Archive for 10月, 2017

Date: 10月 26th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その6)

SACDは、Super Audio Compact Discの略称であるのは、いうまでもない。
なぜSuperとCompactのあいだにAudioを加えたのだろうか。

Super Compact Discでもよかったはずだ。
そうすれば略称はSCDとなる。

SACDの名称は、ソニーが決めたのだろうか。
ソニーとフィリップスが話し合って決めたことなのか。

SACDが登場した頃は思いもしなかったが、
いまはAudioが入っていてよかった、と思う。

Date: 10月 25th, 2017
Cate: Jazz Spirit

Jazz Spirit Audio(audio wednesdayでの音量と音・その1)

ステレオサウンド 38号で、黒田先生が書かれている。
     *
 大きな音で、しかも親しい方と一緒にきくことが多いといわれるのをきいて、岩崎さんのさびしがりやとしての横顔を見たように思いました。しかし、さびしがりやというと、どうしてもジメジメしがちですが、そうはならずに、人恋しさをさわやかに表明しているところが、岩崎さんのすてきなところです。きかせていただいた音に、そういう岩崎さんが、感じられました。さあ、ぼくと一緒に音楽をきこうよ──と、岩崎さんがならしてくださった音は、よびかけているように、きこえました。むろんそれはさびしがりやの音といっただけでは不充分な、さびしさや人恋しさを知らん顔して背おった、大変に男らしい音と、ぼくには思えました。
     *
《さびしさや人恋しさを知らん顔して背おった、大変に男らしい音》、
これこそがジャズ喫茶の音なのだろう、と、
ジャズの熱心な聴き手でない私は、勝手にそう思っている。

私がaudio wednesdayで鳴らしている音は、まだまだだとも思う。

Date: 10月 25th, 2017
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(audio wednesdayでの音・その12)

075にした音は、予想よりも、期待よりもよくなってくれた。
それでも、音楽を聴いていて、こちらの気合いがほんのちょっと入らないとでもいおうか、
その1)、(その2)で書いているように、
この日の私は疲労感をおぼえていたし、
最初に鳴った音を聴いて「今日の私のようだ」と感じたのは、
075にした音を聴いても、拭いきれなかった。

音は滑らかで、よくなったけれど、
歌(私にとっては特にグラシェラ・スサーナの日本語の歌)を聴くと、
表情に溜めがないともいえるし、フラットな感じでもあるといえた。

そこで075の仰角を少し変えてみた。
それから位置を後方に少し移動した。
さらにあと少し移動した。

少しずつよくなってきても、それでも……、と気になるところは残っている。
そこで思い切って、075のボイスコイルの位置を、
アルテックのドライバーのボイスコイル位置とほぼ同じになるまで後方に下げた。

ここまで下げるとアルテックのホーン811Bが075にとって邪魔になってくるけれど、
頭で考える前に、音を聴くのがいちばんだし、075の重量は動かすのにしんどいわけでもない。

075の位置の微調整は今後行うにして、
ここまで下げた音は、
聴いているこちら(鳴らしているこちら)の目を覚してくれる音でもあった。

ここにきて、やっとこちらの調子が出てきた。
鳴ってきた音が、こちらの調子を引き出してくれた。

ジャズ好きな人は、075しかない、という人が昔は多かった。
いまはどうなのかは知らないが、アルテックの2ウェイの上にのせても、
075はやはり075だ、と感じた。
シンバルの音が、確かに魅力的なのだ。

Date: 10月 25th, 2017
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(audio wednesdayでの音・その11)

グッドマンのDLM2からJBLの075への変化は、クロスオーバー周波数も変っているし、
ネットワークも違うわけだから、純粋にトゥイーターユニットの比較というわけではないが、
それにしても変化は大きかった。

滑らかになったことは、すでに書いた通り。
こさと同じことを別の表現にいえば、聴感上のS/N比が大きく向上した。

DLM2は、075と比較するまでもなく、
あまり聴感上のS/N比が優れているとはいえないトゥイーターだった。
しかもaudio wednesdayでは大音量で鳴らす。

