Archive for 7月, 2016

Date: 7月 3rd, 2016
Cate: LNP2, Mark Levinson

Mark Levinson LNP-2(silver version・その1)

マークレビンソンのLNP2に深い関心をもってきた人ならば、
シルバーパネルのLNP2があることは、どこかで聞いていることだろう。

そのことは知っていた。
以前、なにかの雑誌に載っていた、ということも聞いていた。
残念ながら、その雑誌を私は見ていなかった。

でも日本にシルバーパネルのLNP2があることは確かだった。
シルバーパネルのLNP2のことは、LNP2好きが集まれば、話題にのぼることもある。
とはいえ、ほとんど情報がないだけに、あったらしいよね、ぐらいで終ってしまっていた。

あのLNP2はどこに行ってしまったのか。所在はわからなかった。
けれど、先日、ある方のウェブサイトにシルバーパネルのLNP2の写真が出ていた。
雑誌からコピーではなく、新しく撮られた写真が載っていた。

以前はよく個人のウェブサイトを見ていた。
でも十年ほど前から、あまり読まなくなってきた。
定期的にアクセスするオーディオの個人サイトはほとんどない、といえる。

その数少ないウェブサイトで、シルバーパネルのLNP2が突如として現れた。
写真を見て、そうか、ツマミは黒なのか、と思った。

GASのコントロールアンプThaedraのホワイトパネルのような感じだろうか、と、
シルバーパネルのLNP2の存在を知ったとき、そうイメージしていた。
ツマミが黒なのはそのとおりだったが、パネルの仕上げは写真を見る限り、
白ではなくあきらかにシルバーといえる。

ホワイトパネルのThaedraのことを、パンダThaedraと勝手に呼んでいるけれど、
シルバーパネルのLNP2は、パンダLNP2とは呼べない雰囲気がある。
ここがLNP2とThaedraというコントロールアンプの性格の違いでもあるのだが。

リンク先にはシルバーパネルのLNP2の詳細はあまり書かれていない。
シルバーパネルということで想像してしまうのは、やはり同じシルバーパネルのML6だ。
もしかするとシルバーパネルのLNP2もML6同様、銀線を内部配線に使っているのだろうか。

でもツマミが黒だから(ML6のツマミは黒ではない)、銀線ではないのだろうか。
バッファーアンプは搭載されているのだろうか、
ツマミが黒ではなく通常のLNP2と同じ仕上げのモノがついていたら、どんな感じだったのか、
そんなことを想像していた。

これらの想像は写真を見てしばらくしてからのものであり、
シルバーパネルのLNP2を見て、最初に感じたのは、別のことだった。

「ステレオのすべて ’73」に載っていたRA1501のことが、最初に浮んでいた。
RA1501とは伊藤先生製作のコントロールアンプである。
フロントパネル中央にVUメーターがあり、ツマミは左右対称に配置されている。

いわばLNP2と基本レイアウトは同じである。
RA1501はほとんどがブラックパネルである。
けれど「ステレオのすべて ’73」に載っているRA1501は、そうではない。
不鮮明な写真なのだが、そこで受けた印象とシルバーパネルのLNP2の印象が重なってきた。

伊藤先生とマーク・レヴィンソン。
ふたりの違いは大きい。国の違い、世代の違い……。
ふたりを一緒にするな、といわれそうだし、そうだと思うところは私の中にはあるけれど、
シルバーパネルのLNP2を見て、それでもふたりが重なってくる感じが、いまもしている。

Date: 7月 2nd, 2016
Cate: VUメーター

VUメーターのこと(その17)

6月のaudio sharing例会では、マークレビンソンのLNP2を聴いた。
LNP2はVUメーターをもつコントロールアンプである。

VUメーターつきのコントロールアンプは、LNP2以外にも意外とあった。
ヤマハのCI、テクニクスのSU-A2、ソニーのTA2000F、TA-E7B、サンスイのCA3000、
ナカミチの610、ダイナベクターのU22、DV3000、クワドエイトのLM6200R、ギャラクトロンのMK16、
4チャンネル対応のモノでは、ビクターのJP-V1000があった。

それから一般市販されたモノではないけれど、
伊藤先生のコントロールアンプにもVUメーターがついている。

ダイナベクターのDV3000だけが上下にVUメーターが配置されていた。
他のアンプは左右に配置されている。

これはどうなんだろうか。
人によって違うのだろうか、と思いつつも、
私はVUメーターは左右に並んでいてほしい。
上下に配置させていると、違和感といってはいいすぎだけれども、それに近いものを感じてしまう。

