Archive for 8月, 2018

Date: 8月 21st, 2018
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(マランツかマッキントッシュか・その11)

「西方の音」に「少年モーツァルト」がある。
そこに、こうある。
     *
 私は小説家だから、文章を書く上で、読む時もまず何より文体にこだわる。当然なはなしだが、どれほどの評判作もその文体が気にくわねば私には読むに耐えない。作家は、四六時中おなじ状態で文章が書けるわけはなく、女を抱いた後でつづる文章も、惚れた女性を持つ作家の文章、時間の経過も忘れて書き耽っている文章、またはじめは渋滞していたのが興趣が乗り、夢中でペンを走らせる文章など、さまざまにあって当然だが、概して女と寝たあとの文章と、寝るまでの二様があるように思える。寝てからでは、どうしても文体に緻密さが欠けている。自他ともに、案外これは分るものだ。女性関係に放縦な状態でけっしてストイックなものが書けるわけはない。ライナー・マリア・リルケの『マルテの手記』や、総じて彼の詩作は、女性を拒否した勤勉な、もしくは病的な純粋さで至高のものを思わねばつづれぬものだろう、と思ったことがある。《神への方向》にリルケの文学はあるように思っていた。私はリルケを熟読した。そんなせいだろうか、女性との交渉をもったあとは、それがいかほど愛していた相手であれ、直後、ある己れへの不潔感を否めなかった。なんという俺は汚ない人間だろうと思う。
 どうやら私だけでなく、世の大方の男性は(少なくともわれわれの年代までに教育をうけた者は)女性との交渉後に、ある自己嫌悪、アンニュイ、嘔吐感、虚ろさを覚えるらしい。そういう自己への不潔感をきよめてくれる、もしくは立ち直らせてくれるのに、大そう効果のあるのがベートーヴェンの音楽ではなかろうか、と思ったことがある。
 音楽を文体にたとえれば、「ねばならぬ」がベートーヴェンで、「である」がバッハだと思った時期がある。ここに一つの物がある。一切の修辞を捨て、あると言いきるのがバッハで、あったのだったなぞいう下らん感情挿入で文体を流す手合いは論外として、あるとだけでは済ませぬ感情の盛り上がり、それを、あくまで「ある」でとどめるむずかしさは、文章を草してきて次第に私にも分ってきた。つまり、「ある」で済ませる人には、明治人に共通な或る精神の勁さを感じる。何々である、で結ぶ文体を偉ぶったように思うのは、多分思う方が弱くイジケているのだろうと。──なんにせよ、何々だった、なのだった、を乱用する作家を私は人間的に信用できなかった。
 シューベルトは、多分「だった」の作曲家ではなかろうかと私は思う。小林秀雄氏に、シューベルトの偉さを聞かされるまではそう思っていたのである。むろん近時、日本の通俗作家の「だった」の乱用と、シューベルトの感情挿入は別物だ。シューベルトの優しさは、だったで結べば文章がやさしくなると思う手合いとは無縁である。それでも、ベートーヴェンの「ねばならぬ」やバッハにくらべ、シューベルトは優しすぎると私には思えた。女を愛したとき、女を抱いたあとにシューベルトのやさしさで癒やされてはならぬと。
 われながら滑稽なドグマであったが、そういう音楽と文体の比喩を、本気で考えていた頃にもっとも扱いかねたのがモーツァルトだった。モーツァルトの音楽だけは、「ねばならぬ」でも「である」でもない。まして「だった」では手が届かない。モーツァルトだけは、もうどうしようもないものだ。彼も妻を持ち、すなわち妻と性行為はもったにきまっている。その残滓がまるでない。バッハは二人の夫人に二十人の子を産ませた。精力絶倫というべく、まさにそういう音楽である。ベートーヴェンは女房をもたなかったのはその音楽を聞けば分る。女房ももたず、作曲に没頭した芸術家だと思うから、その分だけベートーヴェンに人々は癒やされる。実はもてなかったといっても大して変りはないだろう。
     *
《ある己れへの不潔感》、《アンニュイ、嘔吐感、虚ろさ》、
そういったことをまったく感じない男がいる、ということも知っている。

そんな男にかぎって、ストイックな文章を書こうとしているのだから、
傍から見れば滑稽でしかない、とおもうことがある。

《概して女と寝たあとの文章と、寝るまでの二様があるように思える》とある。
ならば自己への不潔感を感じる者と、感じない者との二様がある、のだろう。

感じない者が大まじめに、ストイックな文章であろうとするのだから、
やはり、滑稽でしかない、と感じる。

ワグナーは、どちらだったのか。

Date: 8月 21st, 2018
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その9)