DLM2の耐入力をこえるような鳴らし方ではないが、
DLM2が想定しているであろう音量よりもずっと大きいのだから、
その分、聴感上のS/N比の悪さは、よりはっきりと出る。

DLM2は、他のトゥイーターに交換したいと前々から考えていたけれど、
一方で、喫茶茶会記のスピーカーは、
渋谷にあったジャズ喫茶音楽館で鳴っていたそのモノであるから、
そのことを尊重するのであれば、できるかぎりDLM2のまま鳴らそうとも思っていた。

DLM2の気になる点は、バッフル板に取り付けたり、
なんとかハウジングをこじ開けて、内蔵されているネットワークをパスして、
きちんとしたネットワークをあてがう、
それからDLM2へのケーブルには銀線を使ってみたりすることで、
ある程度は解消できないわけでもない。

075を今回試してみたのは、たまたま075があったからである。
あるモノは、試してみたい。
それに075ならば、車がなくとも運ぶことが出来る。
試さない手はない。

先のことは、075にかえた音を聴いてから考えればいい──、
ぐらいの気持もあった。

075にした音は、格の違いをまざまざとみせつけられたともいえるし、
個人的には075の、あまり語られてこなかった可能性を見いだせた気もする。

Date: 10月 25th, 2017
Cate: ケーブル

ケーブル考(銀線のこと・その11の補足)

巻線に銀を使った昇圧トランスは、過去にいくつかあった。
ラックスの8020(ハイインピーダンス用)、8030(ローインピーダンス用)は、
一次巻線に銀を使っている。二次巻線はリッツ線ということだから、おそらく銅であろう。

ダイナベクターDV6Aは、一次、二次巻線ともに銀線のはずだ。
しかもDV6Aの一次巻線には中点タップがあり、上部スイッチにより中点接地が可能。
つまりバランス入力に対応していた。

これらの製品が登場した1970年代後半は、
いまふりかえっても銀線ブームのはじまりだった、といえよう。

Date: 10月 25th, 2017
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その12)

汚れてしまった己の手をじっとみつめる力、
その力をあたえてくれる、力の源となるものとしての音楽があるならば、
汚れてしまった手を、
汚いという、ただそれだけみもせずにすぐさま洗い流そうとする、
つまり水としての音楽があろう。

「純粋さとは、汚れをじっとみつめる力」だと、シモーヌ・ヴェイユは綴っている。

すぐさま洗い流そうとする者に、じっとみつめる力は必要ない。
洗い流してくれるきれいな水があればいいだけのことだ。

Date: 10月 25th, 2017
Cate: audio wednesday

第82回audio wednesdayのお知らせ(飲み会)

11月1日のaudio wednesdayは喫茶茶会記では行いません。
会場をかえて、というか、飲み会をやります。

12月6日のaudio wednesdayは、喫茶茶会記での音出しを予定しています。

参加されたい方は私までメールをお送りください。

Date: 10月 25th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その7)

スペンドールにD40というプリメインアンプがあった。
1977年に登場し、ステレオサウンド 44号の新製品紹介のページで取り上げられている。

価格は145,000円(1980年頃には、198,000円に値上り)だが、
国産の同価格帯のプリメインアンプと比較するまでもなく、見た目は貧相ともいえる。
内部も、これが15万円もするアンプなの? と思われただろう。

それでもスペンドールのBCIIと組み合わせたときの音は、素晴らしかった。
BCII専用アンプといってもいいくらいに、よく鳴らしてくれた。

私はD40を他のスピーカーと組み合わせた音は一度も聴いていない。
BCIIIを、D40はうまく鳴らせるのだろうか。

ステレオサウンドは、年末に「コンポーネントステレオの世界」を出していた。
’78年度版で、山中先生がBCIIとD40の組合せをつくられている。
’79年度版に、BCIIIの組合せが、二例ある。
岡先生による組合せと瀬川先生による組合せだ。

