the re:View (in the past)とJAZZ AD!!、更新休止のお知らせ
the re:View (in the past)とJAZZ AD!!、
しばらく、このふたつのブログの更新を休止します。
先日(1月5日)、五年以上使ってきたiMacが故障したためが理由です。
the re:View (in the past)は、ここしばらく画像中心で更新してきましたが、
しばらくしたらテキスト中心の更新に戻る予定です。
新しいiMacを導入後、どちらも更新していく予定です。
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先日(1月5日)、五年以上使ってきたiMacが故障したためが理由です。
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しばらくしたらテキスト中心の更新に戻る予定です。
新しいiMacを導入後、どちらも更新していく予定です。
シンプルとは何かを考えていくためのミニマルなシステム。
こうやって書いていて気づいたのは、
シンプルなシステムではなく、
ミニマルなシステムの定義とは、冗長性の排除なのかもしれないということ。
シンプルなシステムとの違いは、そこなのかもしれない。
2016年6月に宇野功芳について、少し書いている。
宇野功芳氏のオーディオについて、もう少しわかったことがあるので書いておく。
コントロールアンプは「宇野功芳氏のこと」で書いているように、マランツのModel 7。
パワーアンプはQUADのIIである。
この組合せは、瀬川先生がModel 7を導入されたときと同じである。
宇野功芳氏は、青木周三氏のアドバイスにしたがって、
当時かなり高価にもかかわらず購入を決められている。
(若い世代の人に、青木周三氏といっても、誰ですか、といわれるんだろうな。)
スピーカーも青木周三氏のアドバイスによるものだそうだ。
スピーカーの中心となるのはグッドマンのAXIOM 80である。
ウーファーはワーフェデールのSuper 15、トゥイーターはSuper 3である。
自作のスピーカーということになる。
最初はすべてワーフェデールのユニットによる3ウェイ、
スコーカーはSuper 8で、ウーファーはSuper 12だったのを、
まずスコーカーをAXIOM 80に交換され、ウーファーを口径アップされている。
エンクロージュアはバスレフ型。
ネットワークについては不明。
アナログプレーヤーはトーレンスのTD126MKIIIに、SMEのトーンアーム。
カートリッジは、これを書くにあたって参考にしている「音楽の空間(男の隠れ家増刊)」によれば、
シュアーのULTRA 500である。
CDプレーヤーの写真はなく、ただラックスマンと本文にあるだけだ。
「音楽の空間」にはこうある。
*
青木さんはオーディオ評論家として一風変わっていて、分離の良すぎる音より、演奏会場のいちばんいい席で聴こえる音、実演に近い音をめざす人だった。それが宇野さんの志向にもぴったり合ったという。あるとき、別のオーディオ評論家が最新の器材をつないでくれたことがあるそうだが、さっぱりいい音が出ず、その評論家が「おかしいなあ」と首をかしげる結果に終わったそうだ。
*
青木周三氏をオーディオ評論家とするのは少しばかり異を唱えたいが、
宇野功芳氏が志向されていた音の一端は伝わってこよう。
「音楽の空間」に載っているModel 7は、
中央の四つのレバースイッチのひとつ、右から二つ目がいちばん上に上げられている。
Model 7を使われている方、詳しい方ならば、
このスイッチが何なのかおわかりだから、これ以上は書かない。
「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」。
昨晩のaudio wednesdayで聴いた。
初めて聴くCDである。
「セッティングとチューニングの境界」をテーマに、
最初は私がもってきたCDに絞って鳴らしていた。
あるレベルまで行ったので、常連のHさんが持参されたCDをかけることにした。
そのCDが、「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」だった。
現代音楽です、といわれてHさんはCDを手渡してくれた。
ジャケットは、青木涼子氏の真正面のアップである。
ジャケットには、Nohとある。
Noh(能)ということは、ジャケットの写真からもなんとなくではあるが伝わってくる。
私の音楽の聴き方は偏っている。
クラシックが主とはいっても、クラシック全般をくまなく聴いているわけではない。
偏り具合はわかっているつもりだし、
現代音楽はあまり聴かないし、能も同じだ。
そんな偏った聴き手の私だから、
能? 現代音楽? 青木涼子?