マッキントッシュのゴードン・ガウの言葉だったと記憶している。

「quality product, quality sales and quality customer」だと。
どれかひとつ欠けても、オーディオの世界はダメになってしまう、と。

quality product(クォリティ・プロダクト)はオーディオメーカー、
quality sales(クォリティ・セールス)はオーディオ店、
quality customer(クォリティ・カスタマー)はオーディオマニア、
主にそういうことになる。

クォリティ・セールスには、オーディオ店以外にも、
メーカーの売り方も深く関ってくるし、
海外で売られる場合には、その国の輸入元も含まれる。

メーカー、輸入元の売り方には、広報・広告が含まれる。
ここでの広報とは、オーディオ雑誌での記事の掲載、
インターネットでのなんらかの記事などが、そうだといえよう。

クォリティ・カスタマーは、売らんかな、だけのメーカー、輸入元にとっては、
クォリティがつかないカスタマーのほうが都合はいいだろう。

高価なモノをポンと買っていく客が、クォリティ・カスタマーなわけではないし、
誰しもが最初からクォリティ・カスタマーなわけでもない。

客(オーディオマニア)をクォリティ・カスタマーに導いていくのには、
クォリティ・セールスが重要となってくる。

Date: 8月 20th, 2018
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(その11)

テクニクス、ヤマハを例に挙げただけで、
他のオーディオメーカーの新製品に、新鮮さ、驚きがあるかというと、五十歩百歩だ。

たとえばアキュフェーズ。
別項でC240という、ずいぶん前のコントロールアンプについて書き始めているが、
当時、C240の登場は新鮮であり驚きがあった。

それまでのアキュフェーズのコントロールアンプとは明らかに違っていたし、
だからといってアキュフェーズ以外の製品であったわけでもない。

はっきりとアキュフェーズの製品でありながら、
それまでの製品とは違っていたから、新鮮であり驚きがあった。

C240のデザインに、未消化に感じるところがないわけでもない。
それでも新鮮であり驚きがあった。

おそらくNS1000Mの登場もそうであったのではないか。
私がオーディオに興味をもったころには、すでに定評を得ていた。
発表当時のことは私は知らないが、新鮮であり驚きを受けた人は多かったのではないか。

NS100Mにも欠点はある。
具体例をあげれば、ウーファーを保護している金属ネットがそうだ。
NS1000Mを視覚的に印象づけているわけだが、この部分の鳴きはそうとう音に影響している。

だからといって、取り外してしまえば、もうNS1000Mではなくなってしまうはずだ。

過去の新製品すべてがそうだったわけではないが、
それぞれのメーカーに、数年に一機種か、十年に一機種か、
とにかく力を感じさせる新製品が登場していた。

そういう新製品に、新鮮さ、驚きを感じていた、ともいえる。

Date: 8月 20th, 2018
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(その10)

その9)を書いたのが四年前。
2014年の9月にテクニクス・ブランドが復活している。
2016年にはヤマハがNS5000の販売を開始した。

ヤマハもテクニクスもインターナショナルオーディオショウに出展するようにもなった。
アキュフェーズ、ラックス、マランツ、デノン、エソテリック、フォステクス、TAD、
これらのメーカーも健在である。

インターナショナルオーディオショウではないが、OTOTENにも、
いくつものオーディオメーカーが、(その9)を書いたあとに登場したメーカーも出展している。

けっこうなことじゃないか、と素直に喜びたいのだが、
ほんとうに喜べる状況なのだろうか、ともおもう。

テクニクスの、この四年間の新製品、
特にアナログプレーヤーのSL1200、SP10の現代版は、
オーディオ雑誌、オーディオ業界だけのニュースではなく、
もっと広いところでのニュースとなっている。

復活したテクニクスを率いている小川理子氏は、メディアによく登場されているし、
本も出されている。それだけ注目されている。

これもけっこうなことじゃないか、と素直に喜びたいのだが、
ほんとうに喜べる状況なのだろうか、このことについても、そうおもう。

ヤマハのNS5000は、このブログでも書いているように2015年にプロトタイプが、
インターナショナルオーディオショウで登場した。
音も聴くことができた。

プロトタイプのNS5000の音に期待がもてた。
けれど製品としてできあがったNS5000の音に、私はがっかりした。
プロトタイプに感じた良さが、製品版からは感じられなかった。
もっとも世評は高いから、それはそれでいいのだろう。