岡先生、瀬川先生はともに予算120万円の組合せで、
BCIIIをスピーカーとして選択されているが、どちらにもD40のことはひと言も出てこない。

このふたつの組合せで注目したいのは、
岡先生の組合せでは、BCIIIの専用スタンド込みの価格に対し、
瀬川先生の組合せでは専用スタンドは除外されている、ということだ。

44号の、瀬川先生の試聴記に、こうある。
     *
今回何とか今までよりは良い音で聴いてみたいといろいろ試みるうち、意外なことに、専用のスタンドをやめて、ほんの数センチの低い台におろして、背面は壁につけて左右に大きく拡げて置くようにしてみると、いままで聴いたどのBCIIIよりも良いバランスが得られた。指定のスタンドを疑ってみなかったのは不明の至りだった。
     *
だから、「コンポーネントステレオのステレオの世界 ’79」で、
瀬川先生は専用スタンドを使われていないし、
組合せ写真においても、岡先生の組合せでは専用スタンドのうえにBCIIIが置かれているが、
瀬川先生の組合せ写真ではスタンドの姿はない。

Date: 10月 25th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その6)

スペンドールのBCIIとBCIIIのインピーダンスカーヴの違いをみていると、
BCIのインピーダンス特性もぜひとも知りたくなるところだが、
いまのところ見つけられないでいる。

BCIIIがBCIをベースに、スーパートゥイーターとウーファーを追加したモデルと仮定して、
20cmウーファーとトゥイーターHF1300間のネットワークは、
BCIもBCIIIも同じだとしたうえで、
BCIIIのインピーダンスカーヴを考えてみると、低域、高域両端のカーヴは不思議である。

以前書いているように、ボイスコイルのインダクタンス成分によって、
トゥイーターのインピーダンスは高域に従って上昇していくものだ。

コイルに使う線材の断面が丸ではなく四角のエッジワイズ巻きのほうが、
インピーダンスの上昇は抑えられるが、下がるということは基本的にはありえない。

低域に関しても、20cmウーファーの下側をカットして、
30cmウーファーの上側をカットして、といういわゆる通常の方法で接続しているのであれば、
こういうカーヴになるだろうか。

低域のインピーダンスはユニット、ネットワークの他にエンクロージュアも関係してくる。
いったいBCIIIの内部はどうなっているのか。
BCIIIのインピーダンス特性をみれば見るほど、BCIIIの内部をつぶさに見たくなる。

低域で高く高域にいくに舌癌手インピーダンスが下がっていくスピーカーといえば、
コンデンサー型が、まさにそうである。
QUADのESLのインピーダンス特性が、ステレオサウンド 37号に載っている。

ESLとBCIIIのインピーダンス特性。
アンプの選択が難しいといわれるESLのほうが、BCIIIよりも素直なカーヴといえる。

BCIIIはアンプを選ぶのだろうか。

Date: 10月 24th, 2017
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(伊藤喜多男氏のことば)

サウンドボーイ 1981年2月号で、小林貢氏が、
アルテックの755Eを使ったスピーカーシステムの製作記事を担当されている。

755Eというユニットについて、
調べれば調べるほどわからないことだらけになる、と、
とけない謎を解くために伊藤先生が登場されている。
     *
小林 今日は身の上相談にうかがったのではなく、スピーカーの正しい鳴らし方を教えていただきにまいりました。
 アルテックの755E、W・E時代は755Aですが、このオリジナルのエンクロージュアはあったのでしょうか。
伊藤 W・Eにくわしい人はそれこそたくさんいますよ(笑い)。
 ただ、私はW・Eで職工していただけだから、どんな思想でどんな開発の仕方をしていたかなどという点については判りません。ただ、どんな使い方をするのが正しいのか、どういう音なのかについてはすっかり勉強させてもらいました。私にいわせればそれだけで十分で、それ以上のことは知る必要もないし、W・Eで教えてくれるわけでもない。だから、私の知っている範囲内でよければすべてお教えできると思います。
     *
W·Eとは、いうまでもなくウェスターン・エレクトリックのこと。
ウェスターン・エレクトリックのスピーカーや部品などについて、
ことこまかなことを知っている人は、伊藤先生のいわれるように当時からいた。