正直、そんな感じだった。
聴けばわかることだが、確かに能であり、現代音楽である。
退屈するかな、と思わなかったわけではないが、
現代音楽、能からはかなり遠くにいる偏った聴き手の私に、それは新鮮だった。
世の中に、それこそ数えきれないCDがある。
一人の人間がすべてのCDを聴くことは不可能ほどある。
聴いたことのあるCD(音楽)よりも、
聴いていない、聴いたことのないCD(音楽)の方が圧倒的に多く存在する。
「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」も、
Hさんが持参されなかったら聴いたことのない、
そしてこれから先も聴くことのなかった存在であったろう。
「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」とにかく新鮮だった。
別項で書いているように、
ベートーヴェンの「第九」の新しい録音を聴かなくなった「耳」にも新鮮に響いた。
そしてスリリングである。
録音も、つまりオーディオ的にもスリリングである。
青木涼子氏のウェブサイト:「青木涼子 能 現代音楽」
アナログディスク再生をやってほしい、という要望があったので、
次回のaudio wednesdayで応えたい。
とはいえ、私のなかでやりたいと考えていることをすべて一回でできるわけでもないし、
いまアナログディスク再生を公開する以上は、
こまかいことまて踏み込んでやっていきたい。
そのためにはある程度の器材を必要とするが、そうそう手配がつくわけでもない。
それでいままでやってこなかった。
手配がつくようになったわけではないが、
とりあえずやってみようと思う。
会場となる喫茶茶会記のアナログプレーヤーは、
ガラードの401にオルトフォンのSPUとRMG309の組合せである。
私としてはトーンアームはSMEの3012-R Specialを使いたいし、
その方があれこれできる。
でも、そんなことをいっていても始まらないわけで、
あるモノを使ってやれることをやる。
そういうわけで、序夜としている。
序夜から第一夜へといけるのか、そして第二夜、第三夜……、と続けていけるのか。
第一夜がいつになるのかはいまのところなんともいえないが、
とにかく序夜として、来月のaudio wednesdayはアナログディスクをかける。
2月1日のaudio wednesday、
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
SACDがDSDではなく、CDと同じPCMで、
サンプリング周波数、ビット数を44.1kHz、16ビットから離れて高めたものてあったなら、
スーパーレゾリューションよりもハイレゾリューションのほうが、
的確に表現しているといえる。
でもSACDはPCMではなくDSDである。
同じデジタルといっても、変調方式の違いがはっきりとある。
そのことを伝える意味でも、
ハイレゾリューションではなく、スーパーレゾリューションを、
ソニーの出井伸之氏は使われたのかもしれない。
CDの登場は1982年。
そのころのパソコンのCPUの動作周波数はどのくらいだったか。
2017年のいま、CPUの動作周波数はどこまで高くなっている。
しかも内部もシングルコアからマルチコアへと変化している。
いまハイレゾと呼ばれている規格の定義。
電子技術産業協会(JEITA)による定義と、
日本オーディオ協会(JAS)による定義は同じではない。
JEITAの定義では、CD規格よりも、サンプリング周波数、ビット数、
どちらかが超えていればハイレゾとなる。
もちろんもう一方は最低でもCD規格と同じでなければならない。
ここでのCD規格とは44.1kHz、16ビットではなく、48kHz、16ビットであるから、
48kHz、18ビットであってもハイレゾということになる。
どちらの定義にしても、そこには数値がある。
数値があるということは、技術の進歩によって、CPUの動作周波数が上っていったように、
上へ上へと目指していく。
ということはハイレゾ(High Resolution)は、
ハイアーレゾ(Higher Resolution)、さらにはハイエストレゾ(Highest Resolution)、
ハイレゾに留まらないのかもしれない。
バベルの塔という喩えは、必ずしも否定的な意味合いで使っているのではない。
録音の現場では、バベルの塔であるべきだと考えている。
安定しているのであれば、その高みを増していってほしい。
録音の場で演奏された音を、細大漏らさず信号として変換してほしい。
それを記録する器がバベルの塔なのだから。
けれどバベルの塔を、そのまま再生の場に持ち込むことには否定的である。
こうやって書いていて意識するのは、
私が主に聴くのはクラシックであり、オーケストラの再生のことを常に考えているということ。
演奏している人たちが数人のものであれば、
録音側のバベルの塔をそのまま再生の場にもってきても、
大きな問題は発生しないだろうし、最良の結果を生む可能性もある。
つまり録音の場と再生の場の空間の大きさが同等か、
もしくは再生の場の空間が広いか、の場合においてではある。
それですら、録音時と再生時の音量が同じという条件がついてくる。
そういえば……、と気づくのは、
インターナショナルオーディオショウでも、あまりオーケストラものがかけられなくなった気もする。