結局、ヤマハはNS1000Mを超えるスピーカーをつくれないのか、と思ってしまう。
もちろんNS5000の方が、NS1000Mよりもいい音と評価する人は大勢いることだろう。

それでもNS1000Mを超えられない、と思ってしまうのは、
NS5000に新鮮さとか驚き、といったことを感じられないからだ。

少なくともプロトタイプには、それらはあった、と感じている。
同じことはテクニクスにもいえる。

SL1200、SP10の現代版をみても、新鮮さ、驚きは悲しいかな、感じられなかった。

Date: 8月 19th, 2018
Cate: audio wednesday
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第92回audio wednesdayのお知らせ(あるD/Aコンバーターを聴く)

喫茶茶会記のシステムは、そう高くはない。
むしろいまでは安い方に属する、ともいえる。

スピーカーはアルテックの2ウェイ中心としていて、
中古相場で計算しても片チャンネルあたり20万円ほどで揃う。

アンプはマッキントッシュのMA7900、SACDプレーヤーはMCD350。
スピーカーケーブルはカナレの実売80円(1m)くらいだし、ラインケーブルも数百円である。
私が作ったネットワークは部品代はそこそこかかっているけれど、
それでもシステムトータルでは200万円を超えない。

すべて含めて、このくらいで納まっている。
いまならスピーカーケーブルだけでも、喫茶茶会記のシステムより高価なモノがあるし、
そういうケーブルを使っている人もいる。

今回、とある会社から借用するオーディオ機器(D/Aコンバーター)は、
一台で喫茶茶会記のシステムよりも高価である。
音の入口にあたるところを、今回は大きくグレードアップすることになる。

どのメーカーのD/Aコンバーターなのかは書かないが、
私が聴きたいとおもっているD/Aコンバーターのひとつである。

9月5日のaudio wednesdayでは、このD/Aコンバーターを使っての音出しである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。

Date: 8月 19th, 2018
Cate: Wilhelm Furtwängler

フルトヴェングラーのことば(その2)

フルトヴェングラーが1929年に発表した「指揮の諸問題」に、こう書いてある。
     *
 アメリカ的な様式に見られるオーケストラ崇拝、総じて素材的な面における楽器崇拝は、現在の技術的な思考方式に即応している。「楽器」がもはや音楽のために存在しなくなれば、ただちに音楽が楽器のために存在するようになる。「ハンマーになるか、鉄敷(かなしき)になるか」の言葉が、ここにもまた当てはまる。それによってすべての関係が逆になる。そしていまや、アメリカから私たちに「模範的」なものとして呈示される、あの技術的に「無味乾燥な」演奏の理想が姿を見せるようになる。それはオーケストラ演奏においては均整のとれた、洗練された音色美を通して顕示され、この音色美は決して一定の限度を越えることなく、楽器それ自体の音色美という一種の客観的な理想を追うのである。ところで作曲家の意図は、このように「美しく」響くということになるのだろうか。むしろ、このようなオーケストラや指揮者によって、ベートーヴェンの律動的・運動的な力ならびに音の端正さがまったく損われてしまうことは明らかである。
     *
「指揮の諸問題」なのだが、現在のオーディオの諸問題にも読める。
この「指揮の諸問題」の初めのほうには、こうも書かれている。
     *
 芸術における技術的なものの意義、それは以前の、非合理性に傾いていた時代には過小評価されがちであったが、今日ではむしろ過大評価されている。
     *
これはある種のスポーツ化ともいえるような気がしてくる。
より高度な技を、より精度高く演じていくことで、
現代の、たとえば体操、フィギュアスケートは高得点を得られるのではないのか。

それはそれで、凄いことではあるけれど、ずっと以前とは違ったものになりつつあるようにも感じる。

スポーツも演奏も、どちらも肉体を駆使しての結果であるのだから──、
という考え方は成り立つのだろうが、それでも「違う」といいたくなる。

「指揮の諸問題」はいまから90年前に書かれている。
それをいま読んで、オーディオにあてはめている。

《「楽器」がもはや音楽のために存在しなくなれば、ただちに音楽が楽器のために存在するようになる。》
楽器をスピーカーにおきかえれば、
《「スピーカー」がもはや音楽のために存在しなくなれば、ただちに音楽がスピーカーのために存在するようになる。》
となる。