いまではインターネットが普及しているから、もっともっと多くいるだろうし、
知識の量も、当時よりも増えていることだろう。
ますます《W・Eにくわしい人はそれこそたくさんいますよ》となっていっている。

これは何もウェスターン・エレクトリックのことだけに限らない。
知識量が多いのは、決して悪いことではない。
けれど知識量だけが多い人が増えているようにも感じられるし、
その知識の多さが、まるで脂肪の多さのように感じさせる人もいる。

それよりも大事なのは、伊藤先生がいわれている。
《どんな使い方をするのが正しいのか、どういう音なのかについてはすっかり勉強させてもらいました》と。

Date: 10月 24th, 2017
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(ブームだからこそ・その7)

ソニーミュージックがアナログディスク生産を再開することは、
オーディオ雑誌だけでなく、新聞でもニュースになってから半年以上が経つ。

新聞の記事では、カッティングマシンをどう調達したのか、
そのへんのことは書かれてなかった。
無線と実験 6月号が、オーディオマニアが知りたいことについて触れた記事だ。

2ページの記事だが、そうなのか……、と考えさせられる写真と説明文があった。

説明文には、こうあった。
     *
カッティングシステムの対向面にあるマスタリングデスクには、DAWと各種イコライザーなどが組み込まれている。モニタースピーカーはB&WのMatrix801S2
     *
このことがどういうことを意味するのか、
最近になってやっと記事になりつつある。

無線と実験 6月号の写真と説明文を読んで、そういうことなのか、と思った。
いまアナログでマスタリングできるエンジニアがいないのでは……、ということである。

DAWとはDigital Audio Workstationの略である。
つまりデジタルでマスタリングしていることを、写真と説明文は伝えていた。
記事本文には、そのことについてひと言も触れられていないけれど、
アナログディスクの現状がどうなっているのかが伝わるようになっている。

無線と実験の、この記事を見て、東洋化成のことが浮んだ。
東洋化成にアナログのマスターレコーダーがないことについて、以前に書いたが、
なぜ導入しないのか、その理由のひとつがわかった、ともいえる。

Date: 10月 24th, 2017
Cate: 岩崎千明

537-500と岩崎千明氏(その1)

ステレオサウンド 38号「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」、
何度も見て読んでいるにもかかわらず、
またひっぱりだしてきたのは確認したいことがあったから。

JBLのホーン537-500といえば、
菅野先生が長年愛用されていることはよく知られているし、
菅野先生よりも早く瀬川先生が導入されていたことも知られている。

けれど岩崎先生は?
あれだけ多くのオーディオ機器があった岩崎先生のリスニングルームに、
537-500はなかったのか──、それを確かめるために38号を開いている。

少なくとも38号に掲載されているカラー写真、モノクロ写真のどこにも写っていない。
「岩崎氏の再生装置」というリストにも、537-500、もしくはHL88の型番はない。

37号もひっぱりだしてきた。
「ベストサウンドを求めて」という記事で、
岩崎先生はJBLのユニット群によるマルチアンプシステムを実験されている。
プロローグとして、JBLのホーンについて書かれている。

そこには537-500(HL88)のことは出てくる。
     *
 そりゃあ、そうだろう。蜂の巣にしたって黄金の翼にしたって、JBLファンなら一度は手にして、そばに置きたい魅力のかたまりだ。HL88として復活したが、前の型番537−500といってもぴんとこないファンがいたとしても175DLHのホーンの兄貴分といえば判るだろう。つまり蜂の巣音響レンズをホーン開口部にそなえた強力無比な中音用ホーンなのだ。鉄製の強固なる丸形(コニカル)ホーンは、デッドニングなどはしていないが、どう叩いても、とうていホーン鳴りなどしそうにない。パンチングメタルを17枚重ねた音響レンズは、単なる拡散器というより、ホーン開口部につけた音響的バッファーの作用もして家庭用として適切なるエネルギーにするため、積極的な音響損失をも、もたせてあるといえる。
     *
けれど本文といえるユニット組合せの試聴には、
2350、2355、2397、HL89、HL900、HL92は登場するが、
537-500(HL88)は、そこにはいない。