それにできれば中央にあってほしい。
上下左右の中央ではなく、左右の中央にあってほしい。それも下ではなく上でなくてはならない。
そうなると、LNP2、U22、610、LM6200Rがそうなっている。

だからといってVUメーターが、
アンプのフロントパネルの中央で威張っているかようにあってほしいのではなく、
ついている以上は、もっとも見やすい位置に、見やすいように配置されていてほしいのだ。

LNP2をひさしぶりに、時間をかけて聴くことができてあらためて思っていた。
VUメーターがついていると(もちろん正確なメーターにかぎるのだが)、
オーディオは楽しい、と感じる。

針が振れるのは、質量があるモノが動くということであり、
アナログプレーヤーのターンテーブルプラッターもそうだが、
重さでいえばメーターの針よりもずっと重いし、針のような動きはしない。

それでも粛々と廻っている姿が見えるのは、やはりオーディオだ、と思うところだ。

Date: 7月 1st, 2016
Cate: 夢物語

オーディオ 夢モノがたり(その11)

カッターヘッドを手にしたことのある人なら、
カートリッジとカッターヘッドの大きさと重さの違いにびっくりされるはずだ。

写真を見て、カッターヘッドの大きさはなんとなくわかっていた。
あれだけのサイズだから、けっこうな重さであろうこともわかっていたにもかかわらず、
ウェストレックスのカッターヘッドを手にしたときは、やはりびっくりした。

理屈ではわかる。
ラッカー盤に溝を刻んでいくメカニズムである。
カートリッジのような繊細さとは対極のところにあるモノだ、と。

カートリッジもカッターヘッドも、アンプに接続されている。
カートリッジはイコライザーアンプの入力へ、
カッターヘッドはパワーアンプの出力へ、と接続されている。

カートリッジが扱う電力は、極微小だ。
オルトフォンのSPUで41.66nW、シュアーのV15 TypeIIIで0.2606nW程度である。
(「図説・MC型カートリッジの研究」より)
カッターヘッドを駆動するパワーアンプの出力は、大きいものでは数百Wである。

似ているようでいて、規模において大きく違うカートリッジとカッターヘッド。
だからこそカッターヘッドの構造を置き換えたようなカートリッジの難しさがあることにつながっていく。

オルトフォンのカッターヘッドDS731/732は、
カッティング針がロッキングブリッジと呼ばれる部材に取り付けられていて、
このロッキングブリッジの両端を、それぞれコイルが駆動する。
ロッキングブリッジとコイルとの間には、フレキシブルジョイントが介在している。

このフレキシブルジョイントがなければDS731/732は動作しないはずであり、
オルトフォンのカッターヘッド的構造のカートリッジを考える場合、
この部分をどうするのかが大きな問題である。

カッターヘッドの、あのサイズだからできる構造を、
そのままカートリッジのサイズに持ち込もうとするのは無謀である。

フレキシブルジョイントをなくして、カートリッジとして動作するためにはどうしたらいいのか。
いわゆるコイルにとらわれていては、解決できそうになかった。
リボンならば、という発想に切り替えてみると、なんとかなりそうな構造になる。

ただしリボンといってもフラットなリボンではなく、
いわゆるプリーツ状のリボンということになる。

Date: 7月 1st, 2016
Cate: 夢物語

オーディオ 夢モノがたり(その10)

カートリッジの発電方式にはいくつかある。
代表的といえるのはMM型とMC型であり、MC型カートリッジといっても、
その内部構造は実にさまざまである。

空芯コイル、鉄芯入りコイルといった違いだけでなく、
コイルの形状、その取り付け方、マグネットを含む磁気回路、
ダンパー、リード線の引き出し方の違いなど、多種多様である。

MC型カートリッジの教科書といえるのが、
1978年のステレオサウンド別冊「図説・MC型カートリッジの研究」である。
長島先生の本であり、HIGH-TECHNIC SERIESの二冊目である。

この本についてはこれまでにも何度か触れている。
いまもよく開く一冊である。

この本に、オルトフォンのカッターヘッドDSS731/732の構造図が載っている。

カッターヘッドは、ウェストレックス、ノイマンが有名であり、
ウェストレックスには10A、ノイマンにはDSTというカートリッジがあった。
どちらもラッカー盤検聴用カートリッジといわれている。