《「美しく」響くということになるのだろうか》は、
いまならば
《「スマートに」響くということになるのだろうか》だ。

Date: 8月 18th, 2018
Cate: re:code

re:code(その7)

ステレオサウンド 52号のオーディオ巡礼では、岩竹義人氏のリスニングルームを、
五味先生は訪問されている。
この回は「オーディオ巡礼」には収められていない。

その理由はわからぬわけではない。
けれどこの回は、
ハイ・フィデリティ・リプロダクションとは? について、
五味先生はどう捉えられているのかを知る上でも重要である。

終り近くで、こう書かれている。
     *
 このあと、フランクのヴァイオリン・ソナタをはじめはギトリスなる私の知らぬ人の演奏で、次にスークで、それからフェラスとバルビゼ、最後はオイストラフとリヒテルで聴いた。これが充分聴けたのだからそうわるい音なわけはないが、コンクリートホーンでヴァイオリンはやっぱり無理な感じは最後まで否めなかった。どうかするとヴァイオリンが二提もしくは三提で弾かれているようにきこえる。拙宅でも、以前にも述べたようにヴァイオリンがヴィオラかチェロにきこえることがある。だが弦の響きで胴が大きくふくらむものの楽器そのものは一つだ。岩竹氏のコンクリート・ホーンではそれが、まったく別の位置で演奏されるヴィオラやチェロにきこえる。つまりフランクの〝ピアノ三重奏曲〟イ長調ってわけだ。岩竹氏は以前、たとえばタンノイはどんなヴァイオリンの音色もすべて同じで、まさに白痴美の音だと申されたことがある。至言かもわからない。しかし、ヴァイオリン・ソナタがピアノ三重奏曲にきこえるのがどうして原音に忠実なのか。岩竹氏の人柄を心から好もしく私はおもうだけに、敢えてこれは言っておきたい。あなたは間違っている、今のスピーカーを先ず捨てなさい、即刻ウェスターンあたりに替えなさい。美しい再生音とは、どんなものかを、そしたら会得なさるはずだと。
     *
ヴァイオリン・ソナタがピアノ三重奏曲にきこえる。
それはモデリングがうまくいっていないからと捉えることができる。

私にとってオーディオの出発点となった「五味オーディオ教室」には、
《いま、空気が無形のピアノを、ヴァイオリンを、フルートを鳴らす。 これこそは真にレコード音楽というものであろう》
と書いてあった。

つまりモデリングであり、リモデリングであり、
ここにおいて五味先生はハイ・フィデリティ・リプロダクションを目指されているし、
MC275とMC3500の違いについて書かれている五味先生の文章は、
私にはレンダリングの違いというふうに読めるわけだ。

Date: 8月 18th, 2018
Cate: re:code

re:code(その6)

つい先日も別項で引用した五味先生の文章。
     *
 ところで、何年かまえ、そのマッキントッシュから、片チャンネルの出力三五〇ワットという、ばけ物みたいな真空管式メインアンプ〝MC三五〇〇〟が発売された。重さ六十キロ(ステレオにして百二十キロ——優に私の体重の二倍ある)、値段が邦貨で当時百五十六万円、アンプが加熱するため放熱用の小さな扇風機がついているが、周波数特性はなんと一ヘルツ(十ヘルツではない)から七万ヘルツまでプラス〇、マイナス三dB。三五〇ワットの出力時で、二十から二万ヘルツまでマイナス〇・五dB。SN比が、マイナス九五dBである。わが家で耳を聾する大きさで鳴らしても、VUメーターはピクリともしなかった。まず家庭で聴く限り、測定器なみの無歪のアンプといっていいように思う。
 すすめる人があって、これを私は聴いてみたのである。SN比がマイナス九五dB、七万ヘルツまで高音がのびるなら、悪いわけがないとシロウト考えで期待するのは当然だろう。当時、百五十万円の失費は私にはたいへんな負担だったが、よい音で鳴るなら仕方がない。
 さて、期待して私は聴いた。聴いているうち、腹が立ってきた。でかいアンプで鳴らせば音がよくなるだろうと欲張った自分の助平根性にである。
 理論的には、出力の大きいアンプを小出力で駆動するほど、音に無理がなく、歪も少ないことは私だって知っている。だが、音というのは、理屈通りに鳴ってくれないこともまた、私は知っていたはずなのである。ちょうどマスター・テープのハイやロウをいじらずカッティングしたほうが、音がのびのび鳴ると思い込んだ欲張り方と、同じあやまちを私はしていることに気がついた。
 MC三五〇〇は、たしかに、たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。
     *
ここでのMC275とMC3500の音の違いは、
この二つのアンプの音の違いだけに留まらず、さまざまなことを考えさせられる。
ここでテーマにしていることにも、深く関係してくる。