《JBLファンなら一度は手にして、そばに置きたい魅力のかたまり》と書かれているのに、
岩崎先生のリスニングルームに、537-500があった写真をみたことがない。
写真に写っていないから、ない、とは断言できないが、
あれだけの大きさと存在感をもつ537-500を、どこかにしまわれていたとは考えにくい。

Date: 10月 23rd, 2017
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(圓生百席・その2)

「レコード落語百席」の数ページあとに、
特別インタビュー「ピーター・ヴィルモース レコーディングを語る」がある。
     *
レコードというものは、コンサートホールでの演奏をできるかぎり忠実に再現することが、第一の目的であるのか、それともレコードならではの演奏というか、演奏再現を主体的に考えてレコーディングすべきなのか、ヴィルモースさんのご意見をうかがわせてください。
ヴィルモース 私は、生演奏とレコードの演奏とはまったく違うものだと考えています。そして生演奏をそのままレコードに忠実に写しかえるということは、ルポルタージュとしての意味しかないでしょう。たしかに優れた演奏のライヴ・レコードは、きわめてエキサイティングなものですが、それはその瞬間を捉えたからであって、いいかえるとその瞬間がきわめてエキサイティングなものだったわけで、レコードそのものかエキサイティングであるというわけではありません。たとえばフリッツ・ブッシュがベートーヴェンの第九番を指揮しているライヴ・レコードは、たいへんすばらしいものですが、それはその夜のブッシュの指揮のすばらしさということ、つまりはその夜の優れたルポルタージュということなんですね。そしてそれは、いま私たちが〈レコード〉と呼んでいることと、少し違っているわけです。
 レコードは、先ほどもいいましたが、生演奏の裡に生きているものを殺してはならない、ということがまず第一に必要ですが、だからといってルポルタージュにとどまってもならないのです。優れたレコードはが追求しているものは、たとえばカラヤンやベームの、ある作品に対する解釈がどんなものであるのか、ということだと思います。そして聴きては、同じ曲の違った演奏を聴き比べて、それぞれの演奏家の解釈の違いを知ってゆくことに興味をおぼえてゆくはずです。
 それからコンサートでは、ごく少数の例外をのぞいて、そのコンサートのはじめから終りまで通して、精神を集中したままで演奏を行なうというのは不可能でしょう。どこかで息抜きして、とくに難しい場面にそなえるということは、よく見受けられます。これは技術的にということではなく、心理的にそうした緊張感の連続に耐えられないからですね。
 しかしレコードでは、そうした緊張感をずっと持続させることが可能です。そうした精神の集中させた演奏の持続ということは、レコードならではのものではないかと思います。そういった精神の集中とか緊張の感覚というものは、コンサートホールでよりも、レコードでのほうがより大きく強く出ると思いますね。
     *
「レコード落語百席」と「ピーター・ヴィルモース レコーディングを語る」が、
ステレオサウンド 37号に載っているのは偶然なのだろうが、
それにしても、単なる偶然では片付けられない一致が、読みとれる。

Date: 10月 23rd, 2017
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(圓生百席・その1)

圓生百席」という録音物(レコード)がある。
1970年代前半から録音がスタートして、十年までいかないが、けっこうな年月をかけて完成された。
CBSソニー(現ソニーミュージック)からLPで発売され、
いまもCD(116枚+特典CD2枚)として発売されている。

ステレオサウンド 37号の音楽欄に、「レコード落語百席」という記事が載っている。
CBSソニーの京須偕充氏による「圓生百席」の録音に関する話だ。

いまもむかしも、落語に強い関心は持っていないため、
ステレオサウンドにいるときも、37号の他の記事は読んでいても、
この「レコード落語百席」は読まずじまいだった。

さきほど調べもののため37号を開いていた。
いまごろ「レコード落語百席」を読み終えた。

ひところステレオサウンドは、バックナンバーを編集したムックを出していた。
オーディオ機器中心、オーディオ評論家中心の内容だから、
「レコード落語百席」のような記事は、そういったムックに収録されることは、まずない。

