ。

「音は人なり」と何度も書いている。
そのことをテーマにもしている。

ということは、必要とされる音を出すということは、
必要とされる人でなければならない、ということでもある。

Date: 3月 12th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Peter and the Wolf(その1)

プロコフィエフの「ピーターと狼」。
昔はオーディオ雑誌の試聴レコードとしても登場していた。

私がもっているのは、バレンボイムが指揮したディスクのみ。
なぜか、これ一枚かといえば、ナレーションがジャクリーヌ・デュ=プレだからだ。

長島先生が、試聴レコードとして、この「ピーターと狼」をもってこられた。
「これ、知らないだろう」といいながら、かけてくれたのが、これだった。

とはいえ、ほかの「ピーターと狼」を聴いていないわけではない。
試聴レコードとして聴いたものもある。

それでも多くを聴いているわけではない。

今日、TIDALでデュ=プレのナレーションの「ピーターと狼」があるかどうかを検索していた。
結果はなかったのだが、数多くのアルバムが表示された。

オーマンディ指揮、デヴィッド・ボウイ(ナレーション)のもあった。
これも発売されたのは知っていたけれど、聴いたことがなかった一枚。

同じように聴いていなかった一枚が、アンドレ・プレヴィン指揮のものだ。
プレヴィンは1973年にEMI、その後、テラークにも録音している。

「これも試聴レコードとして、何度か見たな」と懐しい気分になったのは、
1973年録音のほうで、ナレーションは当時のプレヴィン夫人のミア・ファロー。

TIDALではMQA(44.1kHz)で聴ける。
MQAでなければ、懐しいな(聴いてもいないのに)と思うだけで通りすぎていただろう。

MQAだから聴いてみた。
元の録音も優れているのだろうが、とにかく音がいい。
聴いていて、気持がいいくらいに、である。

ほぼ50年前の録音。
いいかえれば半世紀前の録音なのに、はっと驚くところが随所にあった。

だからといって、もっと早く聴いておけば──、とは思わなかった。
当時のアナログディスクの音と、いまのMQAでの音。

どちらがよいのかを聴いて確かめたいとは思わない。
これから先、頻繁に聴くことはない。

もしかするともう聴かないかもしれない。

今回聴いたのも、落穂拾い的なところからである。
それでも、そのみずみずしい音は、
落穂拾いから連想される音とはずいぶん違う性質のものだ。

Date: 3月 11th, 2021
Cate: 欲する

新月に出逢う(その5)

新月だった2月12日に出逢ったEleanorという人形は、
その展示会のなかでは大きなほうだった。

人形の世界にはまったくうとい。
この世界の人形の平均的な大きさというのが、どのくらいなのかよくわからない。

どのくらいから小さな人形ということになるのか、
大きな人形はどのくらいから上なのか、そんな基準をもっていない私からみて、
Eleanorは大きな人形だった。

とはいっても等身大というわけではない。
立った状態で展示されていたわけではないので、どのくらいの大きさなのかははっきりとはいえない。
それでも等身大ではないことだけはいえる。

等身大でないからこそ、人形だと認識できているとおもえる要素が、
Eleanorに感じている。

これが人間の女性と変らぬ大きさだったら、
惚れ込む前にこわさを感じていたかもしれない──、
そんなふうにおもえてならない。

それでも一目惚れしたであろう。
けれど、そこまでの大きな人形であったなら、
自分のモノとしたときに、果たして毎日目が合うところに飾っておくだろうか。

買えもしないのに、そんなことを考えてしまう。

Date: 3月 11th, 2021
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その9)

黛 健司氏には、黛氏自身の音の聴き方があって、
瀬川先生には瀬川先生の音の聴き方がある。

同じ聴き方ではないことはわかっていても、
瀬川先生の音の聴き方の影響は、きっとあると私は勝手に思っている。

黛 健司氏の文章は、
瀬川先生の書かれたものをよく読んでいる人のものだ。
瀬川先生の影響を、ふと感じる箇所があったりする。

そういう人だからこそ、どこまで意識されているのかはなんともいえないが、
瀬川先生の聴き方から何も学んでいないということは絶対にないはずだ。

そこを私は読みたかった。

なのに今回の特集で黛 健司氏が登場しない。
編集部はなにを考えての、今回の特集の筆者なのだろうか。

はっきり書けば、ステレオサウンド編集部は黛 健司氏を冷遇している。
そんなことはない、と編集部はいうだろう。

そんな意識はないのかもしれない。
それでも黛 健司氏はステレオサウンド・グランプリの選考委員になれていない。
なぜだろう、と思っている人は私以外にもいる。

山之内 正氏が、そう遠くないうちに、
ステレオサウンド・グランプリの選考委員になることはあるだろう。
そうなっても黛 健司氏は選考委員ではなかったりするのではないか。

Date: 3月 11th, 2021
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その8)

ステレオサウンド 218号の特集の企画に興味をもちながらも、
発売されてから一週間、まだ読んでいないのには、小さな理由がある。

特集「リファレンスディスクから紐解く評論家の音の聴き方」の登場するのは、
小野寺弘滋、傅 信幸、三浦孝仁、柳沢功力、山之内 正、和田博巳の六氏。
そこに黛 健司氏の名前がないからだ。

以前から感じていることなのだが、
ステレオサウンドの黛氏の扱いには、疑問がつきまとう。
私だけが感じているのではなく、
私の周りのオーディオマニア、きちんとステレオサウンドを買っている人たちも、
なぜ、もっと黛さんを登場させないのだろうか、といっている。

いろんな事情があるのだろう。
それでも218号の特集で黛 健司氏を外す理由が、私には理解できない。

山之内 正氏よりも黛 健司氏が古くからのステレオサウンドの書き手である。
しかも黛氏は、ステレオサウンドの編集者だったころ、瀬川番だった人だ。

だからこそ黛 健司氏に、今回の特集で書いてほしかった、
黛 健司氏の書いたものを読みたかった。

こういういい方を本人は嫌がられるかもしれないが、
黛 健司氏は瀬川先生の一番弟子だった、と私は思っている。

学生のころから瀬川先生の追っかけで、
編集者として瀬川番だった人なのだから、
瀬川先生からいろんなことをきかれているはずだ。

そこには音の聴き方に関することだってあったはずだ。