五味先生はMC275の描く音を
《必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある》
と表現されている。
これを読んで、どう思うか。

再生という行為を、モデリングとレンダリングというふうに考えてみると、
MC275もMC3500もモデリングにおいての違いはそれほどでもなく、
レンダリングにおいての違い、というふうに読める。

Date: 8月 18th, 2018
Cate: TANNOY

タンノイはいぶし銀か(その4)

なぜだか、タンノイの音こそがいぶし銀のように語られる。
それに、タンノイといえば、ある年代以上のオーディオマニアにとって、
五味先生と強く結びつくわけだが、
その五味先生はどういう音をいぶし銀と表現されているのかというと、
タンノイの音のことではなく、ベーゼンドルファーのピアノの音である。

ステレオサウンド 52号のオーディオ巡礼で
《拙宅のベーゼンドルファーは購入して二十年になる。今以ていぶし銀の美音を響かせてくれている》
と書かれている。

ベーゼンドルファーはいうまでもなくスピーカーではなく、ピアノのこと。
スピーカーだったら、わかりにくい。
A社の○○というスピーカーがいぶし銀の美音を響かせてくれる──、
そんなふうに書いてあっても、スピーカーはどんな部屋で聴くのか、
どんなセッティングがなされているのか、組み合わされるアンプやその他の機器は……、
そういった諸々のことで、音は大きく変ってくるのだから、
スピーカーの型番を持ち出されても、何の参考にもならないが、
ピアノであれば、そうではない。

スタインウェイほど聴く機会は多くはないかもしれないが、
ベーゼンドルファーは名の通ったピアノであるから、聴く機会は少なくないはずだ。

ただベーゼンドルファーのピアノであっても、必ずしもいぶし銀の美音を響かせてくれるわけでもない。
そのことも52号には書かれている。

五味先生はベーゼンドルファーのピアノを、
ベーゼンドルファーの調律師ではない人に調律してもらわれている。
そのことを書かれている。

同じことを「西方の音」におさめられている「大阪のバイロイト祭り」でも書かれている。
     *
 大阪のバイロイト・フェスティバルを聴きに行く十日ほど前、朝日のY君に頼んであった調律師が拙宅のベーゼンドルファーを調律に来てくれた。この人は日本でも有数の調律師で、来日するピアニストのリサイタルには、しばしば各地の演奏会場に同行を命ぜられている人である。K氏という。
 K氏はよもやま話のあと、調律にかかる前にうちのピアノをポン、ポンと単音で三度ばかり敲いて、いけませんね、と言う。どういけないのか、音程が狂っているんですかと聞いたら、そうではなく、大へん失礼な言い方だが「ヤマハの人に調律させられてますね」と言われた。
 その通りだ。しかし、我が家のはベーゼンドルファーであってヤマハ・ピアノではない。紛れもなくベーゼンドルファーの音で鳴っている。それでもヤマハの音がするのか、それがお分りになるのか? 私は驚いて問い返した。一体どう違うのかと。
 K氏は、私のようにズケズケものを言う人ではないから、あいまいに笑って答えられなかったが、とにかく、うちのピアノがヤマハの調律師に一度いじられているのだけは、ポンと敲いて看破された。音とはそういうものらしい。
(中略)
 ピアノの調律がおわってK氏が帰ったあと(念のため言っておくと、調律というのは一日で済むものかと思ったらK氏は四日間通われた。ベーゼンドルファーの音にもどすのに、この努力は当然のように思う。くるった音色を──音程ではない──元へ戻すには新しい音をつくり出すほどの苦心がいるだろう)私は大へん満足して、やっぱり違うものだと女房に言ったら、あなたと同じですね、と言う。以前、ヤマハが調律して帰ったあとに、私は十歳の娘がひいている音を聞いて、きたなくなったと言ったそうである。「ヤマハの音にしよった」と。自分で忘れているから世話はないが、そう言われて思い出した。四度の不協和音を敲いたときに、音がちがう。ヤマハに限るまい、日本の音は──その調律は──不協和音に、どこやら馴染み合う響きがある。腰が弱く、やさしすぎる。
 ベーゼンドルファーはそうではなかった。和音は余韻の消え残るまで実に美しいが、不協和音では、ぜったい音と音は妥協しない。その反撥のつよさには一本一本、芯がとおっていた。不協和音とは本来そうあるべきものだろう。さもなくて不協が──つまりは和音が──われわれに感動を与えるわけがない。そういう不協和音の聴きわけ方を私はバルトークに教えられたが、音を人間にかえてもさして違いはあるまいと思う。
     *
そういうベーゼンドルファーの音を、いぶし銀の美音と表現されている。