もったいない、とおもう。
全文を掲載したいところだが、そうもいかないので、最後のところだけを引用しておく。
     *
 こういう苦心はひとくちではいえないから、つい黙っていると、「いくらよく出来ていても、テープ編集したものは死んだ芸だ」とか、「客の笑いをともなわい落語は落語にあらず」というような批判をあびせられる。ほめてくれるひとでも、じつをいうと、客の反応がきこえないのが寂しい、とつけくわえる。祝宴のつもりがお通夜になったといいたげなのだ。
 無理もないことかもしれない。落語は実演の枠を出たことがほとんどないのだ。落語が今日ほどに普及したのは、戦後のラジオ放送のお陰だが、それはほとんど例外なしに公開録音、寄席中継だった。落語家をお座敷によんで、結構な酒食とともに、サシ同然で一席楽しむ──そんなぜいたくのできるひとは、世の中にひとにぎりもいない。だからラジオのお陰で、茶の間で落語をきく習慣ができたということは、会場のお客と一緒にきくという錯覚を楽しむ習慣ができたことなのだんた。インスタント・ホーム寄席。そして、たいがいの落語ファンは、レコードも実演の代用品としてきこうとしている。レコードもまた、インスタント・ホーム寄席なのだろう。
 私も当初は迷い、おおかたのお客の好みに合わせようかと思った。しかし圓生師は、かたくなにスタジオ制作を主張した。実演は実演、レコードはレコード、中途半端はいやだというわけだ。
「実演をそのままレコードにするのはいやですねえ。実演とレコードとでは、あたくしの考えでは、演出を変えなくてはいけないと思うんです。実演だってお客様が千人のとき、百人(いっそく)のとき、それぞれやり方を変えています。実演のウソてェこともあるんですよ。たとえば内緒話の描写ですが、リアルにやったら、うしろのお客様にはきこえません。だから内緒話らしくやるんです。実演はそれでいいんです。ですがレコードならリアルなひそひそ声でやるべきでしょう。実演をそのままレコードにすると、そういうところが大味になるはずなんです。ですから実演とレコードは一長一短、そもそもは別ものなんで比較は出来ませんよ。レコードはレコードらしく、いいものにしようじゃありませんか。とにかくこわいものですよ、あたくしが死んでもレコードはのこる。」
 徹底的にスタジオでいこう、と私は思った。あるひとが、レコードをきいていってくれた。圓生師匠が自分ひとりのために、サシでやってくれているようなきぶんになり、心おきなくききこめる。登場人物や情景のイメージものびのびとひろがって、これまで気がつかなかった芸のうまみや奥行きがわかってきた、と。
 こういうひとがひとりでもいてくれれば、「レコード落語」も浮かばれるというものだ。
     *
音楽と落語は同一視できない面もある。
それは音楽の録音、落語の録音についてもいえようが、
それでも「レコード落語百席」は、完成度ということについても考えるきっかけを与えてくれる。

Date: 10月 22nd, 2017
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その11)

「毒にも薬にもならない文章」を書くことを選択し、
好んでマーラーを聴くことはしなかった知人は、
よく「音楽を聴くことで浄化される」ということを口にしていた。

知人は、五味先生と同じ意味で言っているようだったが、
私の耳には、同じように言っているだけにしかきこえなかった。

毒のある音楽を拒絶するのは、その人の自由である。
知人が好んで聴く音楽は、そして演奏は、毒のあるものではなく、
清らか、という言葉で表現できるものが多かった。

汚れていない音楽(演奏)ときこえるものを、知人は好んでいた。
そして清潔感という言葉もよく使っていた。

彼は、だからワーグナーも好んで聴くことはしなかった。

それが知人の音楽の聴き方であり、
そういう音楽を鳴らすためのオーディオ(音)であり、
それが知人にとって必要と思えるものだったのだろう──、
と一応の理解は示せても、やはり違うだろう、といいたくなる。

あなたがいう浄化と五味先生がいう浄化は、はっきりと違う、と。