Archive for 8月, 2017

Date: 8月 7th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その11)

五味先生のレコードコレクションの詳細を知りたい、と思っていた。
「五味オーディオ教室」を読んだ時から思い続けてきた。

「五味オーディオ教室」、「西方の音」、「天の聲」、「オーディオ巡礼」、「いい音いい音楽」、
これらの本に出てくるレコードのことを一覧表にしたこともある。

それをやっても全貌が見えたわけではなかった。

五味先生のコレクション、
オーディオ、レコードだけでなく、その他のコレクションも、
練馬区で保管されている。

練馬区石神井公園 ふるさと文化館のウェブサイトで、
五味先生のコレクションが公開されている。
けれどここには、レコードコレクションの詳細はない。

ないものだと思っていた。
昨夜、友人のKさんが教えてくれた。
五味先生のレコードコレクションの詳細をPDFにしたものが公開されている、と。
Kさんはオレフスキー(ヴァイオリニスト)について調べていたら、見つけた、とのことだった。

このPDFには、別のページからリンクされている。
五味康祐資料展示室等 情報というページがあり、
ここの下のほうに、交響曲管弦楽曲協奏曲室内楽器楽曲オペラ声楽
音楽史現代曲追加分と十のPDFへリンクがはられている。

表にまとめられている。
演奏者の表記など、統一されていないところもある。
もうすこし作りようがあった、と思うが、だからといって不満があるわけではない。
よくぞ公開してくれた、と喜んでいる。
上に書いたことはささいなことである。

五味先生のレコードコレクションをみていくと、気づくことがいくつもあるが、
それについて書くことはしない。
それぞれが気づけばいいことだからだ。

Date: 8月 6th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その9)

誰かと一時間一緒に過すと、その何倍かの時間だけ独りになる必要がある。
孤独は人間の幸福に書かせない要素だ。

グレン・グールドが、そんなことをいっていたと記憶している。
グールドが、ここでいっている人間の幸福とは、
美を知ることのような気がする。

美を知る者は孤独──、
そう捉えるのは間違いだろうか。

物分りのいい人ぶって徒党を組みたければ組めばいい。
そうやって美から遠ざかり、音をきいていればいい。

Date: 8月 6th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その8)

facebookへのコメントに、
ブルーノ・ワルターの「不寛容に寛容であってはならない」とあった。

思い出した。
「たいていのことは寛容であれば解決するが、不寛容に対してだけは寛容であってはならない」
たしかにブルーノ・ワルターはそういっている。

ワルターは1876年にドイツで生れている。
父親はドイツ系ユダヤ人、母親はユダヤ人である。
これ以上は書く必要はないだろう。

ワルターがいうところの不寛容とは、そのことであろう。
でも、それだけではない、と、その時代から70年以上が経ってもそう思う。

コメントに、今日は8月6日だ、とあった。
1945年の8月6日と9日、
この日のことに寛容であってはならない。

Date: 8月 5th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その7)

物分りのいい人ぶっている知人をみていて感じるのは、
矛盾することをいっているように思われるだろうが、不寛容な人だということだ。

もしかすると、この知人だけのことではないのかもしれない。
不寛容な人が増えてきている、といわれているが、
その人の多くはもしかすると、物分りのいい人ぶっているのかもしれない。

Date: 8月 5th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その6)

オーディオって、好きな音楽をいい音で聴く趣味であって、
鍛えるとか鍛えられるとか、そんなこと無関係の世界ではないの?

ほんとうにオーディオはそれだけの世界にとどまる趣味なのか、と私は思う。
鍛える、鍛えられるとは、
オーディオにおいてはどういうこと? と思われる人もいよう。

鍛える(鍛えられる)とは、オーディオつにアとしての純度を高めていくことだ。

好きな音楽をいい音で聴きたいだけなのか、
己の裡にある何ものかの純度を高めていきたい、と思うのかどうか。

好きな音楽をいい音で聴きたいと思っている人でも、
オーディオマニアでない人とオーディオマニアである人の違いは、ここにもあると思う。

どんなにオーディオにお金をかけていても、オーディオマニアでない人がいる、と、
別項で書いているのは、ひとつにはそういうことである。

オーディオは迎合しない男の趣味と書いたのも、そういうことである。

「楽しめればそれでいいじゃないか」、
でも、それだけでは行けない領域があるのを知っている人と知らない人がいる。

「たのしい」には、楽しいと愉しいとがある。
オーディオの楽しさ、オーディオの愉しさ。
混同しないことだ。

Date: 8月 5th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その5)