私がたまたまオーケストラものがかかっていないときに、
それぞれのブースにいただけなのかもしれないと思いつつも、
やっぱり減ってきていると思っている。
オーケストラが演奏する(録音される)空間と、
再生の場の空間の大きさは違いすぎる。
世界一の資産家で、ホールと同等のリスニングルームが持てるとしても、
そういうところでひとり音楽を聴きたいだろうか。
そこではオーケストラ録音のバベルの塔が、
そのままバベルの塔として再生されたとしても、だ。
オーディオマニアとして一度は好奇心から聴いてみたい。
が、個人の音楽鑑賞としての場からは遠くなりすぎる、という感覚である。
感覚だから人によって違う。
そういうホールのような広い空間でひとりで聴きたい人もいるだろうが、
私はごめんだ。
すべてのモノにバラツキがある。
そう思ってとりかかったほうがいい。
バラツキのないモノなど存在しないことが前提となるステレオ再生なのだ。
試しにスピーカーの位置はそのままで、
アンプの左右チャンネルを入れ替えてみる。
左チャネルのスピーカーから左チャンネルの音がするようしながら、
アンプの結線を入力と出力を同時に入れ替えるわけだ。
つまりアンプの左チャンネルに右チャンネルの信号を入れ、
アンプの右チャンネルに左チャンネルの信号を入れ、
アンプの左チャンネルに右チャンネルのスピーカーを、
アンプの右チャンネルに左チャンネルのスピーカーを接続して鳴らしてみる。
たったこれだけのことなのに音が変化する。
左右チャンネルのバラツキの少ないアンプであれば、差はわずかだが、
意外と差は小さくなかったりすることがけっこうある。
スピーカーユニットに関しても、同じことをやってみる。
ウーファーを左右で入れ替えてみる。
左チャンネルのスピーカーについていたウーファーを取り外して、
右チャンネルのスピーカーに取りつけるわけだ。
これでも音は変化する。
変化しない(差がきわめて少ない)スピーカーのほうが稀である。
2ウェイのスピーカーシステムならば、次はトゥイーターだけを入れ替えてみる。
この時点ではウーファーは元に戻して置く方がいい。
2ウェイで、トゥイーター、ウーファーを複数使用していないスピーカーならば、
このくらいの済むが、実際は3ウェイ、4ウェイであったり、
トゥイーターが複数使用されていたり、ネットワークの存在もある。
アンプもプリメインアンプならば一回で済むことが、
セパレートアンプとなると、
コントロールアンプとパワーアンプを別々に左右チャンネルを入れ替えることになる。
マルチアンプの場合だと……。
これらは順列組合せだから、システム構成によってはかなりの数になってしまう。
それをひとつひとつ聴いて音を確認して、バラツキの少ない組合せを見つけていく。
スピーカーの設置は難しい。
あちらを立てればこちらが立たず、ということにぶつかる。
スピーカーの設置(セッティング)を難しくしているのは、
ステレオであるということだ。
いいかえればスピーカーが二本あるということに起因する。
モノーラル再生で、スピーカーが一本であれば、
部屋のあちこちにスピーカーを移動して音を聴いて、
最適の位置を見つけ出すことは、そう難しいことではない。
スピーカーが大きく重たければ、それなりの労力は必要としても、
やる気と体力があれば、最適の位置は見つけ出せる。
ところがステレオでは二本のスピーカーを、当然だが設置する。
一本のスピーカーでは最適の位置が見つけ出せても、
二本のスピーカーに対しての最適の位置を見つけ出せるかというと、
これが想像以上に難しい、というか、基本的には無理なのかもしれない。
専用のリスニングルームを建てられるのであれば、解決するであろう。
左右のスピーカーの設置条件を左右で完全に等しくできる可能性がある。
ただし十分に注意が必要なのは、目に見える範囲の条件だけでなく、
目に見えない部分、家の基礎構造を含めての条件の一致である。
そこまでのことができるのであれば、
ステレオでのスピーカーの設置の難しさはかなり解消されるであろうが、
現実はそうではない。
与えられた環境下での二本のスピーカーの設置は、
片側を最適の位置に置いたら、反対側のスピーカーは、
ステレオ再生には不都合な位置に置くことになるかもしれないし、
そうでなかったとしても、その場所はスピーカーの置き場所として最悪なこともある。
しかもスピーカー自体にバラツキがある。
面倒でもモノーラルにして、同じ位置に設置しなおして、
二本のスピーカーの音を聴いてみるとまったく同じ音がするということは、
まずあり得ないということが体験としてわかる。
そこにアンプやその他のオーディオ機器の左右チャンネルの音の差が加わる。
オーディオ機器は工業製品ではあるが、バラツキがまったくないわけではない。
大なり小なりある。
スピーカーのシリアルナンバーが連番だから大丈夫、という話ではない。
gleeというアメリカのドラマがある。
2009年にシーズン1が放送され、アメリカでは2015年にシーズン6が放送された。
昨日、シーズン6を見終った。
シーズン6がファイナルシーズンだった。
シーズン6の最終話が、つまりは最終回であり、
そのひとつ前の回(エピソード12)、「あの日あの時あの場所で」では、
いわゆる回想シーンで構成されている。
たんなる回想シーンだけの回ではない。