Date: 8月 18th, 2018
Cate: バランス

違いがわかっても、違いしかわからなかったりする

オーディオにとって真の科学とは(コメントを読んで)」で、
細かな音の違いがわかっても……、といったことを書いた。
ずっと以前からいわれていることである。
     *
 と、さんざんうるさいことを書いておいて、最後にちょっと補足しておくが、違う違うといってもその音の差はきわめて微妙。その微妙な差を大きな問題に感じるが音のマニアなのであれば、反面、ヘッドシェルを交換して聴いてもその差がわからずにキョトンとする人も決して少なくない。ヘッドシェルといいリード線といい、それらを変えてその音の差を聴き分けるのが高級な耳だなどとは誤解しないほうがいい。そういう差をよく聴き分ける人が、装置全体の音楽的なバランスをひどくくずして、平気で聴いている例もまた少なくない。ヘッドシェルの類いといい、またシールド線やスピーカーコードの違いといい、それらの細かな音を比較してよりよい方向を探すことも大切だが、装置全体を、総合的に良い音に調整するには、もっと全体を大きく見とおすような、全体的な感覚が必要で、それは細かな音の差を聴き分ける能力とはまた別の感覚だという点は、忘れないでおきたい。
     *
瀬川先生の「続コンポーネントステレオのすすめ」に、そう書いてある。
同じことを五味先生も書かれている。
     *
一流のアンプ製作者を何人か知っているが、面白いことにそんな連中の自宅のサウンドが素晴らしかったためしがない。なまじ専門知識があるため、高音や低域をいじりまわして、精神分裂症みたいな音にしてしまうのだろうと思う。さもなくば測定値に頼りすぎる。(音楽美は測定器ではでないのだ。)
(「いい音いい音楽」より)
     *
細かなところにこだわりすぎると、全体のバランスを見失ってしまう。

ずっと以前にネスカフェのCMで「違いのわかる男」というのがあった。
そのことで思い出すのは、十数年前に音効の仕事をやっている人と話す機会があった。

その人いわく、いまの若いミキサーは音の違いはわかるけれど、
どちらがいい音なのか、自分で判断できない、といってくる。
どちらをとるかの判断を、こちらにまかせてくる──、
そんなことを聞いている。

たまたま、そういうミキサーと仕事をする機会があったのかもしれないし、
そういう人がそのころは現れはじめていたのかもしれないが、
違いがわかっても、それだけで、いい耳といってしまえるわけではない。

Date: 8月 17th, 2018
Cate: 真空管アンプ

現代真空管アンプ考(その14)

結局のところ、抵抗負荷での測定であり、
入力信号も音楽信号を使うわけではない。

上杉先生の検証も抵抗負荷での状態のはずだし、
マランツがModel 8Bの開発においても抵抗負荷での実験が行われたはず。

ほぼ原波形どおりの出力波形が得られた、ということにしても、
音楽信号を入力しての比較ではなく、
正弦波、矩形波を使っての測定である。

アンプが使われる状況はそうてはない。
負荷は常に変動するスピーカーであり、
入力される信号も、つねに変動する音楽信号である。

ここでやっと(その4)のヒーターの点火方法のことに戻れる。
おそらくヒーターも微妙な変動を起しているのではないか、と考えられる。
安定しているのであれば、定電圧点火であろうと定電流点火であろうと、
どちらも設計がしっかりした回路であれば、音の変化は出ないはずである。

ヒーターに流れる電流は、ヒーターにかかっている電圧を、
ヒーターの抵抗値で割った値である。

ヒーターは冷えている状態と十分に暖まった状態では抵抗値は違う。
当然だが、冷えている状態のほうが低い。

十分に暖まった状態で、ヒーターの温度が安定していれば抵抗値も変動しないはず。
抵抗値が安定していれば、かかる電圧も安定化されているわけで、
オームの法則からヒーターに流れる電流も安定になる。
定電圧点火でも定電流点火でも、音に違いが出るはずがない。