物分りのいい人ぶっているのは知人だけではない。
物分りのよさをアピールしている人は、増えている、と感じている。
そんな人が増えていくのにつれて、真意が伝わりにくくなってきている、とも感じている。

もちろん昔から伝わらない人にはどんなことをしても伝わらないところがあった。
そういうのとは違う。
あきらかに真意が伝わり難くなっている。
少なくともオーディオを趣味としたり仕事としたりしている人だけに限っては、
確かにそうだといえる。

なぜなのかはよくわからないが、
物分りのよさをアピールしてくる人が増えてきていることと比例しているようだ。

そんな人たちがオーディオの世界でも増えてきた。
彼らは若い人たち、オーディオに感心を持ち始めた人たちに何ができるのかといえば、
何もできない、と思う。

そういう人たちは、ほんとうのところがわかっていない人が多い。
インターネットの普及によって、知識だけはぶくぶくと身につけている。
その知識が、人の体でいえば骨格となり筋肉となっていればいいのだが、
贅肉としかなっていない人が、これまた多いように感じる。

実際の体形であれば、ぶくぶくと太ってきたことは鏡をみればすぐにわかる。
けれどオーディオのことに関してはそうはいかない。
ただただ知識だけを得ても体系化できずに、ぶくぶくと太っていくばかり。

そんな人は自身も鍛えられないし、誰かを鍛えることもできない。

私は、こちらから若い人のところに降りていくことはしない。
けれど、鍛えられたいと望む若い人を鍛えることはできるし、
そのことに出し惜しみをするつもりは毛頭ない。

Date: 8月 4th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その4)

40を超えたころに、ある人からいわれた。
「オーディオ界をよくしてくれ」と。

そのときにいくつかいわれたことがある。
そのひとつだけを書いておく、
「若い人のところに降りていくな」だった。

誰なのかはあえて書かない。
「若い人のところに降りていくな」の前後を詳細に書いたところで、
その人の名前を出しただけで否定的にとらえてしまう人がいるのを知っているし、
「若い人のところに降りていくな」だけが一人歩きしてしまうこともある。

話してくださった方に迷惑をかけたくないので、誰なのかは書かないが、
「若い人のところに降りていくな」をきいて、
やはりそうなんだ、間違ってなかった、と思った。

いっておくが、若い人を蹴落とせ、とか、頭を押さえつけろ、とか、そういったことではない。
ただただ「「若い人のところに降りていくな」である。

「絶対に降りていってはいかん」とつけ加えられた。

物分りのいい人ぶっている知人は、真逆のことをいう。
もう人は人である。それぞれであるから、知人は知人でやっていけばいいだけのことで、
私は私で、「若い人のところに降りていくな」をきいてから十年、
これから先も、降りていくことは決してない、と断言できる。

Date: 8月 4th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その3)

迎合しない昭和の男の趣味だ、と一度書いて直したのには、いくつかわけがある。

まずひとつは迎合しない昭和の男としてしまうと、
昭和の男が全員迎合しないとも受け止められるかもしれないから、
平成の男でも迎合しない人はいるからだ。

それから昭和と区切ってしまうことの、ある種の乱暴さは私も感じている。
オーディオは迎合しない昭和の男の趣味だ、と書いて、
こまかく説明していこうとも思っていたが、それでも誤解する人はするからやめた。

にも関わらず、ここで結局は書いてしまっている。
オーディオは迎合しない昭和の男の趣味だ、というのは私の本音である。

くどいようだが、昭和の男がみな迎合しない、といっているわけではない。
迎合しない男で昭和の男の趣味だ、ということだ。

昭和といってしまうと昭和生れ、昭和育ちということか、となる。
昭和気質とでもいったらいいのか。
そういう意味も含めての、昭和の男である。

こんなことを書くと、
若い人たちがオーディオへ興味をもつことの障壁となるのでは? と思われる方もいよう。
そうだろうか、と私は思っている。

物分りのいい人ぶっている知人がいる。
ことさら若者に対して理解を示そうとする。

すこし厳しいことをいおうものなら、
「そんなこといまの若い人にいったらだめですよ」とか、
そんなことを返してくる。

「若いオーディオマニアにはやさしくていねい親切、わかりやすくおしえてあげない、と」
ともいってくる。

そういう男は、「あげる」という言い方をよくする。
こういう物分りのいい人ぶっている男が、私はとにかく嫌いだ。

私にいわせると、こういう物分りのいい人ぶっている男こそが、
オーディオをだめにしている(オーディオに限らないと思う)。

Date: 8月 3rd, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その2)

