違いがわかっても、違いしかわからなかったりする
「オーディオにとって真の科学とは(コメントを読んで)」で、
細かな音の違いがわかっても……、といったことを書いた。
ずっと以前からいわれていることである。
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と、さんざんうるさいことを書いておいて、最後にちょっと補足しておくが、違う違うといってもその音の差はきわめて微妙。その微妙な差を大きな問題に感じるが音のマニアなのであれば、反面、ヘッドシェルを交換して聴いてもその差がわからずにキョトンとする人も決して少なくない。ヘッドシェルといいリード線といい、それらを変えてその音の差を聴き分けるのが高級な耳だなどとは誤解しないほうがいい。そういう差をよく聴き分ける人が、装置全体の音楽的なバランスをひどくくずして、平気で聴いている例もまた少なくない。ヘッドシェルの類いといい、またシールド線やスピーカーコードの違いといい、それらの細かな音を比較してよりよい方向を探すことも大切だが、装置全体を、総合的に良い音に調整するには、もっと全体を大きく見とおすような、全体的な感覚が必要で、それは細かな音の差を聴き分ける能力とはまた別の感覚だという点は、忘れないでおきたい。
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瀬川先生の「続コンポーネントステレオのすすめ」に、そう書いてある。
同じことを五味先生も書かれている。
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一流のアンプ製作者を何人か知っているが、面白いことにそんな連中の自宅のサウンドが素晴らしかったためしがない。なまじ専門知識があるため、高音や低域をいじりまわして、精神分裂症みたいな音にしてしまうのだろうと思う。さもなくば測定値に頼りすぎる。(音楽美は測定器ではでないのだ。)
(「いい音いい音楽」より)
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細かなところにこだわりすぎると、全体のバランスを見失ってしまう。
ずっと以前にネスカフェのCMで「違いのわかる男」というのがあった。
そのことで思い出すのは、十数年前に音効の仕事をやっている人と話す機会があった。
その人いわく、いまの若いミキサーは音の違いはわかるけれど、
どちらがいい音なのか、自分で判断できない、といってくる。
どちらをとるかの判断を、こちらにまかせてくる──、
そんなことを聞いている。
たまたま、そういうミキサーと仕事をする機会があったのかもしれないし、
そういう人がそのころは現れはじめていたのかもしれないが、
違いがわかっても、それだけで、いい耳といってしまえるわけではない。