ウェストレックス、ノイマンに対してオルトフォンの場合は、
たしかにカートリッジはいくつもある。
カートリッジの種類、数はウェストレックス、ノイマンよりもはるかに多い。

けれどオルトフォンのカートリッジの構造は、
ウェストレックス10A、ノイマンDSTとは異る。

「図説・MC型カートリッジの研究」を読んだ時から、
なぜオルトフォンには、DS731/732の構造のままカートリッジが存在しないのか、
と思っている。

カッターヘッドをそのままカートリッジに置き換えたような構造が、
いかに大変なのかは理解している。
この種のカートリッジが、これまでにどれだけ登場したのかを振り返れば、わかることだ。
使いこなしも難しい。一般的なカートリッジとはいえない。

それでもこの種のカートリッジには夢がある、といえよう。
ダイアモンドの針先の真上で発電する。
この困難なことに挑戦してきたカートリッジの設計者がいて、実際の製品が登場してきた。

私も、ときどき思い出しては考えている。
どうすれば実現できるのか。
実現できそうな構造を考え出せるのか。
その度にDS731/732の構造図を見ていた。

Date: 7月 1st, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その17)

トスカニーニのオペラで、
それも黒田先生が書かれていることの中から、これも引用しておきたくなる。
     *
「Morro!」(死んでしまいます!)
 ヴェルディのオペラ「椿姫」の第一幕第二場です。アルフレードと別れてほしい。アルフレードの父ジョルジョから、執拗に嘆願されたヴィオレッタは、切羽つまって、そういいます。この場面での「Morro!」のひとことは、ヴィオレッタのつらさや悔しさ、つまり愛するアルフレードと別れなければならない無念の思いを背負い、ほとんど悲鳴のようにきこえます。このことばがヴィオレッタの口をついてでるのは、オーケストラが総奏によって緊迫感をたかめていった後です。このことばの前におかれた、ほんの一瞬の静寂が、「Morro!」のひとことを真実なものにします。
 ヴィオレッタは、さぞやつらいであろう。さぞや悔しいであろう。「Morro!」のひとことをきいたききては、それがオペラでの出来事であることも忘れ、ヴィオレッタに同情しないでいられなくなります。あやうく、涙をながしそうにさえなります。しかし、どのような演奏でも、その「Morro!」のひとことが、飛来する矢となってききての胸を射貫くとはかぎらない、ということをぼくが理解したのは、「椿姫」というオペラの魅力に気づいた後、しばらくたってからでした。
 あなたの指揮なさった全曲盤で、ぼくはオペラ「椿姫」を知りました。それまでのぼくは、わずかに、このオペラのうちの有名な前奏曲とかアリアを知っている程度でした。当時は、レコードがSPからLPに変わりつつある時期で、まだオペラの全曲盤の種類もそうは多くありませんでした。その頃に入手可能だった「椿姫」の全曲盤はふたつありました。失礼をもかえりみず書かせていただきますが、ぼくがあなたの指揮なさった全曲盤を選んだのは、ただ単にあなたの指揮なさった全曲盤が二枚組だったからでした。もう一方の、レナータ・テバルディがヴィオレッタをうたったほうの全曲盤は三枚組でした。いろいろな畑の作品をきいてみたくてしかたのなかった、したがって一枚でも多くレコードのほしかった当時のぼくとしては、同じオペラなら三枚組より二枚組のほうが得だ、と考えただけのことでした。
 もし、あなたの指揮なさった全曲盤が三枚組で、テバルディがヴィオレッタをうたったほうの全曲盤は二枚組であったら(誤解のないように書きそえておきますが、テバルディのほうの盤も後に二枚におさめられて発売されました)、ぼくは、いささかもためらうことなく、テバルディのうたったほうの盤を買ったにちがいありませんでした。それにしても、ぼくは、大マエストロであるトスカニーニさんにむかって、なんと無礼なことをいっているのでしょう。
 そのようないきさつがあって、あなたの指揮なさった「椿姫」の全曲盤をききました。当時は、ぼくもまだ若かった。時間も充分にありました。ぼくは、くる日もくる日も、一日に一度はかならず、あなたの指揮された「椿姫」の全曲盤をききつづけました。そうやってきいているうちに、ぼくは、オペラが音のドラマであるということを、理屈としてではなく、感覚的に理解できるようになりました。
 それからしばらくして、テバルディがヴィオレッタをうたったほうの「椿姫」の全曲盤を、友だちに借りてききました。そして、遅ればせながら、ヴィオレッタによる「Morro!」が、いつでもあなたの指揮された演奏でのような鋭さをあきらかにするとはかぎらない、ということを知りました。テバルディがヴィオレッタをうたった全曲盤ではモリナーリ=プラデルリが指揮をしていました。ヴィオレッタをうたうソプラノの実力からしても、さらにはあの場面で求められる声からしても、あなたの指揮なさった全曲盤でのリチア・アルバネーゼより、レナータ・テバルディのほうが上だと思います。にもかかわらず、テバルディによる「Morro!」は、アルバネーゼの「Morro!」のようには、ぼくを刺しませんでした。アルバネーゼの「Morro!」が手裏剣にたとえられるとすれば、テバルディの「Morro!」はほんの飛礫(つぶて)にとどまりました。
 そのとき、ぼくは、オペラではたす指揮者の役割の大きさに気づいたようでした。そして、同時に、ぼくは、それをきっかけに、一気にオペラにひかれはじめ、さらにトスカニーニ・ファンにもなりました。
     *
マガジンハウスから出版された「音楽への礼状」からの引用だ。
音楽の礼状」は、いまは小学館から復刊されている。