こんなことを書き始めたのにはきっかけみたいなことがある。
ひとつは5月に開催されたOTOTENでのダイヤトーンのブース。
ここでの音出しをしきっていたダイヤトーンの社員の方を見ていて、
ステレオサウンドに入ったばかりのころ、こういう感じの人たちが、
オーディオ業界にはいっぱいいたな、と思い出していた。

別項でも書いているように、昭和のおじさんである。
あのころは昭和だったから、昭和のおじさん、とは思わなかった。
けれど平成も来年には30年になる。

平成生れのオーディオマニアもいる、
昭和生れ、平成育ちのオーディオマニアもいる。
ということは、業界の人もいる。

先月下旬、オーディオ仲間で友人のAさんと飲んでいた時に、
そんな時代の、各メーカーの個性ある人たちのことを話していた。

A社のBさん、C社のDさん、E社のFさん、とか。
Aさんが、「A社のBさん、ね」という。

彼は10代の終りごろ、秋葉原にあったオーディオ店でアルバイトをしていた。
そこで、私が会ったことのある人たちと、彼もまた会っていた。

よく「キャラが濃い」という。
あのころの人たちは、キャラが濃かった。

平成生れの人でもキャラが濃い人はいるだろうが、
なにか本質的に違うところがあるように感じてもいる。

数日前に「オーディオは男の趣味であるからこそ(もっといえば……)」を書いた。
そこに、オーディオは迎合しない男の趣味だと書いた。

最初は、迎合しない昭和の男の趣味だ、と書いていた。

Date: 8月 3rd, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その1)

先週の金曜日は、プレミアムフライデーだった。
2月24日から始まったプレミアムフライデーだけど、
2月、3月までは周りに
「今日はプレミアムフライデーだから……(笑)」という人が何人かいたのに、
私の周りでは誰もいわなくなってしまった。

私も7月のプレミアムフライデーは翌日に、昨日は……、と気づいた。

そのプレミアムフライデーが始まる三日前に、
大分から来られたUさんと会っていた。
会うのは初めてだったけれど、
16時半ごろから22時まで、あれこれ話していた。
もちろんオーディオのことがメインだった。

その時に井上先生のことを話した。
私にとって、最初の井上先生の試聴のことを話した。

以前も書いているように、新製品の試聴だった。
担当は先輩編集者のSさん。

試聴の準備を午前中に終えて、
午後からは試聴室で待機していた。
試聴の時はたいてい編集部のあるフロアーではなく、
試聴室のあるフロアーに直接来られる方がほとんどだったからだ。

まだ明るいうちから試聴室で、井上先生が来られるのを待っていた。
Sさんは、相当待つよ、的なことをいわれていた。
それでも……、と思いながら待っていた。

暗くなっても来られない。
記憶に間違いがなければ22時ごろ来られた。

それが当然のように試聴は始まる。
しかもあれこれ使いこなしをやられていく。
試聴が終ったのは、とっくに日付が変っていた。

いま、井上先生のような試聴をする人はいないだろう。
こういう仕事のやり方は、いまは認められないどころか、
ブラック評論家と云われかねないだろう。
こんなやり方を認めていたら編集部も、ブラックということになるであろう。

当時はブラック○○という表現はなかった。
あったとしても、そんなふうにはまったく思わなかったはず。
楽しかった、興味深い時間だったからだ。

それでもいまでは認められない仕事のやり方になるのだろう。
プレミアムフライデーという制度が生れてくるくらいだから。

昭和の時代に、ステレオサウンドで仕事をしていた、ということを、
最近あらためて実感している。

Date: 8月 3rd, 2017
Cate: オーディオの科学

閾値(その2)

へぇ、こんなのがあるんだ、と、
今回試したことを知ったのは4月だった。

facebookのタイムラインに、それを紹介した動画に友人が「いいね」をしていたからだった。
その友人はオーディオマニアではないし、
そこでの動画もオーディオに関する要素はまったくなかった。

それでも、そこでやっていることはオーディオでも、すぐに試せそうなことであった。
それに必要な材料もわりとすぐに手に入る。
しかもコストもほとんどかからない。

試すのに特別な技術は必要としない。
詳細は書かないが、誰にでもやれることであり、
どんなオーディオ機器であっても試せることである。
結果が芳しくなければ、取り除ければ元の状態にもどせる。
試さない理由はなかった。