けれど実際は、大きな音の違いがある。

Date: 8月 17th, 2018
Cate: 真空管アンプ

現代真空管アンプ考(その13)

上杉先生は管球王国 vol.12で、
マランツのModel 8Bの位相補正について、次のように語られている。
     *
上杉 この位相補正のかけ方は、実際に波形を見ながら検証しましたが、かなり見事なもので、補正を一つずつ加えていくと、ほとんど原派生どおりになるんですね。そのときの製作記事では、アウトプットトランスにラックス製を使ったため、♯8Bとは異なるのですが、それでも的確に効果が出てきました。
     *
上杉先生が検証されたとおりなのだろう。
位相補正をうまくかけることで、NFBを安定してかけられる。
つまりNFBをかけたアンプの完成度を高めているわけである。

真空管のパワーアンプの場合、出力トランスがある。
その出力トランスの二次側の巻線から、ほとんどのアンプではNFBがかけられる。
つまりNFBのループ内に出力トランスがあるわけだ。

出力トランスが理想トランスであれば、
位相補正に頼る必要はなくなる。
けれど理想トランスなどというモノは、この世には存在しない。
これから先も存在しない、といっていいい。

トランスというデバイスはひじょうにユニークでおもしろい。
けれど、NFBアンプで使うということは、それゆえの難しさも生じてくる。

Model 8と8Bは、トランスの二次側の巻線からではなく、NFB用巻線を設けている。
しかも(その12)でも書いているように、8BではNFB用巻線がさらに一つ増えている。

上杉先生が検証されたラックスのトランスには、NFB用巻線はなかったのではないか。
二次側の巻線からNFBをかけての検証だった、と思われる。

それでも的確に効果が出てきた、というのは、そうとうに有効な位相補正といえよう。
なのに、なぜ、複雑な構成のネットワークをもつスピーカーが負荷となると、
マランツのModel 8B、Model 9は大変なことになるのか。

凝りに凝った位相補正がかけられていて、
NFBアンプとしての完成度も高いはずなのに……、だ。

Date: 8月 16th, 2018
Cate: オーディオの科学
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オーディオにとって真の科学とは(コメントを読んで)

その5)にコメントがあった。
リンクしていても、読む人は少ないのがわかっているから、
paunogeira氏からのコメントを、ここに転載しておく。
     *
100mを9秒台で走れる人がいるように、「ケーブルで音が変わる」のを聴き取れる人は、おそらく百人に一人か千人に一人かの割合で存在するだろうと思います。しかし、「ケーブルで音が変わる」ことがオーディオ装置を論じる上で見落とせない要素であると主張したいのであれば、

1. 事象が存在しないこと(消極的事実)の証明は大変困難なので、存在を主張する側が証明するというのが、議論をするときの一般的なルールであると考えられること(宇宙人がいないことの証明は実際上できません)。
2. 自己の能力が他人よりも優れていることを主張する場合、優れていると主張する側が説明を尽くすのが礼儀であると考えられること(お前は劣っていると言われる身になってみればわかります)。

以上の二つの観点から、「ケーブルで音が変わる」と主張する立場の方が、証明とまではいかなくてもそれなりに筋の通った説明をつける努力をすべきでしょう。それをしないで「ケーブルで音が変わることはない」と主張する人々を非難するのは、たとえその人々の言説がどんなに低レベルであったとしても、いわゆる逆ギレのように思われます。
    *
ケーブルに関しては、
《「ケーブルで音が変わる」ことがオーディオ装置を論じる上で見落とせない要素であると主張したい》
わけではない。

この項の(その1)に書いているが、
ケーブルによる音の違いが聴きとれるかどうかは、耳の音の変化に対する閾値の違いであり、
何もこまかな音の違いを聴き分けているから、オーディオでいい音が出せるとは限らないし、
そうでないからといっていい音が出せないわけでもない。

少し誤解があるようなのだが、音の聴き分けに関しても、
ケーブルの音の違いが聴きとれている人でも、違う音の変化にはひどく鈍感なこともある。

音の変化、違いといっても、実にさまざまだ。
あれこれ音を変えながら、誰かに一緒に聴く機会がある人ならば感じているはずだが、
その人その人によって、敏感なところと鈍感なところがあるものだ。

