オーディオがオーディオでなくなるとき(その4)
ステレオサウンド 131号(1999年夏号)での、
ソニーの出井伸之氏と菅野先生の対談を読み返している。
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出井 やはり、音を聴く楽しみというのは、画を観ながらでは楽しめないんですね、オペラなら楽しめるでしょうが。
最近は、コンピュータ通信の普及などによって、信号圧縮されたオーディオが盛んになってきていて、ソニーでもメモリースティック・ウォークマンというものを提案しているんですが、そのいっぽうで、パッケージメディアを残そうと思ったら、映像でも音でも、スーパーレゾリューションでなければダメなんです。上限がないぐらいまでのね。
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別項「オーディオと青の関係(その15)」で引用しているとおり、
SACDは《〝量〟にたいするアンチテーゼ》である。
出井氏の発言に同意する。
だからこそハイレゾリューションではなく、スーパーレゾリューションでなければ、と思う。
ハイ(High)では、量に対するアンチテーゼにはなりにくい。
ハイサンプリング、ハイビットと、それは量から少しも離れきっていない。
同じことがクルマはスーパーカーであって、
オーディオはハイエンドオーディオなのにいえる。
スーパーカーという呼称は、横尾忠則氏が言い始めたことかもしれない、ときいている。
ほんとうなのかははっきりしないが、
1968年の海外向けのカタログ制作で、SUPER CARが使われている。
このスーパーカーは、スーパーマンの有名すぎるキャッチフレーズ、
「空を見ろ!」「鳥だ!」「飛行機だ!」「いや、スーパーマンだ!」、から来ているとのことだ。
SACD(DSD)を、ハイレゾリューションではなくスーパーレゾリューションと捉えたのは正しい。
それまでのPCMに対してのDSDであるからこそ、なおさらだ。
にも関わらず、いまではアナログディスクまでもハイレゾリューションで括ってしまっている。