この黒田先生の文章を読んで、トスカニーニの「椿姫」のディスクを買って聴いた。
カルロス・クライバーの「椿姫」のあとに聴いたことになる。

ヴィオレッタの「Morro!」(死んでしまいます!)は、
黒田先生が書かれているまま聴こえてきた。
モノーラル盤で、音質的にも優れているとは言い難いトスカニーニ盤での、
リチア・アルバネーゼによる「Morro!」は、まさに手裏剣だった。

だからモノーラルで、お世辞にもいい音とはいえない録音であっても、
聴き手を刺すことができる、聴き手の胸を射貫くことができる。

ここでも「ボエーム」のレコードと同じであって、
トスカニーニの強い演奏によってもたらされるものに、聴き手は心をうたれる。

実は、このところよりも別のところを読んでもらいたくて引用している。
《そうやってきいているうちに、ぼくは、オペラが音のドラマであるということを、理屈としてではなく、感覚的に理解できるようになりました。》
ここである。

Date: 7月 1st, 2016
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その5)

誰だって嫌いな音、苦手な音はできれば聴きたくない。
けれど、ここで考えたいのは、嫌いな音、苦手な音が音の良し悪しとどう関係しているか。

嫌いな音、苦手な音がすべて、いわゆる悪い音であったのならば、
さまざまな手段で、嫌いな音、苦手な音を排除すればいい。

この項の(その1)で書いているかつての同僚のように、
チャーハンに入っているグリンピースを取り除くように……。

チャーハンからグリーンピースを取り除くことは、さほど難しいことではない。
米や具材と融合しているわけではないから、ひとつひとつ取り出せる。

けれど音となると、そうはいかない。
グリーンピースをチャーハンの中から取り除くようには、完全にはできない。
いわば抑える、といったほうがより正確である。

たとえば中高域が強く張り出した音が苦手な男がいたとする。
彼はグラフィックイコライザーを使って、
彼にとって張り出していると思える帯域のレベルをぐっと下げる。

けれど実際には張り出していると感じた帯域は、音圧レベル的に高いというわけではなかった。
別の要因で、張り出したように聴こえることもある。

そういう場合でも、彼はその帯域のレベルを下げる、というよりも、
削ぎ落とすくらいにグラフィックイコライザーを調整する。

そうすることで張り出していた音は、いくぶんか、かなり抑えられることになる。
でも、張り出していると感じさせる要因だけを抑えたわけではない。

同時にグラフィックイコライザーでそこまでレベルを変動させてしまえば、
帯域バランスはくずれてしまう。はっきりとくずれてしまう。

Date: 7月 1st, 2016
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その19)