すべてに関して敏感な耳の持主は、私の知るかぎりでは井上先生だけである。
だから、鬼の耳といわれていたわけだ。

こんなことを書いている私も、敏感なところもあれば鈍感なところもある。
要は、それを自覚しているどうかである。

100mを9秒台で走れる人は、確かにすごい。
けれど、100mを9秒台で走れる人が、
どんなことにおいてもすごいかというと、それは違うのと同じことだ。

それから、(その1)で書いていることのくり返しなのだが、
音のこまかな聴き分けができるから、いい音が出せるとは限らない。
違いがわかるだけではだめであって、
細かな音の違いの聴き分けが苦手であっても、いい音は出せるものである。

能力と書かれているから、あえてオーディオマニアとしての能力とするが、
それは細かな音の聴き分けではなく、どういう音を鳴らせるかのはずだ。

書きたいことは、もう少しあるけれど、それらはすでに書いてきていることであり、
そのくり返しになるから、このへんにしておく。

Date: 8月 16th, 2018
Cate: 真空管アンプ

現代真空管アンプ考(その12)

Model 8とModel 8Bの違いについて細かなことは省く。
詳しく知りたい方は、管球王国 vol.12の当該記事が再掲載されているムック、
「往年の真空管アンプ大研究」を購入して読んでほしい。

以前の管球王国は、こういう記事が載っていた。
そのころは私も管球王国には期待するものがあった。
けれど……、である。

わずかのあいだにずいぶん変ってしまった……、と歎息する。

Model 8はよくいわれているようにModel 5を二台あわせてステレオにしたモデルとみていい。
Model 8は1959年に発売になっている。
Model 8Bは1961年発売で、前年にはModel 9が発売されている。

Model 8と8Bの回路図を比較すると、もちろん基本回路は同じである。
けれど細かな部品がいくつか追加されていて、
出力トランスのNF巻線が8Bでは二組に増えている。

そういった変更箇所をみていくと、Model 8Bへの改良には、
記事中にもあるようにModel 9の開発で培われた技術、ノウハウが投入されているのは明らかだ。

石井伸一郎氏は、Model 8Bはマランツの管球式パワーアンプの集大成、といわれている。
井上先生も、Model 8Bはマランツのパワーアンプの一つの頂点ではないか、といわれている。
上杉先生は、マランツのパワーアンプの中で、Model 8Bがいちばん好きといわれている。

マランツの真空管パワーアンプの設計はシドニー・スミスである。
シドニー・スミスは、Model 5がいちばん好きだ、といっている(らしい)。

ここがまた現代真空管アンプとは? について書いている者にとっては興味深い。

Date: 8月 16th, 2018
Cate: 真空管アンプ

現代真空管アンプ考(その11)

多素子のネットワーク構成ゆえに容量性負荷となり、
しかもインピーダンスも8Ωよりも低くかったりするし、
さらには能率も低い。

おまけにそういうスピーカーに接続されるスピーカーケーブルも、
真空管アンプ全盛時代のスピーカーケーブル、
いわゆる平行二芯タイプで、太くもないケーブルとは違っていて、
そうとうに太く、構造も複雑になっていて、
さらにはケーブルの途中にケースで覆われた箇所があり、
そこには何かが入っていたりして、
ケーブルだけ見ても、アンプにとって負荷としてしんどいこともあり得るのではないか。

QUAD II以外のアンプのほとんどは位相補正を行っている。
無帰還アンプならばそうでもないが、NFBをかけているアンプで位相補正なしというのは非常に珍しい。

大半のアンプが位相補正を行っているわけだが、
どの程度まで位相補正をやっているのか、というと、
メーカー、設計者によって、かなり違ってきている。

マランツの真空管アンプは、特にModel 9、Model 8Bは、
徹底した、ともいえるし、凝りに凝った、ともいえる位相補正である。

積分型、微分型、両方の位相補正を組合せて、計五箇所行われている。
それ以前のマランツのパワーアンプ、Model 2、5、8でも位相補正はあるけれど、
そこまで徹底していたわけではない。

私がオーディオに興味をもったころ、Model 8に関しては8Bだけが知られていた。
Model 8というモデルがあったのは知っていたものの、
そのころは8Bはマイナーチェンジぐらいにしかいわれてなかった。

ステレオサウンド 37号でも、
回路はまったく同じで電源を少し変えた結果パワーが増えた──、
そういう認識であった。
1975年当時では、そういう認識でも仕方なかった。

Model 8とModel 8Bの違いがはっきりしたのは、
私が知る範囲では、管球王国 vol.12(1999年春)が最初だ。