「あの日あの時あの場所で」の終盤、講堂でのシーンが回想される。
シーズン1での、あのシーンである。
そこで歌われるのはジャーニーの”Don’t Stop Believin'”だ。
gleeの始まりの回を見ている人ならば、
ここでこの歌なのかは、それ以外考えられない選曲である。
シーズン1での”Don’t Stop Believin'”。
歌うのは役者たちであり、ジャーニーではない。
ジャーニーの”Don’t Stop Believin'”は、
クラシックを主に聴いてきた私だって知っている。CDは持っていないけれどきいている。
でも、gleeで歌われる”Don’t Stop Believin'”の方に、私は感動した。
ジャーニーの”Don’t Stop Believin'”と比較して、
どちらがいいとかという話ではない。
gleeというドラマの中で”Don’t Stop Believin'”を聴いての話である。
だから当然”Don’t Stop Believin'”を、ひとつの曲としてだけ聴いていたとはいえない。
gleeというドラマの中での位置づけの”Don’t Stop Believin'”を聴いていた。
シーズン6の「あの日あの時あの場所で」でも、そのシーンも胸を打つ。
シーズン1を見ていた時よりも、強く打つのは、
シーズン1、2、3、4、5、6と100話以上を見てきているから、である。
別項「使いこなしのこと(その2)」で書いたことのくり返しになるが、
約七年前のことだから、さらっとふれておきたい。
エレクトロボイスのSentry500SFVの試聴を、
ステレオサウンドの筆者ではなくHiViの筆者ふたりがやられていた。
なぜかHiVi編集者は立ち会っておらず、
筆者ふたりだけの試聴だった。
もちろんステレオサウンド編集者も立ち会っていない。
たまたま試聴室のある三階に工具に取りに降りた。
試聴室を覗かずとも聴こえてきた音は、冴えない鳴り方だった。
私の姿が筆者の目に入ったのか、呼び止められた。
この音をなんとかしてほしい、ということだった。
すべての結線を外して、セッティングをやり直した。
スピーカーの位置はいっさいいじっていない。
電源のとり方、信号ケーブルの這わせ方などを、いつもの試聴のようにしただけである。
時間にして五分程度のことだ。
そこでの音の変化はけっこう大きかった。
HiViの筆者ふたりの驚きは、大きかった。
彼らは、そこで私がしたことをチューニングと捉えられた。
けれど私の認識としては、そこでやったことはあくまでもセッティングの範疇だ。
ここがセッティングとチューニングの境界の曖昧さである。
そのころの私にとってのチューニングは、
いまの私にとってはセッティングの範疇になっている。
もちろんすべてがセッティングになっているわけではないが、
人によっても境界は違うし、同じ人でも年月が経てば境界は位置を変える。
2017年最初のaudio wednesdayは、1月4日。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
ステレオサウンド 131号(1999年夏号)での、
ソニーの出井伸之氏と菅野先生の対談を読み返している。
*
出井 やはり、音を聴く楽しみというのは、画を観ながらでは楽しめないんですね、オペラなら楽しめるでしょうが。
最近は、コンピュータ通信の普及などによって、信号圧縮されたオーディオが盛んになってきていて、ソニーでもメモリースティック・ウォークマンというものを提案しているんですが、そのいっぽうで、パッケージメディアを残そうと思ったら、映像でも音でも、スーパーレゾリューションでなければダメなんです。上限がないぐらいまでのね。
*
別項「オーディオと青の関係(その15)」で引用しているとおり、
SACDは《〝量〟にたいするアンチテーゼ》である。
出井氏の発言に同意する。
だからこそハイレゾリューションではなく、スーパーレゾリューションでなければ、と思う。
ハイ(High)では、量に対するアンチテーゼにはなりにくい。
ハイサンプリング、ハイビットと、それは量から少しも離れきっていない。
同じことがクルマはスーパーカーであって、
オーディオはハイエンドオーディオなのにいえる。
スーパーカーという呼称は、横尾忠則氏が言い始めたことかもしれない、ときいている。
ほんとうなのかははっきりしないが、
1968年の海外向けのカタログ制作で、SUPER CARが使われている。
このスーパーカーは、スーパーマンの有名すぎるキャッチフレーズ、
「空を見ろ!」「鳥だ!」「飛行機だ!」「いや、スーパーマンだ!」、から来ているとのことだ。
SACD(DSD)を、ハイレゾリューションではなくスーパーレゾリューションと捉えたのは正しい。
それまでのPCMに対してのDSDであるからこそ、なおさらだ。
にも関わらず、いまではアナログディスクまでもハイレゾリューションで括ってしまっている。
「五味オーディオ教室」と出逢ってから40年。
遠くに来た、という感覚がある。
年齢的にも遠くに来た。
他の意味でも遠くに来た。
遠くに来たからこそ、戻っていく感覚が強くなっている。
そのくらい「五味オーディオ教室」は40年前の私にとって遠くにあった。
オーディオの想像力の欠如がしているところに、オーディオの規範はない。
オーディオの想像力の欠如が、セッティング、チューニングの境界をさらに曖昧にしている。