アンドレ・シャルランの言葉は、
中野英男氏の著書「音楽 オーディオ 人々」に「日本人の作るレコード」という章にある。
     *
シャルランから筆が逸れたが、彼と最も強烈な出会いを経験した人として若林駿介さんを挙げないわけにはいかない。十数年前だったと思うが、若林さんが岩城宏之——N響のコンビで〝第五・未完成〟のレコードを作られたことがあった。戦後初めての試みで、日本のオーケストラの到達したひとつの水準を見事に録音した素晴しいレコードであった。若くて美しい奥様と渡欧の計画を練っておられた氏は、シャルラン訪問をそのスケジュールに加え、私の紹介状を携えてパリのシャンゼリゼ劇場のうしろにあるシャルランのスタジオを訪れたのである。両氏の話題は当然のことながら録音、特に若林さんのお持ちになったレコードに集中した。シャルランは、東の国から来た若いミキサーがひどく気に入ったらしく、半日がかりでこのレコードのミキシング技術の批評と指導を試みたという。当時シャルラン六十歳、若林さんはまだ三十四、五歳だったと思う。SP時代より数えて、制作レコードでディスク大賞に輝くもの一〇〇を超える西欧の老巨匠と東洋の新鋭エンジニアのパリでの語らいは、正に一幅の画を思わせる風景であったと想像される。
 事件はその後に起こった。語らいを終えて礼を言う若林さんに、シャルランは「それはそうと、あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と尋ねたのである。録音の技術上の問題は別として、シャルランはあのレコードの存在価値を全く認めていなかったのである。若林さんが受けた衝撃は大きかった。それを伝え聞いた私の衝撃もまた大きかった。
     *
別項「正しいもの(その4)」でも引用している。
若林駿介氏の録音について、あれこれ書こうとしているのではない。

60歳のアンドレ・シャルランは、30代なかばの若林氏のことを気に入っていた、とある。
少なくともシャルランは若林氏の録音技術を認めた上での、
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」
であることに、読んでいて衝撃を受けた。

私の受けた衝撃は、若林駿介、中野英男、両氏がうけられた衝撃からすれば、
ずっと小さいものかもしれない。

私は、シャルランがたずねたことに若林氏がどう答えられたを知りたい。
けれど、そのところは中野氏は書かれていない。
若林氏は沈黙されたのか、
それとも何か納得のいく説明をされたのか。

いまとなってわからないことだ。
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」は、
だからこそわれわれへの問いかけのように受けとめている。

「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」は、
いま書いている「どちらなのか」にも深く関係してくる。

Date: 7月 1st, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その16)

黒田先生と粟津氏の対談から、あと少し引用しておきたい。
     *
黒田 さっき「ボエーム」を例に出したから、また「ボエーム」でいうと、このオペラは精神性とか本質とかいったことをいいだすと、すべてが吹っとんでしまうような作品なんです。すべてが感覚の喜びというか、つまりエンターテイメントです。で、さっきのミミの死のところをまた引き合いにだすと、トスカニーニのレコードのあのひどい音でも、それがわかる。トスカニーニは強い演奏をしますから、ある和音が強くひびく。それでミミの死を知るわけ。
 ところがカラヤンがベルリン・フィルを指揮したレコードでは、たしかに和音をそうひびかせているんだけれど、オーケストラの色調をそこでガラッと変えるんです。色調を変えることによって、ミミの死を伝え、また感覚的な喜びを聴きてに味あわせているんですね。
 トスカニーニとカラヤンのそうしたちがいが、本質なのか瑣末的なのかといえば、枝葉末節といわざるをえないでしょう。しかし、それは枝葉末節だときめつけてしまうと、この「ボエーム」というオペラは成り立たなくなってしまう、とぼくは思うのですよ。
     *
この対談が載っているステレオサウンド 58号は1981年3月に出ている。
私はまだ18だった。
クラシックの聴き手として、そうとうに未熟だったことはわかっていた。
だから、この対談から、クラシックの聴き方を学んだともいえる。

オペラのコンサートはまだ観たことがなかった。
レーザーディスクもまだだった。
「ボエーム」を聴いたことはあっても、観たことはなかった。

レコード(録音物)という音だけのメディアで聴く前に、
コンサートもしくはレーザーディスクで観ていたら、「ボエーム」の聴き方は変っていたかもしれない。

それにこの対談を読みながら、トスカニーニの演奏のことも考えていた。
まだこの時点では、トスカニーニの「ボエーム」は聴いていなかった。

でも、黒田先生のいわれるとおり、ある和音を強くひびかせることで、
ミミの死を伝えているのは、
トスカニーニの演奏がそうであったことも理由のひとつだろうが、
もしかしたら、当時の録音のレベル、再生のレベルを考慮したうえでの、
そういう演奏だったのではないか。

もしかするとカラヤンのようにオーケストラの色調も変えたかったのかもしれない。
けれど、そこまでは当時の録音・再生では無理であったから、
あえて和音を強くひびかせることだけで、ミミの死を伝えたとは考えられないだろうか。

私が「ボエーム」を観たのは、この対談の七年後だった。
スカラ座の引越公演で、カルロス・クライバーの指揮だった。