ただ、音があきらかに変化した場合、
それも効果あり、判断できた場合、
なぜ? ということにほとんど説明をつけることができなかった。

なのでaudio wednesdayで、まずやってみようと考えた。
にも関わらず5月、6月、7月のaudio wednesdayでは、そのことを忘れてしまっていた。

今回数日前に思い出したので、やっと試すことになった。
数人とはいえ、複数で聴いて、音の変化(効果)が認められれば、
少なくとも説明がつかなくとも、私の気のせいではない、といえる。

audio wednesdayで試さない理由もないわけだ。

結果を書こう。
明らかな音の変化が、全員の耳に認められた。
条件がいくつかあって、それを守れば明らかに音は良くなった、といえる方向へ変化する。

類似のことをこれまでもさんざん試している。
その経験からいえば、ここでの音の変化は、説明がひじょうにつけにくい。

ささいなことであっても何かを変化させているわけだから、音はそれに応じて変化する。
だが、昨晩のことはその変化量が大きい。

ここでの音の変化は、
壁を隔てて仕事をしながら聴いていた喫茶茶会記の店主、福地さんの耳にも届いていた。

Date: 8月 3rd, 2017
Cate: オーディオの科学

閾値(その1)

ケーブルで音が変るなんてことはない、と主張する人たちがいることは、
前々から何度も書いている。

この人たちは、ケーブルで音が変るなんてオカルトだ、と主張する。
ケーブルで音が変ることを認めている人たちでも、
別のこと、そんなささいなことで音は変化しないはず、ということがある。

人によって閾値が違うだけのことなのかもしれない。

オーディオの音は、どんなことでも変化する。
これも以前から書いていることだ。
変化していることに気づくか気づかないかの違いがあるだけだ、とも思っている。

何かを変えて音が変化する。
なぜ音がそんなふうに変化するのか、説明がつくこともあればそうでないこともある。

頭で考えてしまうと(つまり頭で聴いてしまうと)、
そこでの音の変化を錯覚とか気のせいとか、そう思ってしまうこともあろう。

でも、まずは音を聴くという観察力こそが、
オーディオを科学として捉えるのに絶対に必要となる。

だから、私は音が変るであろうと思われることは試すようにしている。
それが少なからぬ人たちからオカルトと呼ばれがちなことであっても、
直感でおもしろそうだと感じたことは、やるのにためらいはない。

ただし結果が思わしくないとなったときに、元の状態に戻せるかどうかは、
やるかやらないかの判断にかかわってくる。

オカルトと呼ばれがちなことは、元の状態に戻せる場合が割りと多い。
昨晩のaudio wednesdayでは、オカルトと呼ばれるであろうことをやった。

ケーブルで音が変ることを認めている人、
さらにもっとこまかなことで音で変ることを認めている人でも、
今回私が試したことは、オカルトとか気のせいだよ、と思われるだろう。

Date: 8月 3rd, 2017
Cate: audio wednesday

第80回audio wednesdayのお知らせ

9月のaudio wednesdayは、6日です。
音出しの予定です。テーマはまだ決めていません。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 8月 2nd, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(次世代を育てる……)

すべての分野において、次世代を育てていくことが求められている、と思う。
けれど次世代を育てることはできるのだろうか、とも思う。

オーディオという分野、
もっといえばオーディオ評論という世界を眺めてきて感じているのは、
次世代を育てるのは実際のところ無理だった、ということと、
それは次世代ではなく次々世代なのかもしれない、ということである。

現世代が育てられるのは、次世代ではなく次々世代なのかもしれない。
それも育てるのではなく、鍛える、である。

次々世代を鍛える、
それが必要なこと、できることなのかもしれない。

Date: 8月 1st, 2017
Cate: オリジナル

原典主義は減点主義か

オーディオ機器でもレコードでも、オリジナルオリジナルと唱える人がいる。
オリジナル至上主義者と、私は呼んでいる。

このオリジナル至上主義は、いいかえれば原典主義である。
お手本を欲しがっている、ともいえよう。

そしてお手本とどれだけ違うかを、力説する。
古いアンプやスピーカーシステムに、
ひとつでもお手本(オリジナル、原典)と違う部品が取り付けられていたら、
ここが違う、と減点していく。

原典主義は減点